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さきへ

作者: 日光一

 きっともう僕は今を生きている人ではなく、過去を思い、今を捨て、未来を確定した忌み嫌われるべき、この世界から外れてしまった存在だ。


 僕の心情に世界が波長を合わせたかのような、月だけが物を言う用意されたかのような静かな夜だった。

 山間にあるセルフのガソリンスタンドで、僕は学生の時から数えて五年間乗り続けたコバルトブルーのアクアに、満タンまでレギュラーのガソリンを給油した。

 ふと見ると、車体にはところどころ大小さまざまな傷が付いていて、これまでの僕の運転の粗さを車の方から抗議してくるように感じてしまう。

 公立の四年制大学を卒業し、地元の大きくも小さくも無い中堅企業に事務職として就職し、未だに独り身の僕には使うあてのない貯金が少なくもなくあったが、不思議と車を買い替えようという気はこれまでさっぱり起こらなかった。多分車のことを移動手段以上のものとして考えていなかったからだろうなとは思う。

 現金を給油機に入れようとして、思い直し、財布を開いて、真新しいクレジットカードを取り出す。確か料金割引サービスが付くからと店員に薦められて、過去に電気量販店で作成したものだった。結局その後数回しか使っておらず、財布にそのまま入れっぱなしだったのを今どうしてか思い出したのだ。

 問題なくカードでの支払いが完了し、カードをぎこちなく仕舞うと、僕は財布をジーンズの後ろポケットにねじ込んだ。

 運転席に乗り込み、革がボロボロになった腕時計を確認する。午後八時を回ったところだった。目的地まであと数時間だからちょうどいいと僕は思い、シートベルトを締めた。

 何気なく、助手席を見る。長めのミドルヘアを緩く茜色のシュシュで縛ったポニーテールが目を惹く、実際の年齢よりも少し大人っぽく見える少女が座っていた。三年前に別れてしまった恋人が乗って以来、この車の助手席に目の前にいる彼女以外の異性が乗ったことはなかった。

 ギアを入れようとして、白いフリルのミニスカートから除く白い膝小僧が艶めかしく、暗い車内で目立ち、僕の視線に入った。

 車のギアを変えて、何も考えずにブレーキを浅く踏む。

横目でカーナビを確認して、目的地までの道筋をもう一度確認した。再度、ちらりと助手席が視界に入り、ガソリンスタンドの照明で、少女の泣きそうなそれでいて不機嫌そうな曖昧な顔が露わになった。

その表情は僕が今まで見た表情のどれでもなく、彼女―――――さきにはこんな顔もあったのだと思い知らされた。


 今思えば、僕は未来なんてものを全く考えていなくて、壊れてしまった今だけを見て、優しいばかりの過去に願って、そうやって生きていたんだと思う。

 仕事に関しても同じことが言えた。その日に与えられる仕事を出来るだけ何とかこなしていくだけのワークスタイルを同期の誰よりも早く確立させてしまった僕は会社から見ればとても当たり障りのない社員だったと思う。けれど、それは成長を望まれる今の会社の上役たちにとって不都合なことだった。常に成長を続け、躍進を続ける社員で在れと言う訓示をことあるごとにアピールする会社の経営理念において、僕の存在は邪魔ではないにしろ、不都合だった。

「お前、白鳥取締役から狙われてるらしいぜ?」

 同期のこんな言葉が思えば全ての始まりだった。数日後に、僕は自分の部署の管轄をしている上役と、白鳥に呼び出された。内容は芳しくないものだった。

「君は、今の自分をどう思う? 会社に失礼だとは思わないのかね?」

 呼び出された僕に開口一番でそう言った白鳥に僕は何も言えなかった。

 ややあって、何か問題を起こしてしまったのか、でなくば態度が問題であるなら改めるという旨を僕は返した。

「そういうことじゃないんだよ。私は君の考え方そのものを問いたい」

 正直に答えるべき場面ではないと思い、僕は会社の理念に沿うように精進しますと答えた。そう答えなければ話は余計にこじれると雰囲気で分かった。

「では、これの責任者を会社が命じたら、やってくれるよね?」

 示されたのは、国が新たに進めようとしている制度を基にした社内規定の新制法だった。

「君が中心となってやってくれ。ミスは許されない。会社が決めたことだ」

 淡々と語る白鳥を尻目に、僕は頭が真っ白になった。他社では数人がかり且つ会社のバックアップが全面にあってようやく成功できるような難度の高い仕事だった。

 僕は必死になってその要求が如何に不可能であることを説明しようとした。

「君は会社に歯向かうつもりなのか? 間違えてもらっては困るが、これはお願いではなく、業務命令だよ? サラリーマンの返事ははいしかないということを君はその年になるまで身に着けなかったのかね?」

