夢係
「夢係」
夢の世界に、私は何故か心惹かれる。
その理由とはたぶん私の見る夢の世界が、後から思い出しても驚くほど現実的な五感を伴う世界であり、そして不可解でありながらも意外なストーリー展開を持つ、妖しげな世界であるからではないだろうか。
むろん全てのストーリーを記憶している訳ではない。それらは断片的なストーリーの、無秩序な映像に過ぎないのかもしれない。
しかしそれでもやはり、その中にストーリーは息づいている。過去に観た映画のワンシーンのように、深く心のひだに刻まれている。
これまで観たことが無い世界の映像や音声や臭いが、「夢」の世界に現出する、これを不思議と思わずにどう捕らえられようか。
真冬の満員電車の中、息が詰まるような人混みに揺られながら、私はやはりいつものように、いつもの事を考えていた。
なぜこんな事をとも自分でも首を傾げたくなるけれど、それこそなぜかしら頭を離れない映像やら声が、ずっと心の中で燻っている。
車窓から見える景色は、どんよりと虚ろに重い。やりたくもない仕事に向かう途中では、全てが虚しく映るのかもしれない。こんな景色に比べれば、昨夜観た夢の工場の景色のほうがよっぽどましだ。その油の臭いさえ、まだ鼻の奥に残っている。
この現実世界の臭いよりはよっぽどましだ。まして触れたくも無い、他人の服の中の、生暖かい感触よりも。
そんな電車に揺られながら、また私の心は妄想の湖に舟を出す。
けれどもそんな私とは別に、夢を観ない、あるいは観ているのだろうが覚えてなどいない、そういう人達は私の周りにも沢山いる。そんな彼らは私にこう言う。
「そんなリアルな夢を観るなんて、そりゃ熟睡してないか、どっか頭を病んでるんじゃないか?そんな浅い睡眠じゃ、いずれどこかが悪くなってしまうよ?だからそんなにいつも、青白い顔色なんじゃないか?医者にかかった方が
良いよ。」
私が酔って熱っぽく夢の話をすると、いつも溜息ながらにそう誰かに警告される。そんな退屈な話は御免被るというわけだ。
そんなわけで、私は他人に滅多に夢の話はしなくなった。誰もが日々の生活に追われている。そして彼らはその「毎日」という枠組みの中で、「現実」という忙しい時間と共にすり減っていけば良いだけの話だ。
だからこの「夢の世界」は、私だけの世界。そう思うことにしている。良いのか悪いのかわからないが、これもまた、私の現実世界なのだから。
そしてその世界で私は、実に様々な事を学んでいるようにも思うのだ。と言うのは、その夢の場所に居る私が如何にその場が奇想天外な環境であっても、その状況を自然に受け入れ、熟考し、現実世界と同じくその危機感に順応して対応しているからだ。そしてその経験や思考は、夢から覚めた後でも充分に現実の世界でも生かされていると思う。それが例え細切れのかすかな記憶であっても、様々な場面で私は瞬時に、そして無意識に、その景色や思考を思い出し、その経験をもとに行動しているのだと感じることがあるからだ。
そしてその感覚をもっと飛躍した思考に置き換えると、もしかしたらそれは前世の記憶か、或いは眠っている時にしか行けない、秘密の空間であるかも知れないとも思える。
そう・・それは何処からかの、私だけにもたらされたある啓示なのかも・・とも感じられるではないか。そして更にもっと疑って考えると、それは私が寝ている間に、私を構成しているであろう数多の細胞達の魂の声が、その奥深い根源を垣間見させているからでは無いか?そんな風にも思える。
到底他人には理解されないだろうが、私にはそんな魂と呼ばれるものに対する好奇心や、夢の秘密を解き明かそうとする探求心が幼い頃からある。これはきっと、私が生まれ持った一つの性分なのだろう。三十歳を過ぎた今もふと気が付くと、私の思索だか妄想はその世界に入り込んでいる。
そんな自分を風変わりな奴だと自分でも思う。けれどもこの電車に揺られているどの人間だって、おそらくその心の七割は、取り留めの無い妄想で出来上がっているのではないだろうか?
人の頭脳は自らの意思に関わりなく、一度に膨大な量の情報を処理している。そんなテレビ番組を観た事がある。その情報を信ずれば、確かにそう言う事だろうと私は認識した。そして心は何とかそれに邪魔されずに集中しようとするが、それがなかなか上手く行かない。
無秩序に散らばった思索のジグソーパズルは、どれだけ手をこまねいてみても、やはり今日も未完成なままだ。そしてまるで呪いのように小さく唸る、何かが違うという呟きを、自らの耳元で聞くこととなるのだ。
電車のドアに凭れかかり、車窓の外を流れ去る都会の冬景色を漠然と眺めながら、私はいつもの思索と、そしていつもの通勤ラッシュの人混みに揉まれていた。
しかし・・と、改めてこの現実を見回して思う。この満員電車の人混みの中、自分を拘束し、否が応でも突き動かしているこの日常生活とは、かくも煩雑で雑音や臭いを発するものかと改めて感じる。
(湿った座布団の臭いだ・・。)
それに比べて夢の中では、こんな不快な生活臭は少なくとも味わったことが無い。例えそれがどんなに残酷で恐怖に満ちた夢であっても、私はその中に新鮮で斬新な息吹を感じていた。だからこそ私は、そんな夢の中に安息への憧れを抱いているのだ。
それは現実逃避だと、誰かから指摘を受けた事もある。確かにそれは正論だとも思う。だが誰だって、何らかの方法で現実を逃避しているのではないのだろうか?呑む打つ買うの中で、或いは最近ではバーチャルリアリティーだか何か分からないが、スマホの世界に自分の居場所を求めたりしているのを、ほら、そこでも目にする。結局はみんな、現実の坩堝の中に居ながら、取り留めの無い夢想をしているのだ。
駅に着いた。そこで思考は途絶え、私は電車を降り、冷たい北風の中会社に向かった。
私の仕事は一応経済誌の記者という建前なのだが、それが微妙に経済誌では無く、またもっと微妙に、私が記者と名乗るのにも嘘を付いているという懐疑心が付きまとっているような、自分でも捕らえようが無いような職業だった。その仕事とは、要は様々な会社の社長を訪問し、その苦労話を事細かに聞いてメモを取り、聞き終えた最後に、それを記事にするから掲載料を要求するという仕事だった。
(その一ページ、なんと、十万円だ!)
もし自分がその社長だったら、間違いなく怒ってその偽記者を追い返すと思うのだが、それがまた世間の面白いところで、結構金を払ってでもその経済誌の一面を飾りたいと願う社長は沢山いた。それが自己顕示欲からなのか、或いは孤独に苛まれているのか・・。私には最初、その心情が理解出来なかった。
だが今思うに、それは言うなれば、自分だけにしか分からない自分だけの自分史だったのでは無かろうか。その他の人に分かるのは、それこそ氷山の一角に過ぎない。いくら熱を込めて話をしたところで、その大半は煙草の煙のようにうすら消えていく。
そうだ、誰だって本当の自分を分かってもらいたいという叫びにも似た風が、いつも心の何処かにある空洞に、虚しく鳴り響いているのだろう。そんな、とても寂しい風の音が・・。
そう言う私にも、その傾向はある。しかし、そんなセンチな心情は仕事中は許されない。じっと我慢をして、相手の話に相づちを打ち続けなければならない。それでも途中で飽きてきて、決して面白い仕事では無いが、それでも聞き役に徹していると思わぬ大物を釣り上げる事もある。だがそれは稀なことで、他人のつまらない話を熱心に聞く体力や、自分を律する心にも自信があるときだけだ。それはそうだろう。赤の他人の自慢話なんて、面白い筈が無い。では何故耐えられるか?それは仕事という名の狩猟だからだ。食料を、餌を探す。それはあらゆる動物が先天的に持っている、本能だからだ。
そんなこんなで、やっと今日の仕事が終わった。十社廻って、二社から契約を取り付けた。まずまずの効率だ。これで今月のノルマは達成出来たのだから。
その夜、二ヶ月ほど前から
付き合い始めた冴子と夕食を共にした。今日は彼女の誕生日で、都会の夜景が一望出来るレストランを予約していた。
「大丈夫なの?こんな高そうなレストランで・・。」冴子は不慣れな場所に落ち着かない様子だった。
「そんなに僕を見くびってもらっては困るな。こう見えても、やるときはやる男だからね。それにもうすぐクリスマスで、今日は君の誕生日だ。忙しない日頃の生活を忘れて、非日常の世界に誘いたかったんだよ。」
「ありがとう、祐樹。とっても嬉しい。」彼女の言葉に私はほっとした。こんな自分でも彼女が作れた。それだけで大満足だった。
彼女は同じ会社の後輩で、事務に居るあまり目立たない地味な女の子だったが、私の変わった趣味の話しを真面目に聞いてくれる、唯一の人だった。
楽しくディナーを一通り食べ終えた後、私は彼女にプレゼントを渡した。
「何?これ?」彼女は嬉しそうにそのプレゼントの箱を見つめた。
「開けてごらんよ。」手にした小箱を開けて、そのブレスレットを手にした彼女は、目を輝かせて微笑んだ。
「わぁ、すっごく綺麗。こんなに綺麗なブレスレット、私見たこと無い。」
「そりゃ良かった。そんなに喜んでもらえると、僕も嬉しいよ。それにね、そのブレスレットには、なんと二つもの秘密があるんだ。」彼女が予想以上に喜んだことに気をよくした私は、勿体ぶって指を二本立てて、笑いながら彼女を覗き込んだ。
「え?秘密?何それ?聴きたい聴きたい。」やはり女の子はこうしたお祈りグッズが大好きらしい。特に他には無い、秘密めいた代物となれば格別だ。せがむ彼女に、私は左腕の裾を巻くって見せた。
「ほら、それとお揃いのブレスレットを僕も身に着けてる。これはね、二人の気持ちがずっと通い合うようにっていうおまじないなんだ。これが一つ目の秘密。でも二つ目の秘密はもっと凄い。それはね、それを身に着けているだけで、君のお願い事が叶うっていう代物なんだ。君が寝ている間の、夢の力を借りてね。」私がそう言うと、彼女は首を傾げた。
「え?夢の力?」
「そう、夢の力だ。君だって、一日の内七時間や八時間は寝るだろ?それは誰もがそうだけど、その時間を無駄にただ寝てるだけじゃ勿体ない。そうは思わないかい?そこで僕は或る人に頼んで、このブレスレットに念を入れてもらったんだ。祈願成就と、それに良い夢を見られますようにとの念をね。だから今夜から、君はきっと良い夢が見られるよ。僕が今、見ている夢のような、ね。」
「ふーん・・。祐樹はいつもそんな良い夢を見てるんだ。それって、どんな夢なの?」
「どんなって・・。それはまぁ、乞うご期待だよ。」
「祐樹って、本当に夢マニアなんだね。」
「夢マニア?ああ・・そうかも知れないね。いつか話したろ?僕は何時だって、君のことを思うのと同じくらいその事を考えてるんだ。だからそのブレスレットをプレゼントしたんだよ。同じ夢の中に、二人がずっと居られますようにってね。」
「ふーん・・。祐樹って、見掛けによらずロマンチストなんだね。」
「見掛けによらずは余計だよ。でも誰だって夢の中では、自由で良い夢を見たいだろ?」そしてその夜は、彼女とホテルで一泊した。
翌日は仕事を終えて、午後七時には部屋に帰っていた。昨夜もまた夢のようだったが、こちらの夢もまた、それとは違う夢の空間だ。
風呂に入り簡単な食事を済ませると、ビールを持って早速寝床に入り、今夜の夢の、だが決して受けいられる事の無いプランを練った。そして、いつものノートを手に取った。
私は毎晩見る夢を忘れないうちに、「夢追い人」と表紙に題名したノートに書き記し、その関連を探していた。そこには過去見た夢の中でも、特に珍しい光景や新しい体験が、記憶に残る限り微細に記されていた。
何の意味も無い努力・・。確かに自分でもそう思うことはある・・。が、では他に、自分に何が残っているのだろう。これを止めたら、自分はただ風に舞う一片の紙屑になってしまう。現実世界のビルの谷間に舞う紙切れに・・。そんな気がした。それこそ地獄だ。何の意味も無く、ヒラヒラと舞う紙屑なんて・・。
私はビールを煽り飲み干すと、布団に潜り込んだ。そしていつしか深く寝入った。
そしてその夜見た夢は、日頃のそんな思いと努力の甲斐あってか、それはそれは、本当に素晴らしい夢だった。しかもその夢は、これまでの夢とはどこか違っていた。
そう、あんなにも色鮮やかで、幻想的でありながら超現実的な夢を見たのは生まれて初めてだと思う。その、夢の中とは・・。
私は冷気の漂う、鬱蒼とした暗い森の小径を独りで歩いていた。湿っぽくかび臭い空気を嗅ぎ、ペシペシと小枝を踏み鳴らして、顔に纏わり付く蜘蛛の巣に嫌悪感と不安を感じながら、足早に歩いていた。そして歩いている最中のこと、突如葉擦れの音とともに何者かの気配が周りから沸き立ち、首筋の直ぐ後ろから私を覗き込んで、熱い息を首筋に吹きつけた。
ぞわっと鳥肌が立ち、汗が滲むその恐怖から、私は周りも後ろも振り返る事が出来ず、ただ真っ直ぐに前だけを睨んで、足を進める事だけに神経を集中させて歩き続けていた。
そんな時、疲れ切り怯えていた眼に小さな光が見えた。その光は、やっと抜け出せる出口である事を示しているように見えた。そう感じた途端、血が再び目覚めたように体中を駆け巡った。
私は歩みを早めた。そして徐々に走り出し、そしてようやく暗い森を抜けた其処には、色彩豊かな光が乱舞する別世界が開けていた。
立ち止まった私は、金色の太陽の光に包まれた。そしてその瞬間、これまでのおどろおどろしい恐怖は冷気と共に一気に溶けて、足下から森へと逃げて行った。
見渡せば、その暖かな日差しは辺り一面に降り注ぎ、群生する腰の高さほどまで伸びた花々や細草たちのそれぞれの色を、キラキラと眩しく大気に乱反射させていた。
赤や青、黄色に緑・・。いや・・もっと多くの、あらゆる色が混ざり合い煌めいて、まるで光の霞の中に佇んでいるようだった。
そして私の目の前には、その光景が見渡す限り広がっていた。なだらかに下っていく広大な丘陵の中を、その小径は何処までも続き、やがて真っ青な空と草原の色の滲む辺りで消えていた。
鮮やかな水彩画の様な・・。そうだ!私は鮮やかな光を放つ、水彩画の中に居たのだ。
