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第2集

社会不適格者暦45年、もはや第3世界の粋に突入か、

前世は隠れキリシタンか?平家の落人か?

浮遊レゲエマンの脳内妄想ワールド

          =石の上にも三年=


スタジオの看板を揚げてしまった。。


友人の善意で、スタジオとして貸して貰っている一軒家なんだが、

頻繁に外にも音は漏れているので、そのうち看板ぐらいは立てなきゃって

ぐらいは思っていたが、


テレビ取材や自治体の広報誌に掲載される取材の成り行きで

今月中に“WANI MUSIC STUDIO”としてオープンすることになってしまった。


まわりに尻を叩かれれるような格好ではあるが、

一応オープンする訳で、いやでも掃除やちょっとした装飾も

意識してやるようになって、

趣味が、部屋の模様替えって人の気持ちが少し分かるぐらい

スタジオが過ごしやすくなったので、

それだけでも良かったとは思える。。


思い返せば、2年前にオープンした“WANI竹笛茶房”には

一年しか留まれなかった。。


若い頃からそうだが、ここ10年間だけでも

幾度、棲家が変わったことか。。


“WANI MUSIC STUDIO”の看板を揚げた夜、


「石の上にも三年」の格言が


DUBミュージックのエコーのように、繰り返し脳内に響き渡っていた





          =えんどう豆=


畑にえんどう豆の芽が出た。


これまで、長い忍耐の日々が続いた

種を蒔いたとたんに冬型気候に逆戻りした


脳内にあらぬ疑惑、不安、挫折感が駆け巡る


近所のえんどう豆は、もう一週間も前に芽が出たと聞く

ダメかもしれない、、畑の土が良くないのか

種が良くないのか、蒔く時期がおそかったのか、


自然、全存在に見放されたのか、神はいないのか


鳥インフルエンザで感染してしまうのか

ミサイルがおいらの家に落ちるのか、

街に買い物に出たら外国人集団に刺されるのか


もう誰も信じちゃダメなのか、すべての創造も無意味じゃないのか

やること、なすこと、うまく行かなくなるんじゃないか

愛に至ることなんて一生ないんじゃないか

このまま誰にも知られずのたれ死ぬのかな、、などなど


際限なくつづく負の連鎖トリップの渦のなかで聞こえてきた

一条の光射す可憐な詩は、


♪わたし待~つわ いつまでも待~つわ♪ であった


だよね、待つことだよね、耐え忍ぶことだよね

たとえ、あの人が振り向いてくれなくても

ココロの奥にある“信”を見失わず

祈りにも近いハートをもって

只、待つ。。


今日という日は二度とくり返さない

明日の状況は誰にもわからない


これこそ歴然とした真理であり、存在の神秘なのだろう


故に、

えんどう豆が芽を出す

これは自然であたり前な現象ではあるが、オイラにとっては


長い待機の果てに起こった


奇跡的な祝福なのです 






            =不可思議(1)=


不可思議なことがあるのです。


何が不可思議なのか、一言でいえば

自分がいまだに、普通に生き続けられている事実なのです。


不可思議を辞書で引くと

(常識やある基準で考えて、どうしても理解できないこと)とある


同年代の知人、友人が他界したり絶望的な病を患ったりする人が

年々増え続けている中で、

昔から、飲む、打つ、買うなどの世俗的欲望にはあまり罪悪感を持たず

これらの興には、気の向くままとことんハマッテしまう性質で、


ミュージシャンなどと言う、経済的にも肉体的にも情緒的にも

不健全、不安定、な稼業にいまだに従事し


社会から尊敬されるような首尾一貫したポリシー、信条も持たず

のんきそうな風貌と気楽そうな日常ゆえ、同情もされず


親、兄弟からの援助、支援などは遠い昔に消滅してしまい、

生活の糧を得るこれといったスキルも無く


元来、安定した生活を獲得した後にやって来る退屈感に免疫が無く

未知を求める心の誘惑にめっぽう弱く

たいした展望、計画もないまま見知らぬ土地に移動してしまうので

継続的な対人関係(信用)から得れる利益を受けることはあまりない


それにもかかわらず、ローンや借金などはほとんどなく(ただ貯金もない)