 僕の喉は渇き切っていた。訴える様に部署の部長を見ても、人の好さそうな顔で、白鳥の顔色を窺うばかりだった。僕はその時点でもうほとんどのことを諦めていた。

「では、頼むよ。君には期待している」

 その言葉だけが未だに僕の脳裏から一切離れない。これほどまでに期待が残酷な意味を持つ行為だと僕は知らなかった。

白鳥は会社のために人柱を立てるつもりなのだと僕は思った。

新制度の導入はおそらくどの会社も非常に困難で、おそらく何社かは不完全なままに終わることが目に見えていた。だが、やらないのではなく出来なかったという事実は会社の建前上必要だということは僕も分かっていた。そのために白鳥は僕を選んだのだ。おそらく白鳥には何の罪悪感もなく、ただ会社の中でどの選択が一番効率的なのかという答えを自分に出来る限りに選び取っただけのことなのだ。

そう頭では分かっていても、僕は素直にその命令を受け入れることを拒絶していた。

 僕はずっと握りっぱなしになっていた手をゆっくりとほどいた。汗で指がふやけていた。

 白鳥の顔をもう一度見て、僕は返答し、その決して成功できない要求を受け入れた。

 その結果は語る必要もなく、もう決まっていた。


 夜の静けさが車内にも浸透して、僕らはほとんど口をきかなかった。

 そのため僕はその時間をひたすらに過去と向かい合うことに使っていた。

 しかし、僕の車のエンジン音だけが響く夜の峠道で、不意にさきは僕に口を開いた。

「ねえ、暑くない?」

 聴き慣れた声だが、心なしかそのトーンは低い。

 何の脈絡もなく掛けられた久しぶりの他人の声に僕の心臓はどうしようもなく暴れた。

「窓でも開けたら?」

 左手で助手席の窓を指して、僕はさきの方を見ずにぶっきらぼうに答えた。ガソリンスタンドから数分走ったところでこれまでのことを少し思い出して僕の心は不快にもささくれ立ち、暗い気持ちが行き所を求めて渦巻いていた。