私はまた歩き出した。光に満たされた坂を下って、これまでとはまったく違う、解放された世界へと向かう自分。切り離された孤独を感じる反面、自分を拘束する何者の気配も感じなかった。ただ、うきうきと坂を下って行く自分の後ろ姿を、冷静なもう一人の自分が首を傾げて見送っている。そんな夢だった。
翌朝、けたたましい目覚まし時計の音で叩き起こされたが、あの夢の映像はまだしっかりと記憶に残っていた。急いでノートにその内容を書き込み、独り悦に入っていた。
新しい夢のステージへの予感・・。そう、何でもこだわれば、次の景色が見えてくるものだ。そう思い、とても良い気分でその日は出社した。
その日、私は大いなる成果を上げた。なんと回った十社で、五社から契約を取り付けたのだ。打率五割。まぁこんな日も、時には日頃のご褒美としてあっても良いだろう。
これはあの夢のお陰だ。迷うこと無く素直にそう思った。みんなが褒め称える中、冴子は遠くで小さく手を叩いていた。そして私が帰ろうとすると、冴子からメールが届いた。
『今日はカッコ良かったよ!お祝いに何処かで祝杯上げます?』私はそのメールを見て、うーん・・と悩んだ。夢の続きが見てみたいという心と、冴子を抱きたいという欲求が入り乱れた。が、結果、私は夢に負けた。冴子にはまた明日も仕事だからとの理由で断り、私は自宅に帰った。
「さぁて、次の展開があるか無いかだ。」晩飯のインスタントラーメンを啜りつつ、喉にビールを流し込み、独り言で祝杯を挙げた。
夢に続きなど無い事は、これまでの経験から分かってはいたが、それでも期待に胸は膨らんだ。
(不思議な夢の到来・・新しい覚醒への扉・・。)そんな言葉が頭の中を駆け巡った。
(これは何かの啓示なのかも知れない・・いや、絶対にそうだ・・。)
もう一本ビールを手にして寝室へと向かい、明かりを暗くしてそそくさと寝床に入り、睡魔がやって来るのを期待に胸を膨らませて辛抱強く待った。そしてやがて睡魔は訪れ、私を心地よい悦びと共に、夢の世界へと誘っていってくれた。
そしてその夢の中で私が降り立ったのは、なんと、またしてもあの草原だった。驚きとともに嬉しさが胸に込み上げてきて、もうすでに知っている光に満ち溢れた小径を見渡しながら、私は心浮き浮きと散策していた。
すると下っていく道すがら、小さな小屋のような休憩所があった。そして其処には背の低い老人が青い作務衣を着て、ニコニコと私を待っているように立っていた。
「今日は・・。」私は老人に近づきながら、少し訝しげにその老人に声を掛けた。
「ああ、祐樹様。おいでをお待ちしておりました。こんなにお早くお出で下さるとは、もう、とても嬉しゅう御座います。」老人は手を膝に乗せて、深々と頭を下げた。
「僕を・・待っていた?」私は首を傾げた。
「はい。それはもう、一日千秋の思いで・・。」頭を上げた老人は、前にも増してニッコリと微笑んでいた。そしてそのままにこやかに私に語りかけた。
「申し遅れましたが、私めはあなた様の夢係を務めさせて頂いております、彦一と申す者で御座います。滅多に顔を出すでないとの上からのお言い付けでは御座いますが、此度は特別であるとのお許しが御座いまして、こうしてあなた様をお迎えする手筈と相成りまして御座います。」そう言って老人は再び頭を下げた。
「僕の夢係の彦一さん・・?へーえ、そんな係の人が僕の中に居るんだ。」意外に思い、聞いた。
「ええそれはもう、あなた様の中にはいろいろな係の者が、忙しく働いております。
ささっ、この中で少しお休みになられて。その後私めが、この世界をご案内致しますから。」そう言う老人に誘われて、私は休憩所の腰掛けに腰を降ろした。すると熱いお茶がどこからともなく出てきて、私はそれを啜った。
「綺麗な景色ですよねぇ・・。」暖かなそよ風に吹かれ、乱反射している様々な花の色の光を眺めて、私は夢の中でも夢心地だった。
「はい。有難う御座います。あなた様の思い描く綺麗な風景を私なりに創ってはみましたが、お気に召されたようで幸いで御座います。」
「これを?彦一さんが?」私は驚いて彦一さんを見たが、彦一さんはただニコニコと微笑んで、私をずっと見ていた。
「はい。でもこればかりでは御座いません。あなた様が望まれるものは、何でもご提供出来るので御座います。此処は夢の世界。手に届かないものが、あるはずも御座いません。」
「ええ!あっ・・ああ、そう言うことか。これは今、夢の中だもんねぇ・・。何でもありってことかぁ・・。」
「はい。左様で御座います。」
「ふーん。それならうんと贅沢しちゃおうかな。僕は今夜、インスタントラーメンしか食べてないんだよね。これまで食べたことが無い美味しいお刺身だとか珍味、そして旨い生ビールが欲しいなぁ。」
「容易いことで御座います。でもそれをお召し上がりになるには、このような休憩所では無く、それなりの場所が良ろしかろうと存じます。」
彦一さんがそう言うと景色は一変して、私は暖かい掘り炬燵に独り座っていた。
其処は十二畳程の部屋だろうか。目の前には、黒光りした大きな食卓があった。そして高い天井には、黒くて太い梁が通っていて、それは大きくて立派な古民家の客間、そんな感じだった。食卓を挟んで、部屋の東西には大きな窓があり、其処から射してくる光が、綺麗に磨かれた箪笥やら小道具入れやらの調度品の角を、きらきらと輝かせていた。
私は席を立ち、陽光が射しこんでいる西の窓に向かった。どんな景色だかが気になり、さぞや美しい景色なのだろうとの期待もあった。そして、その眺望を見て驚いた。さっきまで休んでいた休憩所が遙か下に見えて、煌めく草原の先には、もっと煌めく、広大な海が開けていた。確かに美しかったが、その眼を足下に移すと、眼下は切り立つ崖のようだった。見下ろしてすぐ、高所恐怖症の私は咄嗟に窓を離れて身震いした。途轍もないその高さに震えた私は、怖々と東の窓に足を進め、先ず足下を見下ろして、更に足が竦んだ。
連なる黒々とした山の森が何処までも続くその眼下は、なんと、やはり吸い込まれる様な切り立った崖だったのだ。と言う事はつまり、この古民家は、細く切り立った崖の上に建っていると言う事だ。想像すると、いくら夢の中だとはいえ、あまりにも危険であり、居心地が良くないと私は思った。
(この屋敷がいつ何時、この崖を転落していくか分からない。しかも夢の中だ。何が起こっても不思議では無い・・。)
私は目を覚まそうと、両手で自分の頬を強く叩いた。だがただ痛いだけで、この夢からは抜け出せなかった。困惑した私は呆然として、元の席にへたり込んだ。するといつの間にか目の前の食卓には、煙草とライターと灰皿が用意されていた。私はいつものように煙草に火を点け、吐き出す煙と共に、肩の力を抜いた。
(そうだよ・・どうせ夢の中だ。どんな事が起きても死ぬ事は無い・・。) そう思い、さっき叩いた頬と目を両手でさすった。少しの間気持ちを落ち着かせようと、煙草を吹かしてボウッとしていた。
すると、サラサラッと鳴る音と共に閉じられていた襖が開いた。その音に驚き見れば、彦一さんと同じ青い作務衣を着た、長い黒髪の女の子が、正座で三つ指をついて深くお辞儀をしていた。
「此度、あなた様のお世話を仰せつかりました私、魔耶と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。」そう澄んだ声音で挨拶をした女の子が顔を上げた時にも、私は呆気にとられ、大きく目を見開いた。ただそれは恐怖からでは無く、其処にはこれまで遭遇したことが無い、透き通る様な絶世の美女の眼差しがあったからだった。
「あ・・ああ・・。」私の口から出た言葉はその呻きだけだった。
魔耶と名乗るその女の子はニッコリと微笑んで、手際よく私の前に料理を並べ、最後に生ビールのジョッキを二つ、私とその対面に置いた。私が不思議そうにそのジョッキを見ていると、彼女は正面に座り、その一つのジョッキを手にして微笑んだ。
「お一人ではお寂しかろうと思い、このお酒をご用意致しましたが、私でよろしいでしょうか?」意外な問いかけに、私は彼女を見つめた。
「え・・?じゃあこの僕と、一緒に呑んでくれると?」
「はい・・。」彼女は恥ずかしそうに伏し目で答えた。
良いも悪いも、私はあまりの嬉しさに息を呑んだ。そりゃあそうだろう。こんな絶世の美女と酒を酌み交わす事なんて、これまでたったの一度も無かった事だから。
「も・・もちろん。僕の方からお願いしたいくらいだよ。こんなに綺麗な女性とお酒を呑むなんて、初めてだからね。」
「まぁ・・そんなにお褒め頂いて、恥ずかしゅう御座います・・。」そう言って恥じらう彼女の唇にも、私はうっとりとした。
それから呑むほどに私たちは打ち解けて、いろいろな話しをした。しかしそんな会話より、彼女の笑顔やその声に、私は酔い痴れていた。こんなにも愛おしく思える女性に出会ったのは、生まれて初めてだった。冴子の影すら、その時の私には見えてはいなかった。
どれくらいの間、そんな夢の時間を過ごしていただろう。酒と彼女に酔い痴れ、気が付けば私は、彼女の膝枕で横になっていた。そんな私に、彼女は優しく問いかけた。
「祐樹さま、祐樹様?そろそろ起きねば、お仕事に間に合いませんよ?祐樹様?」
うっすらと目を開けると、彼女の美しい顔が私を覗き込んでいた。鈴を張ったような美しい瞳・・そして柔らかそうな唇・・。うっとりと見上げていると、ふいに彼女の顔が近づいてきて、その唇が私の唇に合わさった。
だがその瞬間、「ジリリリリーッ!」と目覚まし時計の音が鳴り響き、私は現実の世界に呼び戻されて、眉間に皺を寄せて本物の目を見開いた。途端、現実を知った私は、大きく溜息を吐いて起き上がった。
「もう少しで良いのに・・。いつも思うけど、この間の悪さは宿命だな・・。」そう独り言を呟いて、フラフラとトイレに向かった。
けれども彼女の顔と声は忘れること無く、しっかりと心に刻まれていた。心無しか玄関を出る時、「いってらっしゃいませ。」と彼女の声が聞こえた気がした。
その日は一日、何かボーとしていた。誰と話そうとも、相手の話のメモを書き留めていようとも、頭の中は彼女のことでいっぱいだった。しかし仕事は面白いように決まり、なんと十社中、八社を物にしていた。これは自己記録更新どころでは無い。神懸かり的な数字だった。
私は社に帰る途中、魔耶の顔と声を、ずっと思い出していた。
(この成果はあの夢のお陰だ。そして魔耶の・・。彼女は僕の内側から、僕を応援してくれてるんだ。あの優しい笑顔で・・。ああ、早く会いたい・・。)
今日の驚くべき成果よりも、私の心はもう、夢の中に飛んでいた。
社に戻り、椅子にふんぞり返っている部長に今日の結果を報告すると、部長は組んでいた脚を外して髭面の顔で私をじっと見据えた。そしてやにわに立ち上がると、大声で皆に呼ばわった。
「諸君!良く聞け!本日森川君は、大いなる成果を挙げて来た!なんと!打率八割だ!そしてその中には、大口が三つも含まれている!みんなで彼を祝福しよう!そしてみんなも彼を見習って、精進してもらいたい。
森川君、本当に良く頑張ったな。おめでとう!」部長は満面の笑みで私に拍手を送った。周りに居たみんなも、大きな拍手で私を祝ってくれた。私はみんなに頭を下げながら照れ笑いをして、自分のデスクに座った。
「森川君、今日のお祝いに、私が一杯奢ろうか?」上機嫌の部長はわざわざ私の所まで来て、声を掛けてくれた。
「有難う御座います。でも部長、せっかくのお誘いなんですが、今日はとても疲れてしまいました。早く家に帰って、休もうかと思います。」
「そうか。そうだな。これだけの成果を挙げるのは、並大抵の事じゃ無い。まぁゆっくり休んで、これからも頑張ってくれ。」そう言って微笑んだ部長はぽんと私の肩を叩いて、自分のデスクに戻って行った。
帰り支度をしていると、携帯にメールが入った。確認すると、それは冴子からだった。
『今日はおめでとう!私もとっても嬉しかった!そのお祝いに、今夜お泊まりに行っても良いかな?週末で明日はお休みだから、うんとサービスしてあげる!』私はその文面を見て溜息を吐いた。冴子のことはすっかり忘れてしまっていた。遠くに冴子の視線をチラと感じたが、私は目を合わさず返信を送った。
『ごめん。今日はもうへとへとなんだ。帰って直ぐに寝たいんだ。お祝いはまた後で。それじゃ。』素っ気ない返信だとは思ったが、私の頭はそれどころでは無かった。明日の朝はゆっくりと朝寝が出来る。今朝のような尻切れトンボの思いもしなくて済むだろう。夢に連続性が無いことなど、もう頭に無かった。
私は鞄を掴むと足早にオフィスを出た。ずっと私を見つめる冴子の視線が、其処で途絶えた。
家に帰って風呂にも入らずに、直ぐにパジャマに着替え、ビール瓶二本を手にして布団に潜り込んだ。そしてビールを飲みながら、今朝見た夢をノートに書く作業をする内、いつの間にか、また夢の中に入っていった。
朧気な夢の中で目を覚まし、私は辺りを見回した。そして徐々に見えだした其処は、なんと驚く事に、またしてもあの客間だったのだ。私はさっき着たパジャマ姿のまま、其処でうたた寝をしていたのだった。
私は心の中で、自らに喝采を送った。(やったっ!またあの夢の続きを見られるんだ!そして、そして魔耶が・・。)
そう高鳴る胸で思っていると、奥の方から足音が近づいてきた。その足音は私の直ぐ後ろで停まり、衣服の擦れる音がして、誰かが其処に座ったのが分かった。私はゆっくりと振り返った。
そして其処には私の期待通り、ニコニコとあの笑顔で座っている魔耶の姿があった。私はそそくさと起き上がり、魔耶の向かいに座り直した。
「お帰りなさいませ。ずっとお待ちしておりました。」
そう言って深々と三つ指をついてお辞儀する魔耶の黒髪が、私の指に触れた。瞬間、甘美な欲望が胸に強烈に込み上げてきた。だがそこは、生唾を飲んでぐっと我慢をした。私にも理性はある。それにそんな事をしてもし魔耶に嫌われたら、私はもう生きては行けないだろう。そう思った。
「あ・・ありがとう。また此処に来られて、とても嬉しいよ。」そう言うのがやっとだった。
