第八話
井戸を下りてガラクタたちに会うため、この町はずれの洋館には幾度となく通ったが、建物の中に入るのは初めてだった。
シロは、むすっとして口数少ない社長に導かれて、洋館内に足を踏み入れた。外から見たときと同様、内側もまた古めかしく、幽霊屋敷を思わせる陰気な感じがした。フローリング張りの広い廊下は、掃除が行き届いていないようで埃っぽく、歩いていると鼻がむずむずした。黒っぽい壁はところどころひび割れて、天井には蜘蛛の巣が張っている。あんまり人が住むのに適した環境とは思えなかった。
長い廊下の途中には、レンガ造りの大きな暖炉があって、目を引いた。だが、まったく使っていないらしく、中はからっぽで、ここもまた埃と蜘蛛の巣の独擅場になっている。
突き当たりの扉の前まで辿り着くと、社長は立ち止まり、シロに部屋の中に入るよう促した。足を踏み入れると、そこはこじんまりとした部屋で、机や箪笥や本棚やらの家具がごみごみと立ち並び、そこいらじゅうにほっぽり出された着替えや文房具や、中身の詰まったごみ箱が、無機質な廊下と違って存分に生活感を醸し出していた。広い家に住む人間にありがちなことだが、おそらく社長の生活はほとんど屋敷のこの狭い一角に集約されているのだろう。片側の壁にある窓は開け放たれていて、蒸し暑い室内にささやかな風を招き入れていた。外には、窓を隔ててすぐ傍にあの井戸が見える。
社長は床からぺちゃんこの座布団を拾い上げると、乱暴に叩いて埃を払い、書き物机の前にある木製の椅子に放り乗せた。
「ほら、ここに座れ」
椅子の背を掴んで、シロのほうに座面を向けながら言う。その口調はぶっきらぼうで、イライラしているような気配が感じられたが、地下室に居たときよりは落ち着いたらしく、憎々しげな怒りは感じなかった。
シロは、言われるまま座布団の上に腰を下ろした。
社長も、部屋の隅から粗末な丸椅子を引っ張って来て、座ろうとしたが、思い直して立ち上がった。
「おい、コーヒー飲めるか?」
椅子の上で、肩見狭そうに身を縮こませているシロに尋ねる。
シロは上目遣いで、こくりと頷いた。
「待ってろ」
社長は、疲れたように首を鳴らしながら、部屋を出て行った。
ひとりぽつりと残されたシロは、椅子の上で体育座りをして、狭い室内を見回した。並んでいる家具はほとんど木製で、無数に傷が入り、角が欠け、ずいぶん年季の入った代物のように見える。さらに、弱い電灯がぼんやりと照らしているせいで、部屋全体に、冒険物語に出てくる盗賊の隠れ家みたいな、そんな秘密基地然とした雰囲気が漂っていた。
部屋じゅうを順繰りに観察していると、入り口の横の小さな棚の上に、四角い写真立てが飾ってあるのに目が留まった。じっとするということを知らない中学生は、古い床を鳴らさないようそっと椅子から立ち上がると、写真立てに近づいた。
その小さな枠の中には、ふたりの人間が収まっていた。椅子に座って、にんまり笑い、金歯を見せている禿げたじいさんと、どこかの中学校の学ランを着て、不機嫌とも上機嫌ともつかない顔をして立っている男の子。男の子の腕の中には、分厚くて重そうなえんじ色の本が抱えられている。垂れたガラの悪い目つきから推して、それは若い頃の社長らしかった。
少年社長は、目つきこそ悪いものの、まだあどけなさも残っていて、これが将来あのだらしないおじさんになるんだと思うと、シロはなんだか不思議に感じた。
しばらく過去世界の小さな断片に見入っていたが、ふと写真立ての奥に置いてある金属製の箱に目が行った。青銅色の黒ずんだその箱は、表面があちこち剥げていたが、凝った模様が丁寧に彫られていて、いかにも意味ありげだった。盗賊が財宝を入れておくいにしえの宝箱のように思えた。