「虫入ってきそうだから嫌だよ」

 口を尖らせて、さきは何が楽しいのか少し微笑んだ。車内の張り詰めたような空気がそれだけで少し温度と湿度を持った気がした。そのことが僕は少し怖くなった。

「何が楽しいんだよ」

 僕は真横に座るさきに対して、自分の中にある理不尽な気持ちを全てぶちまけて楽になりたいという衝動を堪え切れずに攻撃的に言い捨てた。

「全部だよ。だって、こんなに遠くに来たの、修学旅行以来だもん」

 さきの声音は本当にそう思っているように柔らかで楽しげだった。

 一体何が楽しいのだろうと僕は心中で毒づきながら思った。

「いやいや、修学旅行はもっと遠くまで行ってるだろ?」

 少し前のことを思い出して僕は不思議と気分が軽くなったのを感じた。

「でも、県外に出ることなんて、私、ほとんどなかったよ」

 そう答えるさきに僕は少し話題の矛先を変えてみることにした。

「前、付き合ってた彼氏はどこも連れて行ってくれなかったのか?」

 顔だけは良かったけど、頭はあんまりだったよなあ、あいつと僕は心の中で思った。

「うーん、水族館かなあ、一番遠出したの」

 実家から何駅か離れた場所に在る水族館のことをさきは語った。

 まあ、そのあたりが色々と限度かとぼくは思って、言葉を続けた。

「そっか、でもあそこ面白かったろ?」

 水槽と淡い光に包まれた密室は僕にとっても思い出の場所でもあった。ふと思い返せば、静かで生命に満ち溢れた青色が目の前の闇に広がるような気がした。

「うん、楽しかった」

 素っ気なく、でも素直にさきはそう答えた。その表情はとても硬かった。

「そっか」

 僕の記憶の中の透明な箱庭の硝子には一人の姿しか映し出されなかった。

「今千枝美さんのこと思い出してるよね?」

 さきにはそのことがお見通しだったようだ。僕は努めて自分の声が闇に溶けないように、上擦らないように整えながら、口を開いた。

「はあ? 馬鹿言うなよ。なんで、今更ちーのこと思い出すんだよ」

 咄嗟に愛称が出てしまったことに言葉を発した僕が一番驚いた。習慣と言うものは恐ろしい。心の中でそう呼ぶことはあっても、その名を口に出すのは実に数年ぶりだった。

「へえ、まだその呼び方なんだ?」

 そう呟いたさきの瞳に在ったのは深い憐れみと慈しみだった。その目をそれ以上直視しているのに耐えられず、僕は神経を前方へと集中した。

「変えようがない」

 僕は震える手でハンドルを握り直して、言い放つことしかできなかった。

 そう言ってから、さきの方を見るのが益々恐ろしくなった。

「未練たらたらだね。千枝美さんは隣にいないんだよ、もう」

 淡々と事実だけを優しく諭す様にさきは告げた。それはまるで決まった事項を読み上げるいつもの僕のような口調だった。

 二重の意味で僕はその口調に許せないものを覚えた。誰に許しを得て、お前がそのことをそんな口調で僕に言っているんだと叫びたくなって僕は必死で自分を抑えた。

 こういう話題をこんな口調で話すような人間ではなかっただろうに、と僕は辛くなった。

 それでも収まりきらずに幾分か柔らかくなった言葉が僕の口から流れ落ちた。

「お前に言われなくても知ってるって、そんなこと」

 もう出来ればこれ以上自分の心を痛めつけたくなかったのに、そんな短い会話の中にも悲しみや痛みは刻々と降り積もっていった。

 僕は隣に座るさきに嫌悪感ではなく、鈍く誰も殺せない殺意を覚えた。

 さきに何でこんなことをこの段階で、この場所で言うのかという愚かさを覚えるのを僕は自分で制御できなかった。

「ごめん……。そんなつもりじゃ」

 さきは僕の様子に反応して、謝罪を口にした。そのことにまた心がざわついたが、もう考えるのは止めにしてその愚かしさを見捨てることにした。

「いいよ。もう、この話は終わりだ」

 切り捨てた僕の心中を知ってか知らずか、さきはもう何も言わなかった。

 再び車内に重い沈黙が蘇った。


 記憶の中で何度でも別れの言葉は忘れられずに残り続けた。

「分かれよう、私たち」

 学生の時から数えて四年間付き合った彼女から告げられた別れの言葉はそれだけだった。もう三年も前のことなのに未だに彼女のことは夢に見るし、クリスマスやバレンタインや彼女の誕生日などふとした時に思い出して気分が重くなるのも未だに僕は拭い去れずにいた。

 僕の仕事が上手くいかないときに彼女はいつも電話をくれて励ましてくれた。きっと自分の方も新しい環境でそんな余裕なんてきっとあまりなかったのに彼女は優しかった。

 その優しさにお互いが救われて傷つけられて、そして僕らは別れた。

 お互いの心の適度な距離感は恋愛に必要だが、その距離感がまた分かれる原因にもなるのだということをまだ僕らは知らず、それをお互いに埋めることも見ないことにすることもできなかった純粋さと愚かさが全ての原因だったのだと思う。