四半世紀ぐらい病院に行った記憶は無く(そもそも保険を持っていない)

風邪をひいたこともない


バブル時代に大企業が音楽やアートにお金を投入していた頃に

せっせと稼いで揃えた音響器材は、ほとんど残っていないが

その後あまり稼げなくなり、新しい器材は購入しずらくなっても

何故かそのつど必要な器材は、有志の人が現れて提供してくれる。


以前、東京から長崎に移住した頃に知り合った友人は、

そんなオイラを見ていて、他人事ながら行く末を心配してくれていたので

「なーに、晩年は大阪育ちをいかしてお好み屋でもやって

手堅く生きるさ」

なんて言って、友人にも自分にも言い聞かせたりしたこともあるが


60年近く生きてきた現在に至るまで

常識やある基準で考えて理解・納得できるような生き方を

実現できてはいない。


今尚、不安定であるばかりでなく、

今や、将来の夢や理想は幻想でしかないと思わざるをえない

現状にあるからだ

何故なら、その夢の未来に今、現実に立っている訳で

夢や理想って、自分の行く末の不安や心配を慰める

口実であって、本当の自分はそんなことは願っていないし

出来ないってことに気づいてしまう。


今日、新しいブログタイトルが浮かんだ


“それからのレゲエマン~彼方からの庇護”


ちょっと笑ってしまうタイトルだとは思うが

このブログの新しいシリーズが始まった予感。。


         =不可思議(2)につづく=





         =不可思議(2)=


ついでに言うと、

その、行く末の不安や心配している思い自体が

本来的な思いなのかどうか疑わしい。


なにかに夢中になって遊んでいたり、

自分らしい創造に携わっているようなときは

本来的な自己のパワーやエネルギーで満たされていて

過去や未来の思いが再生される余地は残されていないはずだ。


つまり、そのような思いは、

美術館で絵を鑑賞しているときに

その額縁を値踏みしているようなもので

その瞬間を楽しみ、没頭できていない自我のあら探しであって、

リアルな生においては生存できない、虚しい幻しではないか。。


二十歳になっても定職にもつかず、

エレキギターをかき鳴らしながら、家でわけのわからない歌を叫んでいる

オイラの行く末は、ホームレスのルンペンになってしまうと

親兄弟の誰もが危惧していた。


アルコールその他の嗜好品に一年三百六十五日、毎晩朝まで浸っていた頃に

出会って、婚約(相手の両親に猛反対され結婚には至らず)までしたI子に

十数年ぶりに偶然会って、喫茶店でお茶をしているときに、彼女は

毎朝、黄色い胃液を吐き出すオイラの姿を回想するような面持ちで


「あの頃のアンタって、速よ死にたがってるように見えたわぁ。。」

(オイラ的にはそんなことは全く考えておらず

ただ毎晩ワーワーと青春をエンジョイしていただけなんだが)


と、老婆心的音程で過去の心情を告っていた。


このオイラのような人間は

客観的にも、主観的に性質を分析しても

その人生の行く末は悲惨であろうし、

歳を重ねると病気を患ったり、早死にしたりするか


或いは、その常識を逸脱した生き様により

ある社会、サークル、宗教団体等のフォローがあり

狂信的支持を受け、その保護のなかで

生きながらえる場合もあるだろうが、


そのどちらの行く末予想にも、当てはまる心当たりはなく


還暦と言う年齢に至ってまでも

普通に生きながられている事実に、ちょっと

不可思議にさえ思われる今日この頃なのです。


この先、晩年に向かっていくであろう人生が

どのようになって行くかは、知るよしもありませんが、

ひとつ言えることは


それでも生きているってことでしょうか


人は独りでこの世に生まれ、独りで去って行く普遍の現象のなかで

一人では生きていけない摂理をもって道を歩いています


生まれた赤ん坊は、母親の保護なくして数日たりとも生きてはいけないでしょう

大人になって、たとえ山奥で一人で暮らしたとしても

生きるために必要な空気・水・食べ物など、ありとあらゆる

自然や人の創造物の恩恵を受けているわけで

生きていけてるってことは、何らかの庇護が働いていると思うわけです


あぁぁダメだ、ここまで書いてきのにアイツが現れやがった

自称詩人のガイドってやつだーー!!

