優しさは最高の魔法のはずだった――治療魔術の学校で、私は「優しい自分」ではなく「選ぶ自分」を好きになった
剣を抜かず、火球も放たない響律の魔術師シリーズ。
彼らは静かに目を閉じて音叉を鳴らす。そして『まだ聞かれていない声』耳を澄まし、光を当てる術を使う。
【第一話 優しさの魔法学校】
森を抜けた先に、その学校はあった。
白い石で造られた大きな校舎。
尖塔の先には、治療魔術師の紋章である銀色の杖が掲げられている。
門をくぐった瞬間、セナは小さく息を吐いた。
「……綺麗な学校!」
隣を歩いていたレンが、校舎を見上げる。
「ああ、本当だね。」
中庭では、学生たちが互いに声を掛け合っていた。
「大丈夫? 荷物、持とうか?」
「ありがとう。でも、あなたも重そうだから……」
「僕は大丈夫だよ。君のほうが大変そうだから」
少し離れたところでは、転んだ友人に学生が手を差し伸べている。
「痛くない? 治療魔術を使おうか?」
「ありがとう。でも、このくらいなら大丈夫。ごめんね。気を遣わせちゃったね。」
「ううん、いいの。でも、無理しないでね」
誰もが穏やかで、誰もが親切だった。
セナは微笑んだ。
「いい学校だね!」
「そう思う?」
「はい。みんな優しくて、私もこんな学校で学びたかったな。」
「そうか。」
レンは校舎の壁に掛けられた大きな石板を見た。
そこには、学校の教育理念が刻まれていた。
『治療魔術師は、常に他者を思いやるべし』
その下には、さらに大きな文字でこう書かれている。
『優しさは、最も尊い魔法である』
セナも石板を見上げた。
「……素敵な言葉」
「うん。」
レンはそれだけ言った。
その日の午後、二人は治療魔術の授業を見学することになった。
教室では十数人の学生が、向かい合って座っていた。
教師が穏やかな声で言う。
「治療魔術において、もっとも大切なものは何ですか?」
学生たちが一斉に答えた。
「優しさです!」
教師は満足そうに微笑んだ。
「その通りです。優しい心が魔力に光を与え、治療魔術は精錬されていきます。他者を思いやる心が真の治療魔術師を育てるのです。」
学生たちは真剣に頷いた。
「患者さんの苦しみに寄り添いましょう。患者さんが苦しんでいるとき、自分の疲れを理由に治療をやめてはいけません」
「怒りをぶつけられたときも、相手の苦しみを想像してみましょう。こちらが怒ってはいけません。怒りは魔力から光を奪います。」
「患者さんを尊重し、できる限り手を差し伸べてください。何度助けを求められても、嫌な顔をしてはいけません」
教師は笑顔で学生を見渡した。
「さあ、皆さん。優しい気持ちで全身を巡る魔力を感じましょう。手のひらに治療の力が集まりはじめます。」
ああ、これが……私の知りたかった『本当の優しさ』。
私がずっとできなくて、諦めてしまったことが、ここにはある……。
相手を思いやること。
困っている人を助けること。
嫌な気持ちを持たないこと。
セナは胸に熱いものを感じながら授業を聞いていた。
授業が終わると、学生たちはお互いに声をかけ合いながら教室を出ていった。
「今日は疲れたね」
「うん。でも、患者さんはもっと疲れているから、そんなこと言ったらダメだよね。」
「そうだね。そんなこと言ってたら治療魔術師になれないね。」
学生たちが出て行ったあと、一人、机に座ったまま動かない少女がいた。
「どうしたの?」
セナが声をかけると、少女は慌てて顔を上げた。
「いえ……なんでもありません」
「具合が悪い?」
「大丈夫です」
少女は、少しだけ苦しそうに笑った。
セナは隣の椅子に腰掛けた。
「本当に?」
少女はしばらく黙っていたが、やがて、小さな声で言った。
「今日、友達の相談に乗れなかったんです」
「うん。」
「昨日、夜遅くまで治療魔術の実習をしていて……今朝からずっと疲れていて」
少女は俯いた。
「友達が相談してきたんですけど、『今日は少し休みたい』って言ってしまって……」
「それで?」
「……私、自分が嫌になってしまって…」
少女はそこで言葉を止めた。
「お友達はなんて言っていたの?」
「『わかった』と言ってくれました。」
セナは黙って少女を見る。
「だけど、私、治療魔術師を目指しているのに。人を助ける仕事をするのに。友達が困っているとき、自分のことを優先してしまって、優しくなかった。」
少女の声は震えていた。
「そのあと、魔術の練習をしたら、うまくいかなかった。きっと、優しさが心に入っていなかったから失敗したんです。」
「そんなこと…」
ないよ、とセナが言おうとしたとき、
カラン カラン
学校の校舎の鐘が鳴った。
「あ、私、行かなきゃ。」
少女は立ち上がった。
「セナさん、ありがとう。」
そして、慈愛の笑みを浮かべた。
「気を遣わせてしまってごめんなさい。もう、大丈夫です。」
少女は急ぎ足で教室から出て行った。
セナは少女が出て行った扉を眺めていた。
胸にきゅっと痛みが走っていた。
みんな優しいのに、どうしてこんなに苦しくなるんだろう?