 ただ楽しかった学生時代の付き合いと違い、未来のことをただ考えて進んでいかなければならなくなった時に僕らは何の準備も無く素直過ぎたのだと思う。

 もっと狡さや賢さが足りていれば、今の状態には陥らなかったのにとは思うが、それは後の祭りだ。

 何万文字も打たれた電子メールの言葉や何十時間も話した電話での会話や、そして何度も愛し合った夜が僕には思い出として深くはっきりと刻まれて消えなかった。

 彼女の柔らかい肌の温もりも、明るく弾力を持った声も、綺麗で甘い匂いもはっきりと思い出せるのに、それは最早どれだけの労力を費やしても手に入らない神秘の結晶だった。

 ないものを探し求めるよりも、かつてあったけれど絶対にもう手に入らない過去のものを求める方が残酷であるということを僕は彼女を失って初めて知った。


 僕が切った会話から数分してさきはまた口を開いた。

「月、すごく綺麗だね」

 黙れとはっきりとさきに言わなかったことを僕は後悔した。

 車から見える満月は確かに本当に綺麗だったけれど、そんなことが一体今の僕らに何の関係があるのか僕は問い質したくなり、思わず、口が滑った。

「そうだな。それで?」

 さきの方は見ずに僕は返答を待った。

「それでって? それだけだよ」

 その言葉を聞いて、僕は彼女と僕との間にある溝が想定していたよりも深いものであるとよく実感した。

 結局のところ人間は皆他人なのだという当たり前のことをここにきて僕は悟った。

 それなのに、さきは僕に聞こえるか聞こえないか分からないような小さな声でぽつりと言った。

「こんな月があの日も出ててくれれば良かったのに……」

 その言葉に僕は総毛立った。

 今僕の隣にいる生き物が何であったかということを真剣に考えた。

 もう、ここでこいつは車から叩き落してもいいんじゃないかとも。

 そこまで考えて、思い止まった。

 何を僕は考えていたのか、世界中で誰が敵になったとしても僕は最後までこの子の味方でなければならないじゃないか。

 僕はさきの味方だと思い込むことが僕が目的地まで動くことの原動力であり、免罪符だった。


 さきが僕にそのことを打ち明けたのはこの山道に来る数時間前のことだった。

「お父さんもお母さんにもやっぱりどうしても話せなかったんだ……。ねえ、どうすればいいと思う?」

 その事実を告げられた僕は愕然として、壊れかかった心で世界を呪った。

 放棄して乾ききってひび割れた心に、粘着性の泥のような廃油をぶちまけられて鈍い延焼を引き起こした。

 もう何度も考えて、実行に移せなかったことが頭から引き抜かれ、あっさりと言葉になった。

「なあ、さき、一緒に死のうか?」

「え?」

 なんて陳腐で終わった言葉だろうと僕は自分の口から発せられたその言葉に絶望と希望の両方を均等に感じた。

 さきはしばらく放心して、やがてぼろぼろと大粒の涙を零して赤ん坊の様に泣きだした。

 僕はもう流す涙もなく、冷えた心で、その光景を眺めていた。

 それはそうだよなと僕は思う。

 唯一この絶望的な状況を味方してくれるかも知れないと思った人物に返された言葉がこれではあんまりだとも思う。

 やがて、さきは涙を拭うと、何でもないかのように笑って僕に向き直って言った。

 壊れ切って全てを捨てようとしているのにどこか力強さを感じる矛盾に満ちた表情だった。

「……分かったよ、連れて行って」

 僕はその言葉に、再び相反する感情を覚えて、苦笑した。

 その瞬間から僕らは生者では無くなった。


 そう、数時間前に僕らはもう死んでいた。

 勿論現在この瞬間は、心臓は動いているし、息もしている。

 身体は健康そのものだし、車も運転できるし、これまでの記憶もあるし、至って正常だ。

でも、もう死んでいる。

言ってみれば、今の僕たちは転落死する直前の状態でしかない。もう、飛び降りていて、地面に到達するまでの時間が今の僕たちの時間だった。

 生きることを放棄した時点でもう僕たちは僕たちではなく、他のものだった。

「もうすぐ到着だね」

「ああ」

 話が決まると、地図を見て、そこがいいとさきは提案し、僕はそれを受け入れた。

 僕たちの住む街から数時間ほどで、そこにはたどり着ける。

数多の人々に死を与えて来た残酷な場所。多くの人が人生の終着点を求めた結果、出来上がった結界。

「そろそろ車は置いて行かないとな」

 山道を突き進み、夜の色に染まった緑の深い場所まで僕らは既に入り込んでいた。

 アスファルトや道路標識などと言った人工的なものも無いような道に僕らは踏み込んでいた。

 潮時だと思い、僕はもうほとんど道と呼べない場所に車をゆっくりと止めた。

「この先?」

 車を停めると、さきは鈴の鳴るような声で僕に尋ねた。

「うん、そう」

 車のライト以外に明かりはなく、僕らの声とエンジン音以外の音はなく、無常の闇が口を広げて僕らを待っていた。

