表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

死人のたわ言

作者: 橘 龍悟

 午前一時を回ったころ、江藤剛はタクシーに乗って郊外の自宅に帰ってきた。

 妻の良子はソファでウトウトしていたが、車のブレーキ音でハッとしたように目を開けると、慌てて玄関の方に走って行った。

 足元をフラフラとさせながら、剛が玄関のドアを開けて入ってきた。

 「おかえりなさい」

 長年見慣れた剛の酔っ払い姿に、良子は諦めたようにため息混じりで言った。それは二十五年間連れ添ってきた剛を夫として認める儀式のようなものだった。

 剛はチラッと良子の顔を見ただけで、面倒臭さそうに靴を脱ぎ散らかしながら玄関を上がり、居間の方へ向かった。その背中越しに良子が言った。

 「お風呂にしますか、それとも何かお召し上がりになりますか?」

 「風呂だ」

 剛は脱いだ背広をソファに放り投げながら、ぶっきらぼうに言った。

 良子は背広をハンガーに掛けると、すっかり冷めてしまった風呂のお湯を熱くするために浴室へと急いだ。

 風呂のお湯が熱くなるまでの間、いつものように熱いお茶を剛の前に置いた。良子も一緒にお茶を飲みながら、剛の様子を観察する。その時の目の動きや態度で、浮気や仕事のことで何か変ったことがないかを、さりげなくみることしにしている。特に変った様子もなさそうだと判断すると、風呂の湯加減を見に行った。

 「あなた、お風呂の用意ができましたよ」

 「ああ…」

 そう言うと、剛はタバコを灰皿に押し付け、浴室の方へゆっくりと歩いて行った。剛が風呂に入っている間、良子は冷めてしまった煮物を火にかけ温め直す。グツグツと煮えてきた時、浴室からかすかなうめき声が聞こえた。

 「おおい」

 剛のかすれたような声とともに、大きな物が倒れて行くような音がした。

 良子は妙な胸騒ぎを覚えながら、慌てて浴室へ行きドアを開けた。するとそこには朦朧とした意識で仰向けに倒れた夫の姿があった。

 「あなた、あなた…」

 良子は夫の意識を取り戻そうとして、肩を激しく揺さぶりながら必死に叫んだ。

―ああ、俺なら大丈夫だ。心配するな。

 そう言って、良子を安心させようとするのだが、剛の口はまったく動かなかった。

 「あなた…」

 良子は完全に意識がなくした夫を見て、弱々しく小さな声で呟くと、その場に座り込んでしまった。しばらくの間良子は呆然としていたが、急に勢いよく立ち上がると、居間にある電話の方へ走って行った。

―おい、俺から離れて、どこへ行くんだ?頼むから、俺を一人にしないでくれ!

 剛は意識のない声で叫んだつもりだったが、もちろんその声が良子に届く筈もない。

 「もしもし、主人が急に倒れまして、至急救急車の手配をお願いします」

 良子は自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。

―救急車など呼ばなくてもいいんだ。全く大げさなヤツだ。俺ならこの通り、大丈夫だ。

 剛は手をついて立ち上がろうとしたが、その意志を完全に無視するようにその手は動かなかった。

―おい、どうなっているんだ?手も足も全然動かない…

 剛は言いようのない不安と苛立ちを感じ始め、その場でジッと自分の体を見つめていた。

 救急車が夜の闇を突き破るようにサイレンを鳴り響かせながら、剛の家に近づいてきた。良子は急いで玄関から外に出ると、サイレンが聞こえる方に目をやって、救急車の到着を待った。