思わず胸に手を当てたそのとき、
キィン――。
セナの音叉が机に当たって音が出た。
『友達が困っていたら助けなきゃ。』
『私が断ったら友達が悲しむ』
『友達を悲しませる私は悪い子』
『私は優しい子にならなきゃ』
え?
その言葉。
その感覚。
『みんなに喜んでもらいたい』
『みんなが悲しむところを見たくない』
それは、遠い昔の幼いセナの声。
「でも……どうして今?」
その瞬間、窓の外で大きな音がした。
ゴォォォン――。
学校全体が揺れる。
石壁に刻まれた教育理念が、一瞬だけ赤く光った。
『優しさは、最も尊い魔法である』
その文字の隙間から、白くて柔らかい光が放たれる。
白い光は徐々に羽毛のように学生たちを包みはじめ、次第に重くなり、網のように学校全体を覆い始めた。
『みんなに優しくしなきゃいけない。』
『助けてあげなきゃいけない』
その声は、まるで子守唄のように優しく、けれど逃れられない圧迫感となってレンとセナにも覆いかぶさってくる。
「先生……」
セナは息を呑む。
「…息が苦しい。」
レンは廊下を歩く学生たちを眺めた。みんな笑顔だった。
けれど、その笑顔の奥には、無数の小さな声が響いていた。
『助けられることは、迷惑をかけること。』
『本当は休みたい』
『でも休むなんて、甘えちゃいけない』
『助けてあげたいけど、今日は無理』
『無理だと思うなんて、冷たい人だ』
『冷たい自分は治療魔術師失格だ』
「この学校では、優しさが少しだけ大きくなりすぎている。」
レンは音叉を見つめてつぶやいた。
「……優しさが、大きくなりすぎる?」
「そうだ。」
セナは目を閉じて呼吸をした。
すると、幼い頃の自分の声が聞こえた。
『私……優しい子になる!』
レンは穏やかな眼差しでセナを見つめ、音叉を鳴らした。
キィィィィン――。
透明な音が教室いっぱいに広がった。
世界が白い光に包まれる。
風の音。雨の匂い。
泥だらけの自分の手と、遠ざかる誰かの背中。
『――ごめんなさい。私が優しくなかったからいけないんだよね』
目を開けると、セナが育った家の自分の部屋にいた。
目の前では、幼いセナが泣いていた。
その泣き声は、過去の雨音と一緒になって、世界を揺らしていた。
【第二話 優しさを背負う少女】
『――ごめんなさい。私が優しくなかったからいけないんだよね』
その日、幼いセナは友達からの誘いを断って家に帰ってきた。
新しく買ってもらった本を読みたかった。
友達は、悲しそうな顔をして去っていった。
セナは、嫌われたと思って、激しく後悔した。
だから、もっと優しくなろうと決めた。
他の人が嫌な気持ちにならないように、自分のことは後回しにして頑張ることに決めた。
「セナ、明日も一緒に遊ぼうね」
「うん」
幼いセナは笑って答えた。
「……この頃の私は、いつも笑ってる。でも、苦しそう。」
幼いセナを見つめるセナの隣にレンが立つ。
「なんでだろうね。」
「……本当は、ちょっと咳があったから、断りたかった。…それでも『うん』と言った。だって……断ったら、この子が悲しむから」
「そうだね。セナは友達を悲しませたくなかったんだね。」
「うん、悲しませる子は、悪い子だから。」
「そうか。…てことは、セナは悪い子になりたくなかったのかな?」
「え…。」
セナは言葉が詰まった。
悲しませたくなかったのは、自分が悪い子になりたくなかったから?