なにぃぃ、マイクよこせってー? 


“ガイド”の声

「妥協せずに自分自身の道を歩く者

社会的マニュアルが示す道に惑わされず、手探りで道を見出す者

本来的個性を偽らず道を歩く者


このような者は、幾たびの危険は伴うが

そのつど“彼方からの庇護”が働き、道なき道を歩いていく


時としてこの“彼方からの庇護”は道行く人の目先の利益を

根底から破壊することもあるが、

後に、大いなる平和・喜び・回帰をもたらす」


あ~ぁ、また来やがった、もう来るなよー!






           =正しい道=


結局、あの“ガイド”ってヤツは何を言ってるのかな?


(道の途上で苦難、苦境に至っても

それさえも、自分を正しい道に連れ戻してくれる

彼方からの大いなる慈悲であって

勇気をもって、怯まず進んで行け)


みたいなことだろうね

意外といいこと言ってるカモだけど。。


じゃ、正しい道ってどの道やねん?

その教科書ってあるのか、googleで検索したら分るのだろうか


検索してみた。



『正しい道は?』


--------------------------------------------------------------------------------


 これは有名な論理学の問題です。

ぜひ自力で正解を考えてみてください。


【問題1】


 あなたは今、山登りの途中、山道の分岐点に来ています。

道は左右にわかれており、一つの道は正しい登山道で、もう一つの道は「けもの道」に迷い込んでしまいます。

そこにはA,Bの二人の村人がいます。


・一人は正直者で、必ず本当のことを答えます。

(名前を「正 直太」とします)


・一人はうそつきで必ずうそをつくことが分かっています。

(名前を「嘘 月男」とします)


ただしどちらがAでどちらがBなのか、二人の区別をすることはあなたにはできません。

あなたは二人のうちのどちらかに一回だけ質問をして、正しい道を見つけることができるでしょうか。

ただし、相手の村人は「はい」か「いいえ」のどちらかしか答えません。

その質問を考えてください。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


この問題の正解には全く興味はないのですが


オイラの答えは

「どちらに聞いてもわかりません、」です。


自分で歩いてみないと正しい道はわかりません

答えは、歩いる途上で自分の内側の感覚で

見出し続ける以外、今のオイラには正しい道を

見つけ出す方法はありません。


一見世間体が良く、周りが賛同するような道が

必ずしも、その個人にとって正しい道とは言い切れない。


まだまだ道の途上のオイラですが

今のところ確信できている正しい道のガイドラインを上げてみます。


*まず楽であること、その道を歩くことによって

 体と心がリラックスするような道


*結果や報酬に関わらず、大いなる喜び、充足感を得れる道


*時には道に迷うことがあっても、

 また自然にその道に戻ってしまうような道


*その道を歩くことによって

 自分自身の中心、中核に放り込まれてしまうような道


*肯定的な思考にシフトされる道


*源泉的な愛の輪郭を感じとれるような道


*ゆっくりと無欲、無欲求、無期待になっていくような道


*そのままの自分、ありのままの自分で歩いていけるような道


今のところ、こんなもんでしょうか。。


あっ!もうひとつあった、


*決して上記のようなガイドラインを、

信条にして持ち歩かない道





          

        

