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炎上心(えんじょうしん)

 火栗美智子ひくり みちこは10月中旬の週末、京王線駒場東大前駅付近に存在する、とあるコンサートホールホールの観客席に収まっていた。

 美智子はかつて、幼少時代にコーラスをしていたことがきっかけで、声楽を学ぶために都内の有名な音大に通っていた。その古巣の縁で、きょうは学生時代の上級生だった女性が出演するコンサートに足を運んでいた。

 コンサートを知ったきっかけは、数週間前、自宅に届いた一通の封筒だった。差出人の名は石部邦美いしべ くにみ。美智子はその名を見たとき、誰だか判然としなかった。封筒を開封すると、なかには数枚の便箋になにかのパンフレットとチケットが入っていた。

 美智子はそれらを手に取り、広げてみる。パンフレットには『富永イヴァリース・コンサート』とあり、主催者の欄には富永音楽事務所とイヴァリースコンサート協会の名が記されていた。

 どちらも聞いたことがある名前だった。イヴァリースといえば、クラシック音楽や声楽を中心にコンサート業を展開している企業であると記憶している。富永音楽事務所は有名な音楽評論家である富永勝とみなが しょうが率いる事務所だったはずだ。かつては富永自身も声楽を学ぶためにヨーロッパ各国に留学していた過去を持つという。現在は都内を中心としたあらゆる大学で音楽に関する講義を開きながら、長年の夢だったみずからのコンサートを毎年開くことがかなっているようだった。

 この二者によるコンサートの招待券が送られてくるなんて。美智子の鼓動は高鳴った。美智子自身、音大を卒業してからも音楽に対する愛情は変わっておらず、 時間を見つけてはオペラ歌曲や日本歌謡を主に扱うコンサートには足を運んでいた。そのため、新たな領域に足を踏み込めると思うと興奮を抑えられなかった。

 だが、と美智子は思った。この封筒の送り主は誰だろう?わたしに石部という知り合いはいなかったはずだが……。

 募る不安をよそに、美智子は折り畳まれた便箋を手に取り、書かれた文字を追った。すると、美智子のなかで、おぼろげだった記憶がひとつの形をとりはじめる。

 そうだ、思い出した。送り主はかつての音大の上級生で、競い合っていた人間のひとりだった。彼女とは卒業後、何度か仲間内で顔をあわせて互いの近況を軽く話すていどであり、その後はずいぶんと長い間連絡をとっていなかった。なにより、美智子が思い出せなかったのは姓が変わっていたからだった。彼女が結婚していたことは風の噂で耳に挟んでいたが、姓までは把握しきれていなかった。

 便箋には紋切り型の挨拶に近況報告、コンサートへの出演が決まったのでぜひ足を運んでほしいとの趣旨が記されていた。

 石部がかつての上級生だと判明すると、美智子はあまり気が進まなかった。なぜなら、学生時代のことは振り返ることはせずに、古巣の縁は広く浅いていどにとどめていようと考えていたからだった。しかし、学生時代の先輩からの招待ということで、無下にするわけにもいかなかった。

 石部がどのようにして富永やイヴァリースと関係を持つに至ったかはわからなかったが、彼らのコンサートを聞きたいという気持ちがあったこともまた事実だった。

 わたしは、もうあの頃に戻れないことを知っている。いまのわたしにとって、学生時代はひとつの思い出に過ぎない。コンサートの終了後はせめて、挨拶や彼女のこれからに向けて応援の言葉を送るくらいにしておこう。

 そうした想いもあり、きょうはここに足を運んだ。

 受付で半券と引き換えにもらったプログラムを開く。プログラムには、出演者全員と主催者の顔写真が掲載されている。美智子はかつての上級生を探した。石部と共演するピアノ伴走者の情報は出演者の最後の欄に記されていた。彼女の演目は日本歌曲が2曲に、オペラ歌曲が2曲。計4曲の構成だった。

 美智子は石部の写真を眺めた。黒髪のショートヘアーに縁取られた整った顔立ちに、あらゆる男性を虜にしてしまうのではないかと思うほどの甘えるような目つきは学生時代と変わりないように思えた。

 さらにページをめくり、主催者の挨拶の項目を開いた。美智子は富永の写真に視点を転じる。ふっくらとした丸顔に眼鏡をかけた男性はいかにも健康そのものといったところで、上質なスーツを着こなしていることから、成功者である印象を受けた。

 続いて、イヴァリースの代表の情報に視線を移そうとした。が、そこで会場のライトが何段階か暗くなり、周りの拍手が耳に入る。美智子はプログラムを膝の上においた。

 最初の出演者たちが登場した。歌手、ピアノ伴走者ともに女性だった。一目でソプラノ音域を担当する人物だとわかる。基本的には女性がソプラノ、男性がテノールを担当するからだった。よほどのことがない限り、両者が逆転することはまずない。

