君の音が聞こえなくなる前に
この作品は、読者さんからの「音」というリクエストに応えて書きました。
普段の生活の中でふと耳にした音が、心を動かす瞬間があります。
短い物語ですが、どうか乙葉のバイオリンの音と、主人公の想いを感じていただけたら嬉しいです。
私には、好きな音があります。
それは——バイオリンの音です。
バイオリンの音色を聞くと、さまざまな気持ちになります。
優しい気持ち、ワクワクする気持ち、切なくなる気持ち……
音色によって、心の中に違う色が生まれる。
だから私は、バイオリンの音が好きです。
少し昔の話をしようと思います。
あれは、私が社会人になったばかりの頃。
慣れない仕事がうまくいかず、同期たちはどんどん成長していきました。
私は取り残されるような気持ちで、次第に心が折れていきました。
家族には心配をかけたくなくて、毎日「大丈夫」と笑って見せることしかできません。
だけど、限界はすぐに訪れました。
私は家族にも言えず、仕事を辞めてしまったのです。
次の日から、新しい仕事を探すために街を歩きました。
でも、自信を失った私は、どこへ行っても前に進めません。
そんな帰り道、ふと、優しい音が耳に届きました。
それは、街角でバイオリンを弾く一人の女性の音でした。
まるで心に直接語りかけてくるような音色に、私は立ち止まりました。
演奏が終わったあと、思わず声をかけてみました。
彼女の名前は——白鷺乙葉。
それから私は、毎日のように彼女の演奏を聴きに行きました。
話を重ねるうちに、乙葉は私に打ち明けてくれました。
「実はね……病気なの。
病院から許可をもらって、この時間だけ外で演奏してるの。」
「そんなに悪いの?」と私が聞くと、乙葉は少し笑って、静かに言いました。
「うん……もうあまり長くは生きられないの。
でもね、生きている間に——
好きなバイオリンを弾いていたいの。」
その瞬間、涙がこぼれて止まりませんでした。
「乙葉、明日も来る。絶対に聴きに来るから!」
私はそう約束して帰りました。
——でも、次の日。
いつもの場所に、乙葉の姿はありませんでした。
その次の日も。
後から聞いた話では、あの演奏のあと、病気が急に悪化してしまったそうです。
あの日、最後の音を聴けて本当によかった。
私の心には、今も乙葉の音が響いています。
だから——私は、バイオリンの音。
いいえ、「乙葉の音」が一番好きです。
読んでくださってありがとうございます。
この物語を書きながら、私自身も「音」の持つ力を改めて感じました。
バイオリンの音、そして乙葉の生き方——
短い時間でも、人の心に深く残るものは確かにあるんだと。
皆さんも、日常の中でふと耳にした音や、心に残る瞬間を大切にしてもらえたら嬉しいです。




