【RE:150YEARS_ECHO】忘却の聖域
■1.複製される朝
空は、かつて青かったという記録があるだけの、鉛色のドームに覆われていた。
「おはよう、管理者。今日の気分を数値化して教えて」
枕もとのスピーカーから、パーソナルAIの涼やかな声が流れる。俺は重い瞼を持ち上げ、ひび割れた天井を見つめた。
「……42点だ。今朝の夢のせいで、ノイズが混じってる」
「夢の内容をクラウドに同期しますか? 悪夢を分析して、最適なケアを提案できますよ」
「いい。ただの古い記録の断片だ」
ベッドを降り、窓の外を見た。空が電子によって描かれた仮初めのものになってから、どれくらい経ったのだろうか。人は肉体の死を克服していた。脳の全データをデジタル化し、合成細胞で作られた「器」に転送する。記憶は定期的にバックアップされ、不慮の事故で命を落としても、昨日の自分として目覚めることができる。
「アドミ、バイタルが安定していません。もう少し休まれた方が良いのでは?」
「……なあ、俺は何回目の自分なんだっけ?」
「記録によると、これまで12回の転送を行っています」
そんなに経っていたか。最初に転送したのは、いつだったか。正確に複製されたはずの記憶が、なぜか思い出せない。
俺は空いたままの引き出しから、シリンダーを手に取る。神経調律剤。シェル技術から人工生成。身体不全全般に有効。副作用、極小。
「アドミ。昨日も使用されていました。控えることをお勧めします」
「副作用はねえよ」
「しかし、統計ではあなたの転送頻度が早くなっている傾向がみられます。精神に影響を与えている可能性が――」
「うるせえ」
俺はAIの音量を絞った。
シリンダーを押し込むと、それに反応して体が快感物質を分泌するのを感じた。それが全身にめぐるのを待ちながら、空を見つめた。
(……このシステムには、おそらく欠陥がある)
簡単に復活できる体。記憶。俺の中で、それらの価値が下がっているのを感じる。忘れやすくなっているのも、そのせいかもしれない。
――だが、それがどうした? そんなことに痛痒を感じる器官は、おそらくすでにない。
■2.一五〇年前のノイズ
ドームの電子映像の灯が落ちるころ、俺はホログラムのリストを指先で弾いていた。通称「遺失物取扱所」と呼ばれる、公的なアーカイブセンターの管理。それが俺の仕事だ。ここでは、持ち主が不要と判断して消去した記憶や、亡くなった人間がバックアップしきれなかった思考を整理・廃棄している。
「今日の廃棄リスト、件数が多いな」
「はい。第23区画の再開発に伴い、旧世代のバックアップデータの保存期限が切れます。合計で12ペタバイト分の『個人的な回想』が破棄予定です」
また、ずいぶんな量だ。整理する記憶は、日に日に増すばかりだ。
「……ん? 再開発にしては、妙なやつが混じっているぞ」
ほかの記憶は保存時期がほぼ一定なのだが、一つだけ合わない。俺は何気なくその記憶をプレビューした。
それは、100年以上前の記憶だった。潮騒の音。夕焼けに染まる砂浜。隣を歩く誰かの、温かい手の感触。
その瞬間、胸の奥で、数値化できない鋭い痛みが走った。
「……ッ!?」
「異常な心拍、アドレナリン放出を確認。アドミ、鎮静剤を投与しますか?」
「待て。今のデータ……もう一度見せてくれ」
画面に映し出されたのは、一人の女性の後ろ姿だった。白いワンピースの裾が風に揺れている。彼女が振り返り、何かを言おうとした瞬間、映像は激しいノイズで途切れた。
見覚えのない女性だった。しかし、俺の深層で、何かが叫び声をあげている。
「このデータの所有者を照合してくれ」
「照合中……該当者なし。このデータは、150年前に破棄された『身元不明の断片』として登録されています。ただし、データのメタタグに一つだけ文字列が残っています」
『レイへ』
その文字列を見た瞬間、指先に誰かの手から伝わる熱が蘇るのを感じた。同時に、喉の奥にひりつくような痛みがある。
――レイ。思い出した。それは、12回前の転送を受ける前の、俺の名前だ。
■3.熱の記憶、痛みの証明
「あんた、わかってんのか? 記憶の統合は重罪だぜ」
正規街から離れた、路地裏の一室。おそらく皮膚に疾患があるのか、ところどころ皮の剥けた顔の男が言った。
「わかってる。十分な報酬も払う。やってくれ」
現代において、バックアップから漏れた「雑音」をつなぎ合わせることは、人格の同一性を損なう危険な行為とされている。
俺は管理者としての権限を利用し、断片的なデータを非合法な記憶屋に持ち込んだ。
