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秘密の恋 Ⅰ

 




 教室の見回りを終えて、犬走りになっている渡り廊下で足を止めた。


 春霞を染める夕焼け。


 みのりはやわらかな風を吸い込み、夕日が遠い山の稜線に消えていくのを見守った。



 桜も散り尽きて青々とした若葉が茂るころ、みんなほっと一息をつく。

 新しい同僚に新しい生徒。始まったばかりの生活に少し慣れて、張りつめていた気持ちも少し和んでくる。新しい出会いに心も弾み、受験シーズンのような切迫感もない。



 みのりは一年の中で今の季節が一番好きだった。



 渡り廊下からは学校のグラウンドが一望できる。左手では野球部が、快音を響かせている。右手ではサッカー部が紅白戦の真っ最中。県大会の予選の目前で、どの部も練習に熱が入っている。

 生徒たちの授業中とは違う真剣な表情を見ていると、とてもいとおしく思えてくる。



 ふと黄昏の中を、暖かい風に乗ってひとひらの桜の花びらが舞い落ちてきた。人々が眺めなくなって若葉の陰でひっそりと、そんな咲き遅れた花も、盛りのころの花と同じように美しい。


 みのりは自分の方に飛んできたその花びらを、そっと手のひらで受け止めた。そして、いとおしむように両手で包み込む。


  一人の男子生徒が、グラウンドからの階段を上がってきた。ジャージの感じからしてサッカー部ではなく、ラグビー部だ。


 その男子生徒の左の手首に作った大きな擦り傷に、みのりは思わず目を奪われた。

 視線を感じたのか、ふと男子生徒はこちらに顔を向け、目が合うと、はにかんだ風に会釈をした。



――あれ……?!授業に行ってる子?



 名前を覚えていないという焦りを感じつつも、無視する訳にもいかないので、みのりが傷を気遣う言葉をかけようと口を開きかけた時、



「あー、仲松先生。こんな所にいたー!」



職員室のある管理棟の入口から、突然声をかけられた。副担任をしているクラスの女子生徒たちだ。



「あのねー、私たち箏曲部に入部しまーす!」


「あら!」



 顧問をしている部への入部という嬉しい事柄をもたらした女子生徒たちに、みのりが思わず気をとられている間にも、男子生徒は管理棟の入口へ向かい、中に入って行ってしまった。



 グラウンドでは手に負えなかった傷を、保健室で手当てをしてもらうのだろうか。



――まだ保健室の先生が帰宅してなければいいけど……。



と思いながら、結局みのりはその男子生徒の名前を思い出せなかった。



 夕焼けが夕闇に移り変わっても、芳野高校の職員室は教員はもちろん、個人的に質問などをしに来た生徒たちでにぎやかだ。

 その雑然とした空気の中で、みのりは女子生徒たちから入部届を受けた。



「今年は創立百周年の式典があって、そのレセプションでの演奏も頼まれているから、頑張ろうね!」



 みのりがそう言うと、女子生徒たちは嬉しそうな少し不安そうな表情を見せていた。



「ああ、仲松先生。いたいた!こっち来て、ちょっと手伝って!」



 その時、職員室の向こう端にいる教務主任から、大声で呼ばれる。みのりは女子生徒たちへの言葉を飲み込み、さよならを言う代わりに手だけ振って席を立った。



 明日の職員会議で使う資料をホチキスで綴じながら、時計に目をやると、もう6時半だ。



――ああ、明日の授業の準備……。帰ってからするしかないか……。



 疲れたため息をつきながら、みのりはそう思った。




 次の日の朝、みのりは7時過ぎには出勤していた。

 昨晩帰宅して、ささやかな食事をした後、お風呂に入って気を失うように眠ってしまって、結局授業の予習はできないまま。



――3限の1年生の日本史の予習は2限目の空き時間にするとしても、1限の3年生の日本史はやっとかなきゃ!