 しばらくお互いに無言の時間が続いた。その時間はまるで、宣告を告げられる前の囚人のようで、言い得て妙だなと僕は少しおかしくなった。

 車の窓から目を凝らして外を見ると、闇の中に草木が風にそよいで意思を持った生き物の様に蠢いていた。

「そろそろ行こうか、さき」

 僕は声に何の感情も乗せずに呟いた。いつの間にかその声の出し方は生きていく上で最も必要な技術の一つになってしまっていた。

「待って、もう少しだけ」

 さきは助手席で小刻みに震えていた。細い髪がさらさらと揺れて、とても儚く綺麗だった。

 僕はそんなさきに何も言わずにただぼんやりと死ぬまでの時間を待ち続けた。


 どこから僕の人生は狂い始めたのだろうともの思いに耽った。

 いや、もしかすると実はまだ何も狂っていないのかもしれない。ただ、人生の中で向かい風のタイミングが来て、その向かい風に僕が抗する気力を失ってしまっているだけなのかもしれない。

 ただ、仕事や恋人を失っただけだと僕の中で僕のことを冷静に見ている誰かが言う。

 希望は失われてはいない。ただ時期が悪いだけで、もっと生きなければならないよとも。

 考えていて、僕は苦笑する。そんなことは知っている。もっと不幸だったり、どうしようもなく行き詰っている人だって世の中にいることは重々承知している。

 それでも、そんなことは第三者的に見ただけのことで、当事者である僕からすれば十分に僕の未来を失くす理由に成り得るのだということを僕は知っていた。

 それに、そのことはただの理由で、タイミングが悪かっただけのこと。

 僕が死を覚悟して、ここまで車を運転してきたのには理由があった。

 さきが僕と理由は違えど、追い詰められていたから。

 死を克明に考え始めた矢先に同じく行き詰った親しい人間が傍に居たことが僕らにとって不幸であり、孤独を分け合うという意味では幸せなことでもあった。

 理由は明白で、取り消しようも無かった。

 さきのお腹には今新しい生命が誰にも知られずに息づいている。

 年齢が十代後半であり、学生であるという境遇は少し特殊で色々な苦労は想定されるが、それはとてもとても喜ばしいことだ。

 父親が分からない、ということを除けば―――。


「お待たせ。もういいよ……」

 震える声でさきは僕にそう言って、投げ出されていた僕の手を握った。

 温かく柔らかく、懐かしさを覚える不快で優しい手だった。

 僕は無言で、さきの手を振りほどくと、車のドアを開けて、外に出た。

 用意してきた懐中電灯を点けて、車のエンジンとライトを消した。

「真っ暗だね」

 さきが助手席から運転席へと足を跨らせて移動し、顔だけを闇の中へと出した。

「そっちから出ろよ」

 子供のような横着をするさきに僕は呆れて吐き捨てた。

「嫌だよ、暗くて怖いし」

 さきはそう言って、運転席から身を乗り出し、振りほどいた僕の手に今度は振り解けない様に、指を絡ませてきた。小さなさきの指が僕の指と指の間に入る感触がくすぐったかった。

 僕はもう振り払うのを諦めて、さきを車から引き出した。

「手大きいね」

 まるで恋人の様にさきは熱の入った声ではしゃいだ。

「そりゃあ、男だからな。お前もそれくらいは知ってるだろ?」

 僕は呆れたようにそれだけ零すと、今の状況で、どうしてさきはこんなに明るいのだろうと不審に思った。

「さき、ひょっとして今の状況を楽しんでる?」

「ん? そう見える?」

 何のことか分からないというようにさきは小首を傾げた。暗闇の中でポニーテールがさらりと揺れたのが影の動きで分かった。

「いや、何でもない」

 聞くべきことではないこと聞いてしまったと僕は思って、会話を打ち切ろうとした。

「行こう、この先だと思う」

 さきは口を開こうとしたが、それを振り切って、握られたままの手を引いて、僕たちは破滅の道を再び歩き始めようと、行く手に目を向けた。

 最後にちらりと振り返って、愛車に僕は永劫の別れを告げる様にボンネットをさきと結ばれていない方の手で一度こつんと叩いた。

 返ってくる言葉は当然何もなかったが、僕らの間はこれで十分だった。


 近所のコンビニに行こうとして薄着のままで夜の公園に立ち寄ったのがいけなかったとさきは微笑を浮かべて僕に事の顛末を話した。

 その笑顔は今まで見た人の表情の中で最も壊れていて、最も美しく、最も生かしておけないと僕は思った。

 ふとすれば泣いてしまいそうなのに確かな意思の籠った歪な笑い方だった。

 さきがそんな表情を浮かべるのが僕は怖く、そして嬉しかった。

 その表情は鏡に映る今の僕の表情によく似ていた。

 世の中には自分ではどうしようもないことがたくさんあって、理不尽な悲しみは人の営みの中で当たり前に生じて、ふとした瞬間に押し付けられるものなのだと僕はこれまでの短い人生の中で思い知っていた。