「こちらこそ、嬉しゅう御座います。」そう言って頭を上げた魔耶は、一層ニッコリと微笑み、その眼で真っ直ぐ私を見つめていた。
「でも今日はお疲れですのに、湯殿にもお入りになっておられぬご様子。それではお体に毒で御座います。もしおよろしければ、あちらに湯殿の用意を調えておきましたので、ゆっくりとお疲れをお取りになっては如何でしょうか。ささっ、こちらで御座います。」
魔耶に誘われるままに、私はフラフラとその後を付いていった。
カラカラッと魔耶が湯殿の戸を開けると、吹き出す白い湯気が広い空間に充満していた。そして眼を凝らすと、うっすらとだが、石造りの温泉のような湯船が見えた。
「こちらにお着替えを置いておきます。では、ごゆっくりお寛ぎ下さいませ。」お辞儀をして魔耶は出て行った。残された私は内心、お風呂なんかどうでも良いのになと思った。それよりも、もっと魔耶と一緒に居たかった。
(でもなぁ・・。夢の中の風呂ってのも初体験だしなぁ・・。)そう思い直し、ちょっと体験するつもりで風呂へと向かった。
風呂は風呂場と同じく、白い湯煙で覆われていた。
(どの辺から湯なんだ?)私はうっすらとしか見えない岩に手を伸ばして、恐る恐る足を伸ばしてみた。けれども脚を湯に入れた瞬間、あれ?と思った。湯の感覚がまるで無い。でも暖かい。不思議な湯だった。ミストでも泡でも無い。そう、かなり濃厚な空気とでも言うべきか。だが心地よかった。身体に流れてくる暖気は、これまで経験した事がない感覚だった。そして入ってみて良かったとしみじみ思った。帰ったらあのノートにこの風呂の事を書こう。新しい体験、夢の風呂だ。
そして前が見えないほどの湯煙に包まれて、魔耶が言ったようにゆっくりと寛いでいると、カラカラッと戸が開く音が聞こえた。誰が入って来たのかと、私は戸の方を見据えた。けれども濃厚な湯煙でまったく見えない。
(これは夢の中だ。何が起こっても不思議じゃ無い・・。)そんな思いが頭を掠め、私は風呂の中で背中を起こした。よく見れば湯煙の中にうっすらと黒い影が見える。そしてその黒い影はゆっくりと私に近づいてきた。私は湯船の中で後退った。黒い影は湯船に脚を入れ、更に近づいた。そして怯えている私の目の前に現れたのは、なんと、裸の魔耶だった。
「驚かせてしまいましたか?でも・・お背中を流して差し上げようと思って・・。」
「え・・?え?」言葉が出ないほど驚いた私は、その事態に頭が真っ白になった。そして摩耶と間近で目を合わせる中、私の理性は、そこで一気に壊れた。襲い掛かる様に彼女を抱き締めて、その唇やその体に何度も口づけた。夢のまた夢。私は貪るように彼女を愛した。
一通り事を終えた後、私は湯船の中で魔耶の肩を抱いてしみじみと魔耶の目を見つめた。
「ごめんね・・。急にこんな事になっちゃって・・。でも、心から君を愛してしまった僕は、どうしても我慢出来なかったんだ・・。」申し訳なさそうに言う私に、魔耶は可愛く上目遣いに微笑んだ。
「いいえ・・。そんなに謝らないで下さいまし・・。お情けを頂いて、私もとっても嬉しかったのですから・・。」恥じらうようにそう言う魔耶の言葉に、私は天にも昇る心地というものを、初めて体験した。そしてその日私は、その夢の中で眠ることは無かった。
翌日土曜日の昼過ぎに私は目を覚ました。だがその心はまだ夢の中に置いてきたようで、現実をそう容易く受け入れる事が出来なかった。あの眼、あの唇、あの肌の香り。私は今すぐにでもまた夢の中に行きたい衝動に駆られた。
(しかしそれもまぁ・・無理な話だ。腹も減ったし、トイレにも行きたいし、だ。)そう思った途端、抗しがたい尿意が襲ってきた。
「こりゃやばい!」私は布団を撥ね除けてトイレへと走った。
「はぁー・・危なかったけど間に合った・・。けど、どうにかならないもんだろうか・・。もっと長く魔耶と一緒に居るために・・。」便器に座りながら、私は真剣に考えた。
(そうだ、食事もビールも全部夢の中で賄えば良い。あっちの方が旨い物もあるし、そして・・魔耶が傍に居るし・・。)
そう思った私は、それから一切食事は摂らなかった。だが喉の渇きを癒やすために少量の水は口に含んだ。これではまるでボクサーの減量のようだなと、自嘲してそうも思ったが、これも魔耶と過ごす時間のためだ。そう思い込むと不思議に我慢が出来た。また、夜しっかりと眠れるように散歩にも出かけた。散歩など生まれて初めてやることだが、町を散策することで目にする新たな発見もあったりした。
(こりゃあ良い。腹がスッキリしてる方が頭もスッキリする。そしてとっても良い気分だ。)私は今夜の魔耶との逢瀬を楽しみにして、浮き浮きと散歩に励んだ。
二時間ほどは歩いたろうか。吹き付ける北風の中でさえ体は火照り、額には少し汗も滲んでいた。そしてマンションの四階までエレベーターを使わずに上がった。
けれども上がりきった所で自分の部屋の方を見ると、薄暗いドアの前に、髪で顔の隠れた女がしゃがみ込んでいるのが見えた。不審に思いゆっくりと近づくと、それは冴子だった。冴子は私を見ると、すっと立ち上がった。私は冴子に歩み寄りながら声を掛けた。
「どうしたんだい?冴子。」呼び掛けに冴子は答えず、きつい眼で、私をじっと見つめた。
「祐樹が変!私のことをかまいもしないで。もしかしたら他に女が出来たの?もしそうなら、私は絶対許さないからね!」キッと睨む冴子の眼差しに、私は心の中まで見透かされたような気がしてドキリとしたが、その表情は直ぐに消して、柔らかく微笑みながら冴子を見つめた。そして冴子の肩に手をやり、優しく冴子を押し包んだ。
「何言ってんだよ。そんなわけ無いだろうに。ほら、こんな所で痴話喧嘩しても始まらないだろ?さぁ、中に入って。」ドアを開けて、彼女を優しく部屋に押し込んだ。そしてゆっくりとドアを閉めた。
こんな場面をマンションのおばちゃんの誰かに見られたら、それこそたまったもんじゃ無い。挨拶の合間にチクチクと囁く勘ぐりの声なんか、思い出すだけでもぞっとする。まるで好物にたかって手を摺り合わせる、金蠅にそっくりだ。
ドアを閉め、極力優しく彼女の肩を抱いて彼女に問いかけた。
「君が疑うようなことを、僕がいつしたって言うんだい?」
「だって・・ここんとこ・・私の目も見てくれなかったから・・。」
そうおちょぼ口で言う冴子の肩を強く握ってこちらを振り向かせると、私はいきなり口づけをした。それから長い間、私はそうやって冴子を抱き締めていた。
女の勘というものは恐ろしい。けれどもこの場合、実態は無い。なにせ夢の中の恋だから。でも私の心はすでに、魔耶に完全に捕らわれていた。
「疲れていただけだよ。だからそんな顔してないでさ、機嫌を直しなよ。その償いと言ってはなんだけど、今夜は二人だけでゆっくりと過ごそうよ。先ずは僕が旨い料理を作って、君をもてなそう。そして夕食を食べた後は、二人のとっておきのお楽しみだ。」私がおどけてそう言うと、冴子は堅かった表情を解いて、私にニッコリと微笑んだ。そして私は彼女を誘って部屋の中に入った。すると冴子は一つ溜息を吐いてから、私にニッコリと微笑んだ。
「そうね。疑った私が馬鹿みたい。祐樹になんか、女の影なんてあるわけ無いのにね。」そう言ってソファーにどっさりと鷹揚に身を沈めた。それを見た私は少々ムッとした。
(おいおい、随分と馬鹿にしてくれるじゃないか。俺は今、お前なんかとは比べものにならないような美女と恋愛中なんだよ。本当なら出来ればとっとと帰って欲しいくらいだ。)
しかしそんな気持ちはおくびにも出さず、私は優しく頷いた。
何故か・・。それはやはり、現実の中の欲望の為せる技だろう。魔耶をいくら愛しているとはいえ、それはあくまでも夢の中の話し。何時壊れて無くなってしまうのかも分からない。この現実はその、所謂保険ということだ。冴子には申し訳ないが、今の自分にとっての冴子は、それくらいの価値しか無かった。
「そうだよ、その通り。だから安心しなってば。僕の全ては、君のものだからさ。」奥歯が歯痒い。
それから私たちは、一緒に特製のスパゲッティを二人で作った。
「カンパーイ!」グラスを鳴らしてビールを飲んだ。当初の計画からはかなり外れてしまったが、致し方ない。恋い焦がれる君に会う道は、かくも険しく遠い道なのだ。
「ねぇ祐樹、さっきは疑ってごめんね・・。やっぱり疲れてただけなんだよね。今夜は私が、思いっきり癒やしてあげるからね。」
それから五時間後、思いっきり癒やしてくれた彼女が眠りに就いたのは、もう深夜の十二時近くだった。
「はぁ・・。」と溜息を吐いて、私は起き上がった。確かに夢のような時間だったかも知れないが、何かしら心に疼痛を覚え、そして疲労感が残った。頭に浮かぶのは魔耶の顔だけだった。隣で寝ている冴子の寝顔を見たが、まるで見たことが無い女に思えた。
私はベッドから下りて独りシャワーを浴びた。このまま寝て魔耶に会いたくは無かったからだ。魔耶に会うには身を清めなければならない。それほど私にとって魔耶は、すでに神々しい存在だった。そしてソファーでビールを飲み直している間に、いきなり睡魔は訪れ、抗しがたい眠気に身を任せて私はソファーに横になった。不思議に冷えた体に纏わり付くように暖かい空気が包んで、私を夢の世界へと誘って行った。
其処はいつものあの部屋だった。だが掘り炬燵はまったく暖かくなくて、がらんとした部屋に人の気配は無かった。
私は魔耶の名を何度も呼んだが返事は無く、冷たい部屋が一層冷たく感じられた。掘り炬燵を出て湯殿にも行ってみたが、湯気など全くなく、ただ殺風景な小さな岩風呂があっただけだ。だがこんなにも狭かったかと首を傾げた。
そしてあちこち見回る内に、私はふと我に返り気付いた。つまり、この豪勢に見える客間は豪農の古民家にあるような客間では無く、言うなればそれほど広くない平屋に設えた、モデルルームのような部屋だと言うことを。しかも断崖絶壁に設けられたこの部屋は、私を幽閉するために拵えた小屋では無いのか?何となくだがそう思った。でも何のために?それに毎晩同じ夢を見るというのも考えてみれば可笑しな事だ。しかしどうしようも無い。この夢から逃れられないことはこの前の経験から分かっている。
仕方が無いので、私はまた客間に戻り、其処に置いてある煙草に火を点け窓に向かった。
西側の窓からは、日暮れ時の赤い光が射し込んでいた。私は窓辺に佇み、でも足下は見ないで、遙か彼方まで見える美しい景色を眺めていた。
だが・・とても美しいが、何やら違う。今の私にはそう思えた。
どんなに素晴らしい絵だって、観る者の心に依って、その輝きは変わるものなのだろうか。それに慣れてしまうというのは恐ろしいもので、新たな驚きが無ければ、人は飽きてしまうものだ。
この素晴らしい夢の景色にも、私は段々飽きてきていた。もっとも魔耶だけは違う。彼女に飽きるなんて、とても考えられない。今だって彼女を求めて心がさ迷っている。だからこんな風に、景色が殺風景に見えるんだ。
襖の開く音がした。体中の血管が一斉に収縮し、咄嗟にその襖を見つめた。だが、サラサラッと開いた襖の向こうで畏まっているのは、魔耶ではなく彦一さんだった。彦一さんは頭を上げて、この前と同じように、ニコニコとした顔で私を見ていた。
「彦一さん・・。」私は驚いた後がっかりして、彦一さんを見つめた。
「祐樹様。毎夜のご訪問、とても嬉しゅう御座います。ですが今宵は、おもてなしは難しゅう御座います。何故かと申せば、今祐樹様のお部屋には、誰か女人が居られるご様子。その寝息が、こちらにも聞こえております。そしてそれを聞いた魔耶は深く悲しみ、その姿を消してしまいました。かの女人が祐樹様のお側に居られる限り、私は姿を現す事が出来ませぬと申しまして。その心情は、私にも痛いほど分かります。ですが、祐樹様に一言のお断りも無く、この夢を封印してしまいますのも、やはりご無礼に当たると存じて、斯様にご挨拶に参った次第で御座います。どうかお部屋に居られる女人と、現世でお幸せにお暮らし下さりませ。では。」彦一さんは三つ指をついてお辞儀をすると、襖を閉め始めた。それを見て慌てた私は、必死になってその襖を食い止めようとした。
「ちょっ・・ちょっと待ってくれ!彦一さん!そんなんじゃ無い・・。」だが非情にも襖はピシャリと閉まり、私はすんでの所で指を潰されそうになった。
私はその場にへたり込んだ。こんなにも打ちのめされた気持ちは、過去味わった事が無かった。
「そんな・・。あぁ・・。」脚が萎え、全身に脱力感を覚えて、私はただ泣いた。
どれだけの時間、其処に座り込んでいたろうか。ふと気が付き、辺りを見回したが、其処はやはりまだ、あの部屋の中だった。誰も居ない空虚な部屋を見ていると、溜息と同時に、何やら激しい怒りが頭をもたげた。
(何故、こんな事になってしまったのか・・。何故、魔耶はいきなり消えてしまったのか。そして何故!自分は意味も無くまだこの部屋に居るんだろうか!)閉じ込められ幽閉されていることに、その拘束感に、私の怒りは発作的に爆発した。床を強く蹴って立ち上がり、目の前にあった小道具入れを、力任せに西側の窓ガラスに放り投げた。ガッシャアアン!と大きな音を響かせて、窓ガラスは小道具入れと共に外へと吹き飛んだ。途端、強烈な冷風が部屋に吹き込み、その勢いに戻されたガラスの破片が頬を掠めた。痛みに頬を手で覆うと、赤い血が指から垂れた。その赤くドロドロとした血を見て、更に私は激高した。今度は茶箪笥を、東側の窓にぶつけた。大きな破壊音を残して、茶箪笥は空に舞った。そして奈落の底に落ちていく様を、私は窓から身を乗り出して目を見開き見つめた。
(そうだ!堕ちていくんだ!真っ逆さまに!もっともっと!底までだ!)
茶箪笥はクルクル舞いながら、堅い岩に叩き付けられ、やがて粉々になって、深淵の底へと消えて行った。私は恐怖と絶望と、そして何としたことか、歓喜に包まれてその光景を目で追っていた。
(壊れろ壊れろ!この夢もあの現世も、全て無くなってしまえば良いんだ!もう真っ平だ。こんな、こんな拘束された世界なんて!)