「そんなこと……。」
幼いころの土の匂い。友達の笑顔。
友達を悲しませない自分は、優しい、いい子だったはず。
セナは呼吸を整えて言った。
「ある。」
セナは幼いセナを苦しそうに眺めた。
「あのころ、悪い子になりたくなかった。優しいいい子って、みんなに思ってもらいたかった。」
「そうか。」
レンは手元の音叉を見つめた。
「…ちょっと待って。」
レンの音叉を見ていたセナの顔が急に険しくなった。
「何?どうした?」
「私、…『セナは優しいね』って言ってもらえるのが、嬉しかった…。」
「そうか。嬉しかったのか。」
「うん、嬉しかった。だから、もっと優しい子になって、もっと言ってもらいたかった。」
セナはハッとして俯いた。
声が震える。
そんなの……『相手のため』じゃない。
自分の満足のためじゃないか。
「てことは、私、…自分のために優しくしていたの? 悪い子になりたくなくて、みんなに『優しい子』って言ってもらうのが嬉しくて。誰かを思う気持ちじゃなくて……。自分のためだったなら、あの頃の優しさは嘘だったの?」
セナは混乱して顔を覆った。
「どうだろう。」
レンはゆっくり考えながら言葉を探した。
「嬉しかったことも、悪い子になりたくなかったことも、優しくしたかったことも、全部本当だったんじゃないかな。」
「……全部、本当」
セナの顔が、少し苦しそうに歪む。
「だとしても、私が『遊びたくない』って断ったら、友達は悲しむよ。」
「うん、そうだね。」
「怒るかもしれない。」
「うん」
「失望するかもしれない。」
「うん」
「それは、私のせいじゃないの?」
「そうだなぁ…。セナは相手に嫌な気持ちにさせようとして断ったの?」
セナは首を振る。
「ううん。嫌な気持ちにさせようなんて思っていない。ただ、疲れているときは断りたかった。」
「そうだよね。だけど、相手が嫌な気持ちになるかならないかは、君には決められない。その人がどう感じ、どう選ぶかはその人の領域なんだ。」
セナはしばらく黙っていた。
やがて音叉を取り出し、そして、深呼吸をして、自分で音叉を鳴らした。
キィィィ――ン
セナの記憶の中に、音叉の波紋が広がっていく。
そして、ぽつりと言った。
「……私、ずっと、みんなに嫌な気持ちになってほしくない、と思っていた。」
「うん」
「みんな、気持ちよくいられるように、みんなの気持ちを守りたかった。」
「うん」
「でも、守れないの?」
「そうだなぁ。一人で全部背負うには、人は多すぎると思う。」
「守らなくてもいいの?」
「全員は無理でしょ。」
セナは幼い自分を見る。
「そっか……みんなの気持ちを全部守るのは無理なんだ。」
レンは頷いた。
「相手の気持ちは、相手のものだから。こちらが全部守ってあげることはできない。」
セナは喉から胸の辺りをそっと撫でた。
胸を締め付けていた感覚が少し軽くなっていた。
「相手の嫌な気持ちを全部背負おうとしていたから、私の胸はこんなに重かったんだ」
幼いセナが、友達に向かって言う。
「ごめんね。明日は一緒に遊べない」
友達の顔が曇る。
「……そっか。」
幼いセナの胸が痛む。『あ、ダメだ! また嫌われる!』
「や、やっぱり…」
幼いセナが友達に声をかけようとしたとき、セナがそっと声をかけた。
「大丈夫だよ。友達が悲しむのは、友達の気持ち。あなたが悪者だからじゃない。」
幼いセナが振り返る。
「あなたが友達の悲しみを全部代わりに背負ってあげなくてもいいの。あなたは、あなたの身体を休ませていいんだよ。」
友達は少し悲しそうにしていたけど、それでも、自分の荷物を持って歩き出す。
「じゃあ、また今度ね」
幼いセナも手を振る。
「うん。またね」
二人が別々の方向へ歩いていくのを見送りながら、セナは涙を浮かべた。
「……悲しませないことが優しさじゃないとすると、優しさって何だろう?」
セナは考える。
「相手の気持ちを全部背負うことじゃない」
「優しいと思われるために、自分を犠牲にすることでもない」
セナは自分の胸に手を当てる。
「私は私の気持ちを聞いて、それでも相手に何かしてあげたいと思う気持ち。」
レンが音叉を見せながら尋ねる。
「それなら、優しさは誰のもの?」
セナは少し考えてから答えた。
「……私のもの」
「そう」
「だから、私が選んでいい」
その瞬間、幼いセナの周囲から黒い糸がほどけていった。
『相手を悲しませないようにしなきゃ』
『嫌われないようにしなきゃ』
『優しい子だと思われなきゃ』
そんな声が、一つずつ遠ざかっていく。
最後に残ったのは、小さな声だった。
「私は、どうしたい?」
セナは笑った。
「……やっと聞こえた。私の声」
セナは目を閉じた。
「先生、優しさには、いろんなものが混ざってるんだね」
「うん」
「自分が罪悪感を感じたくないから優しくすることもある。」
「うん」
「優しい人だと思われたいから優しくすることもある。」
「うん」
「そして……自分が優しくしたんだから、相手にも優しくしてほしいと思うこともある。」
「うん?」
「私、我慢してあの子と遊んだのに、あの子が他の子と楽しそうにしてると『私だけが我慢してるのに!』って腹を立ててたことがあった……。私、相手にも、自分が望むようにしてほしいと思っていたのかな……」
