表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒狼と幼妻  作者: 霜月さいき
3/6

箱庭の主は裁断を下す


ラルフ・ドグラ・ティルグナードが気難しい軍人と誰が言ったのか。ちょっと噂の出所を突き止めて、そいつをぶん殴ってやりたい。

「お嬢、手紙が届いてますよ」

「・・・・・・」

執務室の机の上に紫のグラジオラスが一輪と、飾り気のない一通の手紙が届けられた。

またかと嘆息する。差出人はラルフ・ドグラ・ティルグナード。あの劇的な夜を終えて、ラルフはわたし宛てに熱烈なラブレターを送り続けていた。

封を切って内容にざっと目を通す。捨て置かないでいる自分の真面目さを褒めてやりたい。毎度毎度、様々な言葉で書き連ねる愛の羅列に感心する。劇作家でもやっていけそうではないか。

溜息とともにペンを握り、素っ気ない文をサラサラと書き付ける。

「シン、これを届けておいてくれ」

「かしこまりました」

従者兼腹心のシンが淡々とした態度で受け取ると、迷いのない足取りで部屋を払った。主人がどこぞの男から言い寄られていても、好奇心で聞き出そうとはしない。あるいは意にもかけていないかもしれない。大人びた少年従者は感情の起伏に乏しく、色恋沙汰に対する興味も薄そうだ。

ラルフからの手紙も初めのうちは丁寧に、それはもう出来うる限りの礼を尽くして返事を書いたが、途中から何もかも面倒になって雑に返すようになった。

――遊んでないで仕事しろ、仕事の邪魔だ、面会ならじじ様を通せ。

そんな一言二言、メッセージカードで足りるほどの短い文面を返せば、次の手紙には返事が嬉しかった旨が揚々と書き加えられていた。冷たくされている自覚がないのか、いや冷たくされて喜んでいるのか。あの男、端的にヤバいだろう。

ほとんど使った形跡のない私用の文箱は、すぐにラルフの手紙で埋め尽くされてしまった。捨てようにも捨てづらい。それにいざ何かあったときに裁判で有利になるし、証拠品は取っておくべきだろう。

他意はない。ちょっと顔が好みだから無下にしづらいだけだ。・・・それだけだから。

内心で誰へ向けてかもわからない言い訳をしながら、文箱の蓋を乱暴に閉じたとき、執務室の扉がノックされて開いた。慇懃な礼を取って現れた当家の執事が、親方様が呼んでいると言伝をした。聞いた途端わたしは冷たい声で、すぐに行くと答えて立ち上がった。長年、当家に仕える執事はわたしにとってもう一人の祖父のような人だ。わたしの怒りの理由を存分に理解して、何も言わずに控える。

廊下を大股で歩き、ぎっくり腰で療養中の祖父の寝室の扉をおもいきり開け放つ。

「じじ様!このクソ爺!ようやく話す気になりましたな!?」

半月あまりの養生を経てようやく寝たきりから脱した祖父のマクリール・エンデ・リストワール男爵は、ベッドに半身を起こして事業の書類に目を通していた。

全盛期は海軍大将として名を馳せた武人は、年を召してもがたいは衰えず堂々としている。直毛で豊かな髪も、たっぷりと蓄えた髭も混じりけのない綺麗な白髪だ。厳めしい顔立ちと威圧的な大柄な体躯とは対照的に、大抵のことを豪快に笑い飛ばす広い心の持ち主である。いまも孫の悪態を笑いながら歓迎している。

「はっはっは!威勢がいいのう、エミリア。若さがほとばしっておるわ」

「御託は結構じゃ!今日こそ誤魔化さずに教えてくれると思ってよいのかのう!?」

ベッドの脇に置かれた椅子にドカッと座り、肩を怒らせる。

あの日の夜会のことを、ラルフにまつわる様々なことを、祖父にいくら問いただしても答えてくれなかった。

わたしのような小娘など想像もつかないほどの修羅場をくぐってきた偉大なる尊老を出し抜くことは容易でない。どんな話術を駆使しても、必要な情報はなにひとつ聞き出せずいい加減しびれをきらしていたのだ。

「孫よ」

「う、うむ?」

わたしと同色の黄水晶の瞳がギラリと光る。迫力に気圧されて、息を呑む。

「じじはこの件に関してノータッチじゃ」

「・・・・・・は?」

肩すかしを食らってガクリとなったわたしに、祖父は立派な髭を撫でて笑った。

「いやあ、まさか本当にヤラかすとは思わんでなぁ。デヴィットにまで協力させおって、いい目のつけどころだ。堅物と聞いておったが、実に愉快な男じゃな」

デヴィット・・・ああ、ジェラルド老伯爵のお名前だ。

じじ様は不敵に微笑み、まだまだ現役と言わんばかりの策士の顔で言葉を続けた。

「儂らがどういう立場かも知った上だし、お前が望むなら婿養子も辞さないそうだ。だがエミリア、おぬしの方も現在のティルグナード家がどういう立場が理解しておろうな?」

「・・・・・・はい」

祖父としてではなく、上官としての言葉の重みに居住まいを正す。

現在、リーヴェタニア王国の世継ぎ候補はお二方、直系の姉姫と弟太子であらせられる。王太子殿下とラルフは同い年の二十六歳、姫殿下はその一つ上の二十七歳。王太子とは学友で、三人揃って幼馴染みなのだ。

古くから親交があり、両殿下からの多大な信頼を得ているラルフは、今後どちらの殿下が国を背負うお立場になっても最有力の腹心となるだろう。姫殿下とラルフの政略婚もずいぶん前からほのめかされてはいたが、実現には至ってなかった。ティルグナード家が今より強大になることをよしとしない立場の人物たちから妨害されていたと見える。姫殿下の結婚が伸びれば出産も難しくなるだろう。そうなれば、王太子殿下に自分たちの娘を差し向けてあわよくばと・・・そういう流れなのだ。・・・これはいま掘り下げることではないが。

そして現状、わたしもその渦中に放り込まれているわけで。

華やかな社交の色恋には疎いが、そういう国政に関わることはきちんと把握している。

王家との見合い話すらのぼる男なのだ。政略婚であれ、単純に令嬢たちの憧憬であれ、ラルフはまず間違いなく現在の宮廷において一番の有望株である。

その彼が、伯爵家の地位を手放して婿養子などとんでもない。あの奔放さでヤラかしてきそうなのがまた怖いが、そんなこと王家も諸侯も許さないだろう。本人もさすがにわかっているとは思うが、如何せんあの人を食ったような笑みを思い起こすと、こちらとしては確信が持てない。

けれど、伯爵家の強大さは簡単に切り捨てられるものではない。双方にとって利益は十分にある。同時に諸刃の刃ともなるが――。

「・・・じじ様はこの話を受けよとおっしゃるのですな」

神妙な面持ちで深く頷いてみせる。大丈夫、承知していますとも。わたしも女に生まれたのだから。

けれど、じじ様はなぜか首を横に振った。

「そうはいっとらん。お前さんは少し早計がすぎる。物事は慎重に推し量れといつも言っておろう。いま目の前にあるものだけが最善ではない。我らの使命は?」

「我らが領民が今日も健やかに幸福であるように最善を尽くすことです」

よろしい、と頷いたじじ様の掌がわたしの頭をわしわしと撫でた。その表情から軍人の気配が消えていた。強く優しい祖父の顔だ。

「その括りの中に、お前さんもいることを忘れてはならん。生涯の伴侶はお前さんが自分で、自分の心の向かうままに決めてよい。相手を決める条件も、心根も、お前さんが自分で答えを出すんじゃ。だから今回、儂はこれ以上関与せん。あやつが皆の前で漢を見せた。儂はそれだけで満足しておる。あとはエミリア、お前さん次第だ」

「じじ、様・・・」

「儂もせがれも、愛する者と添い遂げることを望んだ。そうして縁を紡いで、いまここにお前さんがおる。それが誇らしい。お前さんも将来そう言えるように、いまはめいっぱい考えるがよい」

それはつまり――

「この件はわしに丸投げするとな?」

簡潔に要点を述べたわたしに、今度は祖父がガクリとなった。

「・・・孫よ、情緒を学ばせられなかった祖父を許しておくれ」

それこそ情緒に欠けるというものだ、じじ様よ。


***


港湾都市エ・ギールの船着き場は、いつもと変らぬ賑わいをみせていた。

潮の流れは穏やかで、心地のよい風にのって、上空をカモメが羽ばたいている。貨物船や客船が行き来し、積み荷を運ぶ労働者や、内外の旅行客の出入りする見慣れた風景の中で、見慣れない男がひとり、わたしの前に立っていた。

「なぜ、ここにおる。狼や」

頭を抱えるわたしに、ラルフは爽やかな笑顔とともに手を振った。

「おはようございます、エミリア嬢。懊悩するあなたも素敵ですね」

「質問に答えよ・・・」

ああ、目眩がする。愛用の杖に体重を預けて項垂れるわたしに、ラルフは揚々と告げた。

「何度も申しましたとおり、私の人となりを知ってもらいたく。手紙だけでは到底感じ取っていただけなさそうなので、お側に従えて品定めしていただければと思いまして、こうして参上した次第です」

「近衛を指揮する少佐とあろう者が、よほどヒマなのか?」

「部下はとても優秀ですよ」

答えになっていない。部下に同情する。同じ部下の立場であるシンは、無表情の中に少しだけ会ったこともないラルフの部下に向けて、憐れみの気配を滲ませていた。

気難しいと思っていた男は、わたしを前に少年のように屈託なく笑った。大型犬でも手懐けた気分だ。夜会のときは正装だったが、いまラルフを包んでいるのは宮廷近衛兵団の黒を基調とした軍服だ。港には海軍の制服がちらほら見受けられるが、そちらは藍色と白のカラーなので、黒一色のラルフの目立つこと目立つこと。もちろん、人目を引くのは服の色だけでなく、彼の恐ろしいほど整った美貌であるのは疑いようもない。そこにわたしという港町の顔役が出張っているので悪目立ちが加速していた。

港湾都市の群衆の間で、わたしはちょっとした有名人だった。

あまり派手に行動はしないものの、王家より権限を与えられた特殊防衛部隊として街の視察は欠かさないようにしているので、市民からの覚えがある。逆に、宮廷内でわたしのこの扱いが知れていないのが現実だ。あまり広く知られるのも問題なので、本来、軍服を着ることも控えるようにしていたのだが、今日は諸事情で致し方なく軍服を身に纏っていた。白と黒の対比する軍服の男女が並んでいれば、それはもう道行く人々の視線を集めまくっていた。

「どこまで本気かは知らんが、邪魔だけはするでないぞ」

「もちろん、お役に立ってみせますとも」

甘ったるい笑顔で返されて、渋面をつくる。何を言っても暖簾に腕押しでしかない。それきりむすっと口を閉ざし、わたしはここまで来た目的を待った。ラルフと話している最中に入港した貨物船から労働者たちがわらわらと流れて、いくつもの荷物を運び出していた。あえて視線を外しつつ、その労働者たちの人の流れを追っていると、あきらかにこちらを意識して挙動不審な人物を視界の端で捉えた。船の乗組員の格好をしているし、実際そうなのだろうが、その男が密輸に関与しているのはここ暫くの調査で既に判明していた。小遣い稼ぎで麻薬を流すぐらいならまだ見逃している。歓迎されているわけではないが、我が国では医療大麻が一部合法として認められている関係上、裏で嗜好品として流通している現状をそう強く取り締まっていない。低賃金の労働者を使って他国の大麻を流させるのは、残念ながら珍しいことではなかった。問題なのは、そんなものではない。

「来たな――アイネよ」

「はっ、ここに」

港の風景に紛れて、すぐ背後から声があがった。

横目で視線を投げかけると、シンと瓜二つの顔立ちをした女性が瞑目して立っていた。

赤銅の髪をポニーテールで凜々しく束ね、彼女が歩くたびに炎が舞うかのようだ。すらっとした長身に、すんなりと長い手足は同性として羨ましい限りで、ドレスではなくキュッと引き締まった男装は、服の色合いは地味なのに、どこまでも秀麗で美しい。これでわたしよりも二つ年下なのだから解せない。発育がよすぎる。

アイネとシンは双子の姉弟で、わたしにとって家族同然の腹心だ。

「周囲にそれらしい奴はおったか?」

「ええと・・・、お嬢、その前にこの男は?」

アイネは訝しげに細めた目で、ラルフを睨んだ。・・・うん、敵意はないけど怪しいな。気持ちはわかる。

二人はお互いに上から下まで入国審査のごとき厳しさで睨めつけ合った。先手を打ったのはラルフだ。

「ラルフと申します。あなた方の主人の婚約者です」

おい、誰がだ。

ツッコミをいれる前に、アイネの目から火花が散った。翡翠の瞳に剣呑な色が濃くなる。

双子のシンパシーで何かを察したらしいシンが、わたしの肩を掴んで少し離れるようにと無言のまま促す。

直後・・・、―――シッ!

