もうひとつの〔裏〕
「姫香さん。それ以上は危険です。お戻りください……」
直径10メートルはある大穴の付近。地盤は脆く、大穴の口付近は特に危険な状態になっている。
ここにセーラー服の少女がぎりぎりまで近づこうと試み、この少女よりも年上だろうブレザーの制服を着た少年に呼び止められていた。
「大丈夫です、尚哉さん。もう完全に〔浄化〕はなされていますし……。
なにも心配はいりませんわ」
凛と透き通る声で言い、少女は少年に笑みを浮かべた。
10代半ばだろう。藍色に輝く黒髪はボブにまとめられ、活発な印象を受けた。
が、端正な面立ち、立ち居振る舞い、発する言葉の一つまで気品が感じられる。
作業途中の男性たちの視線も、この場違いな美少女が独占していた。
「〔浄化〕は完了していますが、その地盤はいつ崩れるかわからないのです。
お願いですからこちらへ……」
それでも心配のやまない少年の言葉に、少女は少しはにかんだ様な微笑みに変わり
「……わかりました」
と、少年にしたがった。
千葉県と埼玉県の県境。そこに位置する隅善町にある〔墨吉神社〕。
昨日、初菜が田中と片岡と共に、〔厄〕を〔浄化〕した現場でもあった。
ここに数十人のとある集団がいた。
大穴の調査だけにしては、やけに物々しい数である。つなぎを着た作業員風の男たちが半数以上を占めているが、中にはスーツ姿の者もいた。
さらに厳つい顔をした5~6人の黒服の男たちが存在し、場の雰囲気を一気に「近寄りがたい」ものとしていた。
その男たちの中心に、守られるようにその少女と少年が位置している。
どこぞの超お嬢様かお姫様が、お付きの美少年をつれ、SPに守られている……そんな妄想が成り立ちそうな光景でもあった。
集団の中心にいる美少女…瑠璃垣姫香は、心配する神宮司尚哉の元に歩み寄ってきた。
ほっとした表情で尚哉は姫香を迎える。
尚哉の身長は、周りのSP…黒服の男たちから比べてしまうと小さく感じてしまうが、180cmはあり、一般の日本人男性の平均よりは高い身長をしている。
周りの黒服軍団が190cm以上の身長をしているため、余計な畏怖感をかもし出しているだけではあるが。
姫香は155cmほどで、男たちから埋もれてしまうが、神々しいほどの存在感は見る者の視線をしっかりと釘付けにしていた。
尚哉もまたけして姫香の存在感に負けてはいないだけの美しさを秘めていた。姫香を守るように立つ尚哉のその姿は、一枚の絵になるほどの美少年と美少女「そのもの」だった。
数台の車が止まる狭い駐車スペースに、さらに開きを縫うように停車した車があった。
「やってますね」
そこに1人のスーツ姿の長身……190cm近い身長の男が降り、姫香たちの近づいてきた。
まだ数mの距離があったが、黒服の男たちが姫香と尚哉の前に「黒い壁」となって、スーツの男の来訪を拒んだ。
「大丈夫ですよ。あの方は〔関係者〕です」
姫香の言葉を合図に、黒服の男たちが一気に左右に割れた。
「あはは、すごいですね……。お久しぶりです、姫香さま」
「小早川さん。お久しぶりです」
小早川修司。警視庁公安6課に所属していおり、階級は警部補。
その彼が笑顔で姫香と尚哉の元に歩いてきた。
「例の件……姫香さまの言う通り残念ながら……」
「そうでしたか……」
小早川から発せられた言葉に、姫香の表情が憂いの色を湛えた。
「ニュースは見ましたよ。死因は「一酸化炭素中毒」……でしたね」
「まぁ、そういうことは〔6課〕の専売特許ですよ」
尚哉が小早川に尋ねると、どこか躊躇したように小早川は苦笑いを浮かべた。
「あぁ。でも……アヤセ警察に面白い青年がいましたよ。小林勝海くんって言いましてね。
この事件にそうとう関心があるようで。わたしにやけに聞いてくるもんですから…。今度飲みに行きましょうって誘っておきました」
「飲みにって……」
尚哉が呆れたように呟いた。
「尚哉くん。これもれっきとしたスカウトだよ。前途有望な新人さんかもしれないじゃないか」
「コバヤシカツミさんですね……今度調べておきましょう」
「えぇ。お願いします」
姫香の意味深な答えに、小早川は笑顔で軽く頭を下げた。
「で、どうですか?初菜ちゃんすごいでしょう?
