10.大丈夫
はぁー
すっかり暗くなってしまった閉館直前の時間、いつものようにシンプルな格好のリンは図書館の前で深く深呼吸した。昨日の今日、どんな顔で完司に会えばいいのかわからない。でも、逃げたくない。そう思って雷の家から帰った後、入浴と食事を済ませると休むことなく図書館へと向かってきた。当たって砕けろ精神でとりあえず会うんだ、という気持ちでラジオ体操の時よりも深く深呼吸して気持ちを落ち着けた。
何に当たって砕けるかはよくわからないけど、それくらいの勢いが今必要なのだ。
よし、入ろう。
決心してドアノブに手をかけようとした瞬間、突然後ろから強い力で引っ張られた。
「!?」
リンは予期せぬ出来事に声が出ず、代わりに心臓は図書館の中にまで聞こえるのではないかというくらいバクバクと早く鳴った。
「お前、昨日も完司の周りチョロチョロしてたろ?」
「もしかして彼女ぉ?」
さっきまでの進行方向とは逆の向きに振り返ると、声が聞こえると同時に強烈な二人組みが視界に入った。初めて図書館に来た時、入れ違いで帰っていった完司のファンと思われる人と、その友達だ。
「へっ?まさか。」
まだ半分動揺したまま、とりあえず変な誤解が生まれない内に事実を伝えたが、最初からリンの意見を聞き入れる様子はない様だった。
「ちょっと来いよ。」
「えっ?あの。」
動揺の残るリンに構うことなくツカツカと歩き出す完司のファン。そして、そのまま引きずられるように歩くリンの後ろを友達が無言で付いてくる。どうみても変な光景だが夜ご飯時、ほぼ住宅街の中にあるこの場所で人とすれ違うこともなく、リン達三人は図書館からどんどん離れていった。
「で?お前何なの?」
リンが連れて行かれた場所は図書館から歩いて十分もかからない工事現場だった。仕事が終わった時間帯で人気もなく、もちろんほとんど真っ暗である。しまった、何でノコノコ付いてきてしまったんだろう?と思っても時既に遅し。
「黙ってねぇで何とか言えよ!」
閑静な場所で怒鳴り声が少し響いたが、前の道路を通り過ぎていく車の騒音にすぐに掻き消された。
「何って・・・」
ただの友達、と言おうとしたけどその言葉はリンを睨みつけている二人への耳へ届くことなく、リンの喉の奥へと呑み込まれた。
友達?年が少し離れているから変かな。友達と言うよりお兄ちゃんって感じがするし。現にお兄ちゃんと同じ年だからそう思うのも無理ないけど、そんな説明で二人が納得する気がしない。
それに、ただの友達じゃない気する。
「なぁ?」ガアンッ ジャラジャラジャラ・・・・・
イライラがどんどん募っていく完司ファンが傍に置いてあった工具箱を蹴り飛ばした。中からは多様のサイズの釘が数え切れないほど飛び出し、地面を釘色へと覆いつくした。
「ちょっとちょっと、大事な道具を粗末にしないでくれる?」
結局リンが返事をしないまま困っていると、聞き覚えのある声が完司ファンの向こう側から聞こえてきた。
「ユキ?」
「ユキぃっ!?マジ?」
リンが見覚えのある空色の頭を確認すると、しばらく黙っていた完司ファンの友達が耳に響くような高い大きな声を発した。どうやらこの人はユキのファンらしい。そう言えば前すれ違った時完司のことは微妙、みたいに言っていた。
「なんでユキがこんなとこにいんの?」
リンが言おうと思った台詞を完司ファンに取られた。まぁ。聞きたいことは一緒だから別にいいんだけど。
「ここ今の俺のバイト先。で、忘れ物取りに戻って来たって訳。」
なるほど、そうですか。こういうピンチの時というか絡まれている時に誰か現れるのってドラマとか漫画の世界だけと思っていたけど、実際にあるもんだなぁとか平和なことを思っているとユキが寄ってきてリンの頭の上にポンと手を置いた。
「こいつ俺らの妹みたいなもんなんだよ。だからいじめんな。」
優しい口調でリンをかばってくれるものの、睨みつけているのか怒っているような雰囲気がユキから感じられた。もっともユキの手に頭を押さえられ上を向けないリンは確認することが出来ないので、あくまでも憶測に過ぎない。
「でも」
「釘、直しとけよ。」
まだ何かを言いたげな完司ファンの言葉を遮り、ユキはリンの頭に手を置いたままスタスタ歩き出し、リンはまた引きずられるようにユキの後ろを付いていく形になった。今日はこんなのばっかだな。
工事現場から歩いてすぐのところにあるコンビニに着くと、ユキはリンに何も言わず完司に電話し始めた。電話越しに聞こえる完司の声に思わず昨日のことを思い出してリンは体が固まった。決心していた筈なのに、思わぬトラブルがあって無理やり作り上げていた決心が少し薄くなってしまっていた。
でも、逃げようとは思わなかった。
「完司来るって。ここにいたらさっきみたいに絡まれないだろ。じゃあな。」
そういってまたもやスタスタ歩き出すユキを慌ててリンは引き止めた。
「も、もう帰ると?」
「お。方言。俺が居たって邪魔だろ?」
無意識にリンの口から出た方言に反応しながらもユキあっさりと質問に答えた。
「大丈夫。完司なら受け止めてくれるよ。」
ユキの袖を掴んだリンの手を優しく離しながら、穏やかに言った。“受け止めてくれる”それが何を意味しているかはよくわからないけど、確かにそんな気がした。
「がんばれ、リン。」
そう言ってまたリンの頭の上に手を置いて、やさしく撫でた。大きい手の暖かさに涙腺が緩みそうになってリンは顔を上げられなくなった。それを見越してか、ユキはリンの顔を上げることなく「じゃあな。」と言ってすっかり暗くなった夜道にあっという間に消えていった。
完司がそのコンビニに到着したのはそれから十分と経っていなかったと思う。
「リン!?ユキは・・・」
電話を掛けてきたのはユキの筈なのに、呼ばれた場所にリンが居ることに完司は最初驚いた様だったが、すぐに冷静になっていつものように話しかけてきた。大体の流れを把握したらしい。
「動いて平気か?」
優しい言葉にただリンは頭をコクンと下げるだけだった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
お互い無言になってしまった。最初、どう切り出せばいいのかわからない。
「腹減った。肉まんでも喰わねぇ?」
おなかが減ったのは事実だろうが、とりあえずこの雰囲気をどうにかしようと完司が切り出した。
「喰う。」
元気のない声でリンがボソッとつぶやくと完司がイキナリ笑い始めた。
「な、何?」
思わぬ笑いにリンは困惑する。だって笑えるような何かが今二人の間に起こった覚えがないのだ。
「ごめん。でもさ。すごいテンションが低いのに、いきなり男言葉で、しかも『喰う』って。普段のお前からは想像してなかったからさ、ビックリして思わず。」
そう、新しい名前をリンの口から聞く直前にライブハウスでリンが「すげぇじゃん!」と言った時の様に面白さと、違う言い方を聞けた嬉しさで完司は笑ってしまっていた。
そんないつものような屈託のない完司の笑顔にリンの体を支配していた変な力が抜けた。
「だって最近食べてないからさ。っていつまで笑ってんの!」
大笑いとまではいかないが、まだ声を上げて笑う完司に思わずムキになってしまう。いつも通りだ。ユキが言ったように“大丈夫”。
リンはその言葉を頭の中で繰り返した。