初菜と希空のこと
初菜と希空の過去の長いお話です。
ぱちぱちと蛍光灯の灯りが点滅している。
希空はなれた足取りで階段を下りていた。
初菜はごくりと唾を飲み込んだ。
怖い。ここを下りたら、二度と元の「日常」に戻れない予感がした。
そんなときに思い出したこと。それは自分と希空の出会いだった……。
初菜が希空と出会ったのは、小学校入学のときだった。
田舎町の小さい小学校は、たった1クラスしか存在していなかった。
卒業までを、このクラスメイトたちと共に過ごすことになる。長い長いつき合いの級友たち。
「これ落ちたよ?」
初めて出会う子ばかりで緊張しまくりだった初菜に、落としたハンカチを笑顔で差し出してくれた
のが希空だった。
入学初日から、初菜と希空は仲良くなった。
話が盛り上がれば盛り上がるほど、お互いがとても好きになっていた。
今は、そのときに何を話したかなんてほとんど覚えてはいない。
でもとっても楽しかったことを覚えている。
それでよかった。
たぶん好きなテレビ番組の話。マンガの話、ゲームの話、兄弟の話……。
とにかく楽しかった。
初菜はそのときに「親友」というものに、めぐり合えていたと考えている。
それが「千歳希空」だった。
希空と共に過ごした小学校の6年間が、自分の人生の中で、一番幸せだったに違いない。
そう確信出来るほどに。
家が近いこともあって、お互いの家を行き来しているうちに、互いの家族もだんだんと仲良くなっていった。
数ヶ月も経たないうちに、家族ぐるみの付き合いがはじまった。
元々希空の家族は皆、異常にフレンドリーであったことが原因とも言える。
いつも笑顔で迎えてくれる希空の両親と、希空とは10歳違う姉の深愛。
そのときすでに高校生だった深愛とは、会う機会は少なかったが、希空がいないときでも遊びに行くと希空の家族はゲームやら、なにやらで一緒に遊んでくれた。
そうしているうちに、希空が家に帰ってきてそのまま晩御飯をご馳走になり、泊まっていく。
なんてパターンは良くあることだった。
しかし初菜の家族は、そこまで希空を受け入れていたかというと、そうでもない。
初菜の父親は優しく、希空の父親とは仲良くなり、飲みに行ったり
お互いの趣味である山登りに、希空や初菜をつれて行ってくれるなど、それなりの交流はあった。
が、問題は初菜の母親だった。初菜の母親はとても神経質なところがあり
初菜がいないときに希空を家にあげるなんてことは、絶対にしなかった。
と言いながら、自分が旅行のときは初菜と3歳年上の兄、健司を希空の家族に預け、さっさと出かけてしまう。なんていうことは多々あった。
だが逆はない。人の良い希空の家族を利用してただけだと、今も初菜は思っている。
それでも希空も家の人も、初菜や初菜の家族のことを悪くいうことなんて、一度もなかった。
「困っているときはお互い様だからね。初菜ちゃんは、うちの子となにも変わらないんだよ」
と、希空の母は初菜に話してくれた。
そんな2人の別れは、あまりに唐突だった。
あんなに優しかった希空の両親が、交通事故で亡くなった。
中学に入学したばかり。同じクラスになって喜んでいた矢先の出来事だった。
そんな連絡があったときも、初菜は希空と一緒にいた。
葬儀が終わり、希空の親戚が、ほとんどいないことがわかった。
深愛はすでに社会人で、東京の会社に就職し、足立区の東新井で1人暮らしをしていた。
しかし23歳の若さでの親の代わりは、相手が妹だとは言え、荷が重いに違いない。
希空はまだ中学1年生。引き取ってくれる親戚もいなかった。
そんなとき、初菜の父親が希空を引き取ると申し出た。
普段はおとなしい父だったが、そのときほど頼もしく、尊敬したことはなかった。
だが、猛反対したのが母親の方だった。
「他人の子なんて嫌よ」と言い切った。
あれだけ散々利用していたくせに。ここで恩返しとか思わないのだろうか?
怒るというより、悲しさがこみ上げてくる。
初菜は、初めて母親にキレた。父との喧嘩のときなどの少しの口論で、いつも癇癪を起こし泣く母。
このときも母は大泣きをしながら、取り乱しわめいた。
「あんただっていけないんじゃない!!
お母さんが動物が嫌いって知ってるくせに、わかってて犬を拾ってきて!!
あの家族は、お母さんのことわかってるくせに、うちじゃ飼えないからって
自分の家で飼い始めたのよ?!
娘の友達のお母さんが大っ嫌いで、その娘の友達が家で飼えないと言ってるからって
そのよく会う娘の友達のお母さんがすごく嫌いって言ってるにも関わらず、引き取って飼ったのよ?!
まともな神経じゃないわよっ!!
わたしが嫌いなの知ってて、喧嘩売られたのと同じじゃない!!
普通は捨てるのが当たり前でしょう!?
そんな家の娘が普通だなんて、とても思えないわよ!!」
何年前の話なのだろうか。たしか小学3年ごろの話だった。
しかしその話には後日談がある。
初菜の母親は、希空の母親に文句を言ったのだ。
これほど自分勝手な行動があるものか。
そして、希空の母親は近所の農家に声をかけ、引き取ってもらえることになった。
これは、日ごろの千歳家の行いがあってのことだったが、
初菜の母親は、しばらくは希空の母親に挨拶をしないどころか、無視し続けた。
父親は希空の家族に謝りに行き、希空の家族は気にしてないと言ってくれたのだそうだ。
そんな話を自分可愛さに捻じ曲げ、今だに根に持っているのだろうか。
こんな母親の血が半分でも流れてると思うと、初菜は寒気を感じずにはいられなかった。
初菜は悲しくなり、もうそれ以上母親になにも言う気にならなかった。
兄の健司は初菜を慰めながらこう言ってくれた。
「もう「あの人」は治りようがないよ。悲しいけど、「あの人」が俺たちの母親だ。
こんな家に希空ちゃんが来たら、肩身が狭い思いをするだけじゃすまないと思うんだ。
今は辛いかもしれないが、深愛さんと一緒に暮らした方が、ここにいるより何百倍も幸せだ。
おじさんやおばさんに良くしてもらった分、今度は俺たちが希空ちゃんたちを支えようぜ。なっ」
「……うんっ!!」
涙が溢れて止まらなかった。
健司に頭をなでてもらいながら、初菜はこのとき大声で泣いた。
希空はもっと、もっと悲しい思いをしているはずだ。
大切な親友を、守るんだ。いっぱい仲良くしてもらった分、私が希空を支えよう。
初菜は泣きながら、自分に誓いを立てていた。