          =無為の為=


若い頃から“無為の為”っていう言葉には何か魅かれるものがありました。


確か老子の教えだったと思いますが、

怠情なオイラにとっては、行為無く、為する=動くことなく動く、

=何もしないでも生きていける、みたいな都合の良い解釈で、

仙人ってすごい技を持っているものだと、

ミーハーな憧れを抱いていたものです。


色んな文献で機会あるたびに“無為の為”について触れるにつけ

そんな甘いというか、浅い教えでは無さそうだとは思えるのですが

思想家、学者などは知識的に多くの人が納得する論理を

それぞれの角度から発表しているわけで


ピンと来るものもあれば、そうでないものもある、

どちらかと言えば、それらの知識を集め過ぎると

そうでないものの方が多く、


直感で感じていた、この教えの神秘的な香りからは遠ざかってしまう。


思うに、これらの句は深遠な覚者からのメッセージであり

知識や論理では理解できない,体感的に悟るもので

しかも固定的な教義にはなり得ず

その宇宙的な声明ゆえ、何層もの新しい気づきが起こり


10代の時に見た映画を40代になって同じ映画を見て

新たな発見、感動を覚えるように

時を越えて新鮮な目覚めをもたらす為の、

技法・方法・こつ、なのです(ここはあえて断定したい)


感覚的にこの句に魅かれ始めて、

最初の体感的な理解が訪れたのはそれから十年くらい経った頃でした、


九州に移住して山暮らしを始めた頃で

牧場の中の一軒家を借りて、家の周りの雑草だらけの土地を

畑にしようと、毎日のようにホウ(クワみたいな畑道具)を

草を刈るために振り続けたり


風呂用の薪を割るために斧を振り下ろす行為に

没頭し続けていると


その行為を自分がやっているという感覚は無くなっていき

面白いのは、自分がやらなきゃ、やっていると思いながら

行為しているより、行為自体に没頭して自分が無くなってしまった方が

薪は上手に割れ、草はきれいに刈れていて


労働による疲れも少なく、そもそも体の筋肉を使って行為していなくて

中核の気をつかっているって感じになって

この気は使って消耗するものではなく

使う程に充実するようで、はっきりと輪郭を現してくる。


さらに行為に没頭して自分が無くなっていくにつれて

行為がかってに行為しているという

ビデオを観ているような、もう一人の自分に気がついてくる。


この行為を観ているもう一人の自分は


行為することな無く、行為している行為を只観ているだけで


万事のことを為す。




            


     

         =超越(1)=


完全なアルコール中毒から抜け出すのはそれほど苦では無かった。


お酒というドラッグが合法であったのが大きな理由だろう

罪悪感、止めなきゃいけないという思いが

実は、それから抜け出すのにやっかいな障害になっている。


本来的に、自然に備わっているその趣向を止めることなんて出来ないし

止める必要もないと思う、

出来るとすれば、それを超越するしかない。


超越っていうのは、我慢して努力でその欲求を押さえ込むこと

とは全く関係のないことで

無理にその欲求や趣向を押し殺しても、他に代用出来るものに走ってしまったり

自然な生理現象を開放していないことによって

ハケのない乾いた人になって、潤いの無い人生を送り

場合によっては病気になってしまう。


違法なドラッグや社会道徳で罪とされている不倫(不倫という名称にも?だが)