「なるほど。自分が我慢した分だけ、相手にも何か返してほしくなることはあるかもね。」
セナは少し考える。
「じゃあ、優しさって、いつも純粋なものじゃなくてもいいんだ」
「ん?『優しさは純粋なもの』って、どこから来た??? いつ、だれが言った?」
レンは大げさに驚いてみせた。
「…私が言った! 私がずっと思ってたんだよ!」
セナもおどけてみせた。
「あーあ。優しさは純粋であってほしいって、夢があったのにな。なくなっちゃった。」
夕暮れの景色をレンとセナは歩いていた。
「私、優しい人にならなくてもいいんだ」
レンは首を横に振る。
「それは、ちょっと違うな。」
「え?」
「優しい人にならなくてもいい、ではなくて」
レンはセナを見る。
「優しい人であることに縛られなくていい」
セナはその言葉を聞いて、静かに頷いた。
二人の足元から光が広がり、夕暮れの景色が溶けていく。
遠くで、現在の学校の声が聞こえてきた。
『優しくなければ』
『患者を助けなければ』
『相手を悲しませてはいけない』
『良い治療魔術師と思われなければ』
セナは自分の音叉を握り直した。
さっきまで重かった胸が、今はすっきりと軽い。
「……戻ろう、先生。あの学校に。」
キィィィン――――。
セナが自らの手で音叉を打ち鳴らすと、白い光が弾け、再び治療魔術師の教室が現れた。
目の前には、先ほどの少女が座っていた。
セナは尋ねた。
「あなたは、今、どうしたい?」
「今日は疲れているから……休みたいです」
セナは頷いた。
「でも、休んだら友達が悲しむかもしれません」
「うん、悲しむかもしれないね」
学生が驚いた顔をする。
「友達を悲しませたらいけませんよね。」
「でも、その悲しみまで、あなたが背負わなくてもいいんじゃないかな」
「……私が断ったことで悲しんでいるのに?」
「その人が悲しむことと、あなたが悪い人であることは、同じじゃないと思う。」
少女は黙ってセナを見る。
セナは微笑む。
「あなたは、友達を大切にしたい?」
「……はい」
「じゃあ、大切にすればいい。でも、自分を大切にすることも選んでいい」
「……優しくしなくても、友達を大切にできるの?」
「うん」
セナは答える。
「今日、優しくできない理由をちゃんと話そう。そして、明日また優しくしたいと思ったら、優しくすればいい」
学生は小さく頷いた。
「……はい。友達に『今日はごめんね、明日はいっぱい話を聞くね』って、自分の言葉で伝えます」
「うん。それが、あなたの選んだ優しさだね」
少女の胸元で淀んでいた魔力の波紋がふっと消え、透き通った柔らかな光に変わった。
そのとき、教室の奥から教師の声が響いた。
「待ちなさい!」
セナが振り返る。
教師は厳しい表情をしていた。
「それでは、治療魔術師としての責任を果たせません。」
石壁に刻まれた教育理念が、禍々しく黒く脈打ち始めた。
「自分を犠牲にしてでも患者を救う――それができない者に、命を扱う資格などないのです」
教室の空気が張り詰める。
セナは教師を見る。
教師の中にも、きっと別の声がある。
「優しくあってほしい」という声の奥に。
「誰かを救いたい」という、もっと古い声が。
レンが静かに音叉を手に取った。
「……次は、先生の声を聞こう」
キィィィン――。
学校全体に、再び音叉の音が響いた。
【第三話 先生の中の小さな声】
キィィィン――。
音叉の音が教室いっぱいに広がった。
教師は眉をひそめる。
「何をしているのですか?」
レンは教師の周りで揺れる波紋を見ていた。
その波紋は張り詰めた白い光を放っていた。
レンが静かに尋ねた。
「先生は、学生たちに優しくなってほしいのですよね」
「当然です」
「なぜですか?」
教師は怪訝そうな顔をした。
「治療魔術師だからです。患者の苦しみに寄り添い、できる限り助ける。それが治療魔術師の使命です。」
「では、学生が疲れていて『治療魔術が使えない』と言ったら?」
「それでは困ります! 治療を必要としている人がいるのに、治療魔術師としての責任を果たせません! 当たり前じゃないですか。なんなんですか? あなた方は!!」
教師の声が大きくなり、広い教室に響いた。
レンは音叉を握りしめて、深呼吸をした。
「……先生。その怒りの声を、もう少し教えてもらえますか?」
「怒りの声?」
「はい。今の大きな声、そのまま聞いてみてください」
教師は戸惑った。
「私は……学生たちに責任を持ってほしいだけです。」
「そうですよね。」
レンは穏やかに続ける。
「今、身体の中はどんな感じがしていますか?」
「身体…?」
教師は胸元に手を当てた。そこには締め付けられるような圧迫感があった。
「……苦しい。…押しつぶされるような……」
「押しつぶされそうなのは、『どうなってしまう』からですか?」
教師はしばらく黙った。
そして、突然声を荒らげた。
「だって……!だって、誰かが助けなかったら……!」
教師の手が震えている。
「誰かが助けなかったら?」
レンは冷静に問い返し、教師はレンを睨みつけた。
「……助からない。」
「はい」
「だから、助けなければならないのです!」
レンは音叉を握りなおした。
「今、『だから』の前、『助からない』と思ったとき、先生の中で何が起きていましたか?」
教師は眉を寄せる。
「何が……起きていた、ですって?」
教師の視線がレンから離れ、中空をさまよった。
