18.帰れ
前頭葉:脳のなかで最も高級(人間らしい)な部分とされています。大きく分けて3つの機能があります。
1.運動機能中枢:錐体路とか錐体外路とか言われるものの出発点です。ここから手足の先まで神経がのびていき、運動します。
2.運動言語中枢:発語に関しての中枢です。
3.精神機能中枢:人間を人間たらしめるのに必要な高次の精神機能の中枢です。意志、計画性、創造性などもここで司っています。ここがやられますと、人格荒廃などが見られます。
リンは家に帰ってから図書館で借りてまだ読んでいない本を読みあさった。中には事故の後遺症に悩む家族の奮闘日記の本があり、脳の中でも大脳の前頭葉という部分の障害を背負った内容に思わず釘付けとなっていた。本には脳の構図も載っており、新が電柱にぶつけた額が前頭葉の部分に当たるとなると人事のようには思えない。
「発語と、人格は今のところ大丈夫。」
となると後遺症として考えられるのは手足の運動か。でもぶつけた時に脳全体に衝撃があったわけだから、結局まだ油断はできないということもわかった。
「素人が少し勉強したくらいじゃなぁ。」
リンは本を広げたままベッドにごろんと横たわり、深いため息を着いた。病気や怪我には例外だってたくさんあり得るみたいだし、知識を得たとしてもあまり心の気休めにはならなかった。
「治りますように。」
そう願うことしか出来ない。完治して、また以前のように戻ることは奇跡なのかもしれない。
だけど、そう願わずにはいられない。
先生や医療スタッフが言うには新の経過は良好なようだった。新の治りたいという意志も強く、若いことから勢いもある。しかし、いきなり回復するわけではないので新のイライラは日増しに増えているように感じる。
「まだこれだけかよ。」
かろうじて握れるようになった新の握力測定値は二十キロ。男子高校生平均の約半分の値だ。その結果にショックを受けた新の右手を、リンは握りしめた。
「思いっきり握って。」
リンの意図が分からないまま、新はとりあえず今出せる力でリンの手を握る。
「握られてる感触は十分にあるよ。」
正直な感想だった。確かに相変わらず力は弱くて冷たいけれど、握られたその手からは新の必死さが伝わってくる。
「少しずつ、ね。」
暫くそのまま握られていると、一度緩んだ新の手にまた力が入った。
「少しずつ。」
新は無言でリンを握る手に何度も力を込めた。リンはその度に新の力をしっかりと感じていた。
「リンちゃん、ちょっといい?」
帰ろうとしていたリンは今病院に着いたばかりと思われる亜貴に呼び止められた。面会時間はもう終わりなのに、どうしたんだろう?と首を傾げながらリンは亜貴の方へ近づいていった。
「義明兄さんに会ったりした?」
名前を聞くと一気にリンの顔が引きつった。義明兄さんとは亜貴と新の兄に当たる人で、完司らNEXのスカウトに訪れていた長身の男のことだ。
「今日たまたま会ってね。新が目を覚ましたことは耳に入っていたみたいだけど、リンちゃんが毎日訪れているのか?とか聞いてきてね。東京に居るの知っててビックリして。」
亜貴が心配してくれているのがわかる。義明は新ら兄弟の長男に該当し、当然跡継ぎのつもりで育てられ、育ってきた。しかし、祖父である会長は新を後継者にと考えており、父親に当たる社長や義明と対立をしていた。
継ぐ気のない新は幼い時から目の敵にされ育ったため、家のことを忌み嫌っている。
「この前、偶然会いまして。」
福岡の親戚宅から高校に通っていた新の家に行った際、何度か義明に会ったことがあったが好きにはなれなかった。新共々見下され、新が飛び掛って喧嘩になりかけた事だってあるし、何より事故の時に嬉しそうにしていたのが許せなかった。
「新のこと、何か言ってました?」
「事故のことは役員にも広まってるから、その手前一度は顔出ししないと、って。」