 やがて赤い点滅ライトが見えると、良子は大きく手を振って知らせた。

 救急車が良子の前で止まると、ドアを開けて二人の救急隊員が降りてきた。

 「患者さんはどちらですか?」

 一人の救急隊員が良子に訊き、もう一人の救急隊員は担架の用意をしていた。

 「こちらです。早くお願いします」

 良子は頭を下げると、すぐに家の中に案内した。

 救急隊員は浴室で倒れている剛の瞳孔や脈拍を診ると、両手両足を持ち上げて担架に載せた。

―おい、バカな真似はよせ。俺の体をどうするつもりだ。どこに連れて行くんだ。放せ、俺はどこも悪くはない。

 剛は怒りを押し殺して、深夜の闖入者たちに訴えようとしたが、体も声も思い通りにはならない。

 「主人は、主人は大丈夫なのでしょうか?」

 良子は担架で運ばれる夫に付き添うようにしながら、不安そうな表情を浮かべた。

 「恐らく脳出血だと思いますが、はっきりとは断言できません。とにかく一刻も早く病院に運ばなければなりません」

 救急隊員がそれ以上の質問を許さないような強い口調で言った。

―脳出血だって!そんなバカなことがあるか!手足は動かないが、意識ははっきりとしているから、しばらく休めば、すぐによくなる。俺は大丈夫だ!

 剛は必死に訴え、自分では大きな声ではっきりと言っているつもりだったが、誰もそれに応えようとはしなかった。

-もしかすると俺の声が聞こえないのか…そんなバカなことが…

 剛は意識と体の違和感に戸惑いを覚えながらも、それを御することは不可能だった。

 見事に肥太った剛の体は救急車に乗せられ、安眠を妨害することでしか自己主張出来ないサイレンを鳴らしながら、夜の街を走り抜けて行った。

 やがて誰もが安心できる大きな総合病院に到着すると、救急隊員たちは一刻を争う様子で剛を病院の中へ運び込んだ。

 深夜の煩わしさを避けたい気持ちを押し隠すようにしながら、若い医師と看護師が近づいて来た。

 「先生、脳出血だと思われますが…」

 救急隊員は自分よりはるか年下の医師に言った。

 医師は鷹揚に頷くと、剛の目を覗き込みながら興味がなさそうに言った。

 「とにかくすぐに手術をしないと、助かりませんね」

―何だと!おまえのような若造に、何が分かるんだ。俺がそう簡単に死ぬ筈がないじゃないか。こんな藪医者に切り刻まれてたまるか。早くここから出して、別の病院に連れて行ってくれ!

 意識のない剛の声がどれほど叫ぼうと、耳を傾ける者は誰もいなかった。   

 手術室に横たわった剛の体を医師が無表情に見下ろしながら、気だるそうな声で言った。

 「さあ、始めよう」

―や、やめてくれ!お願いだ!俺なら大丈夫だ。手術の必要はない!

 手術台の上で身動き一つせずに横たわっている剛に、メスが容赦なく入っていく。

 「これは…もう手遅れだな。しかしやるだけやってみるとするか」

 医師は腕試しの実験をするように言った。

―手遅れだって?まさか…もうダメだというのか?俺は死んでしまうのか?そんなことがあってたまるか!俺はまだ死にたくない。イヤだ、何とか助けてくれ!

 意識のない意識の彼方で、剛はもがくように叫んだ。

 医師は顔色を変えずに淡々とメスを進め、剛の脳を衆人の前に曝け出した。

―これが俺の体を支配していた脳…何とたわいのないもので、おぞましく悪寒を抱かせるのだろう。俺のすべての恥部をさらけだしているようなものだ。それにしても、哀れな姿だ。こんな実験台に使われるくらいなら、あっさりと死んでしまった方が、まだ人間としての救いが残っていたのかもしれない。

 「先生、心臓が止まりました」

 医師は看護師の言葉を期待通りに聞くと、小さく肯いた。

 「よし、心臓マッサージだ」

 医師の骨ばった手が剛の胸の上に置かれ、強弱をつけながら、リズミカルに動き始めた。

―そんなことをしても、もうムダだ。俺は自分で自分の体を見限ることにした。おまえがいくら頑張ったところで、もうどうにもならないんだ。諦めの美徳を知らないのか?まあ、気の済むまで好きにすればいい。それがおまえの仕事だからな。しかし同じ心臓マッサージをしてもらうなら、色気のないゴツゴツした男の手より、柔らかそうなこの看護師の方がありがたいのだが…

 「やはり、ダメか…」

 医師が額の汗を拭いながら諦めたように言った。

―ああ、これで俺は終わりだ…我ながら呆れ返るほど醜い姿だ。俺の命など、何と脆いものだろう。ほんの一時間前には風呂に入っていたのだが、今はすべてが過去になり、未来は永遠にやってこなくなった。しかしこのように自分の死体を眺めると、何か不思議な感覚がする。開放感のような、安堵感のような、言いようのない感慨を覚える。

