ある脆弱者の愚劣な精神的外傷
一部残酷な表現があります。苦手な方はご注意ください。
オスウッドはくらい森の中をさまようように歩いていた。どのくらい時間が経ったのだろう、辺りは日が沈んだせいでさらに暗くなり、狼の鳴き声が聞こえてくる。夜の森は危険である。どこかで一晩過ごそうと尽きかけた気力を奮い立たせて懸命に歩くと、いつの間にか洞窟の前に来ていた。奥はさらに暗い闇に包まれている。オスウッドは集めていた小枝をその洞窟の中に撒き、火をつけた。暫く持ち歩き乾燥したのだろう、すぐに火は灯った。
フッと、洞窟の壁を見上げた。そこには何年も前に描かれたと思われる絵を見つけた。しかし、あまりにも色使いが鮮明すぎる。洞窟には不似合いなその絵は何らかの動物について説明しているようだ。耳には長い白い毛が3本ずつ、目は片方が青く反対は黄色である。そして最も特徴的なのは背中にある謎の赤いライン。
オスウッドはハッと目を見張った。つい最近読んだ文献の中に全くそっくりな動物を見たからだ。神話の中に登場し、人を貪り食っては村を壊滅させる『滅』の神話生物。その目で睨まれれば人々の根源的恐怖を呼び覚まし、その咆哮は耳をちぎりたくなるほどの嫌悪感を引き起こすらしい。背中に悪寒が走った。この洞窟は危険である。本能がそう訴えていた。
突然背後から心臓に響くような轟音が聞こえた。慌てて振り返ると――入口が大きな岩で塞がれているではないか! しかも驚くべきは一つの大きな岩で塞がれていること。自然の力がなせるものではなく、“何か”からの手が加えられていることは確実である。
閉じ込められたのだ! 目で平常心を奪い、咆哮で体の自由を奪い、私たちが恐れ慄いている間にそのカメレオンのように長い舌で絡め取り、その物騒な牙ででいとも容易く噛み砕く、あの神話生物に!
オスウッドは入口の方へと駆けて行き、剣だこのたくさん出来た骨ばった拳を大きな岩に何度も何度も打ち付けた。拳から血が散ったが、気にする余裕など無かった。オスウッドは既に正気を失っていた。目は野生動物のように血走り、身体中の血管が浮き出ていた。
「出してくれ! ここから出してくれ!」
後ろから鋭い眼差しが刺さる! 咆哮が轟く! すぐそこまで気配が、息遣いが、体温が迫ってくる!
視界の端に白い三本の毛が揺れた。まるで餌の視線を背後に誘うよう悪戯に揺れた。嫌だ、見たくない! 見るな! 見るな――
しかし自分の意思とは裏腹にオスウッドの首は何かに操られたように背後を振り向いた。白い毛、赤い線の入った背、そして――吸い込まれるような青と黄の双眸。神々しく、それでいて冒涜的で怪しい。射すくめられた瞬間、今まで強ばっていた体の力がふっと抜けた。背が壁に当たり、鈍い音が辺りに響いた。痛みの代わりに恐怖で全身が震えた。“それ”は白い毛を振り乱して大きな口をゆっくりと広げた。ネバネバとした唾液が糸を引き、長い舌が口の中から現れる。逃げなければいけないことは分かっているのに、オスウッドはただその光景を見ていることしかできなかった。“それ”が咆哮を上げ、鋭い牙の内側にある大きな闇が迫ってくる光景を最後に視界が黒く染まった。
目が覚めるとベットの中だった。はっとして起き上がると、後頭部に激痛が走った。声にならない悲鳴が漏れた。
「急に起き上がらないでください、体に負担がかかります」
物静かで体に染み入るような男声だった。声の主は食事を近くの机に置くとオスウッドの方へとやってきた。
「ここは――?」
「私の経営している宿です。今朝、森に山菜採りに行くと洞窟の中で倒れている貴方を見つけたんです。ここへ運んで調べると右手の甲と後頭部の骨にヒビが入ってました」
「今朝……」
オスウッドは驚きで声が出なかった。確かに入口は大きな岩で塞がれていた。しかも自分はあの神話生物に食べられたはずだ。あの長い舌で絡め取られ、鋭い牙で肉を裂かれ、骨を砕かれたはずだ。
「どうかしましたか?」
男性はは心配そうにこちらを覗き込んだ。そのあまりにも日常的な光景と先程までの非日常な光景に頭が混乱した。
「その、一つだけ聞いていいか?」
「はい」
「洞窟の天井はどんな感じになっていた?」
「天井? 特に変わったものは無かったはずですが……」
雷に打たれたような衝撃だった。自分の見ていたあの神話生物は幻覚であったのだろうか。自分を襲ったのも、天井に書いてあったものでさえ、自分の目が偽りを見せたのだろうか……。
と、その時ドアベルがなった。客が来たのだろう、どなたかいらっしゃいませんか、という女性の声が遠くから聞こえた。
「すみません、お客様がいらしたのでまた後で来ます。良かったらこれ、お食べになってください」
男性はそう言ってパンと野菜スープが乗ったお盆をベットの近くの机に置くと、一礼して部屋を去った。
食欲は無かったが盆を手元に寄せた。パンを一口分にちぎって口に運ぶ。口の中の水分が奪われる感覚があり、余計に食欲が奪われた。それでもオスウッドは食事を続けた。手を止めると昨晩のことを思い出しそうで怖かった。
怪我が治るまで安静にした方がいい、という男性の言葉に甘えて数日泊めてもらった。しかしその生活も散々なものであった。少し考え事に耽る機会があればすぐに洞窟の中で起こった出来事が頭をよぎる。その度に後頭部が痛みだし、あまりの激痛に呻いた。
