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「あぁ玲、待ってたよ」
そうして足早にかけてくる友人がこの雄大な敷地にどしりと構える母屋の前に姿を現した。
「さぁ、こっちへ。疲れたろ」
翔は気の利く振る舞いで二人を母屋の前へと導く。
玲は吹き出す汗をどうにか拭い去ろうと躍起になって、雷蔵は軽い足取りで跳ねるようにその後を追った。
「よく来てくれたな」
「暑い」
「だろうな」
「だけどいいところだ」
「だろう?」
さすが名家、と言ったところであろうか。
門構え、敷地の広さ、母屋と倉の装飾に至るまで美しく、荘厳で木造建築の古めかしさは感じさせぬ優雅な佇まいであった。小高い山奥にあるこの豪邸のまわりを彩る緑緑しい木々は季節によって様々な顔を見せるだろう。花々の見応えも素晴らしいものになりそうだが、今は蝉の声がサイレンのように響いている。
「早速だが樹に挨拶しに行かなければ」
「こんなに悪状況の僕を紹介?」
「どんな風でもお前は綺麗だよ」
急かす翔が汗だくの玲の腕をつかみ、
「君は全然平気そうだな」
と雷蔵に言った。
「いえ、凄く暑いです。けれどそれよりもこの家の雰囲気に圧倒されてしまって」
雷蔵はそう言って慌てて見せたが、玲は先程の雷蔵の浮かれようを目の当たりにしているのでそれが少し可笑しかった。
「君にも付いて来てもらって、悪いな」
「いえ、僕がお供させて下さいと先生にお願いしたんです。無理を言ってすみませんでした」
「無理なんて事はないさ、樹は快く了承してくれたよ」
翔は長い足をスタスタと前へ運ぶので、雷蔵はそれにぴょこぴょこと急いで付いて行かなければならなかった。
「翔、僕はどうしたらいいのだろう」
腕を引っ張られながら半ば引きずられるようにしていた玲が唐突に言った。
「どう、とは?」
「立ち振舞いだよ」
「ああ、いや、いいんだよ。いつもの通りで」
「本当に?」
「勿論、どうしてそんなことを?」
不思議そうに振り返る翔の顔を見ながら、玲は目の前を視線で指して言った。
「まさかこんな風だとは思っていなかったからだよ」
玲が示した先には戸口の広い引き戸の脇に、まるで敷居の高い老舗旅館のごとく使用人が四人並んで、彼らが来るのを待ちわびていた。
「大事な客人だ、当然だよ」
翔は億劫そうな玲を見て微かに微笑んだ。
「お足元の険しい中、ようこそお出でくださいました」
耳が大きく可愛らしい顔立ちの青年が三人を迎えた。背丈は翔と同じくらいだろうか、明るく朗らかな笑顔を見せている。その隣には女性のように美しい顔立ちをした青年が立ち、
「樹様の元まで御案内します」
次に口を開いたのは先程の彼と戸口を挟むようにして立つこれまた背の高い、どこか影のある表情で涼しげな目元とほんの少し間延びした顔立ちの綺麗な青年であった。そしてその隣にも今話した彼と似て鋭い目付きをした黒猫のような青年が立っている。戸口を挟んで陰と陽に別れたのかとも思う並びに、玲は少しだけ可笑しくもあったが、しかしこの家は容姿で使用人を選定しているのかと思うほど四人とも見目麗しかった。
「頼むよ」
二人への翔の台詞に驚いた玲が、
「君は?」
と出来るだけ小さな声で言った。
「まず二人だけで挨拶して来い。晩の宴席で樹が皆にお前たちを紹介出来るように」
それならば尚更翔がいた方が樹に話が伝わるのではと玲は思ったが、翔の長い腕が既に青年達の前に玲を押し出していて、駄々をこねられる状況ではなくなっていたのだった。
「こちらです」
音もなくするすると廊下を歩く青年の後を追う。
不思議であった。さっきまであれ程蒸し暑く穴という穴から汗が吹き出していたに違いないのに、この家に足を踏み入れた途端心地の良い冷やりとした爽やかな風を感じた。玲はこの家の造りに何か工夫がされているのだろうと考えたが、それよりも今感じている清々しさに全てを預けていたかった。
するすると歩く青年の足がピタリと止まって、
「失礼します。樹様、如月玲様と、その助手の巽雷蔵様がお見えになりました」
と告げるまで、玲はここに来た目的をうっかり忘れていたくらいだった。
「どうぞ」
鈴が鳴るような声だった。
高く澄んで、雷蔵の声と似ているかも知れない。
薄い障子一枚隔てた先にいるこの家の主となる人物に、玲はやっと興味を持った。
す、としめやかに開かれた部屋の中には、今にも消えてしまいそうな儚さを持った、杠樹その人がいた。