長い沈黙。
「……怖い」
セナが息を呑む。
教師自身も、その言葉に驚いて眉をひそめた。
「私は……怖かった」
教師は自分の言葉を探すように続けた。
「昔、一人の患者を……救えなかった」
「……」
「もっと早く治療していれば。もっと私ができることをしていれば。もっと……優しくしていれば」
教師の声が震える。
「助けられたはずだった。」
今度は悲しみが表情に現れる。
「だから、学生たちには……私と同じ思いをしてほしくなかった」
その日、若い教師は限界を超えて患者たちを治療し続けていた。
体力も魔力も底を突いていたのに、誰の頼みも断れず、すべてを一人で背負い込んでいた。
だから――ほんの小さな異変に、気づけなかった。
「巡りゆく生命の脈動よ、光の雫となりて理を繋ぎ止め、我が導きに従い命脈を束ねよ……」
苦しそうに横たわる患者を前に、教師は必死に治療魔術を使っている。
しかし、汗と疲労で光の雫は指先から崩れ、患者の命脈に届かない。
「もう少しです。もう少しだから……」
けれど、教師の手から魔力が徐々に失われていく。
「先生、ありがとう…」
患者の手から力が抜けていき、空気が冷たくなっていった。
「……間に合わなかった。私はあなたを救えなかった。」
若い教師は、その場に膝をついた。
『もっと早く気づいていれば』
『もっと魔力があれば』
『もっと正しく判断していれば』
『もっと…私が頑張っていれば』
若き日の教師の背中が震えていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
謝り続ける姿がそこにあった。
学校の校舎に夕日が差し掛かっていた。
教師はぽつりとつぶやいた。
「……私は、あの日からずっと、自分を許せなかった」
窓の外、遠く森の影が濃くなり始めていた。
「もう二度と同じことを起こしたくない。……誰かを失う体験を、学生たちに味わってほしくなかった。だから、学生たちに教えたのです。患者を見捨てないこと。疲れていても手を差し伸べること。いつでも優しくあること」
教師は、かつての自分を見つめていた。
疲れ果て、魔力も尽きかけ、それでも患者のそばを離れなかった若い自分。
「もっと頑張らなければならない」
「もっと優しくならなければならない」
「諦めてはいけない」
あの日、自分に言い聞かせた言葉が、この学校の中でも常に木霊していた。
教師は、ゆっくりと顔を上げた。
「……ああ、そういうこと。」
教師の周りの白い光が大きく揺れた。
「私は……学生たちに『休んではいけない』と言っていたのではないのかもしれない。」
教師の声が震える。
「……あの日の私に、ずっと言い続けていたようです。」
胸に手を当てる。
「もっと頑張れ。もっと助けろ。もっと優しくしろ。……そうしなければ、また誰かを失うぞ、と」
教師の周囲に張りつめていた白い光が揺らぎ始めた。
教師は中庭で魔術の練習をしている学生たちを見る。
「私は、学生たちに優しくなってほしかったのではないようです。」
「……」
「私は、もう誰かを失いたくありませんでした…。」
教師はその言葉を口にしてから、しばらく黙った。
「だから、学生たちに『優しくあれ』と言い続けました……」
レンは黙って手元の音叉を見つめていた。
「そう、私はずっと、学生たちを守ろうとしていました。でも同時に……自分がもう一度、あの悲しみを味わうことを恐れていました。」
教師は自分の手を見る。
「私はみんなを助けたかった」
教師は胸に手を当てた。
「この気持ちは……今でも、本物です」
そして、苦しそうに息を吐いた。
「でも……いつからでしょう」
教師の視線が、中庭で練習をする学生たちへ向く。
「助けるために自分を差し出すことまで、『優しさ』だと思うようになったのは…。」
誰も答えなかった。
魔術の練習をする学生たちの声が、遠く響いていた。
やがて、教師は静かに続けた。
「優しくすることと、自分を犠牲にすることは……同じではなかったのですね。」
教師は、椅子に腰をおろしてため息をついた。
「私は、優しくなくても良いのでしょうか?」
セナは考えながら答えた。
「優しくない先生になる、ということではないと思います」
「では?」
「先生が、人を助けたいと思ったときに助ける。今日は休む必要があるなら休む。誰かに怒りを感じることがあっても、その気持ちを聞く。そして、そのうえでどうするかを選ぶ。そして、断ったことで相手が悲しんでも、その人の気持ちまで自分の責任にしなくていい、ということではないかと思います。」
教師が静かに頷いた。
「……それでも、その人を大切にすることはできますか?」
「はい」
「断ることと、冷たくなることは同じではない…ということですか?」
「はい」
「ふう。」
教師は天を仰いだ。
セナは教師の白い光の揺れを見つめながら問いかけた。
「先生は……本当は、学生たちに何を学んでほしかったんですか?」
「私は……」
教師はしばらく学生たちを見ていた。
「……人々を助けることを学んでほしかった」
「はい」
「……自らの意思で助けることを学んでほしかった。」
そして、自分の胸に手を当てる。
「恐怖に追われてではなく……自分の意思で」
その言葉とともに、教師の周りにあった白い光はゆっくりと広がり始めた。
