洗礼
どうも僕には方向音痴の傾向があるようだ。やっと学院に辿り着く事が出来たのはいいが、赴任初日から遅刻とは、良くない事だ。時間にルーズだとは言われないにしても、そう思われてはいかんと思って、時間に余裕を持って、目的地を目指したのであるが、いけない、数分越してしまった。幸い叱責は免れたが、肩身が狭い思いをする羽目になった。職員室で、僕は担当するクラスの名簿を受け取った。なんとも立派な生徒たちであった。
「どれ、見してみろ。」
先輩教師であるYさんは、僕から名簿を受け取り、一通り眺めたあと、
「こいつはなかなかの面子だな。」と呟きながら僕の机にお茶を一杯置き、
「何か質問は有るか」と言った。
「なかなかの面子、と言うと、何人かと面識が有るんですか?」
「そうだな、幼なじみで、ずっとつるんでる連中が居るんだよ。いわゆる腐れ縁。君も仲良くしてやるといい。」
「幼なじみ……」子どもの頃からずっと一緒で、気心も知れた仲。その連携は、うっかり敵に回してしまっては、新任教師である僕にとっては厄介な好敵手となり得る、――それを暗に示しているようで、何だか落ち着かない気がした。武者震いだ。
「そのカズヤと、ちはなのコンビだな。悪戯が好きな無邪気な奴らだ。がために、うちのお堅い連中に目をつけられてる。」
どうやら二人ともなかなかのくせ者らしい。前評判は上々である。……
同じ頃、職員室の有る本校舎から、少し距離を置いた学生寮の一室では、その噂の幼なじみが談話を、――また悪巧みを始めるところであった。
「ちはな、今日新任教師が来たって話聞いてたっけ。」
「……みんな知ってると思うけど。私は、教師生活一年目の新人さんだと聞いたわ。」まだ寮の時間は動き出してはいない。よってこのように、ちはながカズヤの部屋に転がり込み彼の蔵書を漁っていても、咎める者は誰も居ない。
「なるほど、僕は昨日寝る前に初めて聞いたんだ。情報提供ありがとう。そう言う事で、一年目の相手だからといって容赦はしない、そうだろう? 誠心誠意、もてなさなくちゃ。何か良い案は無いかな。意見を頼むよ。」カズヤはいかにも神妙な面持ちで天井を仰いだ。
「それなら、教師としての情趣を酌む、避けて通れない通過儀礼を用意しましょう。もちろん、――」
「王道中の王道、黒板消しの罠。」ちはなが身振り手振りで言わんとする事を言い終える前にカズヤはその先を自答した。
「そうね、我が学園のバプテスマ、と言っては何だけど。……カズヤ、意見を求めておいて、感心しないわね、最後まで聞きもしないで結論を急ぐなんて。私の立場が無いわ。」
「あぁ、すまない。しかし、こいつは失念していた。少し古典的だから、あまり見かけないし。」
「そうね、誰もやろうと思わないわ。」
「それならばいっそ、黒板消しを糸で吊るしておいて、戸が開いた時に、絶妙なタイミングで、鋏でちょきんと――」
「策を弄するのは、お薦め出来ないわね。定石通りで行きましょう。」……
――そろそろ新年度のクラス顔合わせの時間だ。僕は記憶力は良い方ではないのだが、人の顔と名前を覚える事に関しては特に自負するところで、受け持つクラスの生徒たちはすでに覚えている。Yさんに教室までの道程を聞きながら意気込んで職員室を出ると、突然声をかけられた。
声の主は、例の悪戯コンビの片棒だった。
「初めまして、先生。教室までご案内いたします。」これは意外な事に思われた。最も、方向音痴を自覚した矢先に一人で向かうのも心配だったので、Yさんに付き添ってもらおうかと内心逡巡していたところ、これはとても有り難い申し出であった。
「初めまして、よろしく頼むよ。」僕の想像していた彼女とは反して、なかなか麗らかで、爽やかな少女だった、――という第一印象からして、これは狐疑してかかるべきものである。用心深くあれ、それに越した事はなかろう、ここがいわば、前哨戦の火蓋を切った所――準備万端整っている――その積りだ。
後ろを振り向くと、先輩教師Yさんは、何やら不敵な笑みを残して職員室へ戻って行ってしまった。観察を怠るな。
