第四章 二人にしてあげなきゃ 其の一
第四章 二人にしてあげなきゃ
次の満月の時は野営地を抜け出せなかった。夏至祭りがあることをすっかり忘れていた。
ヘルベベスの結婚式は、年に一回、夏至祭りの時に行われる。ティトライカでも何組かの男女が、鮮やかな色合いの婚礼の衣服を着て、みんなの祝福を受けていた。
夏至祭りの日の食事は特別。普段、遊牧民は、夏の間、肉を食べないのだが、この日だけは別だ。羊肉を料理し、普段飲む馬乳酒やお茶のほか、交易で手に入れたぶどう酒、蜂蜜酒がふるまわれる。とっておきの干した果物も楽しみの一つである。
この日のために訪れた旅芸人の一座が、弦楽器や打楽器を伴奏に歌を奏で、色とりどりの衣装をひるがえして踊る。走る馬の上での曲乗りや男達のあざやかな剣舞も披露されている。
もちろんラシュヴィーダも毎年、夏至祭りは楽しみにしていた。でも、今年は上の空でちがうことばかり考えている。
タキロスを、あの場所でずっと待たせている。彼は自分が行かなかったことで、とてもがっかりしているのではないだろうか、もう自分のことを嫌いになってしまうだろうか。そんなことで心がいっぱいになっていた。
「どうしたの? 疲れた?」
思う存分に踊って歌って、頬を紅潮させたルミデュナがラシュヴィーダの隣に座った。
「ううん。そんなことないけど」
「だったら、こっちに来て一緒に踊りましょうよ。あーあ、前の冬、ジャヒムが成人の儀式に合格してれば、私も今年結婚できたのにな」
「あれは運が悪かったのよ。今年はきっと大丈夫だわ」
ヘルベベスは冬至の日に男子の成人儀式がある。馬術剣術などいくつかの試練をくぐり抜けないと成人と認められず、結婚はできない。去年ジャヒムはまだ十六歳だった。今年はずいぶんと体も大きくなり、きっと合格できるとルミデュナもラシュヴィーダも信じていた。
「来年はルミデュナもラシュヴィーダもそろそろ結婚する年頃だ」
と、父からは言われている。ルミデュナは相手がいるが、ラシュヴィーダにはいない。父としては、ラシュヴィーダの相手を決めなければいけないと思っているのだろう。
ルミデュナがそっとささやいた。
「ね、タキロスはどうなの? あの人、城って言ってたわよね、確か。もしかして王子様だったりして」
「そんなこと言ってた?」
「言ってたじゃない。ヘルベベスの服を城の倉庫から持ってきたって。どうする? もし本当に王子様で、あなたのことお嫁にほしいって言ったら」
「やめてよ! 第一、タキロスはエルシノア人じゃない。ヘルベベスがエルシノア人なんかと結婚なんてするわけないでしょ」
思わず語気が鋭くなってしまった。ルミデュナが悪いわけではない。どうしてイライラするのか、自分でもわからなかった。
「そういえば、次会うのっていつだっけ?」
「……満月の日は今日よ。でも、もういいわ。今から行ったって間に合わないし」
「あっ、そうだったわね」
もう太陽も低くなってきていた。タキロスはいつまで待ってくれていたのだろうか。怒っているだろうか、悲しんでいるだろうか。次の満月の時には待っていてくれるのだろうか。
いっそのこと、もうタキロスは自分のことを諦めて、これからは会わなくてすむならそれでもいいかもしれない、とも考えてみた。それなら諦めがつく。最初から縁のない人だったのだ、と。そして自分は父の決めた人に嫁ぐのだ。恋もせず。
日暮が来てテントに入って眠る頃になっても、まだ外はたき火が焚かれ、歌い踊る人々が陽気に騒いでいた。その輪に加わる気もしなかったのでラシュヴィーダは早めに床に入った。テント越しにほのかにたき火の明るさが伝わる。
タキロスはどうしているのだろうか。今も、あの魔物の森にイルジュと過ごしているのだろうか。つらつらと考えているうちに、いつのまにか眠りに落ちていたのだろう。夜が明けると、すっかり夏至祭りの後は片づけられ、旅芸人が去っていくところだった。
その月は少し変化があった。どうも戦の予兆があるらしい。
母が部族の女性達に矢を作る指示を出している。もちろんラシュヴィーダも手伝うことになる。まっすぐな木の枝に硬い角を削った鏃をつけ、尾部に三枚の鳥の羽を挟む。これをひとつひとつ手仕事でやるのは、主に女性の仕事だった。
「どこと戦うことになるの?」
尋ねてみたが母は答えてくれなかった。エルシノアではありませんように、と、口には出せなかったがラシュヴィーダは祈るような気持ちで願っていた。
満月の前の晩からラシュヴィーダはそわそわしていた。
先月は約束の場所に行かなかった。事情があったとはいえ、待たせてしまったのは事実だ。今度会ったら怒っているかもしれないと心配だった。いや、それよりも、もう彼は来てくれていないかも知れないと思うと泣きたいような気持ちだった。
「大丈夫よ。だって仕方ないことじゃない。次の満月が夏至祭りだなんて、私達もすっかり忘れてたんだから。みんなで謝ってあげるから。ね?」
ルミデュナは言ってくれたが、ジャヒムの方は、あいつ、怒ったら怖いかも、と、しきりと言うので、また心配になってしまった。
その時、ラシュヴィーダは誰かに見られている気がして、はっと振り向いた。