唐突に空気が横に裂け、アイネの手刀が一閃、放たれる。予感がなかったわけではないが、少佐の階級章がバッチリ掲げられている相手に対して、まさかやらないだろうと思っていたが、わたしの腹心はやはり我慢強くなかった。

アイネの攻撃は予備動作なしで見事な技巧だった。だがしかしさすが近衛きっての黒狼とでも言うべきか、ラルフはそれを読んでいて、アイネの手をなんなく叩き落とした。瞠目したアイネの眉間に、トンと指先が弾かれる。

「うぐ・・・っ」

意表をつかれたとはいえ・・・いや先に意表をついたのはアイネだが、彼女がこうも遊ばれるとは、やはりこの男は油断ならない。

「ずいぶんな挨拶ですね。相手が私だからよかったものの、如何なる時も主人であるエミリア嬢の責任になると心掛けるべきですよ」

「なにを・・・っ」

「アイネ、やめんか。・・・すまぬ」

「いいえ、かまいません。このくらいのじゃれ合いは可愛いものですよ。優秀な護衛ですね、的確に急所を狙うとは流石です。首の肉を削ぎ落としにくるとは驚きです」

「・・・・・・いや、・・・う、うむ・・・申し訳ない」

アイネの忠臣ぶりはありがたいとともに、少々行き過ぎのきらいがあって、なかなかに悩みの種ではあるのだ。海軍や警察関係者と会議を設けようものなら、すぐに噛みついてしまう。その理由がわたしを見かけで判断して侮る輩を捨て置けないせいなので、強く叱りづらいのも厄介だ。だから日々の従者としての役割を、物静かで感情の起伏の少ないルネが請け負って、アイネには密偵まがいなことをさせている。わたしという起爆剤がない限り、アイネは非の打ち所がない優秀な兵士なのだ。

「アイネ、こやつは迷い犬じゃ。放っておいてよい」

「あれ、保護してくれるんですか?大歓迎ですよ」

「おぬしは黙っておれ。アイネ、いいからはよう報告せい」

納得はしてないものの、やり込められてしまった以上、分が悪いと悟ったアイネは唇を尖らせて拗ねている。こういうところは年相応の可愛らしい子供だ。指でくいくいとアイネを呼び寄せ、その頬に唇を押しつける。

「そう拗ねずともよい。そこの男は正規の訓練を受けておる生粋の軍人じゃ。おぬしは十分に強いのだから、誇りを持て、わしの【太陽(アイネ)】」

アイネの表情は瞬く間に明るくなる。この素直さが暴力に直結しなければもう少しやりようもあるのだが、アイネにとって主人の存在が肥大している以上、こればかりはどうにもできない。アイネは頬に手を添えて喜びを噛み締めながら、上機嫌に報告してくる。

「西通りのホテルでコルノー貿易の次男坊が滞在中です。例の武器商との密会現場も押さえてあります。武器商の一団の滞在先も張っておりますが、警戒が強く内部に潜り込むにはいたっておりません」

「ご苦労じゃったな」

コルノー貿易とは何を隠そう、ジェラルド老伯爵の婚約者のご実家である。彼女には兄が二人おり、きな臭い動きをしているのは下の兄だ。嫡男は堅物ながらも相当なやり手で、後継者としてすでに各国を渡り歩いて実績をあげているが、そんな長男と比べられて育った次男坊は、はっきり言ってどうしようもないドラ息子である。幾度となく問題を起こしては、コルノー社長が頭を悩ませていた。末娘が玉の輿に乗って幸せになろうというときに無粋も無粋だ。小競り合いや喧嘩などは可愛いものだが、今度ばかりはおいたが過ぎる。他国の武器商人と怪しげな密談をしているとあっては、看過できるわけもない。先ほど入港した傘下の貨物船に密輸武器があるのだ。

「決まりじゃな。積み荷にあたりをつけるとしようかの。二人とも付いてこい。・・・あ、シン、少しかがめ」

無言のまま首を傾いだシンが、わたしの前で素直に膝を曲げる。踵をあげたわたしは、先ほどアイネにしたように、シンの頬にも口づけを贈った。

「心配せずともそなたもわしの大事な家族じゃよ。かわいい【(シン)】や」

無表情のシンが鼻先を擦る。アイネと違って感情をあらわにしないが、これが照れている動作であることは知っている。アイネにだけ愛情表現をされて少し、淋しそうにしていたのを見逃したりしない。正反対の双子だが、主人から愛されたがりなところはとてもよく似ているのだ。

「エミリア嬢、私も同行しても?」

「・・・・・・勝手にせい、っうわ!? な、なんじゃ!?」

ラルフは片腕で軽々とわたしの身体を持ち上げた。急に開けた視界に驚き、わたしは両手で彼の頭を抱える。指に掛かった黒髪はさらりとしてくせがなく、触り心地がよかった。いや、そうではなくて!

「お、降ろせ!馬鹿者!」

「あの貨物船に行けばいいのですね?」

「話を聞かんかっ!ちょ、ちょっと・・・、待てというに・・・っ!」

ジタバタ暴れようにもスカートが捲れそうで派手に動けないし、なにより力の差は歴然だ。ラルフの腕はがっしりとして、わたしが多少暴れたところでビクともしない。軽快な足取りで歩かれてはもうどうしようもない。閉口するわたしを見上げ、悪戯っぽく笑う。噂にあった気難しい印象とかけ離れていて、ちょっと可愛いと思ってしまうのがまた口惜しかった。わたしと話すときのラルフはおおむね笑みを浮かべていて、さもわたしだけは特別だと言われているようで落ち着かない。

「・・・おぬしは、顔の良さで色々なことが許されていると理解した方がよいぞ」

「わかっているからこそですよ。エミリア嬢、私の顔面それなりにお好きでしょう?」

「大多数の者が好いておろうよ・・・」

抵抗する気も失せたわたしがぐったりともたれかかる背後で、アイネが『私は嫌いですよ』とドスのきいた声で少数派の意見を零していた。


***


普段と違い軍服で職務に当たっているわたしに、貨物船のオーナーである小太りの男は、冷や汗をかいてしきりにハンカチで額を拭った。涼しい潮風に当たっていても、汗が引く様子がない。

「お嬢、私めの船でいったい・・・」

この港湾都市で暮らす者にとって、わたしの存在を知らないものはいない。平素ならば街の治安を見守っていることがほとんどの存在が、何か捜査をしているとあって、ただ事ではないと街のみなが感じているのは明らかだった。そう思ってもらわねば困る。その為に、わざわざ軍服で街まで赴いたのだから。そこに追加要素として、ラルフがいるものだから、輪をかけて目立っているのは少々、計算違いだが。

海軍のテリトリーに近衛がいるのも問題だし、それがティルグナード伯爵の跡取りともなればなお悪い。あとでお歴々に釈明しておかなければ、面倒なことになりそうだ。そっちはそっちで頭が痛い話だった。

ああ、面倒なことといえば、もうひとつ。

夜会を抜けてからの噂話がどうなったかを調べていない。港湾の仕事に追われてあれからどこの夜会にも出席できていないし、同世代の友人がいないから噂に触れる機会もないのだ。私事で部下を使う気にもなれないし、正直知るのも少し怖い気がしている。

由緒ある伯爵家を真正面から外聞悪くふれ回ることはしないだろうが、ラルフが乱心したぐらいのことは囁かれていそうだ。わたしに関してはどう扱われているだろう。ペットのように可愛がっていた人間が、急に玉の輿に乗ろうとしている。妬みや嫉みを浴びるだろうか、それとも男爵といってもあのリストワール家だからと祝福されるのだろうか。というかわたしに関してはこういう職種だから嗅ぎ回られると厄介極まりないのだが・・・ああもう、頭痛い。

いま考えても詮無きことを脳内から追い出し、思わず作ってしまった渋面を整えてオーナーに向き直る。

「なに、少し調べたいことがあるだけじゃ。そう堅くなるな」

オーナーは今回の件に、何一つ関与してない。気弱でお人好しがすぎる性格の男は、労働者の資質を問わないためか、度々こうしていいように密輸の足に使われてしまうのだ。かといって、労働基準を明確に定めてしまうと、学のない労働者が弾かれてしまう。彼の人情の厚さは、それだけで才能なのだ。悪用する連中の露払いはしても、その後の有り様を取り締まる気にはならない。

「一部の積み荷を改めさせてくれ。そうじゃのう・・・そこの、お前。ちと手伝ってくれんかのう?」

「はっ、はい!あ、あの・・・っ、じ、自分ですか?」

「ああ、おぬしじゃ」

素知らぬふりでわたしが指名したのは、さきほど挙動不審でこちらを見ていた乗組員だ。日焼けとも違う褐色の肌は遠い島国の特徴で出稼ぎにきたのだろう、仕事もまだまだ駆け出しという雰囲気が滲んでいた。

「ダニー、失礼のないようにな」

ダニーと呼ばれた乗組員はオーナーに念を押され、青ざめながら何度も頷く。こんな肝の小さな男に渡りをやらせるなんて、馬鹿じゃないのかと思わずにいられない。それともそう思わせることが狙いなのだろうか。

「先ほど馬車に運んでいた積み荷の中で、コルノー貿易に運ぶ荷をみたいのじゃが」

「はい、あの、ええと・・・・・・こ、こっちの・・・です」

ダニーは貨物船の傍に止められた数台の馬車から、一台を指さして、荷台の後ろに階段を降ろした。

わたしの指示を待たず、アイネとシンがさっと荷台に上がり、積み荷を見て回る。

既に積み込み作業は完了していて、理路整然と木箱が積み上がっていた。わたしは二人の作業を待つフリをして、荷台の中をゆっくりと見て回る。木箱に書かれた品名は工芸品や食料品、衣類とまちまちだ。貿易本社宛てのもの、コルノー家宛てのもの、それから郊外の生産工場の住所が書かれたもの。当然のごとく後ろをついてくるラルフも、何気なしに文字を追っていた。

双子が書類を確認しながら数をつきあわせるのを、ダニーは落ち着かない様子で見守っていた。視線は雄弁に物を語る。小動物を罠に掛けるようで少々可哀想になってくる。

不意にラルフが口を開いた。

「そういえば・・・コルノー貿易は最近になってアジャールとのルートを開拓したらしいですね。アジャールはガラス工芸の名産地なのですよ。エミリア嬢はご存じですか?」

「ほう・・・わしは他国のことは詳しくないのう。ガラス工芸か・・・どんなものがあるのじゃ?」

わたしは好奇心に目を輝かせて問い返す・・・、もちろん嘘である。

世界情勢に常に目を光らせなければ、この街を治めることなど出来ない。我が国との繋がりがある国はもちろん、周辺諸国の情報は事細かに調べ上げている。じじ様と面通りしているラルフがそれを知らないとは思えない。

唐突に話し始めたラルフの意図が定かではないが、何か考えあってのことのように感じたので、話に乗ってみたのだ。ラルフもわたしの意図を正確に推し量って、瞳の奥でしたたかに笑う。

「知人から見事なペアグラスをいただきましてね、アジャールの鉱山から採れる珪砂は純度が高くて透明度が段違いなのです。そこに加え伝統的な着色技術を用いて、オーロラのようなグラデーションが入っているのですよ。・・・と、まあ残念ながらいまは鉱山での採掘は一時的に禁止されていますがね」

「禁止? それはまた・・・ああ、そうだったな」

痛ましげに目を伏せれば、ラルフも調子を合わせて声のトーンを落とす。

「おっしゃるとおり、内戦が続いていますから。こればかりはどうにも」

「他国の話とはいえ、心苦しい話じゃな」

「ああ、失礼。暗い話をしたい訳ではないのですよ。そのグラスなのですが、もちろん加工技術も素晴らしくて、グラスカットの意匠など職人の魂を感じます。あれにワインを注ぐとそれだけで風味が格段にあがるような気がしますね。エミリア嬢にも、当家の晩餐でぜひともお見せしたいものです」

おい、余計なことをぶっこんでくるんじゃない。口の端を引きつらせ、それでもなんとか表情を取り繕う。

「そんなに見事なものなのか。そこに目をつけるとは、さすがコルノー社と言うほかないのう。じゃが・・・伯爵家の晩餐会など心得知らずのわしには恐れ多くてとてもとても・・・、気持ちだけありがたく頂戴しておこう」

「おや、つれないことですね。ああ、ワインといえば・・・」

ラルフは自分の傍にあった木箱をコンと叩いた。さもいま見つけたと言わんばかりだが、最初からあたりをつけていたなと、わたしは無言のまま彼の語りに耳を傾ける。

「今年は気候が安定していたから、当たり年らしいですよ。このワイン、ミーレ地方のもののようですし、折角ですからこのまま直売して欲しいくらいです。そういえば近くにコルノーの若様が滞在してるそうですね。交渉してみようかな」

「いいえっ!滅相もないです、ティルグナードの若様!ここにある積み荷はすでに卸先が決まっておりまして、あの・・・大変、申し訳ありませんが・・・あの・・・っ」

「ああ、冗談ですよ。驚かせてしまいましたね、すみません」

ラルフは軽い調子で肩を揺らし、木箱から離れた。双子の作業を伺うフリをして、鼻歌をこぼす。ダニーは可哀想なほど顔面を蒼白させ、わたしは彼らを交互に盗み見て嘆息する。ここまで脅しかける必要はなかったと、ラルフに文句を言ってやりたいが、いまはグッと堪えた。