3年間も放置していた〔不浄地〕をここまで〔浄化〕しましたからね」
急に人が変わったように、小早川は大穴を指さしてはしゃぎだした。
「はい。完全に〔浄化〕されています…。見事ですね」
「そりゃ。「俺」とこうやんが大事に育てた「1人娘」ですからね」
「小早川さん。〔キャラ〕が〔片岡〕さんになってますよ…」
再び尚哉が呆れて言った。
「あらあら、すみません。つい興奮しちゃいましたね」
ブブブ…ブブ。急に〔小早川〕の像が揺れ、壊れたモニターのように〔歪んだ〕。
瞬間、〔小早川〕の姿が完全に消え、そして摩り替わるように、〔片岡〕が〔そこ〕に存在していた。 それも身長は尚哉より小さくなり、175cm程度となっている。
「いつもながらすごいとしか言えませんね……」
姫香が感嘆の声を上げる。
「……そうですか?なんか影響が大きくて。最近どんなキャラでも〔片岡〕が入っちゃうんで困ってます。よほど楽しい〔任務〕だったんですね。〔俺〕としては……」
「そうでしたか…。すみません……」
「姫香さまが誤ることではありませんよ。これが〔俺〕の仕事です。
でも、これでほぼ終了ですね。初菜ちゃんとこうやんは〔本部〕にお返ししましたし。
希空ちゃんは無事覚醒を果たした。
あとは定期的に、こうやんの愚痴を聞いてやればいいだけですかね」
そう話す〔片岡〕の表情は一瞬、複雑な思いが影を帯び、曇らせているようにも見えていた。
「〔片岡〕さん、いいんですか?こんなところで正体明かしても?」
尚哉の問いに、〔片岡〕は「はは」と苦笑を浮かべた。
「作業している人には、見えない程度の〔結界〕は張らせてもらってるよ。
さすがに別人に入れ替わるっていう手品はこんなところで見せても、
驚いてはもらえるだろうけど、お金にはならないからねぇ」
〔片岡〕らしい冗談だった。田中が総本部に来ては、よくもらす愚痴の通りの人物である。
そう思うと、尚哉の心の奥で、つきんと痛む何かがあった。
「で。初菜ちゃんは無事合流しましたか?」
そう言った〔片岡〕はいつもの調子を取り戻し、姫香に尋ねた。
「えぇ。ランクUP審査で一般の方と間違われて4時間も待たされたようですけど。
お母様が仕方なく初菜さんを〔解放〕したって。その時はもう夕方だったそうです」
苦笑いの姫香に、〔片岡〕は言葉をしばし失っていた。
「…初菜ちゃんらしいですね……」
ようやく出た〔片岡〕の呟き。
そうして見上げた空は……すでに日は傾き、地平線に完全にその姿を隠そうとしていた。
辺りは夜の匂いがたちこめはじめている。
「ここからですね……初菜ちゃんの正念場は……」
「心配ですか?」
尚哉が〔片岡〕に尋ねた。
「それはね……。今度田中にも聞いてみてください。ほんとにあの子はいい子なんですよ」
娘を心配する父親。尚哉には今の〔片岡〕はそう映っていた。
「……俺たちが守りますよ……」
尚哉の言葉に一瞬、〔片岡〕は呆気に取られた顔を見せたが、すぐに笑顔を浮かべて
「今回は素直にお願いするよ……」とだけ呟いた。