一吹きの強い風が、私の背を押した。私は窓から押し出されて、何を掴む間もなく、宙に飛んだ。全てから解放された瞬間、あの奈落の底が空中から見えた。
『さぁ・・早く来いよ・・。この暗闇が、これからのお前の棲み家だ。冷たいが居心地は良い。もう何者もお前の周りには居ない。干渉も言葉も無い分、とっぷりと孤独に浸れる。自分だけが心の友だ。だが、この世の秘密の蜜が、たっぷりと溢れている。知りたいのだろう?お前が昔から望んでいたように・・。』深淵の底からの声が、頭に響いた。
私は堕ちていった。そして徐々に加速しながら手を広げた。
(そうだ、その通りだ・・。この世の、そして魂の秘密を知りたいのだ。全てを知ることが出来るなら、こんな、こんな命なんか!くれてやるっ!)
吸い込まれるように、その闇の中へと私は自ら広げていた手をたたんで突き進んだ。速さは更に増し、風圧で涙が流れ出ては頬を伝った。だが、私が眼を閉じる事は無かった。
奈落の底、深淵の底が近づいて来る。とても暗いが、見えなくも無い。大きな岩畳が見える。深い藍色の堅そうな岩だ。どんどん近づいて来る。
(うん?誰か居る。岩畳に座ってこっちを見ている。あれは・・。あれは!魔耶だっ!)
そして彼女と目が合った瞬間、私は岩畳に激突した。
ハッと私は目が覚めた。そしてガバッと身を起こした。暫くは其処が何処なのかも分からなかった。暗い空間。そして、次に冷気が私を襲った。私は肩を抱いて辺りを見回した。そして薄明かりの中、徐々に周りを確認した。
そう、これは私の部屋だ。そして私は今、薄着のままソファーに居る。足を降ろして、暫くは呆然としていた。それから自分の体を確かめようと、手でなぞった。すると肩から胸が、寝汗でぐっしょりだった。その冷たさに、私は身震いした。
「なんてことだ・・。」凍える肩を震わせながら、私は失ったものの大きさに打ちのめされた。
「どうしたの?祐樹。こんな所で・・。」いきなり声を掛けられて、私は驚き振り返った。薄明かりの中、心配そうに立っていたのは冴子だった。
「こんな寒いところにいたんじゃ、風邪引いちゃうよ?」覗き込む彼女に、私は力無く答えた。
「ああ・・。分かってる・・。ちょっと酷い夢を見ただけだから・・。シャワーを浴びてくるよ。凍えて死にそうだ・・。」下着を取って行こうとすると、冴子も付いてきた。
「私も一緒に入って良い?」
私は風呂場で冴子を抱き締め、そして無我夢中で冴子を抱いた。何もかも、そうだ何もかも、もう忘れてしまいたかった。あの夢、そして魔耶のことも。夢の中の恋なんて、そんな事、あるわけが無いじゃないか!
それから数日は、何のことも無い日々が続いた。あの夢を見ることも無く、気持ちも徐々に落ち着きを取り戻していた。所詮は夢。あの世界に住んで魔耶と暮らすなんて、有り得ない事だ。一時の幸せだったと思えば、それで良い。そう自分に言い聞かせていた。
だが、それから仕事の成績はがた落ちで、どれだけ回ってみても契約は全く取れなかった。当然部長の風当たりは強くなり、私は毎日叱責を受けて落ち込んでいた。
「あーあ、参ったなぁ・・。もう契約が取れるなんて、全然思えないよ。散々身の上話を聞かされたあげくに、怒鳴られて追い返されるばっかりだ。これじゃあ給料もがた落ちだ・・。」安い居酒屋で、冴子を相手に愚痴をこぼしていた。
「祐樹、ドンマイドンマイだよ。そんな時もあるって。いつかは驚きの、打率八割を叩き出したっていう、伝説を持つ男なんだからさ。」冴子は一生懸命私を慰めてくれたが、私は憂鬱だった。どんなに追い払おうとしても、私の心の中には常に魔耶の笑顔があった。彼女をもう一度抱き締められるなら、死んでも良いとさえ思う気持ちが、心の何処かに燻っていた。だから仕事も上手く行かないのだ。
「ありがとう冴子。お陰で少しは気持ちも和らいだよ。」全部嘘っぱちだ。
「でも今夜はもう帰ろう。もう遅いから。」
「うん。でも今日は週末だから、また祐樹の家にお泊まりに行っても良いかな?うんと慰めてあげるから。」微笑み覗き込む彼女を見つめて、私は首を横に振った。
「冴子、その提案は有り難いけど、今は少し独りになりたいんだ。自分を見つめ直してリセットしなきゃだからね。このままずるずると、ただ堕ちていくのは嫌だからさ。このまんまじゃ負け犬もいいところだ。僕はこの週末で気持ちを入れ替えるよ。だから、ごめんね。」
「ううん。謝らなくても良いよ。じゃあ週明けの祐樹が楽しみだね。私も期待してる。でも、来週の週末は開けといてね。」
「ああ分かった。来週はうんと稼いで、美味しい物でも食べられるように頑張るよ。」
「うん、頑張ってね。祐樹なら、絶対出来るよ。」
私は何かしらホッとして自宅に帰った。かといって、また魔耶に会えるなどとは思ってはいなかった。遠い記憶の中の儚い恋だ。自分なんかでもそんな思い出が出来た。そう思い、今ではあの夢に感謝さえしている。ただ今は独りになりたい。私は本当に疲れていた。
ほろ酔い気分で家に入り、ざっとシャワーを浴びた後、いつものようにビールを抱えて寝床に入った。期待が無いと言えば嘘になる。でも面白い夢が見られれば、それで良いと思った。とにかくこの疲れと気持ちを、何とかしなければどうしようも無い。大きく息を吐いて、しみじみとそう感じた。
強い北風が、このマンションにも吹き付けていた。窓越しにも、ゴゥッと唸る風の音が聞こえている。部屋はとても冷えていたが、暖めてくれる何者もいない私は、布団を頭から被って、独り自分の体を抱いて寝床の中でくるまった。
(そうだ、明日は休みだ。何も考えずに、このぬくぬくとした繭の中で独り一日過ごそう。)そう思うと、本当に心が和らいだ。そして私は早く寝入ってしまおうと、ひたすら、何も考えないで眼を閉じていた。
少し経った頃だろうか、私はふと目を開けた。カタカタと小さく窓が鳴っている。
(あれ?窓を閉め忘れたかな?いや、窓なんか開けてない。でも何の音だろう?この連続音はいやに気になる。せっかく繭の中が良い加減に暖まってきたのに・・。)繭の中からニュッと頭を出して、その音を伺った。暗くて分からない。半分苛々した気分で私は起き上がった。
(これじゃゆっくりと眠れない。なんなんだよ、いったい。)
そして暗い室内にその音を探した。どうやら自分の背後から、その音はしているようだ。寝ぼけ眼でベッドを下りようと足を伸ばしたが、自分の足が下りないのにはたと気付いて、その足下を触った。これは畳だ。そして背後に衣擦れの音がした時、私の毛は総毛立った。
(後ろに誰か居る!)咄嗟にそう感じた私は、布団を掴んでその者から飛び退いた。そして暗闇をじっと凝視した。
黒い影がうっすらと見える・・。その者は正座をして、自分をじっと見つめている・・。そう感じた。
「だ、誰だ・・?あ・・ひょっとしたらま・・魔耶なのか?こ、此処はあの部屋で・・。」聞いてもその影は動かない。長い髪のシルエットは、殺気だっている様で、とても不気味に思えた。
「ま・・魔耶。あの時はごめんよ。自分の部屋に他の女を連れ込んだりして。そんなつもりじゃ無かったんだ。でもどうしようも無くて・・。」そう言っても、その影はピクリとも動かない。期待を胸に私は勇気を出して、持っていた布団を手放し、その影ににじり寄った。そして震える指で、その髪に触った。そしてその長い髪を、摩耶の髪だと確信した。
「ま・・魔耶!あ、会いたかった!」私は矢も楯もたまらずに彼女を抱き締めた。もう会えないだろうと諦めた彼女。あの笑顔にもう一度会えるなら死んでも良いと思い詰めた彼女に、此処で出会えた。私の体は其処には無くて、魂となって彼女に纏わり付いていた。
「魔耶!もう離さないよ!この部屋は、君と僕だけのものだ!」
しかしいかに求愛しても、彼女はまったく動かなかった。余程怒っているんだろうかなと、私は彼女の肩に手を掛けて、おずおずとその顔を覗き込んだ。暗がりの中俯き、髪で隠れた彼女の顔はなかなか見られない。私も少々ムッとした。
(これほど言っているのに、こっちを振り向こうともしない。なんだ、これじゃあその辺に居るヒステリックな女と、何にも変わらないじゃないか。)
私は開き直り、彼女の髪の毛に指を滑らせて、髪を掻き上げながら、頭をこちらに向けさせた。薄明かりがその頬を照らしたと思った瞬間、彼女はまるで、噛み付くように顔を突き出した。
「魔耶って、一体誰っ!」私はその顔を見るなり、後ろに飛び退った。
「さ、冴子!」私の叫び声を聞いた冴子はすっと立ち上がり、私を見下ろしたまま、怒りに満たされた形相で私に近づいてきた。私はといえば、あまりの驚きと恐怖に、声も出せなかった。
「あれほど言ったのに・・。その体と心は全部私の物だって言ってたのに・・。それなのに・・。今私がこのブレスレットにお願いしたのはただ一つ・・。それは、あなたを殺す事・・。」手を伸ばして襲い掛かろうとするその姿は、いつか観た映画のゾンビそっくりだ。
その時、背後からいきなり、ダンッと床を叩く音が響いた。ビクッとして振り向きかけた私の頭上を、黒い影が飛んだ。そして私と冴子の間に降り立つや否や、キラッと光る物を、冴子目がけて一閃させた。
瞬く間の出来事だった。私に見えたのは、その後、まるで頭に乗せた鞠が転がるように、冴子の首が髪を纏わり付かせて転がった事と、激しく吹き上がる血飛沫が、部屋中を赤く染めた事、そして倒れた冴子の体の左手首に、私が贈ったブレスレットが血に染まっていた事だけだった。その光景を見た私は、驚愕のあまり、気が遠くなり失神した。
気が付くと、私は元の布団に寝ていた。しかしそれはまだ夢の中で、つまり、あの夢の部屋で寝ていただけだ。だがもう夜は明けて、暖かな日差しが部屋を満たしていた。私は起き上がり、部屋を丹念に調べた。だが其処には、冴子の死体も血飛沫も、全く無かった。それだけでは無く、私が割った窓も、放り投げた調度品もまったく元のままで、まるでタイムスリップしたようだ。
(夢のまた夢なのか?けどこうなると現実の感覚が損なわれていくようで、頭の整理が付かない・・。)
いい加減、私は現実に帰りたくなった。上司に怒られようが転んで怪我をしようが、とにかく説明の付く世界に戻りたかった。しかし・・と、錯乱した思いの中で私はふと閃いた。
(だが待てよ?説明の付く世界とは一体何だろう。何処にいたって、何の説明も付きやしないじゃないか。何が起こっても、人はただ、振り回されるだけだ。と言う事は、此処に居ても大差ないってことか・・。なら、成るように成れだ。)私は開き直って布団の上にあぐらをかいた。
(まぁこんな夢の経験も、面白いのかもな。)
そう思った時、部屋の襖がまたサラサラッと開いた。音に気付きそちらを見やると、其処には前回と同じく、彦一さんが畏まっていた。私は溜息を吐いて、呆れ顔で声を掛けた。
「これはこれは彦一さん。お久しぶりですねぇ。でもまたこの前のようにするんだったら、口上は要りませんよ。またあの窓をぶち壊して、飛ぶだけですからね。」皮肉たっぷりにそう言うと、彦一さんは頭を上げた。でもその顔は以前と同じく、ニコニコと笑っていた。
「祐樹様。前回は大変なご無礼と所業に至りまして申し訳も無く、お詫びの言葉も御座いません。ですがああするより他、無かったので御座います。と申しますのも、祐樹様の中に、かの女人の生き霊が入って来て居りまして、私共にはその対処法が見つからなかったので御座います。ですが此度、いろいろな方面からその対処法を聞き、目出度くその生き霊を、退治することが出来ました。もうあの者は、此処に入って来る事は御座いません。ですから、ご安心下されませ。また元の安息が、得られるかと存じます。」彦一さんはそう言って深々と頭を下げた。
「冴子の生き霊?ああ・・そう言うことか・・。でも退治したって、どう言う事なんだい?」
「もう戻っては来ない・・。そう言うことで御座います。」
「ふーん・・。でも元の安息たって・・。じゃあ、魔耶を早く呼んでくれないかな。そしたらこの前のことは、全部水に流しても良い。」様付けで呼ばれていた私は段々とふてぶてしくなり、まるで殿様のように従者に言い付けた。彦一さんは黙って聞いていたが、その顔からは笑顔が消え、寂しそうに伏し目で答えた。
「はい・・。私共もそうして差し上げたいのは山々なのですが・・。あれから魔耶は、何処かへと消えてしまいました。探してはおりますが、未だ見つかりません。このままでは悲しみのあまり、その魂が砕けるのでは無いかと、私共も心配して居ります。」そう言って悲しい眼で私を見つめた。それを聞いた私は、我を忘れて驚愕した。
「ええ!魔耶が死んでしまうって?そ・・それは駄目だ。断じて駄目だ!そうだ!彦一さん、僕はこの前此処から堕ちた時に、魔耶を見たよ!こっちの崖の一番底の岩の上に独りで座っていた。この眼ではっきりと見たんだ!其処を探せば良い!」私の頭は、一瞬にして魔耶で満たされた。そして彦一さんににじり寄り、必死に訴えた。
「はい・・其処はもう捜索致しました。ですが、居りませんでした。またこれから直ぐに、私も捜索に出ようと思うております。祐樹様には、此処で吉報をお待ち頂きとう存じます。では私はこれで・・。」下がろうとした彦一さんを呼び止めようとしたが、それよりも早く襖が閉まり、彦一さんは姿を消した。
取り残された私は、また空虚な悲しみで締め付けられた。この状態で悠長に待つなんて、出来るわけが無い。この悲壮な焦燥感と無力感を振り払うには、またあの窓をぶっ壊して空を飛ぶしか、腹いせの方法が見つからない。しかし自分はもう一回経験している。二度とそんな愁嘆場を演じたくも無い。
(ここは素直に落ち着いて、この家を出ることを考えるべきだ。そして自分も、魔耶を探しに出るべきだ。)そう思い、私は改めてこの家の間取りを思い出した。左右は断崖絶壁だ。外には出られない。では前後は?扉は無いが、其処にも世界はあるはずだ。それを見てみたい。先ず私は、低いであろう下りの方から始めた。湯殿とは反対方向、窓と直角の壁を私は見据えた。
(どうせ安拵えの家だ。蹴っ飛ばせば穴くらい開くだろう。)そしてその壁を蹴飛ばそうとした時、ふと閃いた。
(待てよ?この世界は自分の夢の中だ。彦一さんも言ってた。何でもありの世界だって。ならばこんな壁は要らないと思えばそれで良い。そしたらこの壁は無くなるのでは?)そう思い、試しに少し離れた所から魔法使いよろしく手を振り上げて、
「壁よ!壊れよ!」と叫んだ。暫く壁を見つめてはいたが、何の効果も見られない。やれやれと苦笑いして、やはり蹴飛ばすしか無いと思った。