「私は、それを……『優しくなければならない』という形にしていたようです。」
もう夕暮れが近づいていたが、中庭ではまだ学生たちが魔術の練習に励んでいる。
「私は……間違っていたのでしょうか?」
「……わかりません」
セナはゆっくり言葉を探した。
「先生の中にあった『助けたい』という気持ちは、間違いだったんでしょうか?」
「……いいえ」
「では、『失いたくない』という気持ちは?」
「……それも、ありました。」
教師の白い波紋は、再び静かに広がり始めた。
「ただ……その怖さから、『休んではいけない』『断ってはいけない』『もっと頑張らなければいけない』という決まりを作ってしまいました。」
セナは波紋を見つめながら言葉を紡いだ。
「『助けたい』という気持ちと、『失いたくない』という怖さは、どちらも先生の声。でも、それを学生たちが背負う必要はないんじゃないでしょうか」
教師は長い間、黙っていた。
やがて、小さく呟いた。
「……なるほど、わかりました。」
「?」
「私は学生たちに、私の願いだけではなく……私の怖さまで教えていたということですね。」
教師の白い光は大きく波打ち、教室の外まで広がっていった。
セナが穏やかに問いかけた。
「先生、もし、あの日の自分に戻れたら……何を言ってあげたいですか?」
教師は泣き崩れている若き日の自分の背中を見つめた。
その背中に声をかけるとしたら…。
教師は震える声で言葉を絞り出した。
「……もう、いいのよ。あなたは……十分やった…。」
教師の表情が崩れた。涙が頬を伝わった。
教師自身が、ようやく自分にかけた言葉だった。
教師はしばらく考えていた。
そして中庭に出ると、石板の前へ歩いていく。
そこには、学校の理念が書かれていた。
『治療魔術師は、常に他者を思いやるべし』
教師はその文字を見上げた。
やがて、ゆっくりと杖を振り、小さく新しい言葉を付け足して刻んだ。
『他者の声を聴き、自らの声も聴く』
その文字は光の文字として教室全体を柔らかく照らし、その光が廊下や中庭まで広がっていく。
教師は石板を眺めて呟いた。
「……あの日、私が他の頼みを断っていたら……違う結果になっていたのかもしれない。」
教師はそこで言葉を止めた。
「……いえ。どうだったのかは、もう私には分かりません。ただ、私はずっと、『もっと頑張れば救えたはずだ』と思い続けていました。」
教師は静かに息を吐いた。
「だから……学生たちにも、同じことを背負わせてしまったのですね。」
中庭は静まり返っていた。
教師は学生たちに向き直った。
「私は、みなさんに優しい人になってほしいと思っていました」
少しだけ間を置く。
「でも、それだけでは足りなかったようです」
教師は微笑んだ。
「自分自身の声を聴き、優しくするかどうかを、自分で選べる人になってください」
すると、一人の学生が恐る恐る手を挙げる。
「……先生。実はすごく疲れていて。今日の練習、終わらせて帰ってもいいですか?」
教師は一瞬困った顔をしてから、柔らかく笑った。
「……自分で考えて、帰ると『選んだ』のなら」
学校を覆っていた白い網が薄くなっていく。
……けれど、完全には消えない。
レンは校舎の外を見た。
「まだ、別の声が沈んでいるらしい。」
「……?」
レンは音叉を鳴らした。
キィィィン――。
遠くから、別の声が響いてくる。
『……でも、優しくできない私には、何の価値があるの?』
『誰の役にも立てないなら、私は生きている意味がないんじゃないの?』
それは、優しさを「選ぶ」ことすらできない、根本的な存在の揺らぎ。
セナは息を呑んだ。
「……この声は、学校だけじゃない……」
カラン カラン
夕暮れの空に、音叉の音と学校の鐘が、重く共鳴していた。
【第四話 私の魔法を選ぶ】
翌朝。
治療魔術の学校には、昨日までとは少し違う空気が流れていた。
廊下では、学生たちが互いに声を掛け合っている。
「荷物、持とうか?」
そう声をかけられた学生は、少し考えてから首を振った。
「ありがとう。でも、今日は自分で持ちたい」
「うん。わかった」
別の場所では、友達から手伝いを頼まれている学生がいた。
「ごめん。今日はちょっと疲れてるから、手伝えない」
「そっか」
頼んだ学生は少し寂しそうな顔をした。
断った学生は申し訳なさそうな顔をした。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
セナは廊下の端から、その様子を眺めていた。
「……なんだか、みんな戸惑ってるね」
レンが隣で笑う。
「昨日まで、何をすれば『優しい人』なのかは教えてもらえたからね。」
「でも、今日は自分で決めなきゃいけない…。」
セナは学生たちを改めて眺めた。
「自分で選ぶって……思ったより難しいね」
「…そうなんだよね。」
レンは音叉を眺めながら頷いた。
「でも、難しいからこそ、自分のものになる」
そのとき、廊下の向こうから昨日の少女が歩いてきた。
少女は二人に気づくと、声をかけてきた。
「セナさん」
「どうしたの?」
少女は困ったように、廊下の先を見る。
そこでは、昨日少女が相談を断った友達が、別の学生と楽しそうに話していた。
少女は俯いた。
「私、昨日あの子に相談されたとき、断りました。なのに、私、断ったくせに……あの子が別の子と楽しそうにしてるのを見ると、胸が張り裂けそうになる」
