神奈備
「初菜ちゃん。そんなに緊張することはないよ」
田中がぎこちない足取りの初菜に、笑顔で声をかけた。
薄暗い中では、初菜は田中の顔を見ることも儘らない。が、
「だ、大丈夫です」
話すことさえ覚束ない初菜の手を優しくとると
「大丈夫。俺がいるし」
と、田中は囁いた。
「へっ?あ……はい?」
どこから声を出しているという、照れた初菜の声が可愛かった。
くすくすと小さい笑い声が聞こえてきた。
先にいく希空の肩が小刻みに揺れていた。
狭い階段なので、振り返ることは難しいが、顔が真っ赤だろう初菜の姿を想像することは容易で、希空は声を押し殺しながら必死に笑いを堪えていた。
「なにっ?こらっ、希空っ!!」
笑いがばれて、肩を大きく上下させている希空の後姿に、初菜は照れ隠しの声を上げた。
「仲がいいねぇ」と、田中は呆れ顔だったが。
「田中さん……ずっと聞こうと思っていたんですけど……」
急に神妙な態度で、初菜が先を行く田中に聞いてきた。
「ん?どうした、急に……」
「隆くんたち……見つかったんですか?もう2ヶ月も会ってないし……」
田中の足が止まる。希空も今度は体ごと振り向いていた。
初菜も田中が立ち止まったことで、自分もそこに留まった。
「〔任務〕から逃げ出してしまうと、〔地球〕からの報復があるんですよね?」
田中は一言も発しない。その視線が希空に向かった。
「……。あたしもその話は聞いています。昨日のことも……」
「さすが〔神奈備〕。情報が早いな……」
希空の答えを聞いて、田中は皮肉めいた苦笑いを浮かべると、ふうと息を吐き出した。
「……死んだよ。〔地球〕からの罰を受けてね。昨日、健太郎と一緒に東京の友人宅で遺体が見つかった……」
初菜の手が震えた。隆と健太郎は初菜と同年代の〔浄化者〕で、栗里支部ではその活動を支える大事なメンバーだった。
ランクは〔C〕。田中や片岡も、時々任務をドタキャンすることはあったが、その実力はたいしたものだと認めていた。
2ヶ月前ほどから、そんな2人の行動や言動がおかしくなり始めた。
何年も一緒にやってきていたが、何の前触れもなく〔浄化者〕を辞めたいと言い出した。
俺たちは騙されているとか、このままでは殺されるとか。
急に姿を見なくなったことを初菜は心配していたが、しばらくは活動から外し、様子を見ていると聞いていた。が。3週間前、初菜の元に隆の母親から「隆が帰ってこない。どこに行ったか知らないか?」と連絡があり、ずっと気にしていたが、見つかる気配はまるでなかった。
初菜の手の振るえが大きくなる。
田中が初菜を見ると、その瞳からは大粒の涙が流れていた。
「そん……な。まだ……隆くんたちは……まだ辞めるとか……わからないのに」
田中は初菜を引き寄せ、そっと抱きしめた。
「……俺たちは〔地球〕に選ばれた。大きい力を与えられている。
神様はね。その分、人に大きな試練を与えるんだよ。少しでも早く、けして誘惑にも負けない、強く清い心を持った、強い人になるようにとね。
大きい力を持てば、その分、〔試練〕は大きくなる。
だからね……そんな人が試練に耐えられず逃げ出すことはね。神様の信頼を裏切ることになるんだ。 だから、神様は怒るんだ。
俺も「死」を与えることまではしなくても、とは考えてる。
でも、神様はそれほど大きな〔信頼〕を俺たちに感じているんだろう。
隆と健太郎はそれを裏切ってしまった……」
希空は初菜を慰める田中の話を聞いて、少しの違和感を覚えた。
「おれたちは〔地球〕に、〔自分の命〕を人質に取られている。
だが、それに見合う対価として〔才能〕と〔能力〕、〔容姿〕……あらゆるものが与えられる。この〔地球〕に生き、人の決めたルールと価値観に対し、優れたあらゆるものをくれるのさ。そして極めつけが〔寿命〕だよ。〔地球〕が気に入れば、そいつは死なない。物理的な〔生物の死〕ってものが免除されちまう。
この〔神奈備〕にいる奴らは、そんな〔地球〕に愛された奴らなのさ……」
親友の涙に、心が締め付けられる想いを感じながら、
初めて〔ここ〕へ来たその日、〔瑠璃垣綾香〕に聞いた話を思い出していた。
今、初菜を〔神奈備〕に連れて行って、〔綾香〕に会わせることは得策だろうか?