だが近づき足を振り上げたその時、メリメリッと音がしたかと思うと、壁全体が私に向かって吹き飛んできた。目を見開いて驚いたが、すんでのところで私は倒れ、壁を躱した。頭上をその影が掠めた。そしてその凄まじい暴風は、その壁を対面の壁にぶち当てて、上に向かう壁をも破壊した。
両方の壁を壊した事で私の目的は達成されたが、まさかこんなに暴風が吹いているとは、まったく分からなかった。
(こんな暴風の中、下には無理だ。木っ葉の様に吹き飛ばされて、またあの奈落の底に激突だ。)私は背を低くして上へと向かった。ゴツゴツした岩が並ぶ細い急斜面だった。
(こんな暴風の中、足を踏み外せば真っ逆さまだ。それにこの家も大きく揺れ出した。もうすぐ崩壊するだろう。急がねばならない。何度も死の体験をしたくは無い。)私はゴキブリの様に岩の間を抜けていった。追い風に背を押されて、自分でも驚くほどの速さでその細い斜面を上って行った。すると後方で、バリバリッと鳴る音と共に、あの家が壊れた。私は咄嗟に、吹き飛んでくる柱や壁の破片を大岩の影でやり過ごした。それからまた、用心深く山の頂を目指した。
そしてようよう、山の頂に到達した。其処はやはり細い稜線だったが、角度が平坦になったため、さっきまでの暴風は上方に吹き抜けて穏やかだった。
けれどもホッとして息を吐いた瞬間、これまで忘れていた寒さや、裸足の足の裏の痛みが襲ってきた。私は其処に座り込み、冷えた体と足を摩った。凍えと痛みで心が折れそうだ。だが私の決意と理性は、まだ萎えてはいなかった。自分の力を思い出したからだ。
(そうだ、また魔法を使えば良い。これくらいなら何とかなるだろう。)私は暖かい衣服と靴を想像して、それを着ている自分を連想した。そして、
「この様になれ!」と念じると、果たして私の姿はその様になった。ざまぁみろと思う。この調子で、私は必ずや魔耶を救い出して見せる。
決意を新たに立ち上がり、前方を見ると、細い道の向こうに林が見え、その中に大きな屋根がチラと見えた。私は目を据えて淡々とその家を目指した。
白樺やら楓やらの林の中に建つその家は、古いがとても立派な建物で、老舗旅館の趣があった。辺りには誰も居なかった。もっとも此処は夢の中だ。いきなりゾンビが大勢現れたら絶体絶命、私はまた飛ぶしか手段が無い。心を落ち着けて妄想を振り払い、建物の玄関へと向かった。
玄関は開いていた。だが入ろうとした私は、首を傾げてその前で足を停めた。何故ならその玄関が、大きな口に見えたからだ。脳裏に、ゴキブリホイホイの前で躊躇しているゴキブリの姿が映った。
(ああ・・またこれだ。なんでこんな大事な時に、そんな事を連想するんだか・・。)きっと私の脳は、臆病な楽観主義者に違いない。
結局、その口めがけて大声で「魔耶ぁぁー!」と何度も叫んだ。聞き耳を立てても何の返事も返ってこない。だから此処には魔耶は居ない。私はそう結論づけた。他を探す。私は家を離れて林の中に入った。
しかし、ここで私は驚くべき事実に直面して途方に暮れた。何故なら家の周囲ざっと十メートル程だろうか、その家を取り囲んで、周囲全てが断崖絶壁だったからだ。つまり、この家を探すより他、此処では何もすることが無い。
帰るにも帰れず、帰るべき住まいは、たった今粉々に砕け散った。いよいよ覚悟を決めなければならない。そう確信した。
そして私は、またあの口の前に立った。その薄暗い中を見て、そして上を見上げた。幾つもの部屋がありそうだ。もしかしたら、あの部屋のどれかに魔耶は監禁されているのかも知れない。
(可哀想にきっと手足を縛られて、口を塞がれ独り藻掻いているのだろうか・・。そしてその傍には化け物が・・。)そう想像すると、居ても立ってもいられなかった。私は気合いを入れて、自分の頬をパンパンと叩いた。だがやはり結果は同じだ。痛いだけで、この恐怖や夢からは逃れられない。私は深く頷き意を決した。
(だが待てよ?でも何だか罠っぽい気もする・・。大体この建物の立地条件が変だ。こんな所に、誰が好き好んで住むだろう。こんな隔離されたような辺鄙な家に・・。)そう思った私は、先ず大きな岩を、その入り口から中へと放り込んでみた。土間にドスンと落ちた岩は転がって、上がり口にぶつかって止まった。どうやら、ゴキブリホイホイのようなネバネバは無いようだ。次にまた一つ岩を持って来て、敷居の上に置いた。これでネズミ取りのように、ピシャリと扉が閉まる事も無い。大丈夫だ。私はまだ知性を失ってはいない。こんな罠に掛かるほど、私は馬鹿では無い。納得して頷き、そして敷居を跨いだ。
玄関を見渡し、聞き耳を立てた。何の音もしない。辺りに注意を払いながら上がり口に足を乗せたとき、いきなり後ろで、ダーンッと衝撃音が響いた。驚いて振り返ると、開き戸が敷居の上の岩に激突していた。開き戸はなおもガタガタと音を鳴らして、何が何でも閉まろうとしている。私は、「それ見たことかあっ!」と叫びつつ、その戸をこじ開けようとした。だがその戸口を持った瞬間、切られた痛みで手を離した。その戸は鋭利な刃物になっていて、切った手から血が滴り落ちた。震える手を見ている間に、開き戸はついに岩をも切ってしまった。バーンッと轟音を響かせて閉まった戸は、何か勝ち誇っているようにも見えた。
「くっ・・。」私は歯を食い縛って、恨めしくその戸を睨んだ。すっかり暗くなってしまった玄関から、手探りで上がり口に手を伸ばし、廊下へと上がった。
(そうだ・・確か一階の部屋にガラス戸があった・・。)そう思い出し、一番近くの部屋の戸を開けようとした。だが、開かない。苛立ちと悔しさと怒りと恐怖が頂点に達した私は、力任せにその木戸を蹴った。しかしその反動で、思い切り反対側の木戸に背中を激しく打ち付けた。だがその甲斐あって、少しはひびが入った様だ。こうなればこの木戸をぶち破るしかない。繰り返し二発三発と蹴るうち、ついに穴が開いた。僅かな光がその穴から漏れ出た。
(よし!もうすぐだ!)夢中になって蹴り続け、ついにその穴は潜れるほどに広がった。
(よし!中に入るんだ!そしてガラス戸をぶっ壊す!そして外に出て、自分をこんな目に遭わせた奴を!ぶっ殺してやるっ!)意気込み凄まじく、眼を見開いて、私はその穴に汗だくの体を入れた。だが次の瞬間、私はまたしても、後ろの木戸に激しく背中を打ち付けた。
「な!・・な!・・。」私は驚き怯えて、あたふたと玄関へと這った。覗き込んだ部屋で見たのは、腐った屍体のおぞましい化け物だった。その肉が腐った臭いの中で、その化け物は、光る眼で私を見据えていた。私は玄関の扉を背に、開けた穴から漏れ出でる光をじっと見ていた。そしてその時から、あちらこちらでバタンッバタンッと戸の開く音がした。その戸が開く都度、廊下は明るくなっていったが・・。
部屋という部屋から、化け物の手が見えだした。当然獲物はこの私だ。
(何て事だ!こんな奴等に喰われるくらいなら、あの崖を飛んだ方がよっぽどましだ!何なんだ!この展開は!)私は自分の夢に腹が立った。こんなリアルな夢はもう沢山だ。早く覚めてくれ!そう思ってみても、この事態はどうにもならないのは分かっている。
(そうだよな。じゃあせめて武器だ、武器を寄こせ!)そう思った瞬間、私の右手には諸刃の刃が握られていた。ずっしりと重く、とても切れ味が良さそうだ。血が一気に逆上した。
(殺される前に殺せ。どんな手段を使ってでもだ。それが戦争の鉄則だ!)私はそれを縦横無尽に振りまくり、化け物達を片っ端から切り付け突き刺していった。一階だけでは無く、二階にも上がって。
家の中は化け物達の血で全て赤く染められた。むせ返るような血の臭気の中で、私は剣を片手にその場に立っていた。まるで鬼の様に。自分にこんな力や心があるとは知らなかった。息を切らした体にも、まだ戦う体力が余っている。
私はもう一度、一つ一つの部屋を調べて回った。生き残っている者が居れば、必ず殺す。用心深い獣となって、静かにのしのしと歩いて回った。そしてついにもう一部屋、開いていない部屋を見つけた。心が躍った。自分は最強で、もう誰も恐るるに足りない。この中に居る化け物も、滅多切りにしてやる。
その木戸を見据えると、私は叫びながらそれを壊しに掛かった。刃を振り下ろし、足で思い切り蹴った。何度も蹴るうちその木戸は割れた。そして最後にもう一蹴り入れると、ついにその戸は向こう側に外れて倒れた。剣を肩に担ぎ、眼を見開いて襲い掛かろうとするその姿は、正に鬼そのものだったに違いない。中で怯えた化け物が、窓の下で小さくうずくまっていた。
「こんな所にまだ一匹いやがったか!だがもう隠れても無駄だ。俺が必ず見つけ出して、一匹残らず退治してやるからそう思え!」私は大きく吠えて、その殺戮を楽しんでいた。血が熱く燃えて、これまで経験したことが無い高揚感に包まれていた。最強の王者の気分とは、きっとこういうものだろう。動く者全てが虫けらに見える。自分が生と死を司る神にも思えた。そうだ。目の前に居る虫けらを、ただ殺すだけだ。私は大きく剣を振りかぶった。だがその時、小さな声音が聞こえた。
「た・・助けて下されませ・・。」剣を振り下ろそうと全身に力を込めていた私は、その声に、ふと我に返った。聞き覚えのある声・・。
(これは・・この声は・・魔耶だ!)そう覚った瞬間、全身の力が萎え、振り上げた剣は手を離れて落ち、畳に突き刺さった。私は膝を付き、よろよろと魔耶に近づいた。魔耶は小さくうずくまり、ぶるぶると震えていた。私はその背にそっと手を乗せて擦った。
「魔耶、魔耶。僕だ。分かるかい?」私が言うと、魔耶は怖々と私をチラと見た。そしてまた体を丸めて震えた。ガラス窓に自分の姿が映った。頭から返り血を浴びて、真っ赤に染まったその姿を。
「魔耶、違うんだ・・。この血は・・。」私は部屋を飛び出し、洗面所に向かった。此処に来る途中、誰も居ない洗面所を覚えていた。
手桶に水を満たして、頭から幾度も被った。血の付いた衣服を全て脱ぎ捨て素っ裸になって、まるでみそぎでもするように、私は自分の身を清めた。とても冷たくて体が震えたが、今そんな事に構ってはいられない。魔耶の誤解を解く。もしそれが出来なければ、自分はもう死んだも同然だ。私はそれこそ必死だった。
血が落ちたことを確認すると、急ぎまた魔耶の元に駆けつけた。魔耶はまだ小さくうずくまっていた。
「魔耶、魔耶、今度は分かるだろ?僕だ、僕なんだ、お願いだからこっちを向いてくれ。」私は魔耶の肩を抱いて、その顔を無理矢理振り向かせた。
「魔耶、僕なんだよ。分かってくれ。」魔耶の正気を取り戻そうと、真っ直ぐにその眼を見つめた。
「ああ・・。ゆ・・祐樹様・・?」
「魔耶!魔耶!今度は分かってくれたんだね?ああ!魔耶!」私は魔耶を強く抱き締めた。
「ああ、祐樹様!怖くて・・怖くて死にそうで御座いました。祐樹様!」私の腕の中で震えている魔耶。愛おしい気持ちがこみ上げてきて、魔耶を更に引き寄せた。
「魔耶、もう大丈夫だ。化け物達は、全部僕が退治したから。」私が得意げにそう言うと、魔耶の体がピクッと震え、そして私の肩を押した。
「祐樹様・・今何と仰いましたか。もしかしてあの鬼は、祐樹様だったのですか?ああ・・祐樹様・・。なんと惨い事を・・。」魔耶はそのまま泣き崩れた。
「ど、どうしたんだ魔耶。何故、そんなに泣くんだ?」その意味が分からず、私は狼狽えた。すると摩耶は震えながら口を開いた。
「祐樹様・・。祐樹様が殺した者達は・・とても優しくて、優秀な魂達だったので御座います。それが無理矢理此処に幽閉され、その姿を変えられた者達でありました。私たちは此処をどう出ようかと、皆で悩んで居りました。そこへ鬼が乱入してきたと知り、私たちは怯えました。まさかそれが・・祐樹様だとは、誰も気づかずに・・。」
「何だって!」私はまたしても、全身から力が抜けるのを感じた。たった今まで無惨に殺してきた彼等が、実は善良な魂だったなんて・・。取り返しの付かない事態に、私はただ呆然として嘆くしか無かった。
「魔耶・・どう悔やんで詫びようとも・・彼等はもう戻っては来ない・・。ああ!僕は何と言うことをしてしまったんだろう・・。」私は床に突っ伏し、そして泣いた。自分で自分の良き魂達を殺した。そんな自分が、何故殿様然としているのだろう。そんな価値なんて、微塵も無いのに・・。そんな私に、摩耶は優しく背中に手を当て、そして私に声を掛けた。
「祐樹様・・祐樹様?どれ程お嘆きになられようと、もう・・過ぎたことで御座います・・。それよりも、ご自分の事を案じて下さりませ。まだ事は終わってはおりませぬ。このままでは、祐樹様のお体は、かの彦一めに乗っ取られてしまいます。お気を確かに!」摩耶が気を込めて言う彦一という名に、私はピクッと身を起こした。
「彦一?今彦一が僕の体を乗っ取ろうとしていると言ったのか?」魔耶を真っ直ぐに見つめて私は聞いた。
「はい、彦一は謀反を企てました。私もそんな事とは露知らず、これまで彦一に従って来たので御座います。そして此処に閉じ込められました。ですが、まだ遅くは御座いませぬ。お気を確かに持って下さりませ。」優しく私の背に手を置いて、魔耶はきっぱりと言い放った。
私の嘆きは、徐々に怒りへと変わった。そして私は立ち上がった。到底許すわけにはいかない。
(あの糞爺が!)私は彦一の顔をしかと心に刻みつけた。
「魔耶!僕はどうしても此処を出る!そして彦一を捕まえる!付いて来てくれるか!」仁王立ちして、私は魔耶に言い付けた。
「はい、何処までもお供致します。」三つ指をついて畏まる魔耶を、私は生涯の伴侶だと心に決めた。
「よし!では先ず服を脱げ!そんな服ではどうにもならない。」魔耶が立ち上がり、服を全て脱いだのを見届けると、私は眼を閉じて、これからの脱出にふさわしい服をイメージした。そして念を入れると、二人の服装は、いつか映画で観た戦闘用の戦士の服を身に着けていた。
「まだ魔法が使える。と言う事は、奴はまだ謀反に成功していないと言う事だ。だが気を緩める訳には行かない。直ちに此処を脱出する。分かったな。」私はすっかり先頭に立つ隊長の気分だった。そして可愛らしい部下にそう告げた。
「はい。」と魔耶は素直に答えた。ますます可愛らしい。今すぐ抱き締めたいところだが、今はそうもいかない。私はわざと厳しい眼をして、その部屋を出た。
「一階に向かう。そしてあの、憎々しい玄関の扉を破壊する。」その途中、自分が殺めた屍体を沢山目にしたが、許せと心の中で手を合わせて、その場を行き過ぎた。
(今はお前達の供養のためにも、あの憎き彦一を殺さねばならない。自分の中で謀反など、とんでも無い事だ。俺を誰だと思っているんだ。)
私は最強の鬼から最強の王者となり、今は最強の特殊部隊隊長に変貌していた。
玄関に着いた。
(さぁ、目に物見せてくれるわ!)