 出演者たちは豪華絢爛で煌びやかなドレスをまとっており、その様はたまに観賞するオペラを彷彿とさせ、コンクールでステージに立っていた頃の自分を想起させた。曲が始まるとともに美智子は耳をすませた。

 曲のはじまりは、まずまずといったところだった。しかし、曲が進むにつれて高音域に達した際に、声が音域についていかずに発声しきれていない。さらに、声そのものに大幅な震えが生じ、ホール全体に行き届く前に割れてしまっていた。

曲が終了し、ふたりの出演者がステージの端へと消えていく。続いてあらたな出演者たちがステージに登場した。が、演出そのものは先ほどと似たり寄ったりで、出演者たちにはそれぞれの個性があるようには思えたものの、ほとんどが同じことの繰り返しだと美智子には思えた。

 彼らの実力はヨーロッパから来日する楽団とは根本的に違っていた。声楽に触れたことのない人間が聞けば、これは素晴らしいものであると感じるのだろう。だが、耳の肥えた人間が聞けばそれなりの評価を下すにちがいない。やはり、日本人ばかりの声楽コンサートは地方で行われるローカルな吹奏楽団のようなものなのかもしれない。さすがに本場と比べるのはお門違いといえた。

これが富永勝とイヴァリースが目指す芸術なのか。美智子はここまで感銘を受けることはなく、逆に萎えていく自分を感じた。

 演目の最後、青いドレスをまとったかつての上級生がピアノ伴奏者を引き連れ登場した。ドレスの装飾が照明を受けて輝く。それはまるで、太陽や月の光を照り返す海原を彷彿とさせた。ステージに立った石部の顔を見たその時、美智子は少々、現実感が伴わなかった。久々に見た彼女の顔にはいくつかの皺が刻まれていたからだった。美智子の記憶には若かりし日の石部の顔が焼き付いていたため、目の前のかつての上級生に多少なりともギャップを感じたからにほかならなかった。いくら美しい衣装に身を包んでも年齢による衰えは隠せないらしい。写真を見たときにあまり気にならなかったのは、そういった先入観があったからかもしれない。なにより、写真と実物ではかなりちがう。

 もっとも、それは自分にも当てはまる。まさに、時の流れを感じる瞬間だった。

 しかし、と美智子は思った。なぜ彼女が最後を飾るのだろうか?コンサートのただの一参加者なのであれば、順番はいつでもよかっただろうに。とにかく、きくだけきいてみよう。感想を求められたとき、しっかりと述べられるようにしておかなくてはならない。

 曲が始まる。彼女が演目は石部の歌いだしとともに、その疑問は一気に氷解した。なによりも衝撃を受けざるをえなかった。それは、石部が学生時代よりも格段に腕を上げていたからだった。

 他の参加者たちをものともしないほどの、なめらかなで優雅な歌声。声の割れもほとんど起きていなかった。そして、曲のラストでホールのすべてを揺るがすような発声に美智子は圧倒された。かつての上級生だから足を運んだという、ある意味でお情けの入った軽い気持ちは瞬く間に吹き飛び、彼方へと消え去っていった。なるほど、彼女が最後の締めを飾るのも納得できる。これまでの参加者はあくまでも一番実力のある彼女を引き立たせるためのものでしかなかった。主催者側もこの段取りをよく考えたものだ。

 すべての演目が終了し、石部たちが観客に深々と頭を下げると、ホール全体に大喝采が巻き起こった。ステージ上の石部は満足そうな笑みを客席に向けると、ピアノ伴奏者とともにステージの端へと消えていった。

 鳴りやまない拍手のなかでひとり、美智子のなかにこみあげるものがあった。

 なぜ、彼女がステージに立ち、わたしは座席で指をくわえながら見ていなくてはならないのか。だいたい、学生時代は彼女よりわたしのほうが優秀な成績をおさめていたではないか。……だが、これがいまの彼女の実力。一方のわたしは卒業した数年後、結婚して、子供を授かった。そして、出産を機に引退した。わたしが退いた後も彼女は努力を続けてきたということか。

 十数年の間で、これだけの差が表出した。それがこの場で痛感したすべてだった。

 悔しい。いまの美智子のすなおな気持ちだった。彼女にできたのなら、わたしにもできないはずがない。わたしはこのままでいいのか。本当の自分を取り戻せずに、このままで。負けたくない。負けたくなんてない……。

 時を超えるリベンジを受けた美智子のなかに、ごうごうと音を立てて燃え上がるなにかがあった……。

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