10 ルイード皇子視点
エリン皇女からの要求を断り、俺は挨拶もそこそこにリディアの手を引いて来てしまった。
誰もいない廊下に出ると、俺は足を止めて彼女の手を離す。
……やってしまった。
皇子として、紳士として、女性のあんな簡単な要求をみんなの前で断るなんて、最低な行為だ。
いくら自分が嫌だったからといって、あの態度は良くなかったよな。
リディアは俺に幻滅しただろうか……。
恐る恐る振り返り、すぐにリディアに謝罪をした。
リディアは怒った様子もなく大丈夫だと答えてくれたが、たとえ本当は嫌だったとしても優しいリディアが口にすることはないだろう。
本音がわからず不安な気持ちを抱えながらも、とりあえず教室に向かおうと一歩踏み出したその時……リディアが俺の服を掴んで止めた。
「……リディア?」
どうしたんだ?
リディアは服を掴んでいる自分の手を見つめていて、俺の顔を見ないようにしている。
何かを伝えようとしているのがわかり、悪い内容でも受け止めようと覚悟を決めた。
「あ、あの……嫌でした」
ズキッ
リディアの口からはっきり嫌だと言われ、思った以上にダメージを負う。
胸にズキズキと重い痛みを感じる。
でも、正直に話してくれたことは嬉しいと感じている自分もいた。
「……そうか」
「ルイード様がエリン様の手に触れるって考えたら、嫌でした。
だから……断ってくださって、正直安心……しました」
「…………え?」
今、なんて言った……?
予想外の言葉に、リディアを凝視してしまう。
今……俺がエリン様の手に触れるのが嫌だった……って言った?
リディアが?
それって……嫉妬してくれたってことか……?
あのリディアが?
俺の顔を見てくれないので、リディアが今どんな顔をしているのかはわからないが、少し見える肌の部分が赤くなっている。
さっきまで痛んでいたはずの胸が、今ではこれでもか……というくらい元気に鼓動を速く動かしている。
押し寄せてくる感情に我慢ができず、俺は目の前にいるリディアを抱きしめた。
かわいい……かわいい……。
こんなにも可愛いことを言われたら、我慢するなんて無理だ。
初めて抱きしめた彼女は見た目以上に華奢で、力を入れたら折れてしまいそうだ。
サラサラの髪からはいい香りがして、ずっとこうしていたくなる。
…………ってダメだろ!!
本人に許可ももらっていないのに、勝手に抱きしめてしまった!
すぐに離れなくては!
頭ではそう思っているのに、腕が彼女を離そうとしない。
理性よりも俺の欲が勝ってしまっている……。
リディア、ごめん……もう少しだけ。
そのまま俺は、人の声が聞こえるまでずっとリディアを抱きしめていた。
「はぁ……」
寮に戻ってからというもの、俺はずっとため息ばかりついている。
ただこれは嬉しさが半分、戸惑いが半分といった割合で、そんなに辛いため息ではない。
今日いきなり抱きしめてしまったというのに、リディアは拒否してこなかった。
身体を離した後に見た時には顔が赤くなっていたし、嫌そうではなかった……と思う。
エリン皇女に嫉妬してくれたこと、抱きしめても拒否されなかったこと、むしろ意識してくれていた気がする……こと。
これだけで、リディアの気持ちに期待しすぎている自分がいる。
……いや!! 期待するだろこれは!!
あのリディアが嫉妬してくれただけでもかなりの進歩だし、もしかしたらもう婚約を解消したいという気持ちが変わっているかもしれない!
俺と陛下がお願いしたから、リディアは婚約を引き伸ばしてくれている。
いつまた解消したいと言われるか、気が気ではなかった。
リディアの気持ちが前向きに変わってくれているかもしれない……!
そう考えるだけで、幸せな気持ちになれる。
明日会ったらそれとなく聞いてみよう。
そう決意して、その日は心地よい眠りについた。
次の日には自分達の関係が少しは変わっているかもしれないと期待して……いたのに。
「ルイード様とリディアが婚約を解消して、私とルイード様が婚約するというお話ですわ。
リディアのことは心配しないでください。
ノアとリディアで婚約させますから」
エリン皇女が、明るくさっぱりとそれはそれは軽やかに言った。
そのあまりにも耳を疑いたくなるような言葉が、俺の思考を強制的に止めたらしい。
頭が真っ白になるとはこういう感覚なのだろうか。
身体が動かない。
しばらく放心した後、だんだんと色々な疑問が浮かんできた。
…………は?