「お嬢、確認作業終了です。問題ありませんでした」

アイネから書類を受け取り、頷く。

「ご苦労。オーナーに話をつけてくる。お前たちは待機しておれ。ああ、ダニーはもう戻ってよいぞ。手間をかけたの、ありがとう」

「は、はい!あ、いいえ!お疲れ様です!」

蹴躓きながら慌ただしく、貨物船へと戻っていく後ろ姿が情けなくて見ていられない。わたしは軽やかに荷台の階段を飛び降り、船着き場で待機しているオーナーの元へ向かった。背後から当然のようにラルフがついてくる。わたしは彼の顔を見ず、淡々と小言をこぼした。

「やりすぎじゃ。あんなあからさまにする必要はなかったぞ」

「あまりにも尻尾をちらつかせてるので我慢できませんでした。慎重にする狩りでもなさそうだったので。どこの武器商が出てきてるかで話も違うでしょうが・・・さて」

「・・・どこまで知ってここにおるのじゃ、おぬしは」

額に手を当てて項垂れるわたしに、ラルフは笑みで応える。言えないことには笑顔だけで、肯定と否定を返してくる。そうしていられると、言葉にせずともなんとなくラルフの意図が見えてきた。仕事は部下に任せてきたと言いつつ、現行調査中ではないのかと。

近衛兵団の狙いはコルノーの次男坊とつるんでいるその武器商人なのだろう。捜査対象が被る事案は色々と揉めることが多い。特にラルフは近衛として王家に近い立場だから、海軍のみならず他の兵団とも相性が悪い。近衛の採用基準は能力値の前に家柄が優先される。叩き上げの多い海軍からの風当たりは特に強く、手柄を巡って睨み合いもあるだろう。バランサーを担うわたしに近づいたのも頷ける。

となれば、じじ様はどこまで把握して、ラルフをけしかけたのだろうか。

今回の婚姻の申し入れは、わたしに近づくための作戦なのだろうか。こう言ってはなんだが、それはあまりにも悪手すぎる。商家や中流貴族の娘を引っかけるのとはわけが違う。おおやけにされていないとはいえ王家とも繋がりのある男爵家の娘を誑かしたとなれば、もみ消しに時間のかかる面倒ごとになるのは火を見るより明らかだ。それすら込みで接触を図った理由があるなら、それは港湾都市の実権を握ることが目的ということだろう。その可能性は大いに有り得る。口ではなんと言おうと、わたしを妻に迎え入れるということはそういうことなのだ。

近衛兵団の中枢を担う者として、握っておきたい手駒だろうことは想像に難くない。いまにして思えば、同格のジェラルド邸で盛大に公開プロポーズしたのも、他に特務部隊のことを知り得ている連中への牽制だったのかもしれない。ティルグナード家が唾をつけようとしている令嬢を横から名乗り出てかっ攫うのは、並大抵の家に出来ることではない。でなければ、こんな外見詐欺の令嬢に声を掛けたりはしないだろう。

いや待て、公開プロポーズの条件を出したのはじじ様だ。とすれば祖父自ら牽制を勧めた可能性があるのか・・・?

じじ様の考えろという申しつけの通り、あれこれ可能性を照らしてはいるが、思考はクリアにならない。

ラルフは相当な切れ者で頭の回転が速いから、会話自体は好ましさがある。こちらが一つの話題を出せば、十の切り口を用意しているのがよくわかった。それはわたし側にも言えることで、探り合っていることはおいといても、こういう相手が自分のパートナーになるなら、悪くない・・・と思う。

そういう意味でこの政略結婚には価値がある。近衛兵団の情報網が得られるなら、こちらとしても利用価値は十分にあるのだ。じじ様はそれだけではないと言うが、わたしにとって結婚というのはそういうものの手段でしかない。けれど、この考えは本当に正しいのだろうかという疑問が頭をもたげる。早計すぎるのは悪い癖だと窘められたばかりなのだ。

歩きながらラルフを見上げるとアクアマリンの瞳とかち合う。ずっとこちらを見られていたのではないかというぐらい、当たり前に視線がぶつかって戸惑った。切れ長で鋭さがある目なのに、そんな彼が浮かべる穏やかな微笑みは、多くの乙女を魅了してしまう抜群の破壊力で。

「・・・・・・・・・」

きっと、わたしと同じ年頃の娘は、もっと素直にこの微笑みに胸をときめかせて喜べるのだろう。

煌めく王子様のような殿方から求婚されて、一瞬で恋に落ちて、そうして御伽噺の結末よろしく『いつまでも幸せに暮らしましたとさ――』となるのだろう。

わたしだって、自分の心のままに動けたらきっとどんなに・・・。

『エミリア嬢の御心を。私が望むのはそれだけです』

嘘つき――心のどこかでそう思ってしまう自分が、いまは少し憎らしかった。


***


待機させていた間も終始不安そうなオーナーに問題はなかった旨を伝え、協力の礼を述べたあと、わたしとラルフは船着き場を離れ、アネモイ運河に伸びた橋の欄干に背もたれて一息吐いた。視界を見下ろせば、整備された運河を港湾都市名物のゴンドラがゆったりと流れていく。ゴンドラが向かう先のゼピュロス小運河から、コルノーの次男坊が宿泊している西通りの高級ホテルまでは目と鼻の先だ。シンを私たちのすぐ傍に待機させ、アイネには先にくだんのホテルを張るように言いつけた。ダニーが動くとすれば夜だろうか、それともラルフのけしかけに戦慄していたから、我慢できずすぐに動くかもしれない。

バカ息子代表なコルノーの次男坊よりも、気にすべきなのは武器商人だが・・・。

「手札を晒す気はあるか?」

雑踏に紛れて、問いかける。わたしの目の前を駆け抜けていくお転婆な子供を、苦笑した母親が追いかけていった。反対側の欄干ではうら若い恋人たちがジェラートを食べさせあっている。甲高い笑い声に目を向ければ、高級そうな宝石をジャラジャラ身につけたマダムが、買い物袋をやまほど抱えた旦那様の手を引いて次はどこの店に入ろうか急かしていた。

何気ない日常の風景に溶け込んで、もう一度、問いかけた。

「そなたの持っている情報が欲しい。答える気はあるか?」

「あなたの質問には何でも答えますよ。私のプロフィールでも、当家の資産額でも、宮廷内の泥沼な愛憎関係でも」

「笑みで返しただけでは答えたうちに入らんぞ」

「そうですね・・・、では、頬にキスのひとつもいただけるなら」

「・・・・・・」

もしや、さきほど双子たちにキスしたのを根に持っているのだろうか。家族間の触れあいに嫉妬されても困る。

視線だけでわたしの言いたいことが伝わったのだろうが、ラルフはどこ吹く風で笑みを崩さない。どこまでが本当の気持ちなのかわからない。これだけの色男なのだ、手練手管で女性を意のままに落とすことは容易そうだし、実際にいまわたしを絆そうとしているのだろう。こちらとしても近衛が持ち得る情報は欲しい。ここはおとなしく応じておくのが有用そうだ。

そっと頬に手を伸ばせば、ラルフは意外そうにしつつも身体を折り曲げた。間近に迫る美麗な顔に、わたしはたじろぐ。親しい友人のいないわたしにとって、家族以外としたことのない行為だといまさら羞恥が追い立ててくる。鼻腔をくすぐるコーヒーアブソリュートの香りは相手が大の男だと知らしめてくる。恥ずかしさに飲まれる前に、ぬくもりをパッと押しつけ、すぐに身体を離した。

「・・・これでよいか?」

上擦りそうな声を押さえ、気丈に振る舞う。満足そうなラルフの顔に腹が立つ。経験豊富そうな男からみれば、これしきで照れているわたしはさぞ幼く見えているだろう。

「何でもお答えしましょう、私の姫君」

恭しく礼をとる姿は様になっているが、いまのわたしには煽っているようにしか映らない。込み上げる苛立ちをなんとか飲み下し、冷静になれと自身に言い聞かせた。

「それで、近衛の目当ての武器商はアジャールのどこの手のものだ? あそこは内戦で忙しいと思っておったが」

「・・・! さすが、やはりあなたは最高です」

「わ、ぷっ!?」

ぐっと腰を引き寄せられ、腕の中に抱き留められた。服の上からでもわかる堅い身体のぬくもりに驚き、ラルフを突き飛ばそうとしたが、背中に回された腕がそれを許さない。意識して力を込めているように見えないのに、離れようにもビクともしない。

「これっ、何をする・・・!?」

「――そのままで」

耳元にささやかれ、身体がぞくりと震える。力が抜けそうになったのを悟られまいと、彼の腕をギュッと掴んだ。

「アジャールの戦況はどこまでご存じですか?」

「・・・・・・保守派の勝利が目前だと」

海を挟んだ隣国のアジャール連合国はいくつかの少数民族からなる自由主義国で、数年前から内戦が続いていた。現状維持の保守派と、新たに王政を取り入れようとする改革派で意見が割れているのだ。改革派を主動しているのは戦闘民族の面々で、国土の独占が目的らしいのだが、彼らの横柄なやり方が際だってほとんどの部族が保守派に回っている。はっきり言って無為な消耗戦だった。保守派が幾度となく戦を鎮静させては、繰り返し火種があがり、その都度、無辜の民が犠牲になる。他国の戦況だとしても聞いているだけで気持ちが滅入る。

「そう、今回も慎重な保守派の勝利で終わります。リーヴェタニアは戦に介入こそしませんが、保守派との友好同盟があります。可能な限り終戦後の復旧支援はするでしょう。しかし、リーヴェタニアに改革派の武器が流れていると知れたら?」

「まさか・・・」

「そのまさかです。大国のリーヴェタニアと改革派に繋がりがあると疑念を持たれれば、保守派の中から改革派に寝返る部族も現れ、戦の長期化は免れない。つまり、」

「――近衛が追っているのは【戦争屋】か。しかも、おぬしが港まで出張ってきているとなれば、上陸しているのは大幹部アイザック・ヒルの一団じゃな?」

ラルフの腕の中でみじろぎ、歯噛みする。焦燥に駆られ彼を掴んでいた腕に力が入った。

「ご存じでしたか」

敬服しますとお世辞を述べ、怒りをなだめるようにラルフがわたしの髪を手ぐしで梳いた。骨張った指がうなじに触れるのが、どうしようもなくくすぐったくて、抗議の目を向けるとすぐに謝られた。どうやらそれは無意識の所作だったらしい。天然の女たらしはタチが悪いったらない。

「各国を渡り歩いて災禍をばらまく死の商人じゃろ。己の利益のために、火種をまき散らし戦争を長引かせる害悪。そのくせ扱う商品は一級品だから、逼迫した連中はやつらから買わずにいられない。悪循環の塊じゃな」

「まさしく、生きぎたないハイエナのような連中です」

「それがいま、すぐ傍におるのじゃな・・・」

わたしはあくまで武器の密輸の疑いがあるということで捜査していたわけだが、ラルフの話と照らし合わせれば、ことは国家間の政治問題に発展しかねない危険な状況だった。早急に手が打てるのは不幸中の幸いだ。

【戦争屋】というのはただの蔑称まじりの通り名で、本来は重工業企業としての名前があるのだが、なにせ裏での通り名の方が悪目立ちするほど、武器売買に見境がない。自分たちの利潤のために手段を選ばず、なかでも大幹部のアイザック・ヒルは組織の一翼を担う稼ぎ頭の筆頭だ。

アイザックの目的は当然――。

「【戦争屋】が欲しいのは、コルノー貿易と取引したという証明です。王国きっての貿易商と繋がりがあるというだけで、あとはどうとでも出来る。次男坊は救いようない馬鹿ですが、それでもコルノー社の正当な血族ですからね」

ラルフの言葉に頷く。あのドラ息子、いままでの些事には目をつむってきたが、今回ばかりは庇いようもない。

たとえ銃一丁でも契約書にサインがあれば、それは立派に商談成立の証だ。

わざわざ密輸慣れしていないダニーを使ったのは、露呈させることが目的なのだろう。わざと痕跡を残させて、リーヴェタニア側でも噂の真相を高めようという魂胆だったと。コルノー社長がアジャールへのルート開拓をしたタイミングも謀っていたとなると、前々から次男との接触の機会を伺っていたとみえる。そうまでして戦争を引き延ばそうなんて、下衆の一言に尽きる。

「おぬしはどう動くのじゃ?」

「私? 私の方針は変わりありません。あなたのお側に」

それまでの話の重さを気にもせず、歌うようにラルフは囁く。密談の最中だからと大目にみていたが、こやつ調子に乗せるとどこまでもつけあがる。耳たぶをくすぐる指先を払い落とし、溜め息をつく。

「言い方を変えよう。近衛はどこまで関与するつもりじゃ?」

「そちらの落としどころで構いませんよ。私としてはその方が望ましい。ああでも、捕り物には同行させて頂きますよ。こう言ってはなんですが、私は頭脳労働よりも、武功を示した方がきっとあなたに評価していただけるような気がしますから」

ぬけぬけと言ってくれる。ともすれば、わたしよりも先んじて手を打っていそうな予感すらあるというのに。

結局、事の最後までついてくるという確認がなされただけではないか。

お互いに必要な事情は知れたところで、わたしはラルフの胸を軽く押して一歩下がろうとしたが、背中に添えられたラルフの手は動こうとしない。

「おい・・・いい加減、離さぬか」

「おや、つれないことで」

白々しく言葉にするものの、ラルフはおとなしく手を緩めた。甘ったるい拘束から逃れたわたしは一度、馬車に戻る旨を告げると、彼もまた寄り添って歩き出す。もう勝手にしてくれ。