「魔耶は下がっていろ。これからこの扉を爆破する。」そう言うと私は、ポケットからプラスチック爆弾と導火線を出した。どうしてそんな物が入っているのかは分からない。ただ私は、それを持っている事を信じていた。
まるで熟練した兵士のように、それを扉に貼り付けると、導火線に火を点けた。魔耶の肩を押して、最初に踏み行った部屋に飛び込んだ。数秒後、家を揺らしてその轟音は鳴り響いた。もうもうと立ち込める煙の中、私は扉が破壊されたのを確認した。
「よしっ!脱出だ!」魔耶の手を引き、家の外に出た。
だが、もう日が沈みかけていた。赤く染まった岩肌と森は、すでに寝支度を調えている様に静まり返り、木々の長く伸びた影は世界を覆い尽くそうと、その黒い指を伸ばしている。
「祐樹様、これからどちらに?」魔耶が部下のように私に尋ねた。私は限りなく広い世界を前に、正直戸惑っていた。どっちに向かうと聞かれても、さっぱり見当も付かない。
「今、考えている。」そう強気に答えるのがやっとだった。そんな私の窮状を知ってか知らずか、魔耶が一つの提案を口にした。
「祐樹様、このままでは直ぐに夜になってしまいます。私の知っている所に、一人の賢者が住んでおります。先ず其処に向かっては如何でしょうか?私がご案内致します故。」そう言う魔耶の言葉に、私は内心救われた思いだった。そう、これで取り敢えず目標が出来た。どんな行動にも目標は不可欠だ。目標の無い行動など待ちぼうけもいいところで、そんな行き当たりばったりなど、馬鹿の所業だ。
「よし、では其処に向かおう。」偉そうな顔をして私は答えた。
「その賢者とやらは、何処に居るのだ?」
「はい。祐樹様が以前飛び降りられた、深淵の底に住んでいらっしゃいます。」その言葉に私は凍り付いた。
(何だって?じゃあまた飛び降り自殺をしなきゃならないのか?死の体験は、もう真っ平だと思ったんだが・・。)そう思った時、うん?待てよ?と頭の中で声がした。
(自分たちは今、特殊部隊だ。当然パラシュートも装備しているだろう。そうだ、何も急降下する事は無い。やんわりと降りて行けば良いだけの事だ。)そう思うと、背中にパラシュートが装着された。だが、魔耶の背中には装着されない。
「では参りましょう!私の後を、付いてきて下されませ!」そう言うと、魔耶はタタタッと走り出して、大きく手を広げて夕日に向かってダイブした。その姿はこの大空を知り尽くしているかのような、華麗な大鷲に見えた。だが私は慌てた。
「魔耶!それじゃ危ないっ!」魔耶を追って、私も意を決して地を蹴った。
魔耶が飛んでいくその下にはどこまでも暗い深淵が大口を開けて待っているのを、私はすでに経験して知っていたからだ。
私は魔耶に追いつこうと必死だった。岩に砕かれた魔耶の死体なんて、絶対見たくも無い。私は腕を折りたたんで加速し、彼女に接近した。
そしてようよう、彼女の脇に並んだ。いつかのように、風圧で涙が頬を伝った。
「魔耶!このままじゃ自殺行為だ!僕に掴まるんだ!パラシュートでゆっくり降下出来るから!」魔耶の耳元で大声で叫んだ。だが魔耶はニッコリと笑って大声で答えた。
「祐樹様!此処は夢の中です!私たちは、飛べるのですから!」その答えを聞いて、私は「え・・?」と思った。魔耶と一緒に急降下しながら、私は必死に考えていた。
(そうだ、確かにこれは夢の中だ。何でもありだよな。でも・・。)そう思った瞬間、私たちは宙に浮いていた。そしてゆっくりと降下する中、私は魔耶を思わず抱き締めていた。このまま二人で死んでも良い。私は心の底から魔耶を愛していた。
深い藍色の岩肌がうっすらと見えてきた。こんな寒々しい所に、一体どんな賢者が住んで居るというのだろう。一日中陽が射ささない、暗い深淵の底に・・。
(その賢者とは引き籠もり症候群なのだろうか。それとも何かの病で隔離されているとか・・。)魔耶を抱きながらも、私は少し不安を覚えた。
岩に降り立った。もうすでに真っ暗だ。私はポケットから懐中電灯を取り出し、用心深く周囲を見回した。
(そうだ、武器は?ああ、やはりちゃんと右の腰にぶら下がっている。)その銃を確認してから、私は魔耶に聞いた。
「魔耶、その賢者とは何処に居るんだ?こんな寒いところに好き好んで住んでいるとは、何かの病に冒されているのではないのか?」
「いいえ。かの賢者は健康で御座います。そして祐樹様のことを、陰からしっかりと見守っている者で御座います。ではこちらに。私がご案内致します故。」暗くて足下もまともに見えない中、魔耶は平気にトントンと進んで行った。ヌルヌルとした岩肌を、どうすればあんなにスタスタと歩けるのか、私は首を傾げた。そう言う私はと言うと、懐中電灯で足下を照らしながら、どうにか魔耶に後れを取らず、転ばずに歩いて行くのがやっとだった。
どれほど歩いたろうか。寒いにも関わらず、私は汗でぐっしょりになっていた。
私は魔耶を信じて、黙々とその後を追っていた。すると真っ暗な暗闇の中に、ポツンと一つ、小さな明かりが見えた。其処は洞窟の入り口で、どうやらあの奥にその賢者は住んでいるらしい。
「祐樹様、あの明かりの奥に賢者はいらっしゃいます。もう少しで御座います。」魔耶が全く疲れていない様なので、私も男として、弱音を吐く訳には行かない。
「うむ。」と力強く頷き、その明かりを見据えた。内心ホッとしていた。もう足は棒のようで、膝と股関節がキリキリと痛み出していた。いつもの自分なら、とっくにギブアップしているだろう。だが今は魔耶が一緒で、私は隊長なのだ。格好悪い様は断じて見せられない。こんな風に思うのは、過去を振り返ってみても初めてのことだった。男は女で変わる。しみじみとそう感じた。
洞窟の入り口に着いた。前に立つと、それは大きな洞窟だった。高さは十メートルほど、幅は五メートルほどだろうか。艶々とした、やはり堅そうな藍色の岩で出来ていた。そして、あちらこちらに設えられた松明の燃える明かりが、ゆらゆらと岩肌に影を踊らせていた。
「中に入ろう。」魔耶を促し、私は先頭に立って中に足を踏み入れた。こう言っては何だが、何か悪魔の棲み家のようにも思えた。
「あの左に曲がった奥に、その賢者は居るのだな?」
「はい、左様で御座います、祐樹様。」
私はゆっくりと、慎重に前に進んだ。魔耶はそんな私の後ろを、何も言わずに付いて来ている。しゃしゃり出ない奥ゆかしい態度。それがまた、とてもしおらしい。
左に折れた角から、一際明るい明かりが漏れていた。近づくに連れ、パチパチと火の爆ぜる音が大きくなっていく。
そして奥を見渡せる場所に来たとき、その賢者の背中が見えた。ますます大きな影が踊る空間に、その賢者は黒いどてらのような物を着て、焚き火の前に座っていた。私はかの者を見据えたまま、ゆっくりと近づいていった。そしてその直ぐ後ろで立ち止まった。声を掛けようとすると、先に賢者が口を開いた。
「こんな所までよう来られた。寒い上に腹も減っているであろう。さぁ、その前の座布団に腰掛けられよ。」振り向きもせずにそう言う賢者を、私は随分とぞんざいな態度を取る奴だと思った。一体私を誰だと思っているのか。しかし確かに汗が冷えて寒く、しかもおなかはペコペコだった。焚き火の周りには旨そうな魚が串刺しにされて焼かれていた。その香りが腹にこたえた。
(よし、その魚に免じて今回だけはその無礼を許してやろう。)そう自分の中で許しはしたが、結局は、素直に其処に腰掛けただけだった。
俯いて、魚が焼けたかどうか見極めているその顔を、私はじっと見ていた。そして首を傾げた。何処かで見た顔・・、そして何処かで聞き覚えのある声だった。炎と煙の向こうで見る顔はどうにも判別し難く、私はその顔を思い出そうと、ずっと考えていた。
「冷えた汗は体に悪い。汗に濡れた衣服は後ろの岩に干して、それが乾くまで、これを身に纏って居れば良い。」賢者は自分の横にあった毛皮の上着を私を見もしないで放って寄こした。私はまたムッとしたが、素直にそれに従った。悔しくて腹を立てても、此処を放り出されたら、もう他に行く所が無い。私はその毛皮を羽織り、摩耶にはこれは仕方が無いと言う風に頷いた。
暫く沈黙が続いた。私と魔耶はパチパチと爆ぜる焚き火を、ただ見つめていた。
「よし、焼けた。今が食べ頃だ。さぁ、この魚を食べるが良い。」そう言うと賢者は立ち上がり、その串を持って私の直ぐ傍まで来た。
「え・・?う・・わ!」私は驚きのあまり、ひっくり返りそうになった。その背中を魔耶が支えていた。賢者は私の手に串を渡すと、真っ直ぐに私を見て、ニヤッと笑った。私も串を持たされたまま、大きく目を見開いた。その賢者の顔は、何と!私の顔だったから。
「アッハッハッ!これはこれは!そんなに驚いてもらえると、私も大変愉快だ。有り難いねぇ。アッハッハッ!」賢者の、いや私の大笑いする様を、私は呆然と見ていた。何で?どうして?疑問符達に囲まれて、私はパニックに陥りそうだった。賢者は私の顔で、尚もニヤニヤとしていた。
「そんなに驚いてもらえるんなら、これならどうだ?」賢者がそう言うと、賢者の体はシュウと小さくなり、あの青い作務衣を着た彦一の姿になった。
「これはこれは祐樹様。斯様な湿っぽい所まで、よくぞお出で下さいました。残念ながら此処では、大層なおもてなしは出来ませぬが、ごゆるりとお寛ぎ下されませ。」そう言ってニコニコとした顔でお辞儀をした。その顔を見た私は、当然逆上して怒鳴った。
「彦一っ!そうか、やっと分かった!お前はあの、彦一だったんだな!おのれ!」私が立ち上がり飛び掛かろうとすると、彦一は霞と消え、代わりにこれまで賢者が座っていた場所に、全く見たことの無い髭面の男が座り、じっと私を見ていた。
「まぁ落ち着いて座るが良い。そしてその振り回している魚を、先ずは食べるが良かろう。これからとっくりと、この事態を説いて聞かせるのでな。魔耶、この者に酒を。」賢者が偉そうに魔耶に言い付けると、魔耶は素直に小さく頷き、そして私に杯を差し出した。
「魔耶・・これは・・。」途方に暮れた目で魔耶を見たが、魔耶はただ微笑んで、今度は私から離れて、賢者の隣に腰を降ろした。私は訳が分からないまま、その酒を見つめて、そして一気に干した。
(こうなればやけくそだ!)これほど愛している魔耶にまでつまはじきにされた気がした。この二人は、一体どういう関係なのだろう。
(そうかい、分かった。前に居る賢者とやらはそれを説明すると言う。良かろう。聞いてやろうじゃないか。)私の心は嫉妬と疑問で今にも爆発しそうだった。空になった杯に、魔耶は立ち上がりまた酒を注いだ。そしてまた賢者の隣に腰を降ろすではないか。これははっきり言って尋問?いや、拷問に等しいだろう。私は険しい眼で、前に居る賢者とやらを睨んでいた。
「先ず最初に言っておきたいのは・・。」賢者とやらは厳かな風に口を開いた。
「お主は、これはまだ夢の中だと思っているだろうが、この事態は夢で在りながらも、決して夢では無いと言うことだ。確かに森川祐樹という人間の見る夢の中ではあるが、我々も、そしてお主も、その夢の中の現実に居るという事実を、先ず認識して貰わねばならない。これは一つの世界であって、その祐樹が居る世界と何ら変わりは無い。ただ違うのは、この世界は全て我々が作り出した世界であると言う事と、現世に居る人間が見る夢の中にだけ、我々の世界が現存すると言う事だけだ。この世界では全てが思いのままだが、反面心の弱い者は、この世界に溺れてしまう事となる。今、お主が此処におるようにな。」そう言って賢者は穏やかに微笑んだ。
しかし私としては、言っている事がさっぱり分からない。森川祐樹という人間?それは自分のことではないか。私がこの夢の主人公なのだから。ここは主張して置かねばならない。大体さっきから主人公を差し置いて、この男は生意気過ぎる。
「おおよその話は分かった。それで?今彦一は何処に居るのだ?」私は認識している風を装い、その賢者とやらに答えた。
「ふむ・・。まだ良く認識しておらぬようだの。では、率直に話そう。お主は今、自分が森川祐樹だと思ったが、その認識がまず違うのだ。お主がこの夢から覚めて暮らしていた自分を、まだそれが現世だと思うておるのか?あれがまた夢の世界だと、何故疑いもせなんだか。我らは夢係であり、夢を司る者として、決して己の夢に惑わされてはならぬ。
その基礎修練はすでに体得した者として此処に配属された筈なのだが、どうやらまだ未熟であったようだの。可哀想だが、また元の修練場に送り返すより他無さそうだ。
だが、もうすぐ現世では夜が明ける。我らは就寝の時刻だ。お主の処遇は、明日決めることにしよう。それまでお主も、とっくりと考え、修練を思い出せば良い。」そう言って賢者は私を哀れむように微笑んだ。
私は腹が立った。こんな屈辱を味わったのは、生まれて初めてだ。そしてますます話しが分からない。
(何だって?じゃあ、あのサラリーマンだった自分もまた、夢だというのか?冗談じゃ無い。誰が好き好んであんな胃の痛む毎日の夢を見るってんだい!これは・・この全てはまやかしだ。こいつらは私の夢の中に土足で入り、私の大切な夢を踏みにじろうとする、ゲスな魔物達に違いない。)そして、こんな奴等に関わっている自分にも腹が立った。
(だが、もう良いだろう。もう充分だ。こんな馬鹿な話しには付き合ってはいられない。服もそろそろ乾いている。俺はお前達とは縁を切り、直ぐにでも此処を飛び出し、独りでもあの憎い彦一を探し出して、殺してやる。そうしなければ、自分は彦一に乗っ取られてしまう。奴もまた、この一味に違いない。)
私は賢者と、そして魔耶をもきつく睨んだ。可愛さ余って憎さ百倍とはこのことだ。私は腰にある銃に手を掛けた。そしてこの魔物らを殺して、独り出口に向かう自分を連想した。なんと清々して良い気分なんだ。高揚して眼がギラギラと輝いているのが自分でも分かった。そんな自分を、前に居る賢者とやらはただじっと見つめている。風前の灯火とはこのことだ。しかし私が銃を握りしめたその時、賢者とやらは溜息を吐き、魔耶にこう尋ねた。
「魔耶、この新人育成の教育課程案を考案したのは、誰だったろうかな?」魔耶は賢者を見て直ぐに答えた。
「はい。彦一様に御座います。」その名前、そしてそのやり取りを、私は怪訝に見つめ、そして聞いていた。
「そうだ。彦一翁であったな。だがこの教育課程案は、どうやら頓挫したようだ。やはり古来からのやり方で、地道に訓練する方が良かったやも知れぬ。それぞれの資質に合ったやり方でな。彦一翁にも、そう進言せざるを得ない。残念ではあるがな。」賢者はそう言って私に振り向いた。
「お主ももう、そのおもちゃの銃から手を離して、ゆっくり休むが良かろう。我々も、休みの時だ。」そう言われてこっそり銃を見てみると、それは昔懐かしい銀玉鉄砲だった。
賢者は立ち上がり、洞窟の更に奥へと歩いて行った。すると魔耶も立ち上がり、私をじっと見つめ、そして私にこう言った。
「お主の寝所はあそこだ。ゆっくりと休むが良い。」私は、え・・?と思った。さっきまでの態度とは別人だ。私は目と耳を疑った。だが魔耶は、踵を返してあの男の後を追っていった。
(ああ、やはりそうか・・。魔耶が本当に好きなのは、あの賢者なのだ・・。)全身から血の気が失せていくのが分かった。あれも夢、これも夢。一体何を信じて良いのか・・もう、何も分からない・・。直ぐにでも此処を飛び出したいが、そんな気力も体力も、もう残ってはいない・・。心身共にへとへとの私は、ただのグチャグチャした泥と化して、魔耶が指さした所に歩いて行った。平らな岩の上に敷かれた粗末な布団。それが魔耶が示した私の寝所だった。それを見ていると、何故だか笑いが込み上げてきた。
(そうだったな・・いつか経験したよ。絶望と歓喜は常に隣り合わせだって・・。そう・・一寸先はいつだって、誰にも分かりはしない。自分のことだって、誰のことだって・・分かりはしないんだ・・。自分が此処に来て唯一学んだことは、きっとそういうことなんだろう・・。でも・・もう良い・・。
そうだ・・明日は独りで此処を出よう。そして、死んでしまおう。残された何物も無い。自分が死んだって、おそらく何も変わらない。そんな事だ・・。ただ、今は眠りたい・・。此処は最後の眠りにふさわしい場所だ。自虐的な歓喜だけが、此処にこそある・・。)触ってみると、ゴツゴツとした岩肌を感じた。そして出来れば、この岩に同化したいと思った。そうすれば何もかも忘れられるであろうに・・と・・。
私はおもむろに横になると、薄っぺらで雑巾の臭いのする布団を被った。そしてその臭いが醸し出す強烈な睡魔と共に、深い眠りへと溶けていった・・。
「森川!森川っ!起きろっ!いつまで寝てるつもりだっ!」誰かの大声と、そしてドンドンと鳴る音で私は目を覚ました。
(うん?此処は何処だ・・?)
白くて低い天井が先ず目に映った。そして左右に首を動かし、自分が居る場所を確認した。しかし見覚えが無い。起き上がり、辺りを見回した。白くて狭い部屋。おまけに便器まで見える。私は頭を振って気を取り戻そうとした。そうだ、これはテレビで観たことがある。独居房だ。
(つまり、今度は囚人と言う訳か。やれやれ、こんな夢は見たくも無い。早く次の夢に切り替えなければ。)
「森川!何をボゥッとしているんだ!さっさと布団をたたみ、出てくるんだ!時間が無い!今日はお前にとって、とても大切な日なんだぞ!」言っている意味が分からない。だが従わなければ、この喧噪は止みそうに無い。
「分かったよ!うるさいなぁ。」渋々布団をたたんで、ドアの前に立った。ドアが開いて、そのまま洗面所に連れて行かれた。
「顔を洗い、歯を磨け。そして髭も剃れ。」
(そんなこと、言われなくても分かっている。何だこの高圧的な態度は。だが今は許してやろう。この夢の続きにも、少しは興味がある。)
「よし、次は着替えだ。部屋に戻り、速やかに着替えろ。とにかく時間が無い。」
(まったく、時間のことばっかり言いやがって。そんなに時間が大事なら、いっそ時計の歯車にでもなっちまえってんだ。金が無い、時間が無いとだけぼやく言葉の海を、これまでどれほど泳いできたことだろう。もういい加減うんざりだ。)
着替えると直ぐに手錠を掛けられ、車へと誘導された。そして着いた先は裁判所だった。どうやら今日は、私の裁判が行われるらしい。
退屈な裁判が始まった。だが私は殆どそれを聞いてはいなかった。それよりも前の夢の意味を、私は深く考えていた。
(この世界が夢の世界だって?それでは、現実とは何処にあるんだ?)私は俯せたまま、そのことばかりを考えていた。
そしてようよう裁判も大詰めで、裁判長が判決主文を読み上げる段階まで進んだ。判決など何でも良い。とにかくこんな退屈な夢は、一刻も早く終わらせたいものだ。
「被告は前に。」そう言われて私は前に進み、その時初めて裁判長の顔を拝んだ。そして私は眼を見開いた。何とその裁判長は、あの賢者だったのだ。だが興醒めだ。これでは演出が懲りすぎている。畏まった衣服を身に着けた賢者など、お笑い種も良いところだ。私は笑いを堪えるのに必死だった。だが裁判長は私をキッと私を睨み付け、厳かに主文を読み上げた。
「主文。被告を死刑に処する。その判決理由を今から述べる。被告は真摯にその言葉を胸に刻むように。」死刑と聞いても、私は動じなかった。
(上等だ。どうせ死のうと昨夜決めた身だ。それをまた言い渡すとは、この演出は出来が悪すぎる。)
「被告は、自分の妄想をただ正当化しようとし、それに反論した被害者、相川冴子とその父彦一を無惨に殺害した。感情の昂ぶりが原因だとはいえ、その所業はあまりにも残酷で、到底更正など及びも付かないと判断した。人としての理性、知性、品格など微塵も感じられず、そして被告には、その反省すら見受けられない。
よって亡くなられた被害者に報うには、自身の死を持って償わなねばならないと判断せざるを得ない。そしてそれほど重い罪を犯した自分を、今一度見つめ直さねばならぬと私は判断する。被告が刑を執行される前に、人としての理性に目覚めることを強く願う。以上だ。」
その裁判長の話の中で私が唯一驚いたのは、自分が彦一を殺したというくだりだけだった。そして冴子の父が彦一だとは・・。
まるで殺害など覚えてはいないが、私はスッキリした。胸のつかえが下りた気分だ。私を夢の中で散々翻弄してくれた、あの憎い彦一は死んだのだ。しかし、彦一や冴子を殺したのは私では無い。いくら気が動転していたとしても、そんな事をする私では無い。裁判長は人としての理性に目覚めよと言うが、私はとっくに、幼少の頃から目覚めている。今更言われることでは無い。当然これは冤罪だ。ろくすっぽ調べも行動もしないで、大抵の人の言い訳である、面倒臭いとの流れからこうなったのだろう。所謂処理だ。事は全て流れて行き、全てが過去になるという、それこそ人間が行う、最強の顛末だ。
裁判が終わった後、私の弁護士が近づいてきて、心神喪失だったのだから、これは断固として控訴すべきだと勧めたが、私は控訴する気持ちなど一切無かった。それよりもこんな退屈な夢は早く終わらせたい。自分がこの夢の中で死ななければ、この夢は終わらないだろう。そう確信していた。あの弁護士も、取り敢えずそう言ったという事実を、自分の記憶の中に取り込み己を慰めたかった、ただそれだけだろう。自分の心の海を泳ぐだけで精一杯の輩が、他人の海に飛び込み、そして溺れているその他人を助けられる訳が無い。
そう思い、私は溜息を吐いた。しかし・・思ったより充実した夢だ。こんな事が考えられるのも、この夢のお陰だ。でも・・私は夢の中でいったい何回死ねば良いのだろう。その都度私の全神経は集約され、一つの塊と成るのだが、それが一体何の意味を持つのか・・。それは未だ分からない、答えの一つだ。
独居房へと帰った。そしてその日から私は、白くて狭い部屋で何をする事も無く、ひたすら沈思黙考する日々が続いた。以前聞いた事があるが、死刑判決を受けた者は他の囚人達とは違い、煩雑な労役からは解放されているようだった。死そのものが刑罰であるため、その他の罰は無くなる。そう言うシステムらしい。良く分かるような分からないようなシステムだなと私は思った。
ともあれ、これまでやったことの無い、非常に健康的な毎日ではある。酒も煙草も当然ながら在りはしないが、それは最初から無い物だと思い込めば済む事だ。人は何にでも慣れる。そうだ、人はどんな環境にも慣れてしまう生き物なのだろう。煩雑でゴミゴミした社会にも、そしてこの独居房の様な、特殊な生活にも。
一年が過ぎたが、未だお達しは来ない。その弱腰にはいい加減うんざりもし、呆れてもいた。お陰でこちらはすっかり哲学者のようだ。毎夜見る夢の解析と、この世の秘密の探求を誰にも邪魔されず続けることが出来る。思索する者にとって、これほど優遇された環境は無いと私は思った。だがもう良いだろう。早く次のステージへと行きたい。私はわざと看守に悪態をつき、反省の色などこれっぽっちもありませんよと猛烈にふざけてアピールした。その甲斐あってか、ある朝突然それはやって来た。
その朝、まだ暗い時分に、独居房のドアが静かに開けられた。そして看守はとても静かに私を揺り起こした。私は直ぐにそれを察した。小さく頷き素直に彼等に従った。そして暗い廊下を静々と歩いて行く様は、さながら敬虔な信者が儀式に臨む神聖な瞬間のようだった。小さな部屋に通され、私は其処で牧師から訓戒を受けた。だがそんな話しなど、私は聞いてもいない。
ただ私はこの場面で、自らに集中せよと命じた。この刹那、きっと見えてくる何かがあるだろう。私はそう思った。だが、見えては来ない。この一年の集大成、その言霊が、思い浮かばない。これが私の限界か・・。それもまた仕方が無い。次に期待するより他無さそうだ。訓戒が終わり、私は処刑台へと連れて行かれた。
(ああ・・やっとだ・・。)
しかし顔に袋を被せられた時、私に言霊が降りてきたのだ。その歓喜を、私は塞がれた空間の中で味わった。首に縄が掛けられ、看守達が遠ざかる音が聞こえた。次の瞬間、バンッと音がして、私は宙に飛んだ。堕ちていくその刹那、私はその言霊を暗唱した。それは、とても長い時間に感じた。
『生まれ続けるのだ・・そして、死に続けなければならない・・。そしてそこにこそ、真意は隠されている・・。』
強い衝撃を受けて、私の落下が終わった。そしてまた私は夢の中へと向かっていた。急速に遠ざかる意識の中、私は眠りへと堕ちた。
次の瞬間、私は大きく目を見開いて、飛び跳ねるように起き上がった。
息が荒く、喉がとても渇いていた。胸元を触ると、寝汗でぐっしょり濡れていた。
ゆっくりと見回すと、薄明かりに照らされたその部屋は、いつもの私の寝室だった。深呼吸してから首を振り、目をもっと覚まそうとした。
(ふぅ・・。やっぱりあれは夢だった・・。)
私はさっき観た死ぬ夢を思い出しながら、しかし今自分が意識している現実には、ほっとして溜息を吐いた。
(でも・・夢も現も、もう分からない・・。今見ているこの世界だって、どっちなのか分かりはしないんだ・・。)見ている世界に対する不信感が、強く私を支配していた。
(でも・・とにかくは落ち着こう。いくら考えたって、この世界からは逃れられないんだから・・。)そう開き直ると、現実の喉の乾きが身に堪えた。
(冷えたビールでも飲むか・・。そうすれば少しはすっきりするだろう。)そう思い、冷蔵庫にあるビールを取りに行こうとベッドを降りようとした。
けれどもふとその時、足に生暖かいものを感じた。驚きギョッとして振り返ると、其処には髪の長い女が全裸で寝ていた。
(誰だ・・?冴子か?麻耶か?)私の脳裏には二つの名前しか浮かばなかった。
「ううん・・。」女が寝返りを打った。その顔は冴子だった。
(冴子か・・。と言う事はつまり・・本当に現実に戻ったのかな・・?)漠然とだが冴子の顔を見てそう思った。
「ふぅ・・取り敢えずはビールだ。何がどうなっているのか、今はさっぱり分からない・・。」独り呟き、そうっとベッドを出た。
(何時なんだろう・・?いや・・何月の何日なんだろうか・・?)
ビールをグラスに注いでから食卓に座り、ビールを煽りながらデジタル時計を見た。
二千十六年二月二十七日土曜日、午前二時五分。
(この日は・・。そうだ、冴子と居酒屋で別れて、独りでこの部屋に帰ってきた日だ・・。今年は閏年だねとか冴子が言っていたっけか・・。
でも・・と言う事は・・。あれだけの夢を、たった三時間で見てたってことか?あんなに長い時間を・・?
