第1集
社会不適格者暦45年、もはや第3世界の粋に突入か、
前世は隠れキリシタンか?平家の落人か?
浮遊レゲエマンの脳内妄想ワールド
=散歩考=
山里も暖かくなってきたので、久しぶりにいつもの散歩コースを歩いてみた
散歩は気持ちいいので好きだが、こんな田舎にも大気汚染のモヤが目にみえて及んでいる
思うに、生きているかぎり自分も環境破壊に参加している訳で
他者を批判して裁いてみてもナンセンスではなかろうか
じゃ、死ねばいいのか一人この地球上から居なくなれば吐く息の二酸化炭素量や車にも乗るので
排気ガス量も減って少しでも“ラブ&ピース”な世の中になるだろうか、、
いや人間やっぱり自分がカワイイわけで自己愛ってものは人に備わっている根源的な感性であって
上記のような論理・行動は自然な人には不可能であり、
誰も誉めてはくれずバカなやつだと嘲笑され、しばらくするとそんな事は
無かったかのように世間から忘れさられるだろう
ここは古今東西の識者・覚者共通の見識に頼るのが得策と思われる
曰く「破壊エネルギーよりもっと多くの創造的エネルギーを創りだせ!」
お腹空いたー お好み焼き創ろう!
=星観=
山暮らしの夜の娯楽のひとつに星観がある
星空を観るのではない 星を観るのです
夜空のなかで,一個の気にかかったと言うかインスピレーションを受けた星自体を観るのです
数ある美しい他の星に浮気しないで、その星を誠愛を込めて観続けていると
星は瞬間ごとに光のメッセージを送り続け,ダンスをし、語り、友情を示しはじめるのです
以前、近所に住んでいるT君が家に遊びにきて酒宴になり,世間話も一通り終った頃に
何気なくこの星観の話しをしてしまい、話し終わるとT君から一言コメントが返ってきた
「それって危ないね」
話すんじゃなかった、、
=独断と偏見=
One Lave♪ってよくレゲエの人が言っているが
これは何の愛か?独断と偏見で検証してみた結果、
若い頃も、年老いても、永遠に美味い
“カレーライス”に対する愛なのだ
(♪ワンラーブ ワンハート レッツ ゲッツ スパゲティーも
カレーでオーライ♪)
=椿咲く、春なのに=
窓の向こうに見える椿の木を、お茶の時間に毎日眺めていたら
緑葉の中から、赤い小さな2~3の花らしきものを確認し
日に日に大きくなり、その数も増え続け
おっ、これは面白いと,更に眺めていると
やがて、花札の牡丹の絵のような見事な椿の花が
一本の木の緑葉の中に、数え切れないぐらい咲き乱れ
きっと、これはオイラが、イヤ我輩が、オレ様が
丹精込めて観続けてやっているんで、花も喜んで咲くのだろう
明日はもっと見事な姿になるはずだと、
期待に胸を弾ませ、今日窓の向こうの椿の木を見てみると
すべての花がしぼんでしまっていた
ガックリと肩を落とし、夢遊病者状態で外に出て
ふと見上げると、一本の木が在り
その木には3分咲きの桜の花が、誘惑げに咲いていた
=進路=
社会に適格する能力は、高校1年生までしか持たなかった
高2になってからは、社会から示されたタイムスケジュールに従って
一日を生きることは不可能になっていた
別に学校は嫌いでは無かった、気の合う友達と遊んだり
好きな先生の授業は面白かったので、学校を辞めようとは思わなかった
ただ、勉強やクラブ活動よりも外の世界の方に惹かれ出し
2時間目が終わると学校を飛び出し、繁華街に出ては
まずパチンコ屋の早朝サービス(当時のパチンコ店の朝の開店サービスで
チューリップと言う、玉が入り易いヤクモノが全台開いていて、これを
素早く何台も閉めて回ると300円ぐらいの出玉になる)で小遣いを稼ぎ
ロック喫茶でコーヒーを啜りながら、レッド・ツエッペリンの“ホール・ロッタ・ラブ”で
首を振り回し、昼食に学校にもどり、悪友に午後の授業の代返を頼み
また学校を出て、地下シネマの洋画三本立て(学割¥150)を観賞して
家に帰る、と言うような高校生活を続けながらも
なんとか留年もせずに、高校生活も終わりに近いある日のことだった
職員室の担任の先生がなんとも困惑した表情でオイラに話し始めた
「君の卒業内定調書なんだがねぇ~、卒業後の進路の覧が空白になっているんだが