今の新に義明が会うことが良いとは思えなかった。何とかして阻止したいけど、リンにそんな力は無い。それがわかるから悔しい。
「リンちゃん、これからもこうやって新に会いに来てね?」
亜貴も同じことを思っているようで、不安な顔つきをしている。
リンは頷き、鞄を握っている手にギュッと力を込めた。
義明の動きは早かった。学生と違って、生活のかかっている社会人はみんなそうなのかもしれない。亜貴と会った次の日、新の病室に行くと新よりも先に義明の姿が目に入った。反射的に嫌な顔つきになる。
「可愛い弟のお見舞いに来たのに、感謝されないなんて悲しいものだな。」
建前で来たくせによく言うよ、と嫌な気持ちとは反して義明は心なしか楽しそうな気配さえある。リンは嫌な顔つきを崩さず視線を床へと移した。
それにしても、聞き覚えのある音楽がどこからか耳に入ってくる。一度しか聞いてないけど忘れない、NEXの曲だ。一体どこから聞こえてくるのだろう。
「スカウトするつもりだったからね。等身大の彼らを撮っていたんだ。あ、建物のオーナーにちゃんと許可をもらってね。」
そう言って義明はリンの居る出入り口の方にツカツカと歩いてきた。
「じゃ、忙しいので失礼するよ。」
一方的に喋って義明はあっという間に居なくなってしまった。何が言いたかったのか全くわからない。
「新?」
リクライニング機能で体を起こした状態の新の手元にはビデオカメラが置かれており、そこからNEXの曲が映像と共に流れていた。
「新?」
リンの呼ぶ声に反応せず、新はビデオカメラをじっと見ている。リンは近付いて再生されているビデオカメラを覗き込んだ。客席の方から撮ったと思われる映像の端っこには、ステージの傍らで聞いていたリン達三人もバッチリと映っていた。あの日の自分を見るとまるで別人の様だ。
再生が終わって部屋の中が静かになっても、新は喋ることなくただビデオカメラの画面をじっと見続けている。
「新?」
リンの三度目の呼びかけにようやく反応し、新が顔を上げた。
「これ、いつ頃行ったんだ?」
「え?ええと。」
マメな事に手帳に予定を書いていたことを思い出し、リンは鞄を開けて手帳を取り出すとハラリ、と挟んでいたプリクラが手帳の間からこぼれ落ちた。
「「あ。」」
二人の声が重なった。こぼれ落ちたプリクラはビデオカメラの辺りに落ち、しっかりと新の視界に捕らえられた。佳澄と彩女と三人で初めて撮ったプリクラには、ご丁寧なことに日付が書かれている。
「この日付・・・。」
リンの罪悪感が一気によみがえった。掃除当番と嘘をついてしまったことを未だに新には黙ったままだったのだ。
「あの、ごめんなさい。」
「何で謝るんだよ?」
素直に謝るリンに、予想外の反応が返ってきた。
「俺が居なくても、大丈夫なんだな。」
「え?」
「俺はもう、必要ないんじゃないのか?」
「新?」
何を意味しているのか、リンは理解できなかった。
「リン、もう来るな。」
目も合わせてくれない新の考えをリンは必死に読みとろうとしたが、ショックで何も考えられない。
「別れよう。」
嫌。
「俺の人生に、これ以上お前を巻き込むわけにはいかないよ。」
嫌。そんなの嫌。
「もう、帰れ。」
嫌だ。
自分の気持ちを何故か言葉に出来ず、リンはただ涙を流すことしか出来なかった。そんなリンの涙を拭おうとも見ようともせず、新はいつもより低い声で言葉を続けた。
「帰れ。」
嫌だよ。
言葉が出ないので、首を横に振って気持ちを表した。
「帰れ!」
相変わらず目を合わせず、新が怒鳴るように叫んだ。今まで一緒に居て初めてのことだった。
リンは泣いたまま病室を走って飛び出した。病院の中は走らないなんていうマナーは頭の中から消え去り、ただ新のことだけで一杯になっていた。
ごめんね。
リンは泣きながら、そう思うことしか出来なかった