 医師は全力を尽くし、いかにも疲れきった表情で手術室から出て行った。

 手術室の外で待っていた良子が、反射的に医師に駆け寄った。

 「主人は、主人はどうなんでしょう?」

 医師の表情がすでに手術の結果を知らせていたが、それでも良子は不安そうな顔で訊いた。

 沈痛な面持ちをした医師がゆっくりと首を横に振ると、良子は予定通りに膝の力を抜いて床につき、涙とともに大きな声で泣き始めた。次は手術室から運び出される剛の体に縋りついて泣くことになっている。人間の死後には、常にそういった画一的な所作が予定されているのだ。

 「あなた…」

 剛の体の上に顔を突っ伏して、妻の良子は泣き続けた。

―うるさいヤツだ。いつまでも大声で泣き喚くな。人間というものは必ず一度は死ぬというのが決まりだ。それに抗うことは誰も許されないのだ。だから少しも悲しむことはない。常に繰り返し続けられている些細な事にすぎない。おまえは、俺が死んだから悲しくて泣いているのか、それとも泣いているから悲しいのか…


 翌朝、剛の体は自宅に戻された。

―やはり長年住み慣れた自分の家はいいものだ。といっても、今回は出棺までの短い滞在だが…今日は俺のお通夜だ。今まで多くの人のお通夜に出席して、悔やみの言葉を言ってきた俺が、今日はそれを言われる立場になった。誰がどんな顔をして来るのか…これは誰にも分からない死人に残された最後の唯一の楽しみだ。一つじっくりと見物させてもらうことにしよう。

 剛の顔の上には、醜いものを覆い隠すように、白い布が被せられている。その回りには死人を弔う線香の匂いと煙が、二度と死人を生き返らせないように漂っていた。

―この重々しく沈痛な見せかけだけの雰囲気を、俺は最後まで好きにはなれなかった。いや、こんな不満を言っている場合ではない。俺は死人と呼ばれる物体になったのだから、やはりそれに相応しい振る舞いをしなければ、妻や集まった人に申し訳ない。しかし今更そんな道化たことをする必要があるんだろうか?

 腐敗し始めた剛の体の回りには、目を赤く充血させた妻の良子と嫁いだ娘、それに二人の息子たちが悲しそうに座っていた。

―どうして面白くもない俺のお通夜に、こんなにも多くの人が来るんだろう?暇人の集団のように思えるくらいだ。ところで、こうして見回してみると、あいつの顔が見当たらないが、仕様のないヤツだ。こういう社交的な場所には、何があろうととりあえずは顔を出すものだと、常日頃から言っておいたのだが…顔を出さなければ、浮世の義理を欠くという自覚があいつには欠けているんだ。もちろんそれは俺にではなく、回りの人間に対してだが…俺は人間としての権利をすべて剥奪されたので、もはや何も言う権利はないが…

 剛はお通夜という茶番劇の中で、自分の体が主役という脇役を演じていることに、無性に腹立たしくなってきた。訳の分からないその怒りを爆発させようとした時、娘が剛の体に覆いかぶさるようにして大きな声で泣き始めた。死人の体が動かないことを知って、その体を激しく揺すり、顔を押し付け、お通夜に列席している人たちの悲しみを増幅させるために、涙声で言った。

 「お父さん、お父さん、どうして死んじゃったの…あんなに元気だったのに…」

―どうしてと俺に訊かれても困る。おまえも死ぬ時には分かるかもしれないが、死んで行くのに理由なんか必要じゃないんだよ。俺の場合は、脳の中で突然血管が破れて、呆気なく生命の炎を消されてしまったが…それは単なる偶然の出来事、それも日常茶飯事のことだ。