大学に行くとか、会社に勤めるとか、家業を手伝うとか
いったい君はこの後どうやって生きていくんだ、これじゃ卒業できないぞ!」
なんにも無かった、明日の自分を設定するようなことは考えもしなかった
ただ目の前に現れる興味をそそるものに、好きなだけ没頭していただけだった
ハードロックの音の洪水に侵蝕された脳の片隅に
ひとつだけあった未来の憧れは
「18才になったら車を乗り回してみたい」ぐらいのものだった
呟くようにオイラは答えた
「先生、卒業後の進路ですが、門真自動車学校じゃダメですか?」
苦笑いをしながら先生は、背広の胸ポケットからペンを取り出し
自ら、卒業内定調書の卒業後の進路覧に“門真自動車学校”と書き込んだ
=旅人=
旅人のヒロと,彼の旅仲間でミュージシャンのヤスくんが、
山里に遊びに来てくれた
二人は、半年前に自転車でヨーロッパの旅を実行し
スイスの山が良くて、しばらく滞在したらしい
若い彼らは、旅のことはあまり語らないが
彼ら自身が発してる空気感が、
旅人の体験する独り感、そこから生まれる全体性シンクロ感を
備えて帰ってきたのは容易に見受けられ
いやがうえにも自分自身の中核に放り込まれ
いったい自分は何者か?わたしは誰か?の問いに遭遇したようで
ヤスくんは、自分の音づくり曲づくりに、より深く没頭する様になり
ヒロは、定年を迎える実の父親を、いきなりネパールの
アンナプルナ山に連れ出す旅を企て、実行し
旅人道を極め続けているようだ
何にしても、旅人の浮世離れした雰囲気に触れるのは
清涼飲料水を飲んだ後のような、スカッとした目覚め感があって
心地よいのだ
旅人は訪れた国や人に、新鮮な襲撃や感動を覚えるが
訪れられた側も同様に驚嘆するものだ
2年前にオープンした“WANI竹笛茶房”から4キロ離れた
山里の小さな一軒家(WANI Music Studio)に引越しする際に
愛用のスピーカーを破ってしまった直後に、
ヒロが来て
「ちょっと旅に出るんで、荷物を少なくしたいんで、、」と
高品質のスピーカーをはじめ、家財器具を置いていく出来事があって
そのどれもが、新しい棲家で今も役立っている。
(昔からアルアルとは思ってたんだけど
こんな、全体性シンクロシステムみたいなものって
やっぱり、アルよねぇ~、、
=本来の道=
久々に“チキンラーメン”を食した。
半世紀以上にも渡って、パッケージの基本リニューアルもせず
過剰なコマーシャルも行わず、今なお根強いファンに支持され続けている
あの、即席ラーメンの“チキンラーメン”である
この“チキンラーメン”が食料品コーナーの奉仕品として
販売価格を下げて、陳列されているのを発見した記憶は無く
これは生産者の、ファンの感性に対する信頼と
安売りまでして、市場で生き残っても意味が無いと言う
創作した商品に対する、誇りの表れではないだろうか
次々と出現する、即席ラーメン業界の新作は
より刺激的、より豪華になり、一口食べた時のインパクトがあり
一時的な人気を博するが、厳しい即席ラーメン業界にあって
忘れさられ、消えていく作品が、けっして少なくない中で
流行の、スープを別袋に分けるスタイルにも変更せず
調理法は、熱湯を注いで3分間待つだけの
即席ラーメン本来の道を示していて
一口食べた時のインパクトは、さすがに最新の人気作品と比べると
物足りないものもあるが
その味は、ハイテクノロジーの環境に順応しながらも
アナログ時代の感性と、知恵と、努力が、ふん-だんに詰まっていて
今や、際立った個性を有し、
数ある、即席ラーメン群の陳列コーナーの中、
超然として臨在している
=ドライブ(1)=
「桜の季節だし、ドライブに行かない?」
以前、オイラがやっていた音楽喫茶の古民家で、今は
土の器・クレヨン画ギャラリーの、“らっこ庵”に,お茶を飲みに行った際に
店主のアキちゃんが、唐突に提案した。
ドライブに行かない?って、彼女は車の運転は出来ないわけで
行くとしたら、オイラの車でオイラが運転することになるんで
そこは“連れて行ってくれない?”とか“行きたいんだけど、どう大丈夫?”