「どうなっても知らんぜ」
記憶の奔流が流れ込んでくる。視界が歪み、感覚が、デジタルからアナログへと逆流していく。
「レイ、早く」
声が聞こえた。今度は鮮明だった。そこは、海へと続く道だった。しばらく待っていると、若い男が歩いてくる。
――これは、俺だ。笑っている。
「悪い、エコー」
エコー。そうだ。彼女の名前。俺の最初の人生で、共にいたはずの人。
俺が彼女の手を取る。温かい。その熱は、器では再現できない、生の感触だった。
二人並んで、海沿いを歩いた。
「ねえ、さっき何してたの?」
「君が気にすることじゃない」
「ふーん、怪しい」
「本当に大したことじゃないんだよ。おい、怒ったのか?」
エコーは、そっぽを向いたかと思うと、急に振り返って俺の額を指で弾いた。
「……ふふっ。ねえ、レイ。私がいなくなっても、この痛みだけは忘れないで。あなたの中に、私を残してほしい」
その言葉を聞いた若いころの俺は、泣いていた。
シェル技術が確立する前。彼女と過ごす最後の海だった。
そして、エコーの死後、その「痛み」に耐えきれずに、自ら彼女の記憶を消去したのだ。100年以上も前に。
「――旦那、旦那! 大丈夫か?」
ひび割れた皮膚が見え、現実に引き戻される。
自らの頬を触ると、合成細胞の皮膚がしとどに濡れていた。
「あんた、記憶は正常だろうな?」
「問題ない。……なあ、あんたは、どうしようもない痛みはあるか?」
「はあ? いきなりなんだよ」
「……その、顔」
「……ああ。もう長い付き合いだよ。痛みなんて、四六時中で、もうよくわかんねえや」
「そうか……約束の報酬だ。俺のシェルの利用権を、お前に譲渡する」
「は? ……えっ!? だ、旦那、これは特権階級の……」
「どうするかは、お前の自由だ」
端末を操作し、不可逆な認証を完了する。
消えない痛みが、俺を動かしていた。
■4.忘却の聖域への帰還
偽りの空が、再び灯をともす。
「おはよう、アドミ。昨夜のバイタル異常について分析結果があります。確認しますか?」
身支度を整えながら、AIに答える。
「いいや、必要ない。それより、俺の全バックアップデータを展開してくれ」
「展開しました。いつでも最新の状態に更新可能です」
「すべて廃棄しておいてくれ」
いつも迅速な回答を出すAIが、その時は一拍遅れた。
「……アドミ、何を言っているのかわかっていますか? その操作を実行すれば、次にあなたの肉体が損傷した際、あなたは二度と目覚めることができません。それは『死』を意味します」
「ああ。それでいい」
いつもはすぐに返ってくる答えが、今度はなかった。
「俺はこれから、散歩だ。ドームの外にな」
「ドーム外の汚染濃度は致死圏内です。防護服なしでは、あなたの機能は数時間以内に停止します」
「それだけあれば十分だ」
重い扉を開ける。背後で、AIが何かを叫んでいた気がしたが、俺は振り返らなかった。
ドームの外。荒れ果てた砂漠。しかし、地平線の彼方から昇る太陽は、データベースにあるどんな画像よりも、鮮烈に感じた。
生存圏外調査用の車両を走らせ、忘却の聖域へと向かう。
海は青さを失っていたが、確かに存在していた。
やがて俺の目は、見覚えのある浜辺の稜線をとらえた。
自らの足で一歩を踏み出す。痛みが鮮明になるのを感じる。
左手に、彼女の熱を感じている。
潮騒の音。彼女の笑顔。すべてが輪郭を帯びていく。
そうだ。ここで彼女に額を突かれた。
ジンとした痛みが、体に火をともしたように感じた。
彼女と歩いた道。曳航されるように手をつないだ道を、逆にたどっていく。
途中で、彼女の手が離れる。いや、これは彼女と手をつなぐ前の瞬間。ここから先は、彼女を待たせて一人で歩いた道だ。
木造の家が見える。潮風に負けないことを二人で話した。
自らの影が、俺を先導して歩き出す。彼が何気なく歩く部屋を、穴ぼこに気を付けながら進む。
彼は部屋の隅に空いた隙間に、何かを隠した。
俺は手を伸ばし、それを手に取った。
ボロボロと手に崩れる感触。
注意深く目を凝らすと、紙製のタバコの箱のロゴがいくつか見つかった。
(レイ、私のことを心配してくれるのはうれしいけど、あなた自身のことも大事にしなきゃダメよ?)
彼女の口癖を思い出す。
頬を滂沱の如く涙が伝い、焼けるような熱を喉に感じる。痛みが全身を満たしていく。
変わってねえな、と掠れた声でつぶやいた。
その感覚を記録するマシンは、もうどこにも存在しなかった。




