個別指導 Ⅱ
渡り廊下の長机のところへ来て、遼太郎に座るように促した。
一旦座ったものの、やはりここは暑いので、みのりは立ち上がって開けにくい窓を開けようとした。すると、遼太郎はみのりの意図を察して、先に手を伸ばして窓を開けてくれる。
遼太郎の気転にみのりはニコリと笑い、
「今日はプリントはないから、風が吹いても大丈夫よ。」
と、冗談を言う。
すると、遼太郎もふっと笑いを漏らしたが、すぐに緊張した面持ちに変わり、パイプ椅子に座って、みのりに向き直った。
「あのね……。」
みのりは切り出してみたが、遼太郎の顔を見るとなかなか言葉が続かない。何と言えば、遼太郎を動かせるのか、言葉を探していた。
みのりが言いよどむので、遼太郎は気を持たされて一層緊張を強めた。
必要以上に神妙な表情の遼太郎に、みのりは不意に滑稽さを感じて、フフッと鼻から息を洩らす。
笑われたので、遼太郎は不思議そうに戸惑っていたが、とりあえず緊張は解いてくれた。
「あのね、狩野くん。お願いがあるんだけど……。」
「お願い……?」
なぜ他の生徒ではなく、自分にだけ頼み事があるのかと、遼太郎の表情に訝しさが加わる。
「うん、実は狩野くんに日本史の個別指導をしたいと思ってるんだけど、受けてくれるかな……?」
みのりは遠慮がちに、遼太郎の様子を窺いながら、本題を打ち明けた。
「日本史の…」
遼太郎はみのりの言葉を反復するだけで、返事をしない。
先日、あれだけの夏休みの課題を出したあとで、まだそれ以上の勉強を強いることになるのだから、快諾を渋るのは無理もない。
「狩野くんは、まだ部活も大変だし、他の教科の勉強もしなきゃいけないのは解ってるし、ましてや、日本史は得意な方だろうから、何でこれ以上個別指導まで……って思ってるでしょ?」
みのりの畳みかける言葉に、遼太郎は渋い顔をして、無言でみのりを見つめた。
「でもね、これから模試の問題ももっと難しくなるだろうし、何より狩野くんだったら、特別何もしなくてもあれだけ出来るんだから、やったらすごーく出来るようになると思うんだけど……なぁ……」
と、みのりは続けたが、遼太郎の表情が明るくならないので、言葉を途切れさせる。
「やっぱり、今以上に負担が増えるのは、嫌だよねぇ……」
口を引き結んだ遼太郎の眼差しに、申し訳なさが加わった。
少し考えさせる時間をあげようと、みのりは黙って様子を見た。
……しかし遼太郎は、しばらく待っても「うん」とは言わなかった。
「今ここで踏ん張って頑張ることは、他のことにも活きてくると思うし、『やって良かった!』って、絶対後悔させない自信はあるんだけどな。」
みのりは顔を近づけて、向き合っている遼太郎の目を覗き込んで、見据えながら言った。すると、驚いた遼太郎は身をのけ反らせて、顔を赤くする。
「でも、無理にさせるのは主旨に反するから、この話はこれでおしまい。時間を取らせてしまって、ごめんね。」
みのりは椅子から立ち上がって、続いて遼太郎も立ち上がるのを待った。平然を装ってはいたが、みのりの心の中の落胆は大きかった。
その時、振り返りながら、側を通りすぎる生徒たちがいた。二俣と衛藤だ。遼太郎が何の用でみのりに呼ばれたのか、気になっているようだった。
みのりがそちらの方を見て手を振ると、二人ともペコリと頭を下げた。
「今から部活よね?二俣くんと衛藤くんが待ってくれてるのかな?待たせちゃって悪かったって、伝えといてね。」
と、みのりが声をかけても、遼太郎はそこから行こうとしなかった。
「……?」
みのりは、もう一度遼太郎の顔を凝視する。すると、日に焼けた顔をますます赤くして、遼太郎が遠慮がちに言った。
「あの、先生……。やります。」
「え…?やる?」
「はい。」
「個別指導、受けてくれるの!?」
「はい。」
遼太郎が二度ほど頷くと、みのりの表情がパアッと明るくなった。
「ああ!うれしいわ!!狩野くん、ありがとう!」
みのりは思わず、遼太郎の両手を取って揺さぶっていた。
「一緒に頑張ろうね!」
満面の笑みのみのりにつられて、遼太郎も白い歯を見せた。
「あの、先生……。」
遼太郎が恥ずかしそうに、握られている両手に視線を落とす。
「わわっ!ごめん……!」
みのりも顔を赤らめて、手を引っ込めた。
軽く会釈をして、遼太郎は二俣と衛藤の方へ歩き出した。その夏服の白い背中に、みのりが声をかける。
「狩野くん、また連絡するからねー。」
遼太郎は振り返って照れた赤い顔を見せ、頭を下げた。
それから、そんな照れている自分をごまかすように渡り廊下を走り、ジャンプして衛藤の背中に飛び付いた。
「うおぅ!遼ちゃん!ビクったー!!」
衛藤の低い声が響いて、3人の姿は階段を降りて見えなくなった。