などが、それから抜け出しずらいのは

それが悪いという刷り込まれた観念が重くのしかかっているわけで

やっちゃいけないことや、手に入りにくいものほど魅力的になり

心理的にその快楽は現実以上に膨れ上がってしまっている。


もし、その不倫相手が近所のオッチャンみたいに

人目をはばからずに、好きなように付き合える相手だとしたら

そこまで執着も溺れもしなかったのでは。。

違法なドラッグが隣のタバコ屋で手に入るのなら

ジャンキーになるまで浸らなかったのでは。。


雌ネコは、何の罪悪感も持たずに複数のタイプの雄ネコと戯れ

自身の性欲が自然に去って行くと、心傷も執着もなく別れていく。

昔から大麻などは神事の儀式で使われていた話などは耳にするが

それで身を持ち崩してしまった話は聞いたことがない。


超越するためには、まず良いとか悪いとか判断しないことが

最初の必要条件じゃなかろうか。


何かに敵対したり、先入観をもっていると

そのリアリティーに対面できないがゆえ、

それを超えられない。


超越するとは

それから自由になることとも言えるだろう

自由の一つは縛られていないことで、

何かに反対したり、賛成したりするのは

実はそれに対して過剰な関心をもってしまい、

微妙にココロが拘束されて

それをストレートに、そのありのままを受け取れない。


なので超越するためには

必要以上にそれを避けたりはせず、過剰な期待も持たずに

それに入り込んで行き、

それが何であるかを正確に見定める必要があるんじゃないか


と、思ってみたりする。


もう寝る時間だわぁ、明日また続き書こ。。




           =超越(2)=


典型的アルコール中毒体質に至ってしまっていた、ある日

お酒を摂取する意味というか価値が見出せなくなった。


酔わなくなってしまったのだ


人によってお酒を飲む理由、好きな理由はそれぞれだと思うが

オイラの場合は酔うことが好きで、

脳内が非日常的なスペースにシフトするまでとことん酔わないかぎり

その頃はお酒を飲む理由がなかったようだ。


要するに酔っ払う為にお酒を飲むわけであって

酔わなきゃ飲んでも仕方がない。


すべての快楽がそうであるように

酔っ払って気持ちのいい天国の快感を通過したあとに

二日酔いという地獄を味わうハメになるのだが

それにも懲りずに天国の記憶にユメを託し、また飲んで

一時の乾きを満たしたあとに、さらにひどい地獄に至りその地獄から逃れたいが為に

また飲んでしまうという、果てしない循環の中に迷走してしまうのが

依存症のパターンだと思われるが


酔わなくなったら。。飲んでも気持ち良くならなくなって

それでも二日酔いという地獄だけはしっかりやって来るとしたら

お酒を飲む意味も価値もなくなってしまい

少なくとも、この悲劇的な循環からは簡単に抜け出せてしまう。


極端な話し、ギャンブル依存症から抜け出すには

絶対に勝たないことだ!負けつづけることだ!

勝つことによって得れる快感を体験せずに、

負け続ける地獄をもたらしている事実に、

その馬鹿バカしさに、いつまでも浸っていられる人って居るだろうか

もし居たとしたら、それは頭脳のIQ的問題ではなかろうか。


アルコールや他のドラッグの依存から抜け出す為に

カウンセリングや病院に行くタイプの人の中に、

精神安定剤を飲んだり、外的な療法で自分を強制してその趣向を止めてみると

幻覚が現れたり、気力がなくなってうつ傾向に至ってしまう話しを耳にするが


やはり、根本的にこれは悪いことだから止めないといけないという考え、

姿勢に発って自分自身の趣向を否定している態度が、

これらの二次災害を招いているんじゃないかと

思わずにはいられないのです。


であるので、お酒を飲んでも酔わなくなって馬鹿バカしくて飲んでられないって

気づくことは、ジャンキーの悪夢の病理からは抜け出せるでしょうが

遺伝子レベルで備わっている、

お酒が好きだという自分の性格、個性まで否定してしまいそうで

それだけでは何か欠けていて、お酒が与えてくれた喜びまで消えてしまい

お酒を超越しているとは言いがたい。


お酒が飲めることで、飲んでなきゃ絶対にこの人生で出会わなかったであろう

数々の人と親密な関係を持つことも出来たり

時には馬鹿バカしいことをやって、腹の底から笑ったり、泣いたりもした。


その頃から何十年もたった今、

ほとんどお酒は飲みませんが、何か嬉しいことがあって

飲みたい気分のときは、少し飲みます。


少し飲めればいいんです。


ほろ酔いぐらいが丁度いいんです。


超越しているとは

自分自身の容姿、性格、趣向など

自然、存在から与えてもらった全てを肯定することに始まり

それがもたらす喜怒哀楽を注意深く通過し


過剰な関心も無関心もなく、

求めもせず、されど拒否もせず

暑さ、寒さにもこれといった対処もせず、体の慣れるままに過ごし

決して極端には偏らず、上がったり、下がったりしながらも


中庸の意をもって

俗世の煩悩を達観している様である。


(あぁーっ、脳内妄想暴走!)