だが、いくら引き伸ばしたところで、何も変わりはしないだろう。
希空の視線が田中に向かう。田中もまた、希空と同じことを考えていたらしい。
初菜に気がつかれないように、2人のアイコンタクトが成立する。
コッ、コッ。
誰か、階段を下りてくる足音が聞こえた。
希空と田中が視線を上へ、自分たちが入ってきた階段の入り口へと向かわせた。
「希空っ!!あっ、田中のおっちゃん、ラブラブ中!?」
栗色の髪に、少女のような面立ちの少年。〔紫桃神楽〕がそこに立っていた。
「おっちゃん、言うなっ!!」
思わず田中が叫ぶ。初菜もまだ涙を流しながらも、「ラブラブ」と言われたことで、反射的に田中から離れていた。
「……この子が、希空の「しんゆう」だね」
神楽の後ろから、小学生ほどの身長の目鼻立ち整った、可愛らしい少女が姿を現した。
〔月見里和〕。
2人とも、ここから程近い名門校〔私立九流学園高等部〕の制服を身に着けている。
神楽は170cmを少しかけるくらいの身長だが、和にいたっては、145cm程度だった。初菜が突然現れた2人の美少年と美少女に、特に和へとその丸くした目を向けていた。
「神楽と和も来たんだ。ご飯は食べたの?」
「ううん。希空の「しんゆう」と一緒に食べたいから、まだ。
倭は先に行ってるって言ってた」
希空とまるで家族のような会話を交わしながら、和は小さい体を駆使し、田中と初菜の間をすり抜けると、まるで定位置のように希空の横で止まった。
「んで。田中のおっちゃんはその希空の親友に「セクハラ」?」
今度は神楽が軽蔑をこめた横目で、田中を見た。
「「セクハラ」言うな。違うっ。初菜ちゃんを慰めてたんだっ。たく……ここのガキ連中は言葉がなってない」
神楽と田中のやりとりで、初菜が泣き笑いを始める。
「おもしろいね……」
涙を拭きながら、初菜が希空に話しかけた。
「おもしろいのは神楽と田中のおっちゃん。私はおもしろくないよ」
和の言葉に、ますます初菜が大笑いし、田中が「それはひどいよ、和」と呟いた。
希空の視線が、神楽と和に向かう。
2人はにっこりと希空に笑いかけた。どうやら気づかれないように、話を聞いていたらしい。
「希空、行こう。綾香を待たせると怖い」
和のその一言が、初菜以外のその場に居合わせた人間たちの、時間を一瞬で凍りつかせた。
「……そ、そだね。行こうか」
初菜への気遣い以上の恐怖心が、希空にその言葉を吐かせた。
「えっ?アヤカさんって人……そんなに??」
初菜もその場の空気を、敏感に感じ取ってしまったらしい。
「まぁ……行けばわかるよ」
田中もそれ以上フォローしようがない、と言った様子だった。
「行こう」
和が希空の手を引っ張った。
「あ、和っ!!」
「っ!!!」
初菜は息を飲み込んだ。手を引かれ、階段を下りようとした希空と、その先にいた和の姿が、一瞬にして、初菜の視界から消滅したのだ。
「それじゃ、僕たちも行こうよ」
すたすたと何事もなかったかのように、神楽も初菜と田中の脇をすり抜け、
そのまま姿を消してしまった。
「~~~っ!!!!!」
初菜の言葉にならない声が、田中を肩をバシバシとぶつといった行動に現れた。
「いたい、いたい。……大丈夫だって。俺たちも行こう」
田中が初菜の手を引いて、階段を下りた。
「……えっ?!」
まるで水面のように、初菜の目の前の「像」が大きく歪んだ。
思わず目を閉じてしまう。
「大丈夫だよ、初菜ちゃん。目を開けてごらん」
田中の優しい声がした。
初菜が恐る恐る目を開けると。
「こっ……ここって!!?」
田中の他に、希空も神楽も和もいた。
が、その背景は……すべて桜並木だった。
今は12月のはずだ。「狂い咲き」なのだろうか?
咲き誇る桜は満開の状態で、ひらひらと花びらが宙にいくつも舞っている。
神々しいほどの美しすぎる景色。なんなんだここは?初菜の中に「綺麗」というよりも、恐怖に近いの念が込み上げた。
「初菜ちゃん。ここが〔神奈備〕。〔カタルシスジャパン〕の中心であり、
〔総本部〕だよ。そして〔神様のいる所〕」
「……ここが?」
田中の解説に、初菜はそれ以上言葉を繋げることが出来なかった。
「もうひとつ言えば、ここは〔常世〕なんだ。だから〔時間〕の概念がない場所。
いつも〔春〕で、いつも〔桜〕が満開。枯れることなんてない。
だから〔神様の住まう国〕なんだって」
神楽の補足に、初菜は少し理解出来たような。ますます混乱したような気分になった。
〔神様の住む国〕って結局……。
「〔常世〕ってことは、〔あの世〕ってことだがな」
少々迫力がある低音の、少々ドスの聞いた女性の声がした。
初菜が唖然とする中、一斉にバっとオーバーアクション以上のリアクションで、平然としている和以外は、みなその声の主の方へと体ごと向けていた。
誰よりも早く初菜はその人物を見るなり、「あーっ!!さっき病院で会った……」と、思わず叫んでいた。