カズヤとちはな、平時の素行からして、当人としては甚だ不本意、と言ったところのいわゆる問題児として、半ば風当たりの悪い立場に置かれている為に、――そういう観点でのみ彼らを評価する者のある以上は、行動を慎むべきと言わざるをえない。だから当然、就中赴任初日の面識のない教師相手に、悪戯をするなんてことは遠慮して頂きたいのだが、実際は僕も学生時代は、悪戯を専売特許としていた。
毎日のように、悪戯をしていたから、これからまたそういった戯れも、楽しみたいと思いが勝っているのだ。ちはなの厚意は素直なものだということは話していてすぐわかった。ここに疑うべきところは何も無いようだ。となるとまだ見ぬカズヤが、何か仕掛けてくる可能性もあるという事だ。……
ちはなが教室を出た先刻から、 カズヤは教室の戸に黒板消しをセットしようと試みているのだが、これがどうにも思ったほどにはうまくいかない。教室の戸は一般的な引き戸なので、上部に黒板消しを挟んでおけばそれで良いものと考えていたのだが、まったく思った通りに挟まらない。滑るのである。策を弄するなと言われても、これだけでは駄目なようである。
「今までやった事が無かったから、知らなかった。奇麗に行くものだと思っていたんだけれど。」
――全然そんな事はなかったな。このままじゃすべっていけないや、材質の所為にしても仕方ないし。輪ゴムでもかけとけば、滑り止めになるのかもしれないけど、時間もあまり残されてないようだし……
「困ったな。」
「バナナの皮でも置いておけば良いんじゃないか?」クラスメイトがバナナを頬張りながら皮を差し出してきた。
「僕はそれは危ないと思うぜ、ここはやっぱり黒板消しにこだわらなきゃいけない。そうだ、誰かセロハンテープを寄越してくれないかな。」それは悪魔の笑みだった。……
いよいよ、教室が見えるところまで近づいてきた。出会い頭としては、まず黒板消しの懸念がずっとあったのだが、引き戸はぴちりと閉まっていて、黒板消しが挟んである様子は全くない。どうやら杞憂、――このまま戸を開けて、ご挨拶をしようか、さすがに少し緊張してきたのだ、しかし戸の前に差し掛かった辺りで、隣のちはなが妙なことを口走ったのを、僕は決して聞き逃さなかった。
「あら?」おもむろにそう発したちはなの視線は、引き戸の鴨居の辺りを一瞥した刹那、同様に鴨居を眺めていた僕とすぐに交錯した。
「どうかしたか?」聞いても答えるはずは無い。ところが。
「いつもは、こんな時になると悪戯をする人がいるんですけど、……それが見当たらないので、珍しい事もあるのだなと。」
「ははは、まさか。黒板消しでも仕掛けるのかい?」
意外だった、見当が外れた。こんなに具体的な返答が、ともすると、相棒に責任を擦り付けているようにも受け取れるのだが、彼女の視線は何等揺るがない。本当に正直に、思った事を答えたようで、黒板消しが仕掛けられていないのが不思議、と言ったところなのだろう。
まさか初日から仕掛けてはこないだろう――というところを逆手に取ってきたり、策を巡らそうと苦心したりする、そんな軽妙さが悪戯の生む絶好の醍醐味でもあるのだ。これからが楽しい日々の始まりなのだろう。僕は静かに、戸に手を掛けた。……
それは一瞬の出来事だった。床面には黒板消しが、三つ転がって、チョークの粉を巻き上げている。随分使い込んだ状態の物を御見舞いしてくれたらしい、それに三つ分、まるで古来語られる玉手箱でも開けたかのように――おそらく僕の頭も真っ白になっているのだろう、煙たくて仕方が無い、よく見れば黒板消しには、テープのようなものが張り付いている。
――なるほど、やられた。既に教室は拍手喝采大歓迎の雨霰に包まれている。おはよう、諸君。奇麗に決まって清々しい事だろう。
「これは、……すごいことになってますね。」闖入者たる浦島太郎の背後では、ちはながきょとんとしていた。彼女にとっても予想外の事のようである。
おそらくは二人の共謀だったと思うのだが、水先案内人たる彼女を先に入れていれば、――それとも彼女は乙姫か――やれやれ、詮無い事だが、もし細心の注意を払ってそのようにしていたならば、さぞかし愉快な事になったに違いない。
「おはよう諸君。さて……早速だけど少し話をしようか、カズヤ、こっちへ来なさい」
「――――ッ?」突然名指されるとはいかにも想像だにしていなかった、という顔だった。