個別指導 Ⅰ
7月に入ったある日、みのりは大量の課題プリントを抱えて、3年1組の教室へと向かった。
廊下に置いてある腰高のロッカーの上に、プリントを並べていると何人かの生徒たちが寄ってくる。
「みのりちゃん、これ何?」
「………。」
――『みのりちゃん』だとぉ?馴れ馴れしいじゃないの?
そう思いながら振り向くと、案の定、仁王立ちする熊のような二俣だった。
「何って?夏休みの課題に決まってるじゃないの。早めに配ってあげたら、早めに取り組めるでしょ?」
にっこり笑いながら答えると、二俣は悲鳴を上げた。
「マジかよー!?何?この量!!何枚あるんだよー!?」
「たったの20枚よ。本当は、問題集1冊まるごときしようと思ってたんだけど、減らしてあげたの。さあ、そっちから1枚ずつ取って、これで綴じてね。」
みのりは、20枚目のプリントのところでステープラーを掲げて、その場に置いた。
「ええーっ!?みのりちゃんの鬼っっ!」
二俣が拳を二つ口に添えてそう叫んでいると、ぞろぞろと生徒たちが集まってきて、順番に課題を綴じていった。
全員が課題を作り終わって教室に入ると、号令をかけさせて授業を始めた。
「さて、ちょっと早いけど夏休みの課題を配りました。去年までのことは聞いてないけど、多いなぁと感じてるとは思う。でも、私立文系では日本史は主要3教科の一つだから、このくらいはやってもらいます。」
みのりがこう言っても、生徒たちの方からは無言の険悪なオーラが漂ってくる。
「二俣くんみたいに、まだまだ部活が大変な子もいると思うけど、大半の人が部活も引退して、晴れて自由の身になったんだから、これから本腰入れて勉強しなきゃ。ねっ、平井くん?」
名前を出された二俣と平井はドキッとしたのか、目を丸くしてみのりと目を合わせた。
「推薦入試で進路を決めようとしている人は、日本史だって必要ないと思っているかもしれないけど、この課題の評価も推薦入試の内申点に加味されるということを忘れないで。何事にも真剣に取り組めない人には、ハッピーエンドはあり得ないのよ!」
みのりの熱のこもった弁舌に、生徒たちは少々気圧され気味に沈黙を保っている。
「あなたたちのために私ができることは、卒業するまでに知識とそれを生かせる力を身につけさせてあげることなの。そのためには私だって頑張りたいんだから!」
みのりは身振り手振りで熱弁をふるい、最後はガッツポーズで締めくくった。
みのりのその姿を、却って滑稽に感じたのか、生徒たちのどこからともなくクスッと笑いが漏れる。
その反応を確かめて、みのりもニッコリと笑い、
「それじゃ、授業に入ります。」
と、授業の資料を配り始めた。
数日後、みのりは3年1組の連絡ボックスに、放課後に遼太郎を呼び出すメモを入れた。
全県模試の結果で、遼太郎の日本史の成績は、国立クラスの上位者には及ばなかったもののかなり良い結果で、担任の澄子も驚くところだった。
しかし、9月に行われる次回は、もっと試験範囲も広がって、問題も難しくなる。みのりはその対策をこれから講じたいと思っていた。
もちろん、遼太郎のような出来る子よりも、一桁の点数を取るような子の対策もしなくてはならないのだが、今から基礎の基礎から指導してモノにするのは、時間もなく不可能に近い。
苦手と思っている子に無理やりさせるよりも、得意にしている子を伸ばしてあげる方が得策だ。
「先生。」
遼太郎が、放課後の職員室の雑然とした空気の中、みのりの席の傍らに立った。
「これ、出し忘れてました…….。」
おもむろに毎日出している課題のプリントを、1枚差し出す。
「……えっ、ああ、提出してない分があったのね。」
みのりは、さっと目を通し検印を捺して閻魔帳にチェックをしてから、遼太郎に手渡した。 遼太郎は顎を突き出すような礼をして、その場を去ろうとする。
「ちょっと待って!狩野くん!」
みのりはとっさに、遼太郎の腕に手をかけて引き留めた。
ちょっと触っただけだったが、みのりはハッとしてしまった。見た目は細い遼太郎の腕は、鍛え上げられているとすぐに判る精悍な筋肉で被われていた。
その感触に、みのりは思わず自分が何を言おうとしていたのかを忘れてしまう。
戸惑うような遼太郎の視線とぶつかって、みのりは我に返った。
「プリント1枚提出させるために、わざわざ呼び出すわけないでしょ?ちょっとこっち来て。」
と、遼太郎の背中を押して、騒がしい職員室を出た。




