かくて幼妻は腕のなか
――後日譚という名の、これからの前日譚を少しばかり聞いてもらってもいいだろうか。
改めて婚約の報告に我が家に訪ねてきたラルフを、祖父は晴れ晴れと歓待した。晩餐に秘蔵のワインまで出してきたのだから、実は相当にラルフを気に入っているようだった。よくよく思い起こせば、わたしが知らぬ間にわたしよりも早くラルフと会っていたじじ様だ。いやそれ以前に、じじ様は仕事がてら王宮に召し上げる機会もあるのだから、宮廷で接することもあるだろう。だから返事をわたしに委ねてくださったのかと納得する思いだ。
普通、貴族の娘なら結婚に関して本人の意思を尊重されることは稀だ。まったく孫バカめ、大好きだ。
シンはいつも通り淡々とした様子で、口約どおりラルフのことを『マスター』と呼び始めた。上に立つことに慣れているラルフは平然と受け入れていたせいか、なんだかわたしの方が気恥ずかしかった。
それよりも問題児は姉の方だ。アイネは任務で離れているので、伝言にてこの事実を知ることになったので少し心配だ。闇討ちされないようにラルフに注意喚起を言い含めることだけは忘れなかった。アイネはたぶん、何を言っても何かしでかしてしまうに違いないから、ラルフに覚悟してもらった方が早い。
猛獣に狙われているはずのラルフはもちろん笑い話として受け止めていた。まあ、黒狼からみたらうちのアイネなど
山猫のような可愛いものなのだろう。
「エミリア様、こちらのフロランタンは召し上がりまして? パティスリー・マルセルの新作でしてよ」
「マドレーヌも焼きたてですよ。おかわりはアッサム? それともオレンジペコーになさいます?」
「日差しが強くはございませんか? 日除けをお持ちしましょう」
・・・・・・。
天気が良いのでお酒が飲みたいです、なんて言える雰囲気ではなかった。
いま現在、宮廷の温室にて、色とりどり華やかなドレスを纏った令嬢たちに取り囲まれていた。夜会で何度かよくしてもらった顔ぶれ以外にも、覚えのない令嬢の姿がちらほらあった。今後、付き合いとしてきちんと人物像を把握する必要が出てきてしまい憂鬱だ。
これまで色恋の噂がとんと上らなかったあの名門ティルグナード伯爵家嫡男の電撃プロポーズから早数ヶ月、正式に婚約発表がなされ、貴族社会はおおいに盛り上がった。激震といっても過言でない。
彼が見初めた姫君は、わずかな期間しか社交界に姿を現さなかったリストワール男爵の愛孫。その姿は妖精国から遣わされたのではと思わせる人外の愛らしさを持つご令嬢だと拝謁がかなった人々は誇らしく噂し、まだ見ぬ人々はその姿に期待を膨らませている・・・のだそうだ。
人間界と時間の流れが違う妖精国からの生まれならば、今はまだあどけなくとも将来的にはとんでもない美姫になると誰もが確信し、そんな彼女を生涯守る夫として【黒妖犬】はぴったりで、これ以上ない良縁ではないかともっぱらの評判である。ラルフはまたひとつ新しい異名が増えたな。
黒妖犬って、死を司る女神の眷属で死の御使いとも言われているのだが、それはいいのだろうか。
まあぴったりと言えば、ぴったりなのだろうけど。
わたしの心配などどこ吹く風で、社交界での立場は意外なほど危ぶむ事態にはなっていない。ありがたいが、拍子抜けであるのもまた否めない。
矢継ぎ早に飛んでくる質問に、彼女らが喋り終わるのを待って、ゆっくりと息を吸う。
「・・・・・・みなさま、お気遣いありがとうございます。ですが、姫殿下のサロンに行く前に、お腹を満たしていくわけには参りませんので・・・ご容赦くださいませ・・・」
喉を気遣うように訥々と紡げば、令嬢たちから愛らしいものにときめいた溜息が零れた。仮病をつかった手前、いまだにお喋りは不得手ということにしてある。
そう、今日わたしがこうして登城したのは、ラルフの主君でありまた朋友であるこの国の姫殿下と王太子殿下に拝謁する機会をいただいたからである。気負うことはないし、今回はプライベートな茶会の名目で誘ったのだとラルフは何でもないことのように言うが、いち男爵家の娘がそう気軽に臨める事態ではない。
お茶会は姫殿下の宮にある専用のサロンで行われるそうで、近衛の仕事を片付けてからラルフが迎えにくるということで、こうして開放されている温室で待たせてもらっていたところだった。そしてわたしが一人ここに来たとあって、周りの令嬢たちは興味津々でわたしを構い倒しているわけだ。
「エミリア様、お声も天使でいらっしゃいますわ。尊さが天空を突き抜けそうです」
「この世にこんな綺麗な音がありますか? 今日も世界が幸福に満ちておりますわ」
「あ、ありがとう・・・ございます・・・?」
あってる? この返しであってる?