あの出来事から1週間がたった夜、ふと部屋の中の鏡を見るとあの神話生物が映っていた。白い毛を悠々と揺らし、赤いラインは窓から差し込む月光で艶やかに光った。二つの瞳は自分の体に隠れて見えなかったが、背中を視線が刺す感覚が確かにあった。舌を爬虫類のようにちろりと出し、こちらを余裕の表情で見ていた。口角が怪しく上がったかと思えば、こちらへ勢いよく舌を伸ばした! はっと振り向くとそこには何も居らず、カーテンが夜風を受けて靡いているだけであった。
非日常の日常への介入の多さにに吐き気がした。日が経つ毎にあの神話生物は自分の精神を貪っている。精神が尽き、自我を失うのも時間の問題だろう。そう思うだけで身体中にうじ虫が蠢いているような、汽車に体を引っ張られ線路を何周も引きづられるような、そんな感覚に陥るのだ。体に重りを付けて深海へと引きづられたい。マリー・アントワネットのようにギロチン台に上がって一思いに首を切られたい。もういっそ、死んでしまった方が楽なのかもしれない。ふとコップに溜まった水を見ると自分の目が映った。あの神話生物のように荘厳な青でも黄色でもない、くすんだ蜻蛉色。この忌々しい瞳が自分に幻覚を見せ、死の淵まで追いやったのかもしれない。気がついたらオスウッドは自分の両目をくり抜いていた。眼球が眼瞼から外れ、視神経がちぎれる音がして地面に転がった。ぬめりとした液体が手元についた。これで2度とあの神話生物の姿を見ることは無い。そう思うと少し嬉しくなった。次に耳を引きちぎった。半端な力では耳が頭から離れなかったのでできる限りの力を入れた。ビリッと皮の破れるような音とともに外耳が離れた。これで咆哮を聞いて恐れ慄くことも無くなった。さらに心が軽くなった。最後に目の前にある鏡を割り、散った破片で皮膚を神経ごと剥いていった。鏡の破片ということもあり幾分かは切れ味が悪かったが、ゆっくりと、味わうように剥いでいった。ピリピリと子気味いい音がなり、地面に落ちていく。視界を奪ったせいで今の状況が見えないのが少し残念だが、どんどんとあの神話生物の支配から解放されていく姿はさぞかし魅力的だろう。ああ、視界が白んでいく。物質から切り離された魂はどこへ行くのだろう。天国か、地獄か、もしくは別の世界か。少なくとも今の世界よりは素敵な場所なのだろう。オスウッドは意識が白に飲まれる快感に身を委ねた。意識を手放す直前、あの神話生物の笑い声が聞こえた気がした。
「――宿屋で発見された変死体の身柄が確保されました。隣国の騎士だそうです。職場の者に話を聞くとある文献を読んでから行動が怪奇なものになった、と」
新聞の要点を読み上げ終わるとキセルをふかした。輪っか状の煙がゆらゆらと漂い、空気に混じって消えた。視線をあげると10才前後の少女が生意気にも小馬鹿にしたように笑った。
「そんな怪談話じゃあるまいし」
「しかし、その変死体は私たちの宿から発見されたのですよ。貴女も見たでしょう」
「そりゃあ。でも文章を読んだだけで自殺するなんて随分と現実味がないわ」
「しかし彼は自殺前に滅の神話生物がどうとか仰っていましたよ」
「それが今なんの関係があるのよ?」
少女は訝しげな目でこちらを見た。私は大きなため息をついた。きっと今から説明することも彼女にはお見通しなのだろう。そう思うと気が乗らなかった。
「貴女の書いた物語の一つにこんな記述があります。『耳には長く白い毛が3本、青と黄色の瞳に背中の赤い線。カメレオンのように長い舌は餌の体を巻きとり、凶暴な牙はその肉や骨を噛み砕く。』その生物は洞窟に棲んでいて、そこに迷い込んだ主人公を食べてしまいます。もし彼がその場面にショックを受けた過去を持ち洞窟に行ったのなら、洞窟の中で同じ体験をしたのではないでしょうか。事実、彼の発言の中には滅の神話生物、洞窟の天井に絵、というキーワードがありました。貴女の物語の中でもこの生物は滅の神話生物と紹介され、主人公は迷い込んだ洞窟の天井に生物の絵を見ています。しまいには洞窟の中で怪我を負った場所も主人公と同じです。偶然で済ますには共通点が多すぎます」
「だから何? 貴方は私が彼を殺した、とでも言いたいの?」
少女の瞳が挑発するように怪しく光った。私はまさか、とおどけて言って見せた。少女は面白いといったようにニヤリと笑った。
「皮肉なものよね、人を楽しませるために書いた物語が人の精神を蝕み、しまいには殺すなんて」
少女は芝居ぶったように両手を広げて言い、紅茶を口にした。広げた両手が柄にもなく寂しそうに見えた。
「私は貴女の書く物語、好きですよ」
「あら、ありがとう」
「……珍しいですね、貴女が素直にお礼を言うなんて」
「私もお礼くらい言うわ。それとも貴方は罵倒される方がお好き? 悪趣味ね」
「そのくらいの方が貴女らしいですよ」
「馬鹿」
窓から入ってきた爽やかな朝風が少女の書きかけのノートのページを捲った。そこには耳から白い毛の生えた、青と黄の瞳をした、赤い線を背負った神話生物が人間と手を取り合っているイラストが記されてあった。
果てさて、物語を完結させない者が愚か者か。物語を最後まで読まない者が愚か者か。
最後まで読んでくださりありがとうございました!