またベシェンがいる。ベシェンという名の使用人の少年が、タキロスの話をするとき、いつも陰で聞いているような気がする。どうしてそんなことをするのだろう。ラシュヴィーダの父にでも言いつけるつもりなのだろうか、と気になる。ラシュヴィーダが振り向くと、少年はさっと姿を消した。
気にしすぎなのかもしれない、と、ラシュヴィーダは無理に心配を押さえた。もし、父に聞かれたらどうなるのだろう。おそらく外出を止められるんだろう。もしかしたら、タキロスと会うのをやめさせるために、結婚相手を見つけるのを早めるかもしれない。
そしたら、もしかしてタキロスのことを忘れられるのだろうか。その方がずっと平和だ。もう何も恐れなくてよくなるのだから。
本当にタキロスを忘れることができたら。
そんな矛盾する気持ちを抱えたまま、ラシュヴィーダはルミデュナ達とまたいつもの場所に向かった。
でも、何も心配することはなかった。タキロスは、あの黒馬で、同じ場所で、三人を待っていてくれた。
「先月はごめんなさい。夏至祭りがあって、どうしても抜けられなかったの。なんとかあなたに知らせたいと思ったけど、方法がなくて」
「そうだったのか。君達に何かあったのかと心配した。そういうことならよかった」
ほっとしたようにタキロスは笑う。
空しく待っていてくれたに違いないのに、全く嫌な顔もしないで自分たちの心配をしてくれた。その姿勢が泣きたくなるほど嬉しかった。
彼は、今度はちゃんとサイズを合わせたヘルベベスの服を着ていたので、ラシュヴィーダはまた笑ってしまった。
「おかしいか? 今度はちゃんと仕立て直してもらったんだが」
「ううん。変ってことじゃないの。でも、あなたがそんなに真面目にヘルベベスの真似してくれるなんて」
「真面目にやらないともっと変なことになる」
タキロスも笑った。また一緒に笑えて嬉しい。会えて本当によかった、とラシュヴィーダは友達にも彼にも、大切な物を贈りたいような気持ちだった。
「実は少し心配していたんだ。君達は知っているだろうか。ジェッキオが戦の準備をしている。軍備は戦車百台ほど、歩兵二千、騎馬兵五百だそうだ。装備や軍の配置からして、狙っているのはヘルベベスだと思う。先月、君達が来なかったのと何か関係があるのかと思って」
「ジェッキオが?」
先頃から矢の準備をしていたのはこのためだったのだ。戦が心配ということよりも、相手がエルシノアでなくてよかったと安堵してしまうのは身勝手なことだろうか。でも今のラシュヴィーダにはそれしか考えられなかった。
「ああ、俺は聞いてる。おまえはなんでそんなこと知ってるんだ。敵兵の数まで、妙に詳しいな」
「エルシノアの情報網は確かだ。父がいろいろな手を使って集めている」
「父ってだあれ? そういえば、あなたのご家族のこととか、あなたの仕事とか聞いてなかったわ。あんなところで研究をするのが仕事なの?」
馬で森の方に向かうルミデュナが無邪気に聞いた。そういえば、タキロスのことを何も知らなかったことにラシュヴィーダはあらためて気がついた。
「ああ……。話していなくてすまなかった。話せば君達がますます私を避けるのではないかと思って……。でも、正直に言おう。私の名はタキロス・ソリディオミロファロス。エルシノア王アルトリスの第一王子で第一子にあたる」
「ええっ!」
三人はほぼ同時に声を上げた。
「やっぱり王子様だったんだ。すごい!」
「正気かよ、おい。なんでエルシノアの王子が俺たちに会いに毎月こんなとこに来るんだよ」
ラシュヴィーダは、なんと言ったらいいかわからなかった。夏至祭りでルミデュナが言っていたときは冗談だと思っていた。まさか本当に王子だとは。ということは、あの宿敵である恐ろしい魔王の息子ということになる。彼はますます自分とは遠い存在になってしまったように思う。こんな立場では、もう、これ以上彼には会えないのかもしれない。いや、会わない方がいいのだろう。
黙ってしまったラシュヴィーダにタキロスは少し悲しげに声をかけた。
「やはり嫌いだったか、私達のことを。でも、ずっと黙っているわけにもいかない。本当のことだから知っておいてほしかった」
ラシュヴィーダはうつむいたまま首を振った。
「ううん、いいの。正直に話してくれてありがとう」
もうだめなのだ、タキロスに会うのはこれで最後にするべきなのだ。誰にも言わなかったがラシュヴィーダは心の中で、そう決めた。
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読んで下さってありがとうございます。
遊牧民もいろいろ他の民族とのつきあいがあります。
草原を旅する商人、旅芸人など。
こういう人々はヘルベベスだけではなく他の国々も回ってくるので、ヘルベベスにとっては重要な情報源でもあるのです。
商人を通じて農耕民族の食べ物、物資などを手に入れます(または略奪)。夏至祭りに出てきた蜂蜜酒、ぶどう酒、干した果物などはバルラス、エルシノアなどから来たものです。
敵対してるのに交易はするという感覚がなんだか不思議なのですが、多分敵対の概念が緩やかなのでしょう。
これからもよろしくお願いいたします