何で彼女たちはちょっと涙目なのだろう。令嬢たちの奇怪さに戸惑いを隠せなくなりかけたその時だ。
「エミリア」
落ち着いた低音の声がわたしを呼んだ。
いつの間にやってきたのか、大きな手がそっと肩に触れる。黒妖犬が人間に化けてやってきたとして、これだけの美丈夫だったなら大抵の淑女は執行を望みそうだなとバカなことを考えた。
仕事中のため、黒ずくめの軍服姿で現れた婚約者から放たれる威圧感は半端ない。王宮に彼がいる限り、悪さをしようと企む者はいないだろう。そんな彼がわたしと目が合うや、穏やかな笑みで見下ろしてくる。令嬢たちが扇で顔を隠して、黄色い悲鳴を堪えているのが目に見えてわかった。知らないって残酷だ。
「遅くなりました、参りましょう。両殿下がお待ちかねです」
「・・・ふぁっ!?」
椅子を引いて立ち上がったわたしの膝裏をラルフが素早くさらった。人目があるのにいつものように抱き上げられ、素っ頓狂な声をあげる。慌てて口を押さえて、反射的に馬鹿者と怒鳴りかけたのをなんとか飲み込んだ。
絶対にわかってやっているのに、ラルフは悪びれず令嬢たちに会釈して離れていく。わたしはラルフの腕の中から、なんとか頭を下げておいた。
はーむり尊い最高・・・、と令嬢の誰かが呟いたが、幸か不幸かわたしの耳に届くことはなかった。
それはそうと黒狼の異名を持つラルフに合わせて、今後わたしは【白猫姫】と囁かれるようになるのだが、それはまた別のお話ということで。
姫殿下の宮に通ずる廊下をラルフに抱えられたまま向かっているが、騎士や侍女の生温かい視線がいたたまれない。壮麗な王宮内でこの振る舞い。わたしが駄々をこねたように見えるじゃないか。
「・・・・・・降ろせ、馬鹿者」
「え、いやですけど」
「なんでじゃ!?」
「私の婚約者殿を見せびらかしたいので。今日はその目的で来てるんですよ。わかってますか?」
なんでわたしが叱られているんだ。おかしくないか。
「ラルフ、両殿下の前では降ろすように、絶対だぞ。 聞かなければ海に沈めてやるからの」
「驚いた。セイレーンにもなれるのですか? その透明なお声で響く歌声は、きっとどんな交響楽団の音色より美しいのでしょうね。海底神殿で式をあげるのもきっと素敵ですよ」
「だからわしを巻き込むでないというに・・・」
姫殿下の宮に入るとそれまでの宮廷の雰囲気とは打って変わり、より清涼な空気に満ちていた。フローリングに希少銘木のウォールナットがふんだんに使われているからだ。そこかしこに誂えた調度品も柔らかな木材で統一されている。いずれも選りすぐりの銘木で揃えているようで、堅苦しさのない高級感を感じた。
突き当たりを曲がればサロンの入り口ということで、ラルフがそっとわたしを降ろした。そう、破天荒にみえてきちんと弁えている。ただ、振り幅が大きすぎてそれがわたしを振り回すのだ。
「緊張していますか?」
「問題ない。臣下として・・・いや、今日はおぬしの婚約者としてか。それに相応しい振る舞いをするぐらい造作もないわ」
不敵に笑んで見せたわたしに向けられる微笑みが穏やかであたたかい。
まだまだラルフの知らない一面がたくさんあって、それはラルフも同じで、わたしたちはこれから互いを知って、理解を深めて、いまは想像出来ないけど時には喧嘩もして、それでも愛を深めていけると信じてる。
流れるように優雅な仕草で差し出された腕にそっと手を添えて、わたしとラルフは揃って歩き出した。
これは後日譚という名の前日譚――黒狼と白猫の物語は始まったばかりだ。