シンを呼び寄せて待機させている馬車までの道すがら、さっき見たことはアイネにチクらないようによくよく言い含めておいた。得体の知れない男にハグもキスも許してしまったとなれば、アイネは何に代えてもラルフを抹殺しそうで怖い。姉の性格を世界一理解しているルネは、言わずもがな口を閉ざすだろうが念のためだ。

「時にシン。お前はこの男をどう思う?」

背後に付き従うシンに問えば、彼は質問の意図がわからず首を傾いだ。赤毛の猫のようで可愛い。そんな弟分にわかるよう、重ねて付け足す。

「ええと、こやつはわしに婚姻の申し入れをしているが、おぬしはどう思う? アイネはあんな感じだったが、お前も何か思うところがあるか?」

アイネは全力で敵視していたが、シンの内心を確認していない。他人への興味は希薄だが、主人の一生に関わることなのだから、多少は思うところがあるだろう。シンは口元に手を添えて、少し考えるそぶりを見せたあと、訥々と呟いた。

「・・・・・・『若様』と呼ぶべきか『主人(マスター)』と呼ぶべきか迷っております」

「へぁ?」

呆けたわたしのとなりで、ブフッと堪えきれずにラルフが吹き出す。洒落っ気のないシンはもちろん大真面目で言っている。待って待って、受け入れるのが早すぎる。

「シ、シン・・・ちょっと、待つのじゃ」

「親方様から貴族の結婚は光の速さで事が進むと聞きました。早めに呼び名を決めて慣れておかねばと思うのですが、親方様は『大旦那様』なので、そうなると『旦那様』と呼んでもいいのですよね? お嬢はどの呼び名が一番しっくりきますか?」

かつてないほど饒舌な腹心に、からかうつもりだったわたしの方が踊らされている。シンが無邪気なだけに、叱ることもままならない。

「ちがうちがう、そうでなくてな?」

「なるほど、ラルフ様の意見を仰ぐべきと」

「そうでなくてな!?」

ラルフがうつむいて肩を振るわせている。顔を隠してこちらを見ないあたり、大爆笑ではないか。顔を赤くするわたしの横で、取り成すように咳払いをしたラルフがニヤニヤ笑ったまま顔を上げた。まったく取り成せてない。

「いやはや、シン君も相当優秀な従者ですね。ぜひ私と仲良くして欲しいものだ」

「自分のことはどうぞ、シンとお呼びください。お嬢のご夫君となられる御方なれば、自分にとって主人と同格になります。敬うべき御方です」

「そう? ではシン、きみの姉君は私を野犬か何かと思っていそうな雰囲気だったが、きみは違うのかい?きみたちの主人を誑かしている存在とは思わない?」

ラルフの意地悪な問いにも、シンは無表情を崩さない。あっさり首を振る。

「お嬢はご自身の信念を貫く御方です。誰かに流されたり、唆されて揺らぐものではありません。自分はそんなお嬢だからお仕えしているのです。そのお嬢が貴方様の腕の中に抱かれたり、親愛の口づけまで許しているのであれば、自分から申すことなど何一つございません。あ、いえ、姉の不敬はお詫びします」

とってつけたような謝罪に、ラルフはカラカラ笑った。わたしはといえば、可愛い弟分からの全幅の信頼に喜ぶべきなのか、後述の『抱かれた』などという誤解を招きそうな発言に怒ればいいのかわからない。はっきりしてるのは、これが羞恥プレイ以外のなにものでもないということだけだ。顔から火が出そう。

「いいよ、シンのその純真さに免じて許そう。私としてはエミリア嬢に嫌われてないと知れただけで十分だ」

「嫌う・・・? お嬢はラルフ様と出会われてから楽しそうにみえますが・・・」

「シン! もうよい、やめよ!」

恥ずかしさが限界に達して叱りつけると、優秀で鈍感な従者は顔色ひとつ変えずに口を閉ざした。ラルフだけがひたすら楽しそうに笑うものだから、八つ当たりに軍靴をおもいきり踏んづけたい気持ちに駆られた。わかってる、悪いのはわたしなのでそんなみっともないことはしないけれど。

「シン、私のことは少佐とでも呼ぶといい。エミリア嬢は敬称が好きではないようだから。正式に婚約が成立するまでは少佐で、その後はマスターと呼んでくれ」

そんな些細なところもこの男は気づいてしまうのか。そうなのだ、様付けにどうしても慣れないわたしは部下からも街の人々からも『お嬢』と呼んでもらっている。親しみを込めたあだ名のように響く『お嬢』という言葉が、いまでは無条件に背筋がしゃんとするので気に入っている。細かい背景はさておき、ラルフはそういうところも抜け目のない男だ。というかものすごい前提話を勝手に進めるんじゃない。

シンから見れば、ラルフといるわたしは楽しそうという事実は、思いのほか、胸に衝撃を与えた。シンもアイネも人の悪意に敏感だ。少しでも邪な気配があればすぐに気づくだろう。そのシンがラルフに対して、まったく警戒していないことも驚きだった。

なんともむず痒い気持ちにさせられたわたしが、馬車に戻ってまず初めにしたのは着替えだ。

ラルフを外で待たせ、シンに手伝わせながら、軍服から上流階級の少年が身につける男物のシャツとハーフズボンに召し替えた。軍靴だけは履き慣れたブーツのままだが、テイルコートを羽織れば、それに馴染むので気にならない。手先の器用なシンがわたしの髪をひっつめて、仕上げに帽子をのせれば完成だ。

着替え終わったわたしが、もう諦めの境地でラルフを馬車に招き入れると、彼はわたしの姿をみて楽しそうに手を叩いた。

「素晴らしい変装ですね、レディ。どこからどうみても社交界デビュー間もない名家の御子息ですよ」

「褒め言葉としておいてやろう。エスコートはいらんぞ、どこからどうみても坊ちゃんだからのう」

「腹違いの兄弟という設定であれば、抱きかかえて歩いても構いませんか?」

「いいわけあるか、馬鹿者! ・・・わしはアイザック・ヒルの顔を知らぬので、一度顔を確認しに行く。ホテルがハズレなら、そのまま滞在してる屋敷まで調べるぞ。異論あるまいな?」

「もちろん」

にんまり笑って頷くラルフに、こちらは少々顔をしかめて頷き返す。さすがにラルフの方は【戦争屋】の顔を知っているだろう。外交に出向く公子様方の護衛にきっと彼は同行しているだろうし、そうなれば良くも悪くも国内外さまざまな重要人物は記憶しているに違いない。

「ああ、しかし・・・あなたが特定の男を追いかけるなんて嫉妬で狂いそうです。思わず刺してしまいそうだ」

腰に佩いた剣の柄を撫でる目は本気でそう思っていそうで怖い。偵察の邪魔だからやめてくれ。

我が国の軍用刀はサーベルで統一されているが、ラルフの剣はそれよりも刀身が長く、幅も広いクレイモアだ。(ヒルト)の部位は黒漆で見事な装飾がなされ、鞘も曇り一つなく真っ黒だ。まず間違いなくオーダーメイドの一点物だろう。いともたやすく軍規を乱しても許されているのは、伯爵家ゆえか、それとも彼の並々外れた戦闘力ゆえなのか。それでもまかり通るのだから、信頼もあるのだろう。

「殺してしまっては情報を得られぬぞ。死人は語らぬからな。おぬしのことだ、密輸の阻止以外にも目的があるのではないか?」

「答えてよろしいので?」

「機密を簡単に破ろうとするな。そういう悪趣味な冗談は好かん」

真面目に叱りつけると、ラルフは一拍おいて息を乱して悶えた。なんでだ、興奮するんじゃない。

「自分でいうのもなんですが、私は優秀すぎまして、人に持て囃されて育ってしまったもので叱られるのがとても新鮮で嬉しいんですよ」

「嬉しいとかいうより、おかしな性癖の人間の反応にしか見えないのだが・・・」

「あなたに叱られるのは心地よくて・・・・・・癖になりそうです」

「や・め・ろ」

くだらない言い合いをしている間に馬車がとまり、わたしは杖を片手に降りる。

堂々とした足取りでホテルの正面玄関をくぐると、フロントスタッフに扮したアイネがすぐに寄り添った。一瞬、ラルフを見て舌打ちしたのは聞かなかったことにする。わかっているとは思うが、ここで喧嘩するなよお前たち。

「――二階のラウンジに、武器商人の男も少し前に現れました」

「わかった。ダニーはどうしておる?」

「一足先にラウンジに乗り込んできまして、次男たちと揉めたので武器商の仲間に拘束されました。あの船乗り『お嬢が動いているからもう無理だ』と必死に嘆き訴えていました。賢明ですね、攫われましたけど。武器商たちが滞在中の屋敷に連行されています。この屋敷ですが、どうやらコルノーの次男のために父親が買い与えた別宅のひとつみたいです。ダニーに関してはその後、屋敷から移動はしていないということしか・・・」

アイネの報告に頷く。

【戦争屋】は国外に逃げてから事件が明るみになるように仕向けたかったのだろうが、ダニーの単調さが逆に仇になってしまったようだ。あまり手酷くされていないとよいが、どのみち不要な駒であることには違いない。コルノーの持ち家で最悪のことを起こすとは思えないけれど、翌朝になって遺体が運河の桟橋に引っかかっていたりすれば目覚めも悪い。ちょっとした小遣い稼ぎのつもりで命まで失うのは、勉強料として割に合わないだろう。

二階の吹き抜けのラウンジレストランにやって来たわたしたちは、すぐにその一団に気づいた。ドラ息子の代名詞である次男坊はふんぞり返って足を組んでいるし、その対面に座る男は生成りのよい服を着て貴族風を吹かせているが、大蛇のように邪悪な眼差しがそれをぶち壊してあまりある。

素知らぬふりで一つ離れたボックス席に座り、その風貌を盗み見る。

次男坊たちから背を向ける位置でわたしの向かいに座ったラルフが、ウェイターに珈琲とサンドウィッチを頼んでいた。のんきに食事を摂るつもりか。どんな図太い神経をしているのやら。

ラルフに呆れつつも、改めて彼の奥の席を注視する。

各国を渡り歩く死の商人は、不気味なほど色白の男だった。石膏のような肌に、飄々とした狐のような眼、鼻が高く顔立ちははっきりしていてハンサムと言えばそうなのだが、表情がのっぺりとしていて何を考えているのかがわかりづらい。痩せた身体だが、姿勢のあり方を見れば戦闘に慣れているのはわかる。剣を佩いていないから、手首かブーツの裏かに暗器のひとつは仕込んでいそうだった。従僕を装った屈強な護衛を何人も連れているが、たぶん、己の身ぐらい自分で何とか出来るだろう。

「・・・若いな」

ナッツを摘まんで口に放りこむ。小声で感想を漏らせば、ラルフがクスリと笑う。

「あなたがそれを言いますか」

「思っていたより若いということじゃ。大幹部と言うからもっとジジイが出てくるかと思えば、おぬしとそう変らないのではないか?」

「いやいや、さすがに私の方が若いでしょう」

ラルフは二十六歳で、それと見比べればまあ・・・うん、アイザック・ヒルは三十路半ばといった所だろう。そうだな、さすがに失礼だったな。

わたしたちのテーブルにサンドウィッチが運ばれてくるのと同時に、次男坊たちのテーブルに食後の紅茶とデザートが運ばれていた。アイザックの席にだけ差し出されたケーキ皿に、ちょっと目を向いてしまう。意外と甘党。

次男の方はこちらに見向きもせず何やら不機嫌そうな様子で話しているが、アイザックは気づいている。少なくともラルフの存在には。帽子をかぶっているから彼の視線とかち合うことはないが、こちらが盗み見ているのと同じく、あちらも様子を覗っているのは感じ取れた。やはりこの男がいるのは目立ちすぎるかもしれない。

次男の怒りの原因はおそらくダニーの乱入だろう。わたしたちがくるより早く、一悶着おきていたのだから仕方がない。周囲に客が少ないのと、スタッフがオドオドしている雰囲気をみれば大方察しはつく。

「――エミリオ、ミルクは入れますか?」

「・・・! いや、必要ないよ。・・・兄さんの真似がしたいから」

急な男性名に反応が遅れてしまった。アドリブするなら前もって言って欲しい。いたずらに三日月をかたどる目元がにくたらしいったら。

サンドウィッチを咀嚼したラルフが、行儀悪く指についたソースを舐めた。そんな姿も艶っぽく見えてしまうのだから、顔がいい人種ってなにをしてもいいのだろうなと思えてしまう。

「午後は知り合いの行商の屋敷に招待を受けていますから、きっと珍しいものがたくさん見られますよ。異国の骨董品など希少ですからね。欲しいものがあれば父上たちには内緒で買い取ってあげましょう」

「無駄遣いはやめてください、兄さん。見聞を広げられればそれでよいのです」

「たまには甘えてくれてもよいのですよ?」

たまにも何も一度も甘えたことはないですが。苦々しく思いながら、わたしもサンドウィッチに手を伸ばす。一度トーストされ小麦の香りがふんわりと沸き立っているのを、ちょっと我慢できなかったのだ。シャキシャキのレタスとみずみずしいトマトの食感、スパイシーに味付けされた鶏もも肉は絶品だ。手抜かりのない食事に感謝の気持ちすら芽生える。