 知らぬうちにどこからともなく溢れ出す涙も、身を焦がすような激しい怒りも、世界が灰色に見える諦観に身を落とす内にいつかは消えてなくなるものなのだと僕は知っていた。

 その結果、人には何の意味も無い微笑を浮かべるという行為しか許されなくなるのだとも。

 僕たちは明日食べる物に困らない。

 街を歩いていても急に攻撃もされない。

 雨をしのげる場所を追われることもない。

 それでも幸福になれない。

 幸福であることに飽きてしまっているから、それ以上のものを望み、それ以下であることを拒み、精神的な幸せを求めてしまう。

 これを地獄と言わずして一体なんなのかと僕は誰にともなく問い続けた。

 それが子供じみた青臭い思想だとは分かっている。でも、それでも問いたださずにはいられない。

 どうしたら、僕らは幸せになれたんだろうと。


 拓かれた山道は大して険しくもなく、ただ淡々とその場所へと続いていた。

本来なら恐ろしく思うであろう木々のざわめきも、身の芯に爪先を伸ばしてくる空気の冷たさも僕には祝福に感じられた。

「静かだね」

 さきにとっても今のこの山道は不快なものではないのだろう。その声にはやはりいつもの明るさが宿っていた。

「もう少しだ。このままのペースで大丈夫か?」

「うん……」

 それきりさきは黙り、黙々と僕の後を歩いた。

 繋いださきの手の温かさが今は怖かった。

 どうしてこんなに人間は優しさと柔らかさを内包して生まれて来たんだろうと僕は思う。

 一人だと感じない人の体温を他者と触れ合うことによって人は感じることが出来る。

 そのことに理由もなく喜びを感じる様に僕らは生まれつき何者かに設定されていて、誰に教えられることもなく、いつか気づき、命を育み繋いでいく。

 こんな設計にしたのは一体どこの誰なのだろう。

 どうしてそういう設計になっているのに全ての人がそれを無償で受けられるようにしてくれなかったのだろう。

 僕は凍えるような沈黙の中で、ただその温かさと優しさに身を切り刻まれるように山道を歩いた。

 時折、さきは僕の腕に絡みつき、そうしていると、僕の顔のちょうど真下にポニーテールの頭が突き出された。

 女性特有の甘く艶のある薫りと、柑橘系のシャンプーの匂いが僕の鼻に呼吸の度に届き、僕は自分を見失いそうになった。

 いっそ狂えてしまったらどんなに楽だっただろうかと壊れた幻想に囚われながら僕は闇の中を懐中電灯の明かりだけを頼りにただ黙々と歩いた。

 地面から感じる小石や小枝の固い感触が靴底から妙に鋭く感じられた。


 両親の愛情やこれまでの人生で出会ってきた友人との友情が僕には恐ろしかった。

 ただ僕が信じられなかったともいう。

 大きな計画を最悪の形で終え、職場での居場所を失くし、仕事を捨てた僕に周囲はただ優しかった。

 当初、その優しさが僕には嬉しく、何と自分は恵まれているのだと感動した。

 しかし、時間が経つにつれて、それは間違いだったと僕は気づいた。

 気にするな、自分たちは味方だからという言葉は僕にとって薬から凶器に変わった。

 自分のせいでこの状況になっているのにどうして自分は責められないのかと僕は怖かった。

 それは即ち、誰も僕の正当性や価値を認めていないことではないのかという思考の迷路に陥った。

 正当性や価値なんて欠片も無い癖にそう僕は考えた。

 多分、そのときに千枝美が傍に居たら、殴ってでも僕を立ち上がらせ、僕を逃避という楽な道から容赦なく引き摺り出し、放ったことだろう。

 しかし、そのとき彼女はもう僕の手の届く世界のどこにもいなかった。

 一度陥ってからの崩壊は簡単だった。

「心因性自律神経失調症の疑いがありますが、こんなのは今の社会人じゃ当たり前ですよ。もっと酷い人だっています。しっかり社会と戦わないと。いつだってね、弱肉強食なんですよ。まだ若いんだから大丈夫ですって」