 娘の横に座っていた長男が、慰めるように肩を抱きながら言った。

 「姉さん、父さんだって、何も分からないまま意識を失って、そのまま死んでしまったんだ。一番残念がっているのは、きっと父さんだよ」

 「そうねえ…そうかもしれないわね…」

 娘は涙を拭きながら、素直に肯いた。

―おいおい、そんな勝手気ままに、俺の気持ちを憶測するようなことは止めてくれ。偶然にも死人という体になったが、別に残念がってはいないんだ。もちろん最初は自分が死ぬことなど信じられなくて、何としてでも生きたかった。しかし現実にこのような死人になってしまうと、何の感慨もなく、ただそれを事実としてしか眺められなくなってしまうんだ。そしてこの世界から俺は完全に抹消され、俺という人間が存在したという人々の記憶も少しずつ現実から幻影に移り、やがていつの日かその幻影さえも消滅する。俺は俺自身の存在の確固たるものを何も残さなかった。ただ生物の自然繁殖のように、子供をつくることに参加しただけだった。俺はそれ以外になす術を知らなかった。そう、俺はただそれだけ…

 「お父さんは早く孫の顔が見たいと、口癖のように言っていたわ。どれほどあなたたちの子供を楽しみに待ち望んでいたことか…それを見ることもなく死んでしまうなんて…」

 そう言いながら、妻の良子がハンカチを目に当てて涙を拭った。

―そうだ、俺はまだ孫の顔を見ていなかった。俺の遺伝子を受け継いだ孫がどのような顔をして、この埃っぽい世の中に現れるのか、見てみたかったが、死んでしまえば残念だが諦めるしかない。

 「おかあさん、気を落とさないで、しっかりして」

 長男が良子の肩をやさしく抱き寄せるようにして言った。

 「そうね、しっかりとしなくては」

 「ところで、お母さんはこれからどうするつもり?」

 娘がハンカチで鼻水を拭うようにしながら言った。

 「そんなことを訊かれても、今は何も考えられないわ。でもお父さんがいなくなると、この家には私一人だけになってしまうわね」

 良子が寂しそうな目をして長男を見た。

 「そうだね。でもこれからのことはお父さんの葬式が終わってからゆっくりと考えることにしようよ」

 長男が穏やかな声で言った。

 「そうね…」

―もう俺がいなくなった後の話か…何だか寂しい気もするが、それも仕方のないことだろう。死人は現実というヘソの緒を切られた使用済みの廃棄物だから、俺がいなくなった日常を早く考えた方がいい。いや、もうすでにそれは出来上がって、知らないのは俺だけかもしれない…これからどうするかは、俺の体を焼き尽くしてからゆっくりと考えればいい。死人は死人らしく、現実にはもう参加しないことにしよう。もっとも死人になる前でも、何かに参加するようなことはなかったが…


 剛の人生の中で最後の主役である出棺が始まった。柩は多くの人に見送られながら、死人に威厳をもたせる霊柩車の中に入れられると、人間焼却場へと一直線に向かった。霊柩車は脇道に外れることもなく、ただ目的地に向かってひたすら走り続けた。

 焼却場の鉄扉が開かれ、剛の体がその中へ入っていく。ガチャリと重々しく扉が閉められると、剛の体は勢いよく炎に包まれた。

―ついに最後の時か…これで俺の体は完全に消滅だ。それにしても、妻や子供たちはどうしてこんなにも涙を流せるのだろう?今まで生きていたこの世界から、俺が消えてなくなるだけというのに…この邪悪に満ちた世界から安息の日々を求め、真の幸福を求めるために俺の体は消えて行く。もっと穏やかな気持ちで、この最後の時を迎える筈だったが、この胸の中に湧き上がってくる捉えがたいモノは一体何だ?何かが違っている。何か一番大切なことを忘れてしまっているような気がする…それは何だ…そうだ、俺は突然浴室で倒れ、最後の言葉一つ残せずに、そのまま死んでしまった。何という醜態を演じたのだ。俺が死んでしまったのは、自分の意志ではなく、全くの偶然にすぎなかった。それは人間として、自分の運命を決定すべき意志を、自らの手で放棄したんだ。ああ、もはや俺には人間の尊厳を語る資格もなければ、自分の人生を語る資格もない。人間に残された最後の最高かつ崇高な生への決別の権利を、いつの間にか俺は剥奪されていたんだ。何ということだ…

 江藤剛の肉体は完全に燃え尽き、この現実の世界から消滅した。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