            =レゲエのはなし(1)=


ちょっとレゲエのことを書いてみたくなった。


というのは、今朝ボブマーリーの“Burnning”燃やし尽くそう、

(いやなことや、弱い気持ちは忘れて、燃え尽きるまで今夜は踊ろう)

みたいな意味の詩のフレーズが浮かんできたからです。


なぜ、この詩のフレーズが浮かんできたのかは、心当たりがあって

昨夜ちょっと腹立たしく、のち悲しい、みたいな出来事がありその影響でしょう。


このボブマーリーという人の詩は、

逆境に至ってめげそうになっている人を勇気づけ、

彼のハートから聴く人のハートに直接語りかけるような臨在感でもって

くじけそうな時にもポジティブな方向に変換させる

それこそミュージック=マジックを有している。


まぁ、そんな訳でレゲエのことを書いてみたくなったんですが、

実際のところ

今はレゲエってカテゴリーにこだわって音楽をやってるって気分は

あまり無くて、多分みんなそうだと思うのですが

自分のオリジナルな音を創っているわけで

入り口がレゲエだったってことで

人から、どんな音楽やってるんですかって尋ねられた場合に

あぁ、レゲエですって答えた方が簡単なんで。。まぁ、レゲエなんです。


そんなレゲエなんですが、

今や世界中に知れ渡っているレゲエミュージック。

このレゲエの背景というかルーツには、ラスタ思想、ラスタ教の存在なくして

レゲエは生まれも、広まりもしなかったのです。


知識としてのラスタ思想というのは、

アフリカ回帰運動とか、エチオピアの皇帝を崇拝する旧約聖書系の宗教らしいのですが、

そっちの方向の知識や教義とかは、あまり興味も縁もなくてよく分りません。

(エチオピアの皇帝さんなんて見たことも会ったことも無い人だし

 なんの関わりも無い人をどう崇拝すればいいのか。。)