今、この皇女は何て言った?
俺とリディアが婚約を解消すると言ったか?
誰が決めた? 皇女?
何故皇女にそんなことを決める権利があるんだ?
リディアと昨日話していたというような事を言っていたが……まさかリディアも納得しているのか?
本当に……?
本当に俺と婚約解消を……?
しかも……リディアとノア皇子を婚約させる……!?
目の前が真っ暗になりかけた時、ふとエリン皇女から説明されているノア皇子の姿が目に入った。
俺と同じで、どう見てもノア皇子は今その事実を知らされているようにしか見えない。
現実が見えて、動揺していた心も少しずつ冷静さを取り戻してきた。
……これは本当に決定事項なのか?
エリン皇女の性格からして、もしや……。
「……リディア? 俺にも説明してくれるかな?」
俺は、振り返って斜め後ろに立っているリディアに言った。
この真っ黒な感情が顔に出ないよう頑張って笑顔を作ったつもりだったが、怯えているリディアの様子からして出てしまっているみたいだ。
「あ……あの……ルイード様……」
「今エリン様が言っていたことは本当なの?
俺と婚約を解消して、ノア様と婚約をするの?」
「そうしましょうと私が提案したのですわ。
私、婚約者を大切にされるルイード様を気に入ってしまいましたの。
だから婚約を解消してとリディアにお願いしたのよ」
リディアの答えを聞く前に、エリン皇女が会話に入ってきた。
自分が婚約解消をリディアに提案したと自白しているのに、どうしてここまで悪びれもせずにいられるのか。
理解ができない。
なんなんだこの女は。
完全にエリン皇女を見る目が変わってしまった。
「……そうですか。
でも、それなら矛盾しているのではないですか?
俺がリディアを大切にしているのをわかっていて、そこが気に入ったと言ってくれているのに……婚約を解消させて自分が婚約する?」
「そうよ。矛盾はしていないわ。
今リディアを大切にしているように、私を大切にしてくださればいいのですから」
…………は?
何を言っているんだ?
「エリン様。何か誤解をされているみたいですが、俺は婚約者だからリディアを大切にしているのではありません。
リディアだから大切にしているのです。
他の婚約者であれば、あなたと同じようにいちいち気遣ったりなんかしないでしょう」
「……それはリディアのことが本気で好きということ?」
…………は?
何言ってるんだ今更。
あれだけ分かりやすくしていたというのに。でも……。
俺は顔を真っ赤にしてうつむいているリディアを横目で見た。
まだ本人にも直接言っていないのに、こんな場所でこんな場面では言いたくない。
「それは貴女に言うことではありませんから」
「…………」
あきらかな作り笑いでそう言うと、エリン皇女はジーーッと俺を見つめて小さなため息をついた。
「わかったわ。今はルイード様と婚約するのを諦めます」
「…………今は?」
「私は諦めが悪いのです。
今まで我慢したこともほとんどありませんし。
この交流会の間に、必ず貴方と婚約してみせますわ」
はああ!?
俺の顔から笑顔が消えたのを見てか、いつの間にか近くに立っていたノア皇子が俺の肩をポン……と優しく叩きながら言った。
「エリンは自分の思い通りになるまではしつこいよ。
……がんばって」
「がんばってって……。
ノア様がなんとかしてください!」
「無理だよ。俺の言うことなんか聞かないし」
ノア皇子は全くやる気のない顔をしている。
この騒動に対しても興味なさそうだ。
「そんな……」
「俺は自分の婚約者とか誰でもいいし……。
リディアでもいいよ」
「……俺が良くないです」
「……ルイード様、顔こわいよ」
ノア皇子はそう言うと、エリン皇女と教室へ向かって歩いて行った。
……ノア皇子は何を考えているのか本当にわからない。
この双子は……どうしたらいいんだ……。
リディアにあとでゆっくり話そうと約束をして、俺達も教室へ向かった。