食事を摂りながら、話の流れを組み立てていく。わずかな付き合いしかなくともラルフはきっと合わせてくるだろうと、半ば確信めいたものがあった。

「でしたら、剣が欲しいです」

「だめですよ」

「振るうわけではありません。それこそ珍しい装飾がされたものとか。部屋に飾って見栄えするものが欲しいのです。かっこいいでしょう?」

「だめです。あぶない。万が一にも怪我をしたらどうするのです。おもちゃではないのですよ」

『兄さんは過保護すぎるのです!その甘やかしは如何なものかと思います!』

わたしの唐突なアジャール語に、ラルフが目をむいた。驚いたのは一瞬で、なるほどそうくるかと、驚愕よりもすぐに楽しそうな笑みに取ってかわる。

『エミリオ、興奮すると母国語になる癖が出ていますよ』

『そうやって話を誤魔化すのはズルいです!甘えてもよいと言ったのは兄さんではありませんか。わし・・・、あ、いえ僕は剣が欲しいのです!』

いけない、演技に力が入りすぎてうっかりいつもの一人称が出てしまった。こういうときのために社交界を無言で通していたのだけど、やっぱり正しかったかもしれない。

『それならペーパーナイフを買ってあげましょう。飾りの宝石も好きな石の入ったものを選ぶといい』

『兄さん!僕はお土産を買いにきたのではないのです』

『我が弟ながら怒っている姿も可愛いですね』

頬を膨らませるわたしに、ラルフが素で破顔した。真面目にやれ。

わたしを諫めるふりをしたラルフが懐中時計を取り出して時間を確認し、おもむろに立ち上がる。咳払いを挟んだあと、返ってきたのはリーヴェタニア語だ。

「エミリオ、少し待っていなさい。デザートも好きなだけ頼んでいてよいですから。・・・シン、一緒に来てくれ」

わたしはいかにも怒ってますというアピールで、ラルフからぷいっと顔を背けるとソファーに深く座り直し、デザートを吟味する子供のようにメニューにかぶりつく。メニューの上から視線を覗かせると、ラルフが人差し指を口にあててキザっぽくウインクしたところだった。それには全力で無視をして、ラルフの後ろに続いたシンを見れば少ししょげた子犬のような瞳に合う。大好きな主人と離れがたいが、これが必要な段取りだと理解している。世界に見せつけたい、ウチの子が可愛い。

ふたりがラウンジから離れたのを見計らって、アイザックの護衛が一人それを追うように出て行った。そうだろう、軍服もだがあの顔がなにより目立つ。ラルフがアイザックを知っているように、アイザックもまた伯爵家の跡取りを知らない道理はない。

『――少しよろしいかな、坊や』

演技とはいえ甘いもの食べたくないなとメニューを追っていたら、お目当ての男に声を掛けられた。

アジャール語を使い柔和な喋り方で紳士的に礼をとっているのがまた空々しい。わたしは慌てた様子で頭を下げた。

『あっ、す、すみません。うるさかったですか?』

帽子を取らないのは品位に欠けるが、さすがにこれがないと女だと知れてしまう。苦しいが世間知らずの坊ちゃんだからということで押し通す。アイザックは気を悪くすることもなく、わたしの謝罪を押し留めた。

『いえいえ、かまいません。そんなことではなく、失礼ですがお連れ様はティルグナード伯爵のご長男ではありませんでしたか?』

『え、ええ。おっしゃるとおり、ラルフ・ドグラ・ティルグナードです』

『やはり。しかしティルグナード家のご兄弟はラルフ殿の下に弟君がいたのは存じておりましたが、その・・・』

言いよどむアイザックに、首を振って否定する。

『あっ、えっと、僕は直系ではありません。伯爵家に属してはいますが遠縁も遠縁で・・・ラルフ兄さんには光栄なことに幼い頃から実の弟のように可愛がっていただいているだけなのです。家も王都から離れた片田舎ですし、父の仕事の都合で僕も観光がてら遊びにきてまして・・・』

『なるほど、そうでしたか・・・。しかし鬼神と謳われる人物の意外な一面を見てしまって、声を掛けずにいられなかったのです。ご不快に思わないでくださいね』

『あの・・・よく兄さんは近寄りがたいと聞くのですが、そんなことないのですよ。少し誤解されやすいだけかもしれません』

『ほう・・・』

わたしという『弟』は本家分家の垣根を越えてラルフに溺愛されているんですよと主張してやれば、アイザックの関心をおおいに引いた。彼は口元に手を添えて、しきりに頷く。

利用価値があると思わせられればそれでいい。釣れろ、釣れろと内心で唱える。

『ええと、ミスター・・・』

『ああ、失敬。私はシルヴァンと申します。ラルフ殿とは仕事でお世話になってまして・・・』

『シルヴァン様、兄はすぐに戻ると思いますがよければこちらでお待ちになりますか?』

仕事などと白々しく言われ、鳥肌が立つ。汚らわしい【戦争屋】が何を言うか。聞く人が聞けば皮肉だとわかる。滲み出る醜悪さに反吐が出る。おくびにも出さずに席を勧めるが、男はそれを辞した。

『いいえ、もう出るところでしたので。・・・・・・ところで、坊やは剣に興味がおありで?』

――かかった。

喜んでしまいそうになる口元を引き締め、姿勢を正した。好奇心が抑えきれない少年が少し前のめりになるように意識して、アイザックに深く頷いてみせる。

『私の屋敷にはクラウ・ソラフのレプリカがあるのですが、よければ見物しにいらっしゃいませんか?』

『かの光の剣ですか。すごい、そう多くは出回っていない希少品ではありませんか!』

罠だとわかっていながら、素で興奮してしまった。いやまだ嘘と決まったわけじゃない、おびきだす文句にしても、実際にコルノーの屋敷に飾ってあるのかもしれないから。

クラウ・ソラフの剣といえば、悪神を打ち倒すことができる唯一無二の聖なる剣であるという逸話が有名だ。実在しない物語にでてくる架空の剣だが、芸術品のモチーフには用いられることが多い。しかしその剣の名を冠することが出来るのは本当に希少で、美術便覧に登録されているものも世界的にみれば両手の指で足りてしまう。純粋に見たい。

そうなのだ、剣が好きなのは設定ではない。ガチガチにわたしの趣味だ。

流行のドレスやアクセサリに興味が持てなくてごめんなさい。ロマン溢れる剣や弓やその他諸々の武具や骨董類の方がわたしにはずっと輝いてみえる。いけない、我を忘れてしまってはラルフを叱れない、しっかりしなければ。ああでも、あるなら見てみたい、クラウ・ソラフ。

『本当にお好きなのですね。そこまで熱狂的な方にはお会いしたことがありません。是非ともご覧頂きたいが、しかし困ったな・・・』

『えっと、何がでしょうか』

『私は仕事でこちらに来ていまして、明日には帰国する予定なのです。日を改めている余裕がなさそうで・・・いまから訪問していただくにしても、ラルフ殿とご予定がおありでしょう?』

『あ・・・っ、兄には予定を変更していただきます!それか、その、ご迷惑でなければ僕だけでもお邪魔しても構いませんか?』

世間知らずな坊ちゃんからのお願いに、アイザックの顔が華やぐ。そうね、そちらも罠に掛かったとお思いでしょうねと、腹を探り合う気持ちでいっぱいだ。

ラルフが従者も連れて行ってしまって、残された『弟』はひとり待っているわけだが、アイザックにとって何もかも都合がいいだろう。伯爵家から・・・いや、宮廷近衛兵団の重要人物から何を巻き上げたいのか、考えるにくだらないが、いまあなたは金づるを掴んで、とてもいい気分でしょう。そのまま浮かれていてください。

『ラルフ殿には私の部下に言伝を頼んでおきますから、先に私の馬車で移動しませんか?』

『いいんですか?ご迷惑では?』

言いつつも早く見たくて期待を隠しきれないと息を熱くする。好奇心の強い馬鹿な子供、とても扱いやすくて、簡単に御して掌握して、取引の材料に出来る。なんて都合がいい拾いもの。

アイザックの瞳の奥にちらつく感情に気づかぬふりをして目を輝かせると、彼は嘘くさい柔和な笑顔で鷹揚に言った。

『そんなことありませんよ。こんな可愛らしい同士が出来て嬉しい限りです。善は急げです。すぐに参りましょう』

わっと歓声をあげたわたしを、アイザックがスマートにエスコートする。部下相手に小声で悪巧みを伝えていることを気づかないふりで、浮き足だってホテルを出た。

会話に参加しなかった次男坊は、アイザックの『拾いもの』に訝しげな視線を投げたが、彼が別件だと告げればそれ以上の追求はしなかった。ホテルのすぐ傍に待機していた二台の馬車の片方に、わたしだけが乗せられた。客人として扱うつもりなのだろう。正直、アイザックや次男坊と乗り合いにされたら会話しているうちに不快感で吐いてしまいそうだったので安心した。

大事な取引材料に手荒くするつもりはないだろうが、軟禁される可能性は否めない。ラルフも双子もうまく立ち回ってくれる自信はあるが、わたしの方にも対応力が求められる。屋敷に着いてすぐに動き回るのは得策ではないかもしれない。とにかく流れに身を任せてみよう。

窓の外の景色が、市街地を離れて木々に囲まれた郊外に切り替わる。歩道もそこから続く池や花畑もきちんと整備されていて、午後の日差しを浴びて優雅に散策する人々の姿も目に入った。そんな風景に紛れて、ひときわ大きな一軒家の前で馬車が停まる。

歓迎してくれるというなら、望むところだ。

いざ悪の巣窟――コルノー家の別邸へ、わたしはその身を投じた。


***


燦々と照らされた快晴の空と打って変わり、屋敷内部は世間への後ろめたさを表わすように薄暗かった。

メインホールには大きな窓ガラスがあって日差しをめいっぱい取り入れられるようになっていたものの、廊下の奥へと進めば最低限の光が差す程度だ。これでは夕方かと疑ってしまうほどだ。

そのくせ見栄だけは一人前で、そこかしこに上等な絵画や骨董品がところせましと飾られている。時代背景や希少価値などおかまいなく、あちこちに飾り立ててこれでは折角の美術品としての格が下がる。はっきり言って下品だ。

けれど、改めて見えてきたものがある。

これらの品々は次男が所持している用に見せかけているが、実際のところコルノー社長自らの交易品と私財の一部なのだろう。少し見渡せばわかる。違法取引で禁じられている品が混ざっていることに加え、次男の人となりを既に熟知しているわたしとしては、これら全てが次男の所有欲を満たすものではないともわかるのだ。

我儘で手のつけようのないドラ息子を外に追いやっていると見せかけて、その実、ちょうどいい隠れ蓑の倉庫としてこの屋敷を使っているのだろう。さすがに大企業のトップともなれば綺麗事だけでやってきていない。

次男を検挙したところで、これらの財産が没収されることもない。正規の品々は社長の懐に戻るだけだし、違法品は然るべき場所に還されるだろうが、その全てが無償でとはいかない。そこから稼ぐことは容易だ。まったく恐れ入る。

別の意味で感心しきりのわたしに、傍で見張るアイザックが興味深げに尋ねてきた。

『エミリオくんは剣だけでなく、美術品にも造詣が深いのですね。その年で見事なものです』

茶化す様子もなかったが、だからといってこの男に褒められても嬉しくない。年齢はわざとそう見えるようにしているけど、中身は成人間近ですから。まあ、貴族女性がこっちの知識に明るいのはあまり大声で主張しづらいところではあるけれど。それでも仕方なく、わたしは得意げに胸を張って、誇らしさをアピールする。

『歴史と美術は男のロマンですから!王朝末期の英雄王の銅像をここでお目にかかれるとは思いませんでした。当時は銀よりも銅の方が貴重だったとか・・・それをこれだけの質量となれば、見事というほかありません』

ガラスケースに納まった銅像は、大の男の目線よりも高く鎧甲冑と同じだけの質量を持っている。仕事中とはいえ、こんな見事なものを拝める機会に巡り会えて、無意識に溜め息が零れる。背後からアイザックが相槌をうつ。

『ええ、その通り。これはまさしくあの時代における最後の傑作でしょうね。甲冑の紋章がここまではっきり刻まれて残っているものはそれだけで希少なのですよ』

『紋章の加工は独自の文化だったと聞いていますが、いまだに色褪せないとは驚きですね』

背負う大剣はツヴァイヘンダーだろうか。史実ではそうなっている。わたしの身の丈に近い剣を振るっていたなら、その膂力はどれほど凄まじかったのだろう。多少は誇張されているとしても胸躍らせずにはいられない・・・って、またときめいてしまった、不覚!