とか言ってくれると、男心の自我が満たされて、すんなり“いいね!”って
なるのに、、
と、思いながらも、アキちゃんとドライブすること自体は楽しいし
山暮らしの、気分転換と憩いの場である“らっこ庵”の店主の機嫌を損ねる様なことは
今後、気楽にお茶を飲みに行けなくなる心配も有り、すんなり“いいね”って言った。
京都に生まれ育ったアキちゃんは、京都の社会性が性に合わず
大阪に出て、レゲエバー“Mokubakan”(大阪・ミナミ)を経営していた頃、
海外放浪の末、ジャマイカから帰って来たオイラは友人に、この“Mokubakan”に
連れて来られて、
一日中流れてくるレゲエミュージックを、店のオープンから閉店まで浸りまくる
ジャマイカから、帰って来たばかりのレゲエミュージシャンを
捨て猫を拾ってきて、元々家に居るネコ達の社会に馴染ます様に
オイラがミュージシャンとして、社会で生きていける
架け橋になってくれた、大恩人なのだ。。
=次回“ドライブ(2)につづく=”
=ドライブ(2)=
山里から、車で日本海側の国道に降り、右手に見える
日本海の、旅情的哀愁を彷彿させる景色を眺めながら、
昔ながらの街並みが残る古都・萩の街を経由して、長門までの
プチ日帰りのドライブコースになった。
既に、長門に至るまでの道中で、何箇所かの桜並木を確認し
オイラ的には、満開の桜を充分堪能出来ていて、“花より団子”ではないが
長門の道路脇で、ファレスの看板を見かけたことを契機に,昼食を採る提案をし
そのファミレスで日替わりランチを注文し、お替りフリーのドリンクバーで
温・冷のドリンクを数回に渡り、お替りをした。
店内は、若い男女の客などで、ほぼ満席で
大阪の下町育ちのオイラは、(いい歳したオッサンが、サービス券を提出し
130円でGetしたフリードリンクを、数回もお替りして
周りの若者達は、何て思うんだろう、、)などと言うことは、全く気にならず
せっかくフリードリンクなんだから、この機会に飲みたい飲み物を、
飲みたいだけ、あたり前に飲んでいたのだが
京都で育ったアキちゃんは
周りに気配りしたり、人見を意識する観光地住民の中にいたセイか
「今日は暑いから、冷たいのも貰ってこ」とか
「この、何とかコーヒーって飲んだことない~」などと
お替りの為、席を立ち上がったり、お替りのコーヒーを持って戻って来たりする度に
独り言のようなコメントを付けていた。
この、アキちゃんと言う女性の、個性、人間性に対して
オイラが最も驚愕する点は
料理がプロ級の腕前だとか、陶芸、絵画、手芸に非でたる才女などでは無く
一度、会った人に好感を持たれて、また会ってみたいと思われ、
実際にまた会いに来る人の、ストライクゾーンが
ハンパ無く広い点なのだ。。
=ドライブ(3)につづく=
=ドライブ(3)=
あの桜がきれい!」
長門からの帰路の途中に、何回もの桜の群れに出会い
ちょっと飽きていて、他のことを考えだそうとしていた脳内に
助手席に座っているアキちゃんの発言が飛び込んできた。
ココロの煩悩ってヤツは、
いくら美味しい料理や、美しい異性に出会っても
しばらくすると(他にもっと、更にもっと)を求めて
決して、そこに留まっていられない習性があって
「桜も良いけど、名前も知らない野生の素朴な花に、
偶然出会った時の感動の方が、より深いよね
さぁ!見に行くぞって、一斉に人ゴミに紛れて無理をしてまで
花見に行く、日本社会の習慣には余り馴染めないんだ」
と思わず応答してしまうと
「京都の人は、花を見るだけじゃなくて
桜を見て、春が来た季節を体感して、
それを肌で感じる為に、花見に出かけるのよ」
と言う返答が帰ってきて
「ほー!なるほど」
と即答したものの
その後オイラの口からは、何の言葉も出てこず
分かったような、分からないような禅問答風な彼女の対応に
まるで、茶室に招かれた客人が、茶人のお茶を入れてくれる様を
一言も発せずに観照し
出されたお茶を、何の解釈も入れずに
在りのままのお茶を只味わうが如く
今この時を、全身全霊で咲いている桜の木を
相も変わらず眺めながら
山里に向かって走り続けている車を
黙って運転する他、なす術は無かったのです。
=何でまた?=
「何でまた、こんな山ん中に移住して来られたんですか?
親せきの方とかが、こちらにいらっしゃるんですか?」
来客の中に開口一番、このようなことをおっしゃる方が
少なからず居られる。
この問いに対して、社会的価値観でもって納得するような説明をするのは不可能に近い
何故なら、実際のところ自分でもよくわからないのだ
何故、こんな山中で竹笛を吹いているのか?
何故、スーパーや直売所に行けば簡単にゲットできる野菜を
畑に種を蒔き、何ヶ月も手をかけて収穫し食べているのか?
合理的には説明できない。
ただ今のオイラには、此処での暮しが自然で心地よいから、としか言いようがない
何故、この人を好きになったのか?
何故、この動物と一緒に自分の家で暮らしているのか?
合理的に説明できる人は居るだろうか。
此処に移住したいと思った理由は(この地で自分の音を作ってみたい)
ぐらいしか思い当たらないのですが、、
これじゃ、世間は許してくれないのでしょうか、
やってる音楽はレゲエなんですが
クラッシックをやっている人なんかの方が、教養になりそうで良かったですか、
(何でまた、こんな山ん中の古民家に、わざわざ遊びに来られたんですか?)
逆に、こっちが聞きたいわ。