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挑戦状

 コンサートが終了したその夜。石部はみずから招待した人間たちと軽い懇親会を行うため、会場から歩いて数分の、東大キャンパス内にあるイタリアンレストランに赴いていた。

 きょうのコンサートの出来は誰もが賞賛してくれた。それは、手元にあるいくつもの花束と先ほどの観客の歓声がすべてを物語っており、自分でも陶酔するくらいだった。今年も成功だったといえるだろう。

 観客たちから貰える花束はありがたかったが、自身で持ち帰ることができる数は限られる。花束の一部は、主催者の富永とイヴァーリスの関係者、ピアノの伴奏者に譲渡した。

 それじゃ石部さん、来年も楽しみにしているわ。懇親会も無事にお開きとなり、友人たちが次々に去っていく。石部は優越感に浸っていた。

10月も中旬を過ぎたいま、気温は低くなり、日を追うごとに肌寒さが増していく。しかし、ワインで身体がほてった現時点では顔をなでる風に心地よさを感じた。

 静寂なキャンパスの中庭で最後にひとり、その場にたたずむ人物がいた。友人のひとりが居残っているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。学生時代からのトレードマークである長い黒髪にパーマをかけている後姿で誰であるかすぐにわかった。彼女こそ、かつての石部に絶大な影響を残していった人物だった。

 井原美智子。年齢と学年はわたしよりひとつ下だ。現在では結婚して姓が火栗に変わってしまったが、かつてのわたしが越えられなかった人物のひとりだった。

 学生時代ではその名を轟かせており、個人のコンクールでも優勝するなどといった好成績を収めていた。テレビのクラシック音楽を扱った番組にも出演したこともあり、卒業後は世界にも名を馳せるほどの優秀な声楽家になるのではないかと周りから囁かれていた。当時の石部は彼女よりも年長であるのにもかかわらず、彼女よりも良い成績を収められなかったことに底知れない悔しさを感じていた。

 才能こそがすべてであり、天才以外の何物でもない。それが当時の美智子を的確に表現した言葉といえた。

 石部は卒業後、悔しさをバネにプロへの道を目指した。1年後、新たに音楽界の仲間入りをするであろう、美智子に対抗するため、音大の教授やOBから情報を集め、自分のスタイルとあった声楽指導者を探した。努力を重ねていくうちに小さなコンサートに出演することが決定し、石部は活躍の場を広めていった。

だが、音大を卒業したはずの美智子は石部の目の前に現れることはなかった。

仲間うちで開いた食事会で再開した美智子に近況を尋ねると、美智子は卒業後、指導者になることを選び、様々な合唱サークルのある学校や企業に出入りし、合唱を教えているとのことだった。

 その事実を知った石部は愕然としたが、あえてそこには目を向けることはしなかった。

 さらに数年後、再び石部は美智子と食事会で再開した。その際、美智子は子供を授かったとのことで、音楽業界から完全に姿を消そうとしていたのだった。

 石部はなにも思わなかった。そういってしまえば、それは嘘になる。だが、石部はその嘘を貫き通すことに決めた。

 それからというもの、石部のなかで美智子の存在は消え去りつつあった。石部はさらに活動に精を出し、自身をとてもよく理解してくれる男性にも巡り合い、結婚もした。

 本格的な活動をしてから月日がたったあるとき、コンサートの観客としてやってきていた音楽評論家の富永と出会った。彼は、自分とパートナーが主催するコンサートに出演してくれないかと相談を持ち込んできた。石部はふたつ返事で了承した。

 富永とイヴァーリスのコンサートに出演するようになってからどれだけの年月が経っただろうか。石部はかつての天才に招待状を送ることに決めた。

 理由はあえて深くは考えなかった。悪い思考はすべてを蝕む。それだけは避けていたかった。

 こうして、彼女の姿を目の前にすると、音大時代や卒業後からいまに至るまでの記憶が蘇る。

 美智子は振り返った。

 十数年ぶりに見た美智子の顔は前と比べて柔らかな表情のように感じた。学生時代にはかけていなかった眼鏡をしている。それだけ、お互いに年齢を重ねたということだった。

 再会した石部の心のなかには、やはり、わだかまりがひとつだけ存在していた。それはまるで、ホットコーヒーに入れたシュガーの一部が溶けきれずに、そのままカップの底に残ってしまっているような感覚といえた。

「石部さん」美智子は口を開いた。「きょうは招いていただいて、本当にありがとうございました。まだ、わたしのことを覚えていてくれて」

 そうとも。この女のことは、あらゆる意味で忘れるはずなどない。

「こちらこそ、ありがとう」石部は淡々としたいい方を務めた。「そういってもらえるなら招待した甲斐があったわ。よければ、駅までご一緒しない?残ってるのはあなたとわたしだけだし。お話でもしましょうよ」

 わかりました。美智子は頷くと、石部とともに歩を踏み出した。

「石部さん。あれから、ものすごく頑張ってきたんですね。それが、ひしひしと伝わってきました」

 美智子のいう、“あれから”がいつのことからかは定かではないが、称賛されることについては悪い気はしなかった。

「とくに、2曲目の『浜辺の歌』はとてもなめらかに発声できていて、しっとりと歌い上げた印象が強かったです。着ていたドレスも曲のイメージとマッチしていたと思いますし。そして最後の曲はプッチーニの……」

 人の歌の特徴を的確に表現してくる。音大時代から肥やした、その耳自体は衰えていないらしい。ならば、腕はいかほどのものか。石部はステージ上で歌う美智子をふと、想像してみた。彼女ならばきっと、ものすごい反響を得られるかもしれない。