ガラスケースにかぶりつきになってしまったわたしは、身を引いて姿勢を正す。

本命のコレクションルームに足を踏み入れる前からこれではいけない。気を取り直したわたしだったが、直後に響いた大声に身を固くした。

「おい、アイザックの旦那よぉ、そんなガキ連れてきてどういうつもりなんだよ」

――馬鹿、お前、このクソ次男。

反射的に口から飛び出そうになった悪態をすんでのところで飲み下す。

アイザックをはじめ【戦争屋】一味は国際手配されているわけではない――が、極めて微妙な立ち位置の存在だ。世界的に有名な死の商人をおいそれと歓待する国はないだろう。その悪名は政治社会、あるいは貿易社会に明るければ知らぬ名ではない。この場合、どうふるまうべきか。刹那の間に答えを出す。

『アイザック? シルヴァンでなく?』

世間知らずの坊ちゃんはすっとぼけるに限る。

きょとんと首を傾ぐと、次男はガラの悪い顔にさらに睨みをきかせる。裏通りにたむろするチンピラよりよほどチンピラらしくみえる。

「坊ちゃんよぉ、公用語も話せるんだろ? ここはリーヴェタニアだぜ、さっきからペラペラ感じ悪いったらねぇ」

貴様の方がよほど感じが悪いぞ、とは言わないが。次男の言葉にわたしは怯えたふりをして身体を震わせた。アイザックが間に割って入りたしなめる。

「レオン殿、子供相手によしてください。すみません、エミリオくん。先にコレクションルームで待っていてください。ほとんどのものがケースに入っているので、好きに見学していてかまいませんよ」

名前についてはさらりと流し、アイザックは部下に二、三の命令を耳打ちすると、親しげというよりは少し強引な様子で次男の肩を掴んで廊下の奥へと消えていった。そうだった、ドラ息子がもう代名詞みたいになっていたが、次男の名前はレオン・コルノーだった。いらない記憶を掘り返してしまった気分だ。

それよりも次男と同じくらい邸宅を我が物顔で闊歩するアイザックはどういうことなのだ。適当に次男を持ち上げて対等な関係を築いているのかと思いきや、アイザック側に主導権がありそうではないか。次男なにか弱みでも掴まされているか・・・? 日頃の素行が悪すぎて、弱みになりそうな事象の候補が多すぎる。本当にどうしようもないドラ息子め。

あれそれ思考していると、明らかに子供の相手が不慣れとみえる頑強な男が、屈むこともせずわたしについてこいと指示した。背筋が張り出した広い背中を追いながら、周囲を確認する。数名の部下をこちらに振ったか。岩のような男と、それよりはヒョロいが戦闘要員の男たちが三人ばかり、わたしを取り囲むようについてくる。

このまま牢屋にでも連れて行かれるかと思ったが、アイザックの部下は本当にわたしをコレクションルームへ連れてきてくれた。ただし、わたしが部屋に足を踏み入れ、興味深げにガラスケースのひとつに近づいた隙に、扉は施錠されてしまったが。

ああ、なるほどここで軟禁しようと。

コレクションルームにはわたしと先ほどの岩男と、もう一人が残った。外の気配は消えていないから、残り二人は見張りだろう。ラルフと取引が済むまでは、ここから出さないつもりらしい。

コレクションルームは大広間かと見まがうほど広いが、コレクションを謳っていながらここの管理もまるでなっていない。ほとんど倉庫ではないか。美術館に寄贈した方がよっぽど有意義だ。釣り材料にされたクラウ・ソラフのレプリカも、この部屋の乱雑ぶりでは本当にあったとしても見つけるのには時間がかかりそうだ。あ、すごい、北国の神話伝承の戦女神像だケース開けて見たい。

浮き足だってキョロキョロとあちこち見て回るわたしを、見張りの男たちはそれほど警戒していない。それをいいことに、わたしは部屋をくまなく見て回った。

壁の上方には明り取りの細い窓が等間隔で並び、その全てが装飾に扮してしっかり格子になっている。小柄なわたしは通れそうではあるが、格子を壊すのは骨が折れる。入り口はわたしが入ってきたものが一つ。隠し通路はおそらくない・・・というか物が多すぎてあってもわからない。本棚の裏など仕掛け扉になりそうな箇所はあるにはあるが、その前に積まれた美術品を蹴散らしてでも使いたい手段ではない。

見張りを油断させる心づもりで、あれもこれもすごいすごいと、子供らしく忙しなくあたりをウロチョロしてはしゃぎ回っているとアイザックが戻ってきた。

『お待たせしました、すみません怖かったでしょう』

「気にしないでください、たしかにちょっと怖かったけど、マナーに欠けていたのは事実ですから」

アイザックに引っ張られずリーヴェタニア語に戻したわたしに、アイザックは肩を竦めてそれにあわせた。

次男坊に怒鳴られたからきちんと戻しましたと頷いてみせる。

「聡明な子ですね、彼にその知性を少し分けてあげたいものです」

答えかねたわたしは愛想笑いで返す。本当に聡明な子は初めて会った人間に、こんな簡単に着いて行ったりしないけどね。けれどアイザックはその反応にも好感を持ったようだった。笑みが深く刻まれ、背筋に薄ら寒いものが奔った。

「お連れ様の気を悪くしてしまってすみませんでした。喧嘩してしまいましたか・・・?」

「いいえ。彼はほとんどの時間を怒っているような人ですから。気にしなくてよいですよ」

「そうですか。それで・・・あのう・・・」

「はい?」

「シルヴァ・・・いえ、アイザック様は、もしかして・・・」

聞いてはいけないけれど、好奇心に勝てない。そう装って控えめに上目遣いになると、アイザックは困ったように顎に手を添えて苦笑する。

「お察しの通り、と言っておきましょう。他言なさいますか?」

裏を含む言葉に慌てて首を振る。この場でどうこうしようという意思はまだ感じない。【戦争屋】は【殺し屋】ではない。害がない限り、自分たちの稼ぎを脅かさない限り、自分たちから武力行使をすることはない。悪辣な連中にもプライドがあるらしい。扱っている生業には嫌悪するが、その矜恃は間違いなく正義だ・・・と思う。もちろん、手放しで認めていい輩ではないけれど。

「あの・・・、兄さんはまだ来ませんか?」

「ええ、少し遅いですね。使いを出しておきましょう。それより、この部屋で興味を引くものはありましたか?」

「そうですね・・・ 一通りみさせていただきましたが、どれも貴重なものばかりで驚いています。これら全て、アイザック様が収集されたものなのですか?」

「いいえ、連れの所有物ですよ。もっとも、彼は価値もわからずに集めているようでしたが」

「そうなのですか。それでこんな・・・」

管理の行き届いていない有様・・・と視線を動かす。アイザックも嘆息した。

「ええ、無粋でしょう。折角の価値ある品々もこんな扱いをされてしまうのですから、カラスが光り物を収集してるようなものですよ」

コルノーの次男坊とはあくまでビジネス上の付き合いなのだろうことがひしひしと感じられた。職が職でなければ、この人とはいい友人になったのかもしれないと思えてしまった。アイザックはこれらの品に財産価値を感じて、敬意を払っている。わたしを釣るために連れてきただけかと思えば、なんと知識にも明るいときた。美術便覧を片手に一日中、語り合えそうなマニアの血を感じた。

だがどうあってもその職が問題で、わたしたちは一生交わらない対極の位置に立たされるわけだが。

物には敬意を表せるのに、人の命を尊ぶことがない――それはわたしにはついぞ理解できない心だ。

「アイザック様――兄さんと何を取引なさるつもりですか?」

手近のガラスケースを撫で、わたしはアイザックを見た。帽子で半分隠れた視界から、アイザックの探る目を真っ向から受け止める。

「取引の邪魔をしない取引ですよ。何のことか察しているのでしょう?」

伸びた腕がわたしの手首を掴んだ。有無を言わさぬ力でグッと引き寄せられる。

「――ねえ、お嬢さん」

「・・・っ」

アイザックのもう片方の手で帽子を弾かれ、隠していた顔貌が露わになる。瞠目するわたしをアイザックの冷えた眼差しが見下ろす。いつから気づかれていたのだろう。参考までに聞いておきたい。

「観察していればすぐに気づきますよ。貴族女性は立ち居振る舞いを幼い頃より叩き込まれる。意識して歩き方など変えたところで、それは意識してそうしているというのがバレバレです。まあ、運び屋の坊やの言葉がなければ見逃していたかもしれませんがね。海神のお孫さん、あなたの利用価値は計り知れない」

ダニーの言葉がなければということは、気づいたのはあのラウンジの時からだろう。それなのに、男爵の孫娘という立場まで調べ上げたのなら恐れ入る。

「わしの価値をそなたに決められる謂われはない。控えよ、無礼者」

手を振り払うと、アイザックはあっさり解放した。見張りの男たちもいるなかで逃げられないと知っているからだろう。主君に口答えされ、アイザックの背後から岩男が前のめりで飛び出そうとしたのを、アイザック自身が制した。

「ほう・・・それが素なのですか? 海神とそっくりではありませんか。一線を退いたと聞いて油断していましたよ。嫡男はずいぶん前に亡くなっていましたし、港湾警備が緩くなっているいまが絶好の機会と思ったのですがね。まさかこんな幼いご令嬢があの巨大都市の実権を握っているとは・・・」

若くないと断ずるには、まあたしかに成人の儀を迎えていないから若者の分類に入るのだろうけど、それでもたぶん想像している年齢とは違いますから。失礼極まりないから、謝って。そこは謝って。

憤慨を押さえつけ、ひっつめていた髪を解く。流れ落ちた髪がふわりとなびき、固定されて少し痛かった生え際が楽になった。アイザックの言葉に飲まれないよう、わたしはわたしに必要な情報を聞き出す。

「それで、その坊やはまだ生きているか?」

「もちろん。子犬が少し吠えただけで始末したりしません。どちらかといえば・・・」

嘯くようなアイザックの言葉尻は次男のことを指しているのだろう。契約書を手に入れるまでは歩調を合わせねばならないが、それ以上の価値を感じていないのだろう。それどころか、あの癇癪持ちが余計なことをする前に然るべき処分をしたい気持ちが見え透いている。

「わしの目の前で愚行は許さん」

「ではどうなさいますか? 助けがくるとでも? あなたを拘束してしまえば、いくら鬼神のような強さを誇るあの男といえど何も出来ませんよ。あなたがヤツのお気に入りであることは事実なのでしょう?」

「さてな」

そんなことわたしが知りたい。どいつもこいつも腹を探り合っているんだ。お互いの仕事上、利益があれば助けにきてくれるであろう確信はある。それでいい、それ以上は・・・いらない。

「おぬしの方はどうなのじゃ。その様子だとあのバカ息子から紙切れ一枚ぶんどれてないのであろう。あやつはどうしようもないバカだが、自分の危険くらいは感じ取っているのではないか? 腐っても巨大貿易商の息子なのだから」

アイザックの眉尻がヒクリと動いた。よしよし、首の皮一枚繋がっている。【戦争屋】がすぐさまトンズラする状況でないのは救いだ。

「アイザック・ヒルよ、おぬしは美術商でも始めた方がよほど儲かるのではないか? おぬしの商才と知識ならば武器よりもよほど稼げそうだ」

「ははは、素敵ですね。けれどそれは叶いますまい。高尚な彼らを扱うには、私という人間はどうしようもなく終わっているのですよ」

わたしの皮肉に対するアイザックの答えはひどく冷めていて、その平坦な声音には諦めと悲哀が混ざっていたから、わたしを困惑させた。不本意に武器を売りさばいているとでも言うのか。他者の命をあれだけないがしろにしておいて、その道理は通らない。

「ならばいっそのこと出家したらよかろう。終わっているというのは、死んだときに初めていえる言葉じゃぞ」

「至言ですね。ご自分の半生にすら到達してない身でよく言いますね」

「口達者なのは海神の孫ゆえでの、そうそう改められるものではない」

「そうでした、見かけに惑わされてあなたの会話に乗るべきではない。聡明なあなたなら、この状況おわかりですね?」

アイザックの合図で岩男が進み出る。ここで拘束されるのは分が悪い。わたしは心の内で芸術の神に懺悔した。

――おお、神よ。汝が子の愚かな行為をどうか赦し給え。

ガッシャーン!!

