意外な人物 Ⅴ
迷ったみのりは、とっさに他の話題を思い出した。
「ああ!そうだ。狩野くん!!」
みのりの突然の語調の変化に遼太郎は驚いて、ただ見張った目を合わせて、返事の代わりにした。
「この前の全県模試、狩野くんすごく良かったのよ!82点!!びっくりしちゃった。」
嬉しい情報に遼太郎は驚くでもなく、ニッコリと顔をほころばせた。
みのりは自分のオーバーすぎる興奮の割に遼太郎の反応が地味なので、却って恥ずかしさを感じたが、遼太郎の笑顔が見られて少しほっとした。
その時、渡り廊下の両側の窓を開けたためか、心地よい一陣の風が吹きわたった。
「あっ……!」
遼太郎が声を上げたので、その視線の先を見遣ると、長机に置いたみのりの荷物の中のプリント紙数十枚が、風に舞っている。
「ああ!大変、どうしよう……!」
みのりが走っていって、散らばった紙を拾い集めていると、別の所に飛んでいった紙を遼太郎が集めてくれていた。
キーンコーンカーンコーン……
その時、次の授業が始まるチャイムが鳴り響く。
「狩野くん。ありがとう。もういいから、次の授業に行って。」
みのりにそう言われて、遼太郎は妙な表情を浮かべたが、手を止めてプールバックを抱え、教室へ行こうとした。
「次の授業の先生には、私に用事を頼まれて遅れたって言えばいいからね。」
遼太郎の後ろ姿に声をかけると、面白そうに顔を歪めて遼太郎が振り返った。
「……次は先生の日本史です。」
遼太郎が笑いを堪えてそう言った。例の午後の体育の後の日本史だ。
「えっ、あっ!そっか。」
と、みのりは赤面した。それから、恥ずかしそうに肩をすくめて、
「……じゃあ、プリント一緒に拾ってくれる?」
と、小さな声で遼太郎を引き留めた。
みのりが顧問を務める筝曲部の方も、高文連主催の邦楽大会が行われ、みのりは12人の部員を引率して大会会場へと来ていた。
筝曲部の大会は、琴の移動があるのでとても大掛かりだ。琴は楽器屋さんに運んでもらい、みのりは生徒たちを引率して、列車で移動する。もちろん、外部講師の先生も一緒だ。
会場には、もうすでに楽器屋さんが到着しており、みのりは生徒と共にに琴の搬入に汗を流した。いろいろとした指示は、外部講師の先生がしてくれるので、みのりは汗を拭きながらそれを見守っているだけでいい。
窓の外の木々を見上げると、3年1組の窓から見える木々の青々とした葉っぱを思い出した。
今日も3年1組の授業はあったけれども、この組の授業は世界史と地理との分割授業なので、他の授業との変更がきかない。
したがって、今日の授業は自習課題を出して、2年部で地理の強面な岩尾という先生に監督を頼んできた。
生徒たちには特に何も連絡をしていなかったので、みのりの代わりに岩尾先生が教室に入ってきたなら、さぞや驚くことだろう。
口をぽかんと開ける宇佐美の顔や、早弁を食べている二俣が焦る様子を想像して、みのりは口を押えて「ふっ」と笑った。
3年1組には、みのりが初任者研修で出張する毎週木曜日以外は、毎日授業に行っている。少々手のかかる3年1組の面々だが、1年生のクラスよりも愛着がわき、授業がないと却って物足りないくらいだった。
そうこうしている間に、開会式が始まる時間になったので、みのりは生徒たちと一緒に客席に座った。
筝曲部がある高校は、県下にそう多くはなく、芳野高校を入れて6校のみだ。
開会式前に行われたくじ引きでは、芳野高校は2番目の出番となった。最初に演奏するのは、総勢30人の部員のいる築城高校だ。その直後に演奏するのは、いささか分が悪い気もする。
各学年ちょうど4人ずつの部員は、この大会に向けて練習を重ねてきていた。真剣に取り組む姿を見ていると、ぜひ金賞をとって上級大会へ出場させてあげたい気持ちにもなる。実際、3年生はこの金賞しか見えていないようだ。
この生徒たちのために何かしてあげたいが、みのりには励ますことしかできない。顧問にもかかわらずこの不甲斐なさには、言いようのない無力感に駆られる…。
予想通り、築城高校の演奏は圧巻で、素晴らしいものだった。さすがは金賞候補だ。
その次は、芳野高校。生徒たちはすでにステージ脇に控えていたが、みのりはそのまま客席で演奏を聴くことになっている。琴の入れ替えをして、生徒たちは決められた場所に座り、演奏の準備をする。
生徒たちの緊張が伝わってきて、みのりは胸を押えて深呼吸した。
――頑張って、頑張って…!
1曲目は課題曲。先ほど築城高校も同じ曲を演奏していた。数で劣るので、やはり聴きごたえがないようにも感じるが、みのりの耳にはまずまずに聴こえた。
2曲目は自由曲。練習で幾度となく聞いた曲だ。
――早い動きのところで、1年生がついていければいいのだけど……。
そんなみのりの不安は的中し、1年生の一人、佐々木の手が止まってしまった。
――大丈夫、落ち着いて。次のところから合わせて…。
みのりは手を胸の前で組んで、一生懸命心の中で励ました。
演奏自体は、3年生がうまくリードし、そつなく終えることができた。気迫がこもった上出来の演奏だったと、みのりは思った。
出番の終わった生徒たちの元へと、一目散にみのりが向かうと、運び出した琴の隣で先ほどの佐々木が泣いている。
こんな時は、何を言ってもこの子の心には届かない……。ましてや、琴のことがわからないみのりの言葉は、気休めにもならないだろう。
他の3人の1年生が懸命に慰めていたが、みのりはその側に行って、その佐々木の肩をそっとしばらく抱いてあげた。
筝曲部の部員は、みな真面目で、成績も優秀な子が多い。何事にも真面目なので、今度の大会に向けての練習も、本当に一生懸命だった。
でも、いくら一生懸命でも報われないことはある。きっと今回の結果は、金賞にはとどかないだろう。
この報われない経験を、この子たちは優秀であるが故にほとんどしたことがなかった。
――今回のことに懲りて、挫折しなきゃいいけど……。
みのりは、他校の演奏を聴きながら、佐々木が部長に連れられて客席に着いたのを見守った。
邦楽大会の結果は、やはり銀賞に終わった。
でも、参加賞のような銅賞でなかったので、ひとまず目的は果たしたといったところだ。
梅雨入り前の太陽が、じりじりと照りつける中、楽器屋さんのワゴン車に琴を積み込んで、帰路に就くことになった。
「先生~、私たち頑張ったし、こう暑くっちゃアイスなんて食べたくなっちゃうよね~。」
と、言い始めたのは、2年生の吉長だ。
この子は、奥ゆかしい子が多い筝曲部の中ではめずらしい、ちょっとお茶目な子だ。ちょっとぽっちゃりしているのも、愛嬌を際立たせた。
「そうねぇ、頑張ったご褒美に、駅前のマックにでも行きましょうか。」
このみのりの一言に、みんなの顔が一気にパッと明るくなった。この単純さに、みのりはちょっと驚いたが、先ほどまでの暗かった雰囲気がなくなったので、とりあえずは心を軽くした。