シロは、生来の冒険好きの性格から、こんな状況だというのに、触ったら怒られそうなものほど触りたくなるというありがちな激しい欲望に駆られた。戸口をちらと振り向き、社長がまだ帰って来ないことを確認する。写真立てを落とさないよう慎重に手を伸ばし、宝箱の蓋に指を掛けた。鍵は掛かっていないようだ。ゆっくりと、蓋を持ち上げる。
そして、思わず息を飲んだ。
宝箱の中に入っていたのは、大量の黄緑色の布切れだった。大きさはばらばらで、慌てて破ったみたいに、布の端々から糸が飛び出している。その色はぼんやりとした明かりに照らされていささか鈍くなっていたが、確かに、ニコラとテトラが着ているスーツと同じ色のように見えた。
シロは自分の心臓が早鐘を打つのを感じた。犯罪の現場を見てしまったような感覚に襲われた。
そのとき、廊下のほうから床を踏むぎいぎいという音が聞こえて来た。
シロは慌てて宝箱の蓋を閉めると、いたちみたいにぬるりとした動きで素早く椅子の上に戻った。
戸口に、社長が湯気の立ったマグカップを持って現れた。
「ほら」
不愛想にそう言い、机の上にマグカップを置く。
「あ、ありがとう」
シロの心臓はまだどきどきしていた。つい今しがた見たもので頭がいっぱいで、出されたマグカップを持ち上げると、冷ましもせずに口につけてしまった。
「あつっ」
思わず叫ぶ。
舌を出してひいひい息を吐くシロを見て、社長は呆れたように言った。
「おい、気をつけろよ。湯気が出てるだろ」
幸い、その失態の原因は、いけない覗き見をした緊張ではなく、単にシロがとんまなせいだと思ってくれたらしかった。相手の内心の焦りにはまったく気づかない様子で、丸椅子を引き寄せ、向かいに腰を下ろす。
シロは、心を落ち着かせると、今度は入念に息を吹きかけてからコーヒーをすすった。熱い夏に飲む熱いコーヒーは、大人の飲み物だった。
社長はしばらくシロがちびちびコーヒーをすする様子を黙って眺めていたが、やがてぽつりと言った。
「悪かったな、シロ。俺が馬鹿だった」
シロはマグカップから顔を上げ、目を丸くして、社長の影のかかったような顔を見つめた。
「俺が、馬鹿だった。最初に、何がやっていいことで、やってはいけないことなのか、ちゃんと説明してやらなきゃいけなかったんだ」
憂鬱そうに首を振りながら、そう言う。
「俺がどうしてあいつらをわざわざ地上の世界から隔離しているのかなんて、考えればすぐに想像がつくことで、説明する必要なんか無いと思ってた。シロ、おまえがそんなふうに空気を読めるほど、"まとも"な奴だと勘違いした俺が馬鹿だったんだ」
シロは、なんだか精神的に頭を殴られたような気がした。彼女は、自分のことをまともでないなんて思ったことがなかったし、自分のしたことが考えればすぐわかるほど明らかに悪いことだなんて、一ミリも疑っていなかったのだ。目線を落とし、黙って茶色い湖面に浮かぶさざ波を見つめる。
「シロ、俺はあいつらを地上には出したくないんだ。地下に居るのがいちばん安全なんだよ」
社長は、説得するような口調でそう語った。
「考えてみてくれ、あのガラクタたちが地上に出たらどうなるか。おまえは変人だから、あいつらを見ても驚かないし、当たり前のように仲良くなっちまうかもしれないが、世間の人間はそうじゃない。動かねえはずの物が、歩いて喋って笑うのを見れば、どうする?怖がって燃やすか、珍しがって捕まえるか……なんにせよ、対等に扱ってもらえるなんて、まったく期待できねえ。地上は危険な世界なんだよ、あいつらにとって」
シロは苦しげに唇を噛んだ。そして、ちらと社長を見て、絞り出すように言う。
「私は……私はただ、ニコラとテトラたちに人間の文化を知ってほしくて……ずっとあの狭い地下暮らしなんてかわいそうだから……」
だが、社長はため息をついて遮った。
「おまえはすでに地上の生活を知ってるからそう思うんだ。あいつらはそもそも、あの洞窟以外の世界なんて知らなかった。知らなけりゃ、憧れも抱かないし、行きたいとも思わない。かわいそうなんてもってのほかだ。現に、おまえがやって来るまでは、あいつらはあそこでの暮らしで十分満足してたんだ」