杖を真横に突き出し、ガラスケースがけたたましい音を立てて割れた。

ひとつ、ふたつ、みっつ。手近のケースをたたき割ると、砕けたガラス片が床に散った。

「勝手に決めつけてくれるなよ、わしは自分を聡明と思ったことは一度もないのでな!」

アイザックがケースの中身に気を取られた隙に、身を屈めて素早く横をすり抜ける。驚愕した岩男の前に一呼吸で躍り出て、容赦なく顎を狙って一突き。岩男が目を回して昏倒する。

「こいつ・・・!」

もう一人の護衛が拳を振り上げるが、再び身を屈めれば男には低すぎてわたしの身体に届かない。あっさり空を切った男の拳が、その勢いのまま身体ごと壁に激突した。

「いまの音は!? 兄貴!?」

「――開けるな!」

盛大に響いた物音に、外の見張りが何事かと扉を開いた。アイザックの叫びと、わたしが扉めがけて跳び蹴りしたのがほぼ同時――。

ばっちり視線が交錯した見張りの男は、いったいどこから出てきたのか突如飛び出してきた銀髪の少女に驚き反応が遅れたおかげで、わたしは扉を思い切り蹴飛ばし、その勢いで扉に顔面を強かに打ち付けた見張りがひっくり返る。派手に後転した身体が廊下の壁に突っ込んで沈黙する。やばい、首の骨折れた? と心配したがすぐに呻き声があがって安心する。セーフ。

「このチビ・・・っ!」

最後に迫った見張りが懐からナイフを取り出す。失敬な。成長期は遙か彼方に終えているとはいえ、まだ万が一にもあと数センチくらい育つかもしれないだろう。振るわれた男の凶刃を、ダンスのステップを踏むように一歩下がって躱し、再度めいっぱい身体を屈めて放たれた矢のように一気に突進する。

杖の握りの先端を押すと、レイピアのように鋭く尖った刃が現れた。男の足首を狙って刺突する。呻く男から刃先を引き抜き、わたしは廊下を駆け抜けた。

「子供が逃げた!殺さず捕らえろ!ただの子供と思うな、油断してると喰われるぞ!」

アイザックの命令が屋敷に木霊すると、すぐさまあちこちの通路からバタバタと大勢の足音が駆けてくる。

殺さないでいてくれるのはありがたい。多対一はわたしにとって、もっとも得意な戦い方だったりするから。

前方から現れた複数人の男が威嚇で剣を構えるが、殺気がまるで足りない。わたしは中心をジグザグに駆け抜け、すれ違いざまに何人かの手足を突き刺した。傷など浅くてよい。向こうも威嚇なら、こちらも威嚇するまでだ。

切りつけられた数人が怒鳴りながら剣を振り上げると、傍にいる仲間に当たりそうになって、慌ててたたらを踏む。

室内で大振りするなんて馬鹿じゃないのか。身体が接触した仲間の男が、そいつに文句を言ってケンカ腰になっている。もみくちゃになっている隙にわたしはどんどん距離を離す。

身を低くして曲がり角を飛び出すと、ギョッと驚いた男たちと鉢合わせる。挙動が遅い。太腿めがけて刺突し、足の自由を奪う。

「猿か・・・!?」

おい待て、いまなんつった。

「レディに向かってなんたる無礼じゃ」

ちょっと腹が立ったのでそいつだけは両足の膝を切りつけた。骨を砕かなかった慈悲に感謝しろ。

背後の追っ手を撒いたところで、廊下を曲がり階段を駆け上ると、脱いだテイルコートを丸めて二階の踊り場から投げ捨てた。少しでもそちらに気が引ければ構わない。二階に上がったわたしは、窓の施錠を外し大きく開け放つ。外に出たと思わせるようにする算段だが、こんなものはあくまで時間稼ぎだ。数人でも屋敷から追い出せれば御の字・・・と、開いた窓から複数の蹄の音がした。目を凝らすと街道を駆けてくる黒い一団が見えた。

あれは―――

「鬼ごっこはおしまいですよ」

瞬間、飛び退こうとした腕を絡め取られた。咄嗟に振りほどこうとするが、今度はビクともしない。

アイザック・ヒルは素早い動きで蛇のようにわたしの身体を背後から拘束した。背に回された両腕を掴まれ、捻られた苦痛で杖を取り落としてしまう。女である以前に、体格に恵まれなかったわたしはタイマンになると途端に弱い。これは残念ながら当人がどれだけ努力をしたところで克服が困難な欠点だった。

「女と思って甘く見ました。海神のお孫様もまた海の申し子であると認識を改めるべきですね」

「離せ・・・!」

「抵抗なさいませぬようお願いします。あなたのような賢い女性を傷つけたくはない。その幼い容姿にそぐわない知識量、洞察力、頭の回転の速さ、何もかもが消してしまうには惜しい」

「戯れ言を」

「信じていただけませんか?」

ヒタリ、と頬を撫でたのは、アイザックの袖口から覗くダガーナイフだ。やはり持っていたか。帯刀してないのに戦闘慣れしている人間は大抵こうだ。それは自分自身でよく知っていた。

「信じられないなら、人質となって行く末を見ているとよろしい。海神にしろ黒狼にしろ、あなたの命の為なら、国外の命など見捨てるでしょうね。あなたの存在は彼らにそう思わせるだけの価値がある」

せせら笑うアイザックの言葉に激昂した。身体の奥から、青い炎のように静かにけれど激しい怒りが沸き立つ。自分を侮辱されるよりも屈辱的だった。拘束されたまま握った拳が震える。

見くびるな、見くびるな、見くびるな―――!

「じじ様もラルフも、わしの命ひとつで国を売るものか。彼らは御国に仕える兵士ぞ。我が大国が歩んだ道も理解しておらぬ武器商ごときが軽んじるでないわ!」

ガッ、と片足の踵を踏みならすと、軍靴の底から抜き身の薄刃が飛び出す。後方めがけて足を振り上げると、薄刃に気づいたアイザックが拘束を解いて半歩下がった。

杖を――!

床に落ちた愛刀とも呼ぶべき仕込み杖に手を伸ばす。拾い上げて瞬時に構えようとしたが、それより早く眼前に突きつけられるものがあった。

「・・・っ」

ダガーナイフの切っ先が、視界のすぐそこでビタリと止まる。

額から冷たい汗がつたう。片膝を突いたわたしは杖から手を離し、苦し紛れに笑みを浮かべた。

「・・・敏捷で負けるとはおもわなんだ」

たとえ戦闘職種以外の男が相手でも、わたしは力では敵わない。手も足もすべての身体のつくりが小柄なわたしには、鍛えたところでこれ以上の剛力は望めない。だからこその敏捷さ勝負だったのに。これだけはという分野で負かされ、純粋に口惜しくて少し泣きたい気分だ。顔をしかめるわたしの心情をどう受け止めたのか、アイザックが慰め口調で言う。

「わたしも体格には恵まれませんでしたから。あなたの動きは並の戦闘員よりも秀でていますよ。こちらも加減ができませんでした。部下に・・・いえ、右腕に欲しいくらいです。それにしても、あといくつ暗器を仕込んでいらっしゃるのですか。隅々まで調べないとだめでしょうか」

「お断りじゃ。嫁入り前なのでな」

緊張感の中で睨み合っていると、アイザックの背後から階段を駆け上がる音がした。

「――兄貴!軍の連中が押しかけてきてます!屋敷の周りを包囲されちまいますよっ!」

またわたしが暗器を使ってくることを警戒してか、油断なくわたしから視線を逸らさずに、部下の言葉を聞いたアイザックの目が見開かれる。いまさら何を驚くことがある。海軍も警察も動かないのをどう解釈したのだろう。何も知らずにのうのうと呆けていたとでも? 何度でもいうが、事件があれば手柄の取り合いだ。方々から寄せ集めて面倒を起こすような真似はしなくていいならしない。

ラルフの所属は近衛兵団。彼にちょっかいをかけるということはそういうことだ。

「すぐにこの娘を拘束しろ。なにをしでかすかわからない、両手足を縛っておけ。わたしはレオン殿をお連れする」

ナイフを懐にしまい、アイザックがわたしの身体を床に組み伏せる。両手と両膝を押さえつけられ、なすすべなく仰向けに転がされる。アイザックの背中越しにわたしを見下ろす部下が、アクアマリンの眼を細めてニヤリと笑う。

「こんな可憐なお嬢さんを拘束ですか?」

「いいから早くし、ろ・・・・・・」

苛立ったアイザックの言葉が不自然に揺れた。部下の男から背中に突きつけられた剣の冷たさにようやく気づいたらしい。光に反射したクレイモアが、アイザックの命を刈り取ろうと構えられている。

息を呑むアイザックに、部下は酷薄な笑みを湛えて実に愉快な声音で言った。

「そういう過激なプレイは蜜月をすぎてマンネリを感じ始めてからの方がいいと思いますよ。いや、どうしてもやれと言うならやぶさかではないですがね? ――ね、エミリア嬢」

わたしは緊張感の中で申し訳ないのだけど呆れて半眼になる。非常時に何を言ってるんだ、この変態。

「ティルグナードの・・・!」

驚愕し注意が削がれたアイザックの身体を、ラルフが蹴り飛ばした。いや嘘でしょう? 助走もしてない蹴りで人間ってそんなに吹っ飛ぶ?

アイザックの痩身が宙で回転して床に叩きつけられる。けれど、アイザックは素早く受け身をとってダメージを軽減して、すぐさま臨戦態勢を整えた。手首をスナップすると、彼の両手に複数本のダガーナイフが現れた。

――ヒュッ!

鋭く飛来した数本がラルフの眼前に迫る。目にも止まらぬ速さでクレイモアの刀身がひるがえり、飛来したナイフを難なく叩き落とした。だが、アイザックの目的はラルフの足止めだ。

彼はその隙にわたしたちとは反対方向へと走り出していた。窓を突き破って脱出するつもりか――と半拍遅れて気づいたわたしの視界を、しなやかに飛び出す黒い影があった。

ダンッ、と床を蹴った黒狼が逃げる獲物に喰らいかかる。追撃で飛んでくるナイフなど、まるで止まって見えているかのように身体を揺らして素早く避けて、アイザックの背に迫る。どういう動体視力をしているのだ。

ラルフの刃が獲物をとらえ、獲物の利き腕を斬りつける。衝撃に傾いだ身体を容赦なく蹴りつけられたアイザックが床に崩れ落ちた。呻き声をあげた彼の傷口に無慈悲に軍靴を踏みつけ、ラルフが冷たく見下ろしている。感情を宿さない氷よりも冷えた瞳だった。その視線を受けているのはわたしではないのに、起き上がろうとした身体が固まってしまう。

これが【黒狼】――圧倒的な強さだった。きっと本気ですらない。息一つ乱さず、傷一つ追わず、淡々とあっという間に悪党を捕らえてしまった。

クレイモアを握りなおした彼は、無表情で刀身を振り上げる。その背に漂う研ぎ澄まされた殺気に息が詰まった。なんて濃密で鋭い狂気。そこに立っているのは疑いようもなく、野生の獣だった。

思わず刺してしまいそう――そう言っていた彼の台詞を思い出す。

「――ラルフ・・・!」

まさかそんなと、慌てて彼を呼ぶと剣を握る手がピクリと動いた。そのまま剣がゆっくりと身体の横に降ろされる。

振り返った彼は――喜色満面の笑顔でわたしを見つめていた。いや、・・・いや、ええ、どういうこと?

ラルフはあっさりと狩りを放棄してクレイモアを鞘に収め、投げた骨を拾ってきた犬のように悠々とわたしの傍に戻ってきた。その瞳は先ほどの狂気を放っていた者とは、とても同一人物と思えないほど爛々と輝いている。

「さきほど啖呵をきっていた時にもしやと思いましたが、私に向けて名を呼んでくれたのは初めてではありませんか。エミリア嬢が!私の名前を!至福の極みです、今日という日を名前記念日にします、いやいっそ誕生日にしてしまいたい、私は今日改めて生を受けたのです、エミリア嬢にこの命の全てを捧ぐ私の生誕日に――」

「せんでよい!」

勢いでツッコミをいれたわたしは、今度は脱力して身体が起こせなくなる。

へたり込んでしまったわたしを、ラルフが膝を突いて優しく抱き寄せた。逞しい胸に身体を寄り添わせると、一度だけ嗅いだコーヒーアブソリュートの香りが鼻腔を撫で、忙しない感情に揺られていた心を落ち着かせる。なんだか自分がその香りを恋しく思っていたようで恥ずかしかった。身体の奥から込み上げるのは、間違いようもなく安堵の感情で・・・、わたしはこの腕の中が安全だと感じてしまっていた。離れないといけないのに、離れがたくて、この広い背に腕を回して縋り付きたい衝動すらあった。

それはこの事件の解決とともに、ラルフが離れていくのではという不安があるからだ。

橋の上でこうして彼の腕に抱かれてした密談の内容を思い起こす。

――そちらの落としどころで構いませんよ。私としてはその方が望ましい

ラルフはあの時すでに采配をわたしに委ねていた。わたしからの回答は決まっていた。

港湾で差し止めてどうこうしていい話ではない。戦争の火種が燻ろうとしているのを、いち小娘の指揮で判断していいはずがないのだ。

「近衛はすぐ動けるのだな?」

「万事、待機していますよ」

「ならば、港のコルノー社の積み荷の差し押さえを。ワインの入った箱が二重底になっておる。おそらく銃が入っておるはずじゃ、回収を任せる。それからわしの部下が張っている次男の屋敷に兵を配備してくれ。望み通り舞台を整えてやるから、ぞんぶんに捕り物をするがよい」

「手柄はよろしいので? 近衛兵団がもらっては、海軍も警察も業腹では?」

首を傾ぐラルフを、わたしは一笑にふす。

「そんなものいらぬよ。あやつらとて手柄の為に敵を見誤りはしない。王家に仇なす悪党なら、近衛が持ち帰るのがよかろう。わしはわしの街が今日も穏やかであれる日常を守るだけじゃ」

わたしが守れるものは、わたしがこの手で抱えきれるものだけ。多くは望まない。褒美もいらない。わたしの守るあの港街が、そこに生きる人々が、笑顔で生きていければいい。

そう告げると、ラルフは心底愛おしそうな顔でわたしの頬を撫でた。

「ああ、やはりあなたは・・・」

そう呟いた台詞の意味をわたしは知らない。

けれど、いま見上げた瞳はあのときと同じくらい情愛を滲ませていて、わたしは堪えかねてラルフの胸を突っぱねた――が、ラルフはそれを許さなかった。腰に回した腕がよりいっそう力強くわたしを引き寄せる。