それに・・何で冴子がこの部屋に居るんだ?あの日は独りで寝入った筈なのに・・。)
私は辺りを睨め回しながら、尚もビールを煽った。
頭の中では疑惑が渦を巻いていた。
それはそうだろうと自分でも思った。これまで見てきた今までの生活は夢であり、そして今は現実だと、誰が信じられようか。だからきっとこれもまた夢の中だと私は思った。
こんな安直な展開は、あまりにも話しが出来過ぎている。さっきの夢でも思ったが、演出がわざとらしくて下手くそなのだ。独りで目覚めるのならともかく、そこに冴子を配置したのが先ず間違いだ。
(だからこんな退屈な夢はもうたくさんだ。最後はやはり死ぬんだろうけど、もう少し斬新で刺激的な夢の方が良い。だから早いとこ終わらせよう。その為にはどうすれば・・。
そうだ、冴子を起こして、何でこの部屋にいるんだか問いただそう。もしそこで何が起きても、なに、構うものか。どうせ夢の中だからな。)
私は立ち上がって、ベッドへと向かった。そして気持ちよさそうに眠っている冴子を、繁々と見つめた。
(そうだな。人はこうして眠るものだ。自分の意思では無い、夢の世界に翻弄されながら・・。)
その安らかな寝顔を見て少し気の毒だなとは思ったけれども、この状況の真偽を確かめるため、私は冴子を揺り動かした。
「冴子、冴子。ちょっと起きてくれないかな。どうしても聞きたい事があるんだよ。冴子、なぁ、ちょっと起きてくれよ。」
「ううん・・。何・・?どうしたの?」冴子は訝しそうにうっすらと目を開けた。
「ちょっと起きて話しを聞いてくれないかな。悪夢にうなされて、今訳が分からないんだよ。」私がそう言うと、冴子は呆れ顔で溜息を吐いた。
「ふぅ・・祐樹・・また夢の話しなの?それはあなたの趣味だからしょうが無いけど、ちょっと考えすぎだよ・・。でも・・分かった。それが、あなただものね。」冴子はベッドの中でゆっくりと起き上がった。
「それで?何が訳が分からないの?」
私はベッドに腰を降ろして、冴子の目を優しく、しかし真っ直ぐに見つめた。
「それはね。何故今君が、此処に居るのかって事だよ。それが不思議でね。確か今日は、独りでこの部屋に帰ってきた筈なんだ。今あのテーブルの時計で、今日の日付を確認した。それなのになんで君は、このベッドで寝ているんだい?」私の問い掛けに、冴子は怪訝な目で首を傾げた。
「祐樹・・。あなたは本気でそんな事を言ってるの?だとしたら祐樹・・あなたは何か変だし、もしかしたら・・脳を病んでるかも知れないよ?・・」
冴子は心配そうに私の顔を覗き込んだ。その眼があまりにも真剣そのものだったので、これが夢だと確信していた私も何かしら少し心が揺ぎ、瞬時心が騒いだ。
そしてその感情は確信と疑惑に波立ち、徐々にその果てを待てぬ苛立ちへと変わっていった。その為私の眼も、少しずつ険しくなった。
「うん?僕の頭がどうかしているだって?どうしてそんなことが言えるんだい?そんな嘘をついたって、僕にはもう通用しないよ。それに僕はもう、あのテーブルのデジタル時計で確認済みなんだ。
だってそうだろうに。あの日は君とは別れて僕は独りでこの部屋に帰って来てそして独りで寝たんだから、君がこの部屋で寝ている訳が無いだろう。いくら僕が馬鹿だからって、そのくらいのことは分かる。だから君もいい加減しらばっくれていないで、本性を現しなよ。
そしてそのまま、静かに消えてくれれば良い・・。君もそれが仕事なんだろうから、僕も君を、そんなに責めたりはしないよ。」
私のそんな言葉を、冴子は黙って聞いていた。けれどもその目はやがて、大粒の涙をその頬に流した。私はその顔を見つめて、言葉を失った。沈黙の刻と共に冷気が私を取り囲み、私を凍り付かせて呼吸を奪った。
その沈黙を破って涙声で私に訴えた冴子の言葉は、更に私を驚愕させ、あの藍色の岩に激突した瞬間を思い出させた。
「祐樹・・。なんでそんな酷いことを言うの?静かに消えてしまえだなんて・・。あなたはあたしの事を、いつもそんな目で見てたの?あたしはあなたのことを、こんなにも愛しているのに・・。
いくら酷い夢を観たからって、そんな言い方は酷すぎる。あなたの心の隙間にさえ、あたしは居ないみたいに聞こえる・・。
あなたのあたしに対する愛は、もう消えてしまったの?あんなにも二人で愛し合っていたのに・・。
それにこの一週間のことも、昨夜あんなに愛し合ったことも、全部忘れているなんて・・。
あなたは夢の世界に、すっかり冒されてしまってるんだわ。
それにあのデジタル時計だって、先週壊れてしまってねって、あたしに言ったんじゃない。そして今日は、明日は仕事だけど、寂しくて仕方が無いから来てくれって、そうお願いされたから此処に居るのに・・。
でも・・もういい・・。そんなにあたしのことが嫌いになったんなら、あたしはこの部屋から消えて無くなるから・・。それがあなたの、望みなんだよね・・?」
冴子の悲しい問い掛けとその話に、正直私は驚き、そして戸惑った。
(なんだって?あのデジタル時計が壊れていて、そして今はその一週間後だと?)
全く記憶が無い。
この一週間の間、自分は普通に仕事をしていたんだろうか?
もしそれが事実なら、確かに冴子の言う通り、自分の脳は何処かが壊れている事になる。
私は急いでテーブルへと走り、デジタル時計を確認した。
そしてそれはやはり、壊れていた。日付を表示したまま、秒を示す数字が止まっていた。
時計を静かにテーブルに置いて、寝室へと戻った。
冴子はベッドに座ったまま、じっと私を見つめていた。私も冴子を見つめながら、大忙しで自分の記憶や疑問と闘っていた。
(今までのは全部夢で、そして今やっと、自分は現実に戻ってきたのか?そして本当に、これは現実なのか?)
そう自分に問うと、これまで自分を翻弄してきた夢の世界が次々と思い出された。
様々な場面、そして感じた様々な感情。様々な顔と眼差し。それらは全て夢か現か・・嘘か真か・・?
心の中で、その映像が混ざり合い、少しずつ渦を巻き始めた。
様々な色や物の形が壊れて、全てが一気に凝縮して黒い塊と成った。
私はその重い息苦しさに、思わず胸を押さえた。
しかし次の瞬間、そんな黒い塊が胸の辺りでいきなり爆発したかと思うと、その破片が体中に一気に広がり、いつか見た茶箪笥のように砕けて無くなっていくのを感じた。
そしてこれまで感じたことが無いほどの奔放な開放感が熱い血となって、私の体を駆け巡った。
暖かな空気が私を優しく包み込み、不要な疑問が清らかな水で洗い流され、心と体が軽くなった。そして私はこれまで生きてきた中で溜め込んできた価値観を、全て失ったのを覚った。
私は清々しいほど、空っぽになった。
その刹那、私は冴子を見つめたままで、言葉を失っていた。
「冴子・・その・・。いや・・何でも無い。起こしてごめんね・・。何でも無いんだ・・。」
いつしか私は泣いていた。涙が止めどなく溢れてきて、私は膝に手を着いたまま、それを拭おうともしなかった。
(全ては夢でしかない・・。でも・・やっと今自分は、本当の心の自由を手に入れた。誰も触ることが出来ない、自分だけの自由を・・。
もしこの感覚が夢であり儚く消え去ろうとも、これは絶対に忘れない。自分の本当の自由や価値感は、これから自分で創っていくんだ。そしてそれは、自分だけのものなんだ。)
「どうしたの祐樹?なんで泣いてるの?」
「いや・・何でも無いよ。なんだか今の幸せが、奇跡のような気がしてね・・。
僕は今やっと、幸せというものがなんなのか、分かった気がするんだ・・。」
安堵がもたらす涙なのか・・不安と恐怖に苛まれた闇の後、一条の陽の光を受けた時に思わず流す涙なのか・・。
いいや、そうでは無い。私は今やっと、何も無い世界に到達したのだ。そう思った。
そう、まるで自分を嘲笑うかのように、止めどなくいろんな事があり過ぎた。しかしその不気味な影は、いつか観たあの夢の場面のように、私から離れて遠く逃げていった。
私はほっとして、冴子を優しく見つめた。そしてこれまでに感じたことが無いほど、冴子に対する愛おしさを感じた。
そんな私に、冴子も私を見つめて微笑んでいた。
「そうなの?良かった。あたしもとっても幸せだよ?だったらこれからはもっと二人で、愛を深めて行きましょうね。」
幸せそうにそう言う冴子のその言葉に、私はふと疑問を覚えた。
(愛を深める?けれどその愛とは、いったいなんなのだろうか・・?)
一切の価値感から解放された私は冴子を見つめながら、改めてその言葉の意味を考えていた。
確かに今、自分の心はなにかで満たされている。それは分かる。けれどもそれが「愛」と名付けられた心なのか、私には分からなかった。
そんな私の心を知ってか知らずか、冴子は私に微笑みながら言葉を続けた。
「でも・・祐樹の幸せって、そんなものだったのかしら?じゃあこうなれば、もっと幸せなんでしょうね?」
冴子がそう言うと、冴子は黒い煙となって消え、其処にまた一人の女性が現れた。
私は半ば驚きながら、けれども内心驚きもせず、その黒い煙がうっすらと消え去るのをただじっと見つめていた。
「どうですか?これならもっと幸せになれますでしょう?」
次に現れたのは麻耶だった。
「祐樹様、これからはずっと一緒にいられますね。これがあなた様の思い描く、幸せだったのでしょう?」麻耶はキラキラした瞳で私を見つめた。
私は確かに嬉しかったけれども、その感情は一陣の風となって、虚しく通り過ぎて行った。
「ああ、正直言うと、以前ならそうだったかも知れないね。
でも今は・・そうは思わない。だから麻耶・・もうそんな芝居はしなくても良いよ。」
私がそう言うと、麻耶の顔から微笑みが消えた。そして鋭い眼差しでじっと私を見つめた。それはあの洞穴で私が最後に見た、麻耶の冷たい眼差しだった。
「もう・・愛すら消えてしまったと・・。」
「いいや、そうじゃ無い。僕が心から探している愛というものは、未だ見つけられないし、だからこれから僕自身が創っていくものなんじゃ無いのかな。今は上手く言えないけど、そう言う事なんだろうと思う。
人は甘美な刺激にはとても高揚するけれども、それは直ぐに飽きてしまうものだ。あの最初に観た、綺麗だった風景と同じさ。与えられた新鮮で純粋な瞬間なんてすぐに消え去り、そしてその後は、自分でその消え去りそうな風景に固執しながら、毎日という時間の中で全然違う風景を描いて行ってしまう。そんなもんだろ?だから僕はもう、そんな瞬間の陶酔なんかには惑わされない。それがたとえ煌めく一瞬だったとしても、それはただの刹那でしか無い。
強い麻薬にも似たその瞬間を、人は絶えず追い求めるけれども、それに溺れれば、やがてその心は崩壊に至る。何故なら人は今までの自分を見失ったその瞬間から、自分自身を構成している魂達の均衡を自ら乱してしまうからだ。そしてそれはいつか、自分自身の崩壊を招く。心の中での内戦やクーデターは絶えず勃発して、止むことを知らない。
僕はこれまで、自分の魂が一つだと思っていた。でもその考えは間違っていた。僕の中には、無限とも思える魂達が宿っているんだ。
君もその中の、魂の一つだよね。そしてまたこういう僕も、その中の一つでしか無い。
でも僕はこれから、失ってしまった一つ一つの価値を、自分で創り上げて行こうと思っているんだ。だからその作業にもし君が協力してくれたら、とても嬉しいんだけどね。」
私が優しくそう言った途端、麻耶もまた黒い煙となって消滅した。
私は一つ溜息を吐き、ビールを喉に流し込んだ。
(何も無い空っぽの世界か・・。よろしい。これから自分は、その世界に色を付けていくだけだ・・。)
虚しさと安息が入り混じった心のまま、私はベッドに横になった。
その翌朝、私は自分の部屋の自分のベッドで、独りで目を覚ました。
何事も無い朝、そして何事も無い世界だった。
けれども私は変わっていた。何が変わったのか。それは上手く説明出来ない。何だか生まれ変わったような・・。そんな新鮮な感覚を感じただけだ。
ただ、これだけは言える。
やはり夢には何らかの意味があるのだ。
それがいったい何のためでありどんなに取り留めが無くとも、それは私を構成している魂達の、私に対して訴える叫び声なのだ。そしてそれはまた彼等を司る或る者からの啓示では無いのだろうかと、今私はしみじみと感じている。
これまで夢は何のために観るのか、そしてそこに何の意味があるのか、いくら考えてみてもそれはずっと分かりはしなかった。けれどもやっと私はその声を理解し、真剣に心に留めたように思う。このこれまでの価値感の転倒とも言うべき心の変化が、その証明だ。
そう、新しい価値感の世界が正に夢によって獲得出来たのだから。
私はその新しい価値感に向かって、今こそ歩き出さねばならない。
人は行動しなければ、その足跡は作れない。それが例え想いだけであっても、人は動くしか無いのだ。けれどその意味などは到底見つからないだろうし、そしてその存在さえ、誰に知られる事も無いだろう。だが其処には、自虐的だが、意味が無いと言う意味だけは存在する。
よろしい。それもまた受け入れよう。
これまで長い時間を掛けてゴテゴテに厚塗りされたキャンバスを捨てて、また新たに描きあげねばならない絵が私にはある。其処には自分だけが識る新しい価値感、新しい世界が描かれて行くだろう。今の私が今の私自身に出来ることとは、そう言うことだ。
夢係・・。ふとその言葉が、頭の何処かで煌めいた。
「それはどうだろうか・・。」
修練中の身だという言葉を思い出して、私はふと微笑んだ。
(そんな者に成れるのか成れないのか・・。いやその前に、そんな係が在るのか無いのか・・。いずれにしてもあの世界もこの世界同様、大変な事だ・・。)
私は微笑みながら鞄を手にするとマンションから出て、急ぎ足で会社へと向かった。
(けれども今夜また寝入れば自分は否応なく、またあの世界に居るのだろう。仰ぎ見るしか無い、満天の星の瞬きに似たあの世界に・・。
そして今居るこの世界は、今度こそ本当に現実なんだろうか・・。そして今感じているこの私自身も・・。)
そう思いつつ、北風の中に冷たい頬を晒していた。それは以前と同じように・・。
そう、夢の主人公とは、いつも自分ばかりとは限らない。
そしてこれは、私の中の、私では無い私の、私に対する、ささやかな告白ではないだろうか・・。
了