 どの医者の言葉だったか忘れたが、僕には虚構の世界に陥ることも許されなかった。

 精神的にも、肉体的にも僕は喜ばしく残念なことに健常者だった。

 生きることに必死で、そのために他の死を生成するだけのただの人間だった。

 だから、ただ生きた。

 死ねなかった。

 そのことを考えない様に、しない様にただ息を吸って吐き続けた。

 いつか必ずくる日のために。

 そして、恐れ望んでいた、その日が唐突に来てしまった。

 

 終わりの場所はまるで当然のようにそこに在って、僕らを迎えた。

 まるで絶望的な敵に今からたった一人で立ち向かう英雄のように、僕はその場所に仁王立ちして、大きく深呼吸をした。こんなときにも拘らず、山の冷えた新鮮な空気が味を持って美味かった。

 山の頂上付近の切り立った崖の上に僕らは居た。

 人口の明かりはなく、ただ月明かりが僕らを招待したようにそこに在って、僕らを照らしていた。

「着いちゃったね」

 さきの顔が月明かりで照らされて、僕の瞳に映った。光のないその空洞のような表情を浮かべたさきを僕はただ愛おしいと思った。

 そして、今更になってどうして僕は彼女を守れなかったのかと言う罪悪感に悩まされた。

 もうどれだけ後悔しても遅いことなのに僕の心が堰を切ったかのように、その黒くて重い感情が身を包んだ。

「そんな顔、しないでよ」

 さきがぼくの頬に両の掌を伸ばしてきた。

 小さく冷たい指が僕の頬に触れると、途端にその部分が温かな温度を持って、僕の心を更にじくじくと痛めつけた。

 その痛みが一体何なのか、そしてどうしてこんなどうしようもない痛みを今更になって与えてくるのかを僕は誰にともなく呪った。

 僕の頭一つ分下にあるさきの顔があの壊れた微笑の形になっていた。

 その表情が怖かった。怖いのに愛おしかった。それはきっとこの世界を憎んで止まないのに笑うしかない矛盾した表情だったからだ。

 僕は右手で頬に当てられたさきの左手を握った。

 汗で濡れた手がさきの冷たくなった手によって冷やされて、お互いの体温でやがて温まった。

「さき、僕は……」

 口を開きかけた僕の唇を、さきの小さな人差し指がそっと塞いだ。

「何も言わなくたっていいの。私も自分の意思でここに来たんだから」

 たまらなくなって僕はさきの身体を引き寄せて、今まで誰にもしたこのないくらいに思い切り力を込めて抱き締めた。

 華奢な身体が僕の身体にすっぽり収まった。

 最初は戸惑ったようにさきは身体を弛緩させ、何もせずに数秒が過ぎたが、ゆっくりとその両腕が僕の背中に回された。

 この抱擁に一体何の意味があるのか僕には分からなかったし、さきもそれは恐らく同じだったが、僕らは互いを温め合うように、引き離さないように腕に力を込めて抱き合った。

 不意に自分が他に抱いたことのある千枝美のことを思い出し、さきが彼女より一回り小さい身体なんだなと実感した。そして、匂いも感触も何もかもがやはり彼女とは違うのだということも。

「こんな風に男の人に抱かれたの、初めて」

 さきの声が耳元で聞こえた。僕は浮かんでくる千枝美の感触を頭から必死に追い出して、何も考えないように努めた。

「どうして誰もこんな風に抱き締めてくれなかったんだろう? 私が悪かったのかな?」

 その問いかけに僕は何も言えなかった。

 答えを出してしまった僕にはもうどうしてやることもできず、ただ自分の体温をさきに分け与えてやることしかできなかった。

「ねえ、生まれ変わりって信じる?」

 さきはぽつりと僕にしか聞こえない声で囁いた。

「私達生まれ変わったらどうなるんだろうね? またちゃんと出会えるかな?」

 僕は耳を塞ぎたくなるのを堪えながら、さきの言葉をただ聞き続けた。

「ねえ、例えばさ、次に出会ったら、今とは違う関係で、それこそただの年の近い異性として出会って、一緒の学校に通って、一緒にやりたくもない勉強をしたり、夜が明けるまで取り留めも無いことで電話をしたり、馬鹿みたいに遊園地で遊んだり、電車の時間を気にして別れの言葉を言うときに切なくなったり、他の女の子と笑って話してるのを見て苛々したり、それでいつかはどこかで結婚式を挙げて、いつか犬が買えるくらい大きな家を飼って、子供の成績や素行のことで悩んで、そして孫の顔を眺めながら終わりの時を二人でゆっくりと待って……」