オイラのラスタ感は

直接ラスタマンやラスタウーマンと関わり、接触したことによって

伝達されて生じたその波動、バビロンシステム(既存利益競争社会)に影響されていない

生き様、人種、国境を越えているワンネス的慈悲などで形成されたのです。


最初に出会ったラスタマンIは、ラスタの教義や知識などは

一切語らず、レゲエビートの基盤であるラスタの密教的技法の

“ナイヤビギ”を来る日も来る日もオイラに伝達していた。


ドンドンカーッ ドンドンカーッ ドンドンカーッ ドンドンカーッ


ハートビート(心臓の鼓動)と呼ばれる単調なリズムを、

複数人で繰り返し太鼓に向かって打ち続けるているうちに、

無思考、無自我に至り、その虚空の如きビートは

己と多の境界をも越えて、溶け合い“ONE”のビートが生まれる時

“ナイヤビギ”のスペースが創りだされる。


このスペースこそレゲエミュージックの根源であり

良質なライブシーンで起こる

演奏する者も観客する者も消えてしまい

音のうねりだけが存在し、

そのうねりこそ現存する(ライブ)であり

その中で漂う多はOneに回帰し、沈黙と至福に遭遇する秘密が

“ナイヤビギ”のなかに隠されている。


名前は忘れたが、日本の禅マスターで

弟子がどんな質問を持って来ようと、脇に置いている太鼓を一発


ドーーーーーーーーーーーーーーン


と打ってその問いの答えとした、話しを聞いたことがあるが

この逸話は痛快で好んでいる。


ボブマーリーのスタジオで、日本から来た若い修行中のオイラを

目の前にしてベースを奏でながら、アイコンタクトで惜しみなく

レゲエベースのこつを伝授する、名手ファミリーマン・バレットは

リラックスしているものの、ボブマーリーと共に世界中にレゲエを伝道しており

その内在している気合いと慈愛は、カリブの禅マスターといった印象を受けた。


レコーディングがうまくいかず、スタジオの外で意気消沈しているオイラを見かけて

「どうしたの?ジャパニーズボウイ」と気丈ながらも海のような母性愛で

声をかけてくれるのはアイスリーズのリタ・マーリーだった。


レゲエトロンボーンの巨匠リコ・ドドリゲスとレコーディングした時も

アイコンタクトや音の出し方で、痛いほどレゲエを教えてくれたが

演奏が終わった直後に「ギブ サンクス」と自分のシェアを受け取ってくれた

オイラを見て謙虚に感謝していた。


     つづく。。






           =レゲエのはなし(2)=


アフリカから来ていた女子高校生レゲエバンドメンバーが

タフゴング(ボブマーリーのスタジオ)を見学しているのを見かけた。


彼女達が発している清楚で敬虔なバイブレーションは

聖書を百回読むよりも、ラスタの教えの純粋性、遠越性を想起させられる。


ジャマイカ滞在中に、何かと気にかけてくれて世話になった

レゲエ映画“ロッカーズ”のレゲエ仙人役で出演していたジープマンは

この地を発つ日に、感慨が募ってしまったのか

本当の家族との別れを惜しむように

大の大人が人目もはばからずに、大粒の涙を流していた。


その後日本でもレゲエが普及していくにつれて

オイラ自身もレゲエミュージックや、国内外のラスタマンとの関わりのなかで

益々、体も精神もレゲエに深く浸透していくのであった。


各地のイベントでライブ活動を行うかたわらで

ラスタ帽子やラスタカラーのペンダントを展示販売する年月が続き

髪型もラスタマンの象徴であるドレッドヘアーにしたりもした。

(頭皮にデキモノが出来てすぐ止めたケド)


ろくにラスタの教義も教祖も知らないオイラだが

傍からみていると紛れも無くレゲエ信者に映っていたことだろう。


そんな風なので、見知らぬラスタマンとも小説なみに出会ってしまうのだ。

その出会いはラスタマンバイブレーションの磁力によるもののようで

言葉を超えた交信が発生し、温かみのあるその波動を受け

謙虚なリスペクトの思いを抱いてしまう。


その時間を越えた交信が起こると

瞬時に深い信頼を感知してしまうので、お互いにシェアし始め

新たな物語が展開して行き

更にラスタマンバイブレーションの真髄を垣間見さされ


気がつくとレゲエミュージックとその波動に

世界は侵略されてしまっていたのだ。


それは、あたかもレゲエの神“Jha”に導かれてしまった


としか言い様のない


有り様であった。


         =つづく=






           =レゲエのはなし(3)=


ムーブメントは去っていった。


目にするもの、耳にするもの全てがレゲエである世界も同時に消えて行ったが

個々人に根付いたレゲエのソウルは死に絶えることはない。


外側の形容、形式は変わっていくが

内側のリアリティは永遠であり、

それぞれの個性で、様ざまに表現し続けている。


コミューンは、個人にそれを体験させ定着させる為に必要なものだが、

大空に向けて、コミューンから巣立つ日はいつかやって来る。



Jha(神)は死なない、Jhaは生きているが

Jhaはラスタマン達だけに、特別に存在しているものでもない

Jhaは所有できないがゆえに、今も息づいている。


Zion Land(聖地)はアフリカに有るだけでもない

フランスにもカナダにも日本でも、この大地に立っている

今、此処で創り出していくものだ。


Onennessはすべての境界を越えて行く

国家、人種、肌の色、性別、貧富、言語、そしてレゲエさえも


レゲエは、レゲエに依存することなく

独り、大空に羽ばたいて行くことを教えてくれたが、


レゲエは、内側に鳴り響く鼓動として

今も、うねり続けている。


それには如何なる名称も無く、格式もない、


古くもなく、新しくもない、


始まりも無ければ、終わりもなく、


全ての音楽の源泉で在りうる。



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