少女は自分の胸元をぎゅっと掴んだ。
「……私、優しくないし、我儘だし……きっとあの子にとって、私は『いてもいなくてもいい存在』なんです」
「いてもいなくてもいい存在?」
「だって、いつでも優しくお話を聞いてあげられる『良い子』じゃないなら……私と一緒にいる意味なんてないじゃないですか。役に立てないなら、私はあの子にとって価値がない……!」
涙を浮かべる少女を、セナは静かに見つめた。
そして、自嘲するように小さく息を吐く。
「……それ、少し前の私とまったく同じ。」
少女が涙で滲んだ目を上げた。
「私もね、誰かの期待に応えられないと『私なんて必要ないんだ』って思ってたの。断ったり、優しくできなかったりすると、まるで自分の価値が全部消えちゃったみたいで……すごく怖かった」
セナは自分の胸にそっと手を当てる。
あの日、自分がどれほど勝手に思い詰めていたかを思い出しながら。
「でもね、私……勝手に決めつけてたんだよね。相手が他の人と笑ってるのは、ただ『その時、その人と話したかったから』だけかもしれないのに。『私がダメだからだ』『私がいらないからだ』って、全部自分のせいにして結びつけてた」
セナは少女の目をまっすぐに見つめ、優しく微笑んだ。
「あなたが断ったことと、あの子が今誰かと笑っていること、そして『あなたの価値』……元々別々なものを、結びつけちゃってるんじゃないかな」
「別々……?」
「うん。優しくできない日や、役に立てない日があったとして…」
セナは少し考えた。
「そのとき、あなた自身は消えてなくなるのかな?」
「……え?」
「…役に立てるあなたと、役に立てないあなたって、本当に別の人なのかな?」
「……同じ、私……かも」
「うん」
少女は自分の胸に手を当てた。
「……じゃあ、私の価値と、役に立てるかどうかとは別……?」
キィ―ン
レンが廊下の端に寄りかかり、外を眺めながら軽く音叉を鳴らした。
セナは静かに尋ねる。
「本当は、その子に、どうしてほしかったの?」
少女は目を瞬かせる。
「……えっと、……今日も私のところに来てほしかった」
「うん」
「私を、一番にしてほしかった」
少女の声が少し震える。
「私のことを、大切にしてほしかった」
「…もしかして、寂しかった?」
少女は顔を上げた。
「相談を断ることと、寂しいことは別なんじゃないかな」
「……別?」
「うん。『今日は休みたい』と思ってもいい。『それでも私のことを大切にしてほしい』と思ってもいい。」
「……」
「嫉妬することもある。寂しいこともある。自分を一番にしてほしいと思うことだってある」
セナは少し笑った。
「そう思ったからって、悪い人になるわけじゃない。だから、優しくない日があっても、役に立てない日があっても、あなたの価値はそのまんま。」
少女は黙って廊下の先で話している友達を見る。
その瞳には、まだ嫉妬が残っていた。
でも、同時に輝きも取り戻しつつあった。
「……じゃあ、嫉妬してもいいんですか?」
セナは頷いた。
「いい。」
少女は目を見開いた。
「ただ、嫉妬すると、相手を自分の思い通りにしたくなるのが面倒だけどね。」
廊下の端からレンが口をはさんだ。
セナは笑った。
「嫉妬することと、相手を思い通りにすることは別ってことかな。」
あ、と、セナが口に手を当ててそっと呟いた。
「また『別』が出てきた…。」
少女は少し考える。
「私の寂しさは、私のもの」
「うん」
「でも、あの子が誰と話すかは、あの子のもの」
「そう」
「私が寂しいのは本当。でも、友達が誰と仲良くするかは友達が選ぶこと」
少女は小さく息を吐いた。
「……難しい」
「私もそう思う」
セナは笑った。
「私もそう思う。」
レンも笑った。
カラン カラン
校舎の奥から鐘の音が響いた。
実習の時間だった。
教室に入ると、教師が学生たちを見渡した。
昨日までとは違い、教師の表情には少し柔らかなものがあった。
「それでは、治療魔術の実習を始めます」
「はい!」
学生たちは杖を手にする。
「いつものように、魔力を感じるところからです。」
ここで、教師は少し間を置いた。
「ですが、その前に一つ」
学生たちが顔を上げる。
「今日は、自分の気持ちを感じてみましょう」
「自分の……気持ち?」
教師は胸に手を当てる。
「今、疲れていますか? 緊張していますか? 誰かを助けたいと思っていますか? 今は助けたくないと思っていますか? 」
教師の手のひらから、優しく温かな光が立ち上る。
「まず、自分の中にある声に耳を澄ませてみてください」
学生たちは杖を手に目を閉じた。
セナも音叉を手に目を閉じ、胸の奥に意識を向ける。
『助けたい。』
『少し休みたい。』
『誰かと話したい。』
『一人になりたい。』
『優しくしたい。』
『今日は優しくしたくない。』
そんな声が、互いに押し合うことなく存在していた。
やがて、セナの身体から淡い光が広がった。
「…なんだかいつもと違う」
以前よりも透明で軽い気がした。
教師が静かに言った。
「優しい心は魔力に光を与えます」
学生たちが教師を見る。
「それは本当です。」
教師は自分の手のひらに浮かぶ光を見る。
「けれど……優しい心を無理に作ろうとすると、どうやら魔力に曇りが生じることがあるようです」