「あの……」こちらの反応がなかったことをふしぎに思ったらしく、話しかけてきた。「石部さん?」

 目の前から消えた人間など、取るに足らない。美智子に対して石部は常にそう考えてきた。だが、その気持ちはいま、こうして揺らぎつつある。やはりシュガーは溶かしきってしまうに限る。

「ねぇ、火栗さん」いつしかふたりは駅前にたどり着いていた。石部は立ち止まり、美智子を見据えていった。「いえ、あえて井原さんと呼ばせてもらうわ。なぜなら、わたしはきょう、結婚して引退した火栗美智子ではなく、音大でその名をとどろかせていたかつての井原美智子を招いたつもりだったから。どうして、あなたは引退してしまったの?わたしはあなたと張り合うためにここまで努力してきたのよ?わたしはあなたを超えたい一心でここまできた。だけど、もうあの頃の井原美智子はいない。これじゃあ、いくらわたし自身があなたを超えたと思っても、それは単なる自己満足に過ぎないじゃないの」

 幾重もの鎖で封印したはず心の扉が、感情という名の巨人によってこじ開けられた。そんな感覚があった。その結果、表出したのが石部の偽らざる本音だった。

「石部さん、あなたはそう思ってたんですね」美智子は深々と頭を下げた。「それは、申し訳ありませんでした」

 美智子の様子を目にして、石部は我に返った。

「謝らないで。わたしのほうこそ、ごめんなさい。いまのはわたしが勝手すぎたわ。本当なら、この気持ちは卒業後に再開したときに伝えたかった。だけど、当時のわたしはその気持ちに蓋をしちゃってたのよね。あなたは当然、わたしが数多くのコンサートに出演していることを、食事会でほかの人を通じて知っていたわね?」はい。と頷く美智子を確認すると、石部は続けた。「あなたが指導者への道を選んだって聞いたとき、わたしは本当に愕然としたわ。だって、在学中に一度も勝ったことがなかったあなたに、ようやく正当な勝負を挑めると思っていたから。そして、あなたが出産を機に引退してしまったときは、超えるべきあなたという壁がなくなったことで、実質的にわたしは勝利を収めたと同然と思った。あなたがわたしの活動を知ったからこそ、わたしを恐れて逃げ出したんじゃないかとまで思うこともあったわ。そう考えることで、どこかで自分を抑えようとしてたのね。どちらにせよ、もうそれらは過去のこと。きょう、あなたを招待したのも、こうして実力をつけたことをみてほしかったからなのよ。でも、もうしかたのないことよね。あなたが歌をやめてしまったのにも、なにか理由があってのことだろうし。なのに、わたしは……」

 感情に身を任せてしまったがゆえに、美智子を傷つけてしまった。そんな実感があった。後悔にさいなまれるなか、落ち着いた美智子の声が石部の耳に届く。

「いいえ。石部さんのおっしゃるように、わたしは勝ち逃げしたと思われても仕方がないと思います。ですが、きょうのことでわたしも当時の記憶が蘇りました。たしかに、わたしは卒業後、実家を援助するということもあって、指導者の道を選びました。この選択をしたことは後悔していないつもりでしたが、それは間違いだったと気付いたんです。あなたの歌を聴かせていただいてわかったことは、わたしはもう一度、ステージに立ちたい。諦めてしまった夢や、本来の自分を取り戻したいということだったんです」

「なるほどね」美智子の本音を聞いた石部の口元は、いつしかほころんでいた。「それなら、わたしが富永先生やノヴァリースコンサートを紹介してあげる。彼らはまだまだ出演者を募集してるわ。なんでも、出演者が足りなくて、毎年やっとの思いで出演者をかきあつめてるそうよ。人生、なにかを始めるときは、いつでも遅くはないという話はよく聞くけど、あなたはどうかしらね?完全な引退を選んでブランクのあるあなたがステージに再びあがるなんてことは、かなり難しいと思うわ。だけど、あなたに強い意志があるのなら、わたしは大丈夫だと信じてる。なんなら、わたしをまた抜いてごらんなさい。わたしは本気のあなたと戦いたいから」

 石部は再び、美智子の瞳を見た。その奥に燃え上がる炎を、見た。

「それは、あなたからの挑戦状、ということで受け止めてもいいでしょうか?」

「さあね。なんとでも解釈なさい。それはあなたに任せる。とにかく、伝えたいことを伝えられたし、あなたのその瞳を見れただけでも良かった。その燃えるような瞳こそが、井原美智子の瞳よ。もう、わたしに心残りはないわ。また、あなたをステージで待ってるから」

「わかりました」美智子は再び頭を下げた。「それでは紹介の件、よろしくお願いします」

「任せておきなさい。富永先生はきっと、あなたに合った指導者を見つけてくれると思う。それじゃあ、気を付けて帰るのよ」

失礼します。美智子は軽く会釈をして、駒場東大前駅の小さな改札口の向こうに消えていった。 

 もう一度、あの頃の井原美智子と戦える。そう考えただけで石部は気分が高揚し、心のどこかで安堵したような気がした。

 正しくは、“あの頃”ではない。きっと、これからあらゆる過程を乗り越えて生まれ変わる彼女であり、井原でも火栗でもないまったくの新しい美智子だろう。

いまから彼女の成長が楽しみだ。ステージの上で彼女と再会できるのがいつかはわからないが、そう遠くはない未来だろう。それまで、わたしも努力を重ねていこう。いや、自分で努力というのはあまりよくないかもしれない。努力とは、他人に評価されてこそ意味をなすものなのだから。

 石部も新たな決意を胸に、帰路についた。

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