 職員朝礼が始まるまでに、あと1時間しか猶予はない。切羽詰まっているみのりの思考は、目まぐるしく動いていた。


 昨夜帰宅したのは7時過ぎで、また7時過ぎには学校に来ている。



――ということは、1日の半分働いてるんだ……。



と、その事実に気が付いて、みのりは軽く笑うように息をもらす。そして、気を取り直すように机に向かった。



 みのりは1年生のクラスの副担任をしているが、私立文系クラスの日本史のみ3年生の授業も担当している。このクラスは4単位の授業、つまり週に4回も授業がある。


 国立クラスに比べて勉強に対するモチベーションは少々落ちるが、今の時期の評価は推薦入試の内申点に反映されるので、この子たちにしてはまだ真面目な方だ。


 今日の授業の内容は、「自由民権運動」。

 授業も中盤になったころ、史料を読んでもらうために、みのりは座席表を見ながら指名した。顔を上げて立ち上がった男子生徒を見て、みのりの意識は「民撰議院設立の建白書」から離れてしまった。



――昨日のあのラグビー部の子……!



 左の手首に大きな絆創膏が貼られているから、間違いない。



――今日まで週に4日、3週間も授業に来てるのに、覚えてなかったなんて……!



 読み終えた男子生徒は、史料集から顔を上げた。我に返ったみのりは、再び座席表に目を走らせ、名前を確認した。



「ありがとう、狩野くん。」



 にっこりと微笑みかけながら、みのりは心の中で呟いた。



――覚えてなくて、ごめんね。狩野遼太郎(かのりょうたろう)くん…。




 授業が終わると、生徒たちは待ちかねていたように思い思いの場所へ散っていく。みのりもホッと一息つき授業道具をまとめ、職員室へと戻る。

 その途中の廊下で、先ほど授業をしていたクラスの男子生徒3人と足取りが一緒になった。その3人の内の一人が先ほどの狩野遼太郎だった。


 男の子たちの方もみのりが気にかかるのか、様子を伺うような素振り。みのりがチラリと横を見遣ると、昨日と同じように遼太郎と目が合った。すると、遼太郎が昨日と同じようにはにかんだ表情を見せてくれたので、みのりもやさしく微笑んだ。



「職員室に用事?」



 みのりが声をかけてみる。



「江口っちゃんのところに、ヤボ用っす。」



 応えたのは二俣(ふたまた)というずいぶん大柄な子だった。この子は目立つので、クラスの内で一番か二番にみのりの記憶に残っている。ちなみにもう一人のちょっとズングリした男子生徒は、



――確か……衛藤くんだったよね……?



みのりは頼りない記憶を検索した。



「江口先生って、ラグビー部の顧問の?」


「その江口っちゃんの他に誰がいるっての?」



 二俣が口を尖らせたところで、みのりの脳裏に昨日の遼太郎のジャージ姿が甦った。



「ああ!もしかして、3人ともラグビー部なの?」


「ええっ!?先生、今まで知らなかったのかよー!」



 二俣は信じられないという風に、手のひらを上に向けて肩をすくめた。



「……ご、ごめんね。」



――知るわけないでしょう?!名前だってまだ覚束ないのに……。



 みのりはそう思いつつも、二俣の反応に気圧されて謝ってしまった。



 そもそも、みのりはこの春、新採用されてこの芳野高校に赴任してきたばかりだ。と言っても、今から3年前、臨時講師としてこの芳野高校に1年間勤務していたことがある。


 その時教えていた生徒たちは皆卒業してしまっていて、勤務している職員の大半は知っていても、千人を超える在校生たちは最初から覚え直さなくてはならなかった。


 まだ赴任して1か月もたっていない状態で、担任していないクラスの生徒については何も知らないも同然だ。



 気を取り直して、みのりは遼太郎に目を向け声をかける。



「昨日の傷は大丈夫?痛かったでしょう?」



 不意をつかれて、遼太郎はちょっと固まっていたが、左の手首を確認した後、みのりを見て目を細めた。



「大丈夫です。タックルくらうと、こんなのしょっちゅうだから。」



 ……と、そこで職員室に到着したので、会話はそれでおしまいになってしまった。

 江口先生を囲むように立っている3人を遠目に見守りながら、みのりは自分の席に落ち着く。それからすぐにみのりの意識は、1年生の日本史の準備のことに切り替わった。






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