「もう少しこのままでいてくれませんか?」

「な、何を・・・!?」

「他の男の匂いがしているなんて我慢ならなくて」

拗ねた調子で言ってラルフは手首に鼻先を擦りつける。アイザックに掴まれていたとはいえ、そんな匂いがつくとかあるわけないだろうに。いやまあ、がっつり拘束を受けていたのを見られているから、精神的に匂いがついていそうだなという気持ちにはなるので、そうなると何も言えないけれど。

「・・・って、奴は!?」

放置してしまった武器商人の姿を探し、ラルフの腕の中でもがいて肩口から顔を覗かせると、いつ現れたのかも気づかなかったシンがしっかりと拘束していた。もしやここまでラルフと行動を共にしていたのだろうか。だとしたらずっと見られていたということにならないか? それはもう羞恥で死ねるから深く考えるのはよそう。

「シン、下にいる私の部下に引き渡してくれ。そいつを移送して制圧完了だ」

「かしこまりました、少佐」

ああああ・・・・・・呼び方馴染んでるなぁ・・・。

キビキビとした足取りでアイザックを連行していく腹心に頭を抱えたくなるが、ラルフに頬ずりされていて叶わない。ラルフは縄張りを主張する獣のように、わたしに匂いを移そうとする。もう演技する必要はないんだぞと言ってやればいいのに、自分の口から言葉にするのが躊躇われた。代わりに仕事の話を振る。

「ドラ息子とダニーは保護してあるのだな?」

「ええ、レオン・コルノーは自室に軟禁されていました。ダニーは地下の倉庫に閉じ込められていましたが、無事ですよ。数発殴られていましたが、まあ勉強料と思えば安いものでしょう」

「そうか・・・」

ホッと息を零す。甘い話に安易な気持ちで乗ってしまったあの気弱な若者は、事が大きくなる前に保護できた。相応の罰は受けるが、未遂で終わったのだから重罪にはならないだろう。次男に関しては今度ばかりはきついお灸を据えてもらわねば。あのひん曲がった性根が改心するとも思えないが、当面のあいだはおとなしくして欲しいものだ。

「狼・・・そろそろ離さぬか」

「ラルフと」

「・・・・・・ラルフ、離してくれ」

名前で呼ばれると、ラルフは抱きしめていた手を緩めた。名残惜しそうな動きで、背に置かれた手が何度も撫でる。

「あなたは泣かないのですね」

「泣く? なぜ?」

「並のご令嬢ではこの騒動を堪えられませんよ。自分を囮にし、あまつさえ武器を振るうなんて」

取りこぼしたまま床に投げ出された杖を一瞥し、ラルフは困ったように微笑む。杖の先端から飛び出した刃は誤魔化しようのない真っ赤な血で汚れていた。わたしがアイザックと対面している間に、階下の惨状を見たのだろう。近衛兵団が乗り込むより先にこの有り様。ラルフは全て見通しているはずだ。生粋の軍人とは違う真っ向勝負ではない弱者の戦いの痕跡を。自分のことを恥じるつもりはないけれど、・・・けれど、愛らしい少女たちと比べられては自分が惨めに思えてしまう。ラルフがわたしと無垢な令嬢たちを比べていると思ったら、胸の奥が鈍い痛みにさいなまれた。

「そこらの令嬢と一緒にされてもな。・・・軽蔑したか? じじ様と話したから知っているものと思っていたが、わしは砂糖菓子などという甘い存在ではないぞ。可愛げも品性も、貴族の妻としての素養も、おぬしが今まで見てきたどんな令嬢よりも劣る。おぬしもこれに懲りて冗談でも・・・」

婚姻を申し込もうなどと思うな。もしもそれでも互いの利益のために政略結婚がしたいなら考えてもいい。

そう告げようとしたのに、言葉が喉につかえて出てこない。

わたしよりも社交に出る機会の多いラルフだ。容姿端麗、文武両道、家柄も財産も何もかもを兼ね備えた男だ。言い寄られることも、縁談を申し込まれることも、わたしが考えるより途方もないほどあるだろう。ラルフがそれまで見てきた華やかな世界はわたしには息苦しいものでしかない。住む世界が違う。近づきたくない。傷つきたくない。

ラルフの気持ちが嘘ならば――彼を好きになんてなりたくない。

「・・・いや、何でもない。聞き流せ」

お互い部下を待たせている身だ。わたしは話を打ち切り、ラルフから逃れるように足早に階下に降りた。


***


事後処理を済ませ、アイザックを含めた【戦争屋】の身柄は王都の留置場に移送された。

後日、調書は取らされるだろうが、諸々の書類処理など今回は近衛兵団の管轄だ。このまま帰れるのは有り難い。さすがに疲れた。

屋敷の入り口で待機していたアイネはいくつかの事案を掛け持ちしているから、一目わたしの顔を見て安心してから、すぐに別任務へ移動してしまった。密偵部隊の指揮はアイネが執っているので仕方ないのだが、もう少し一緒にいる時間を作ってやりたい。

シンはホテルからうちの馬車を連れてきてくれていた。わたしが脱ぎ捨てたテイルコートもしれっと腕に掛けて待機しているのだから、まったくよく出来た腹心たちだ。

夕暮れの空を風が抜け、木の葉を揺らしている。もう暫くすれば辺り一帯の葉は赤く色づくだろう。肌寒くなって、シンにコートを着せてもらう。髪をほどいたわたしが男装をしても、いまいち決まらない。仮装と呼んだ方が正しそうだ。

「――エミリア嬢、お待ちを」

馬車に乗り込もうとしたわたしを、足早にこちらに駆けてきたラルフが呼び止めた。

「・・・目当ての【戦争屋】を捕らえたのだから、おぬしも満足であろう? 陛下に報告に参るがよい」

「そんなことあとでよいのです」

「そ・・・っ」

素っ気なくあしらって馬車のステップに足を掛けたわたしを捕まえ、ラルフがきっぱりと言う。

いまそんなことって言った? 陛下へのお目通りを、そんなことって言ったか?

困惑するわたしの身体を、有無を言わさずに抱き上げたラルフが部下たちに背を向けて歩き出す。

「待て待て待て!待てというに!」

暴れるわたしを無視して強引に歩みを進めたラルフは、散策道である池のほとりまでやってきてようやく降ろした。

水面を照らすのは濃いオレンジ色。真鴨たちは寝床へとその身を泳がせる。夕暮れ時とあって、帰路を辿る散策客がちらほら見えるだけで、人はまばらだ。

夕陽に照らされても、彼の髪色が変わることはなかった。全てを飲み込む漆黒。わたしの銀髪と対比する夜の色。いや、きっと夜の色さえ喰らい尽くしてしまいそうだ。

「話の途中でしたから」

すみませんと謝りつつ、本当にそう思っているか怪しいところだ。

ラルフはおもむろに膝をついた。澄んだアクアマリンの鋭い瞳が、わたしを見上げる。まるであの夜会の再現のような態度で。その眼差しに込められた熱は、いつだって、わたしに都合のよい夢を見せようとする。

首を振って否定したい。目の前の全てを。

ラルフの眼差しも、ぬくもりも、言葉も。彼に関わる度に増していく幸福感も。

こんな感情は知らない。じじ様や双子たちへの愛情とは違う。領民への慈しみとも違う。

切なくて胸が痛むのに、にがく苦しいのに、それでも込み上げる甘いこの感情は――。

「エミリア、あなたは可愛い人だ。容姿を褒めることももちろん数多の言葉を尽くして出来ますが、中身も可愛らしいですよ。語ろうものなら一夜では足りないでしょう。それにこうして触れるのが畏れ多いほど気高い心の持ち主だ。他者の為に尽くそうとする、正しくあろうとする、そんな凛としたあなたが私にはどんな宝石よりも輝いてみえます。守るために刃を振るう姿こそ、わたしの心を強く揺さぶるのです。他の令嬢に劣る? そんな馬鹿なことはない。彼女らを同じ土俵に立たせることが、あなたへの不敬ですよ」

「・・・よくもまあ次から次へ泉のように口説けるのう。そなた、母君の口から生まれたのではないか?」

「言葉ではご不満ですか? 高潔なあなたの前では紳士的でいたいのですが、態度で示せというなら今夜にでも」

「はっ!? や、・・・な・・・・っ!? 何を言うか馬鹿者!」

意味を理解して頬を赤らめたわたしに、ラルフは大真面目で聞いてくる。

「ではどのように」

「どのようにと・・・」

言われてもだな。

ラルフの調子は変わらない。言葉でも態度でもわたしの心を繋ぎとめようとする。

真っ直ぐにわたしを射貫く瞳を、言葉から、体中から、あらん限りを尽くそうと込められた想い。

わたしからはどんなに胡散臭くみえても彼は騎士だ。そう、初めから。ラルフは初めから言うべきことは言ったし、ダメなことは笑顔で黙秘していた。それでも聞き出せば最大限の答えをくれたし、そこに虚偽はなかった。

これを嘘だと断ずることは彼への侮辱だと気づき、わたしは言葉を飲み込んだ。

応えていないのはわたしだ。向き合うことにおそれて、聞き流そうとしているのは他でもない自分自身だ。

わたしだって名乗ることはなくとも、騎士道に基づいて生きてきたのに。これではいけない。

誇りにかけるなら・・・ああ、ああそうか。

しばし沈黙し、赤らむ顔が冷えるように深呼吸を挟んでラルフに問いかける。

「ラルフ・・・おぬしに神はいるか?」

「目の前に」

食い気味の返答に、少し及び腰になってしまう。そういうところがわたしの疑いを深めるのでもうちょっと配慮して欲しい。

「ならばいま一度、わしに誓え。いまなら、わしはおぬしの誓いに答えよう」

ラルフの表情が気色ばむ。黒狼の尻尾が揺れるのをはっきり見たような気がした。

大きな手に掬い取られ、手の甲に口づけが贈られる。

「エミリア、いま一度、あなたに婚姻を申し入れます。どうか私の妻になってください。そして生涯、私をあなたの犬としてお側に仕えさせてください」

「・・・・・・」

うん・・・・・・うん? いやもういい。多分いい、きっと大丈夫。

「そなたの求婚、お受けしよう。末永くよろしく頼む。ただし――」

一呼吸おいたわたしは、ラルフに向かって挑戦的な眼差しを投げかけた。

「おぬしは神に掛けて誓ったのじゃ。誓いを破ったとき、おぬしは神によってその命が奪われると思え」

わたしを神だと言い、その神に誓った。ならばわたしを裏切ることがあれば、わたしがこの手でお前を殺す。

この国で騎士として育ったラルフだ。その誇りにかけて誓いを立てたなら、それは何よりの信用となる。これならば、わたしにも信じられる。

ラルフが堪えかねたように熱い息を吐き出した。

「やはりあなたは最高です・・・永遠の愛をあなたに誓いましょう。愛しています、可愛い人」

「その変質的な態度は改めさせたいところだが・・・わし相手に息を荒げてると真性じゃぞ。近衛の品性を疑われかねん。少しは自重せよ」

「あなたの魅力を前に無理な話です」

再度、抱き上げられたわたしは、今度は抗わず彼の肩に手を添えた。耳元に落ちた黒髪を払い、獣を撫でるように優しく梳いてみると、ラルフは心地よさに目を細めた。何度梳いても指に引っ掛かりもしない優美な毛艶だった。悪戯に爪先で耳の裏を掻いてみると、本物の狼のようにくすぐったさを滲ませた笑いを零す。ずるい、これは可愛い。

「ラルフ・・・・・・わしの【黒狼(ラルフ)】・・・」

「ええ、あなたの狼ですとも」

わたしが譫言のように呟くと、ラルフも同意を返す。

犬が甘えて主人にすり寄るように、ラルフが頬ずりをしてきた。獣に寄せた甘え方のほうがわたしの反応が悪くないことを、とっくに気づいているようだ。抜け目ない。そんな可愛げのなさが、逆にあざとくて可愛く思えてしまうではないか。

唇に吐息がかかる。きっとラルフも同じだろう。

気づけば夕陽は沈み、細い月が夜を告げていた。池の水面は静かで、そこにはわたしたちだけがいて――

先に唇を寄せたのはどちらだったのだろう。

触れ合わせたぬくもりが、初めての幸福を教えてくれた。込み上げる愛おしさがラルフに伝わるように、わたしは息を潜めて、押し当てた熱にこめた想いがラルフに伝わるよう願った。

そっと唇を離すと、アクアマリンの瞳の中にわたしを見つけた。色白の頬や耳が赤らんで、黄水晶の大きな瞳が潤んでいるその表情は、どこにでもいるごく当たり前の恋する少女のそれだった。

恥ずかしさでいたたまれないけれど、それがとても嬉しいのも事実で、彼の瞳に映るわたしから逃れたくて、首に縋り付くように抱きついた。耳元で彼がくすりと笑う吐息を感じた。

「疲れましたね――帰りましょう。ご自宅までお送りしても?」

「・・・・・・許す」

嬉々として馬車へと戻るラルフにおとなしく運ばれる。

これからきっと騒がしくなる。仕事だけでなく、花嫁として忙しい日々が待っているだろう。ぱっと思いつくだけでも、しなければいけないことは両の手では数え切れないくらいだ。

けれどいまは、このぬくもりにすべてを委ねていたい。

力強い腕に抱かれたわたしは甘い微睡みにとかされながら、明るく照らされる未来を夢にみていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