 そんなことがさきの望むものだと言うのなら、僕ならきっといくつかはしてやれた。

 けれど、僕はその時にそうするつもりも無かったし、そうしなかった。

「そんな当たり前の奇跡を生まれ変わったら送りたいなあ」

 でも、そうはならないことを僕もさきも知っていて、ただそう願うことしかもう出来なかった。だから、この世界は美しく残酷だと僕は思った。

「ねえ、そんなことを今更願うのは私の我儘かな?」

 僕は渇いた舌を無理矢理動かして答えた。

「きっとそうなるよ、次に生まれてくるときには」

 僕は知っている。そんなことはただの詭弁で言い逃れで、ここで終わってしまう僕らにはきっと何も無いということを。それはきっといつか訪れる絶望に向かうための希望の通過点に過ぎないと僕は知っている。

「ありがとう」

 それでも、そんな絶望をさきは笑う。


 終わりの時は静かに訪れた。

「……そろそろ、行こうか?」

 僕はそう言って、さきに手を伸ばした。

「……うん」

 語ることも慰め合うことも終わって僕らは互いの手を絡めて崖の前に立った。

「手、握ってていい?」

 握ったままの手を軽く動かして、子供の様にさきは僕に懇願した。

「勿論、僕も握っていて欲しい」

 僕は口の端を少し動かして答えた。

 いよいよ、僕の物語は正真正銘の終わりを迎えようとしていると僕は悟った。

 そして、それはさきの物語まで終わらせてしまうことと同意だった。

「さき」

「うん?」

 僕は脳を総動員して、これまで生きて来て一番言葉を選んで、その一言を告げた。

「愛してる」

 分かっている。これがさきを縛る呪いの言葉であり、今僕がさきにかけてやれる最上の言葉だった。

「うん、私も」

 照れ臭そうに純粋に笑うさきの笑顔が眩しく、一層僕の心をこれまで以上に切り刻んだ。もうきっと僕の心に傷ができる部分などどこにもない。それほどまでにその笑顔は綺麗で、取り返しのつかないものだった。

「今まで僕の傍に最後まで居てくれてありがとう」

 酸素を必死に送り込んで僕は何とか口を動かした。

「私の方こそ、ありがとう」

 それは感謝の言葉で、救いのある響きなのに、今の僕には重苦しく感じられた。

「じゃあ、先へ行こう」

 僕は真っ直ぐ僕らにしか見えない道を言葉で示して、歩を進めた。

「うん、この先へ」

 同じようにさきも足を動かした。

「さよなら、さき」

「さよなら、――――お兄ちゃん」

 そう言って僕らは足を空中に踏み出した。

 一瞬で重力と言う平等で当たり前の呪いから僕らは解き放たれた。

 深く暗い闇という奈落の底に二人で文字通り僕らは落ちていく。

 これは死と言う終わりがもたらす永遠の祝福だった。

 さき、僕もね、君が語った先を見てみたいんだ。

 そんなものがどこにもないと知っていても。

 生きたいと明白に願っていなくとも。

 死に怯え、その実行が出来ないためだけに生きているのが人間だとしても。

 君が語るように奇跡というものがあるというのなら、僕らにもあるかもしれないじゃないか。

 生きることを放棄したものこそがこの世界における異物。

 そんなものに僕らがならないような世界だってきっとどこかにはあったかも知れないじゃないか。

 僕も君もその努力を軒並み投げ捨てただけのこと。

 だからもう、こうする以外にないと決めつけただけのこと。

 何だかそれは禁忌に触れてしまった聖者のようだ。

 それとも文字通りの愚者なのか。

 僕には答えが出せそうにない。

 ただこの行動に今は安堵している。

 この気持ちを何と例えよう。

 どう伝えよう。

 さきへ――――。


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