学生たちも、自分の魔力を見る。
今日の魔力は、柔らかな光とともに、いつもよりちょっと澄んでいる気がした。
「自分の声を聴いて、自分で選ぶ」
教師は続ける。
「そのとき魔力は澄み、より扱いやすくなるのかもしれません」
セナは自分の手を見る。
「どうした?」
レンが小さく尋ねる。
「自分で選んだときのほうが、自分の魔力が好きかもしれない」
「それは、いい発見だね」
ふと、セナはレンの周りに靄のような渦があることに気づいた。
「先生の魔力、なんだがぼやっとしてない?」
「まあね。今、ちょっと眠いんだ」
レンは音叉をくるりと回した。
実習が終わったあと。
少女の近くに、昨日相談してきた友達がやってきた。
「今日、少し話せる?」
少女は一瞬迷った。
昨日なら、すぐに「うん」と答えていただろう。
けれど、今日は自分の胸の中を聴いた。
『少し疲れている。』
『でも、明日なら話せる。』
深呼吸をして、少女は答えた。
「ごめん。今日は少し疲れてるんだ」
友達の顔が少し曇る。
少女の胸がきゅっとなる。
「……でも」
少女は続けた。
「明日なら、ちゃんと話を聞けると思う」
友達は少し考えてから笑った。
「うん。じゃあ、明日」
友達が去っていく。
少女は胸に手を当てた。
以前なら、相手の悲しそうな顔を見ただけで「私が悪い」と思っていた。
今は違う。寂しそうな顔を見ても、それを全部自分の責任にはしない。
少女は少し歩いて中庭のベンチに座った。
「……これでよかったんだ」
空を仰いで、少女は小さく呟いた。
そのとき。
中庭の向こう側で、友達が別の学生と話しているのが見えた。
少女の胸が、またざわついた。
「あ……」
まただ。
「私、また嫉妬してる」
でも、今度は自分を責めなかった。
「……私、寂しいんだ」
少女はその気持ちを、そのまま感じた。
しばらく考えてから、二人のところへ歩いていく。
「ねえ」
少女は少しだけ緊張しながら言った。
「あとで……私も一緒に話していい?」
友達は笑った。
「もちろん」
少女の胸の奥が、少し温かくなる。
嫉妬は消えなかった。
でも、嫉妬に従って友達を責めることもしなかった。
自分の気持ちを聴いて、自分でどうするかを選んだ。
それだけだった。
けれど少女には、それが以前とはまったく違うことのように感じられた。
放課後。
校門の前で、セナとレンは学校を振り返っていた。
教師が二人のところへやってくる。
「レンさん、セナさん」
「昨日までの私は、学生たちに『優しさ』を教えようとしていました」
教師は静かに学校を見る。
「でも、今日になって少しわかりました」
「何がですか?」
「優しさを選べるようになるためには、その前に、自分の声を聴けなければならないのですね」
セナは頷いた。
「自分がどうしたいか分からないまま、優しくしようとしても……苦しくなっちゃいますから」
「ええ」
教師は笑った。
「これから、この学校では『優しい人になりなさい』だけではなく、『自分の声を聴きなさい』と教えることにします」
セナは校舎を見上げる。
昨日まで、白い校舎はどこか眩しすぎるように感じていた。
今は、少し違って見える。
「ねえ、先生」
「ん?」
「私、前は『優しい人になりたい』って思ってた」
「うん」
「だから、優しくない自分を見つけると、すごく嫌だった」
「そうか」
「嫉妬したり、怒ったり、休みたかったり。自分のことだけ考えたかったり……」
セナは少し笑った。
「そんな自分は、好きになれなかった」
そして、自分の胸に手を当てる。
「でも今日、自分で選んでみたら……」
「うん」
「ちょっとだけ、自分のことを好きだと思えた」
レンは静かに微笑んだ。
セナは考えながら言う。
「優しいから好き、じゃなくて。正しいから好き、でもなくて」
少しだけ間を置く。
「私が私の声を聴いて、私が選んだことだから……なんだと思う」
「そうか。」
セナは笑った。
「だって、その私も私だから」
「なるほど。」
二人は歩き出す。
校舎の中では、学生たちの声が聞こえている。
「今日は私が手伝うよ」
「ありがとう。でも今日は一人でやってみる」
「ねえ、少しだけ話を聞いてほしい」
「ごめん。今日は疲れてる。でも明日なら」
様々な声が重なっている。
助ける声もあった。
断る声もあった。
嫉妬する声もあった。
誰かを大切にしたいという声もあった。
それらは、どれも消されることなく、校舎の中に響いていた。
セナは歩きながら、手の中の音叉をそっと指先で弾いた。
キィィィン――――。
夕暮れの空に澄み渡る音が響く。
一筋の心地よい余韻が広がっていった。
「ねえ、先生」
「なに?」
「私、これからもたぶん、優しい人になりたいって思うことがあると思う」
「うん」
「でも……優しい人じゃなきゃ嫌だ、とはもう思わない」
レンが笑う。
「『優しさは純粋なもの』って夢はどうなった?」
セナも笑った。
「そうなの。夢がなくなっちゃったのに、なんでだろ、すっきりしてる。」
夕暮れの空に、二人の影が伸びていく。
セナはその影を見ながら歩いた。
優しい自分も。
優しくない自分も。
嫉妬する自分も。
誰かを大切にしたい自分も。
その全部を連れて。
自分で選びながら。
そして、その自分を。
ほんの少しだけ、好きだと思いながら。
~fin~