シロは、初めてニコラとテトラと出会ったとき、彼らが地下室での暮らしはすこぶる楽しいと言っていたことを思い出した。
「俺はずっと、あいつらがこっちの世界に来たいだなんて思うことがないように、気をつけてきた。雑誌やらビデオやら、人間の文化に興味を抱かせるようなものはできる限り地下室から取り除いたし、俺自身、あいつらに地上での生活に関する話をしたことはほとんどねえ。興味を持ったって、出て行けないんじゃ、苦しいだけだからな。……それをおまえは、何も考えずにあんなふうにDVDを持ち込んで、ニコラに"外の世界にはこんなにおもしろいものがあった"だなんて言わせちまった」
そう言って、じろりと中学生の顔を睨む。シロはますます身を縮こませた。
「……ごめんなさい」
消え入りそうな声で、そうつぶやく。
「ありがたいことに、あの地下室には大量にガラクタが転がってる。あいつらのとんでもねえ思考回路ならいくらでもくだらない遊びを思いつけるし、外から新しいものを持ち込む必要なんてないんだ」
暗くなり始めた窓の外から爽やかな風が吹き込んで、コーヒーで火照ったシロの頬を心地よく撫でた。
「……俺も悪魔じゃねえ。あいつらがおまえのことを好きなのはよくわかってる。二度と来るなとは言わない。だが、もうあいつらに余計なことは教えないと約束してくれ。わかったか?」
シロは黙って、社長の真剣な目を見つめ返した。垂れたまぶたの下の黒い瞳には、もう怒りの炎は燃えていなかった。
変人は、こくりと頷いた。
社長は気分を切り替えるように、ぽんと自分の膝を叩いた。
「わかってくれたんなら、いいんだ。それを飲み終わったら帰れよ」
シロはもう一度頷いた。
マグカップに口を付ける。コーヒーはまだ半分以上残っていた。苦い味をごくごく飲めるほどシロはまだ大人ではない。何も話すことがないまま、社長の目の前で座っていなければならないのはなんだか気まずくて、目をそらした。そして、いつのまにか、引き寄せられたように、脇にあるあの青銅の宝箱をじっと見つめてしまっていた。
社長はシロの目線に気づいて、自分もそちらに顔を向けた。シロは咄嗟にまずい、と思った。勝手に宝箱を開けたことがばれるかもしれない。
だが再び幸いなことに、社長は、シロが宝箱ではなくその前に置いてある写真立てを見ていたものだと思ったらしい。
「気になるか?俺のじいさんだよ」
写真立てに手を伸ばし、禿げた頭にうっすら積もった埃を指で拭いながら、言う。
「隣に居るのは社長?」
シロは、話を合わせた。
「そうさ。ちょうど、今のおまえと同じくらいの年の頃だな」
「この頃から目つきが悪かったんだね」
「やかましいな」
この状況下でのずぶとい変人の態度に、社長は呆れ気味にツッコんだ。そして、当の嫌な形をした垂れ目を、疲れたようにこする。
「……これのせいで昔っから散々、悪人面だと言われてきたよ。だけど、服を変えようが髪を変えようが、こればっかりはどうにもなんねえんだから、仕方ねえだろ」
「あれ、気にしてたの?」
「別に。どうでもいいさ」
社長はそう答えたが、シロにはなんだか指摘してはいけないことを指摘してしまったように思えた。慌てて別の話題を探す。
「おじいさん、笑ってて、すごく楽しそうだね」
「楽しそう……というか、まあ、なんにも考えてないからっぽな人だったな」
金歯を見せてこちらに笑いかける老人を、愛情でも憎悪でもない表情で見つめながら、ぽつりと言った。
「なんにも考えてない?」
「ああ。とにかくいい加減な人だった。親に死なれて、物心ついたときからこの人と居たけど、かまってもらった記憶はほとんどねえ。右も左もわからない子どもだっていうのに、なんにも教えちゃくれなかった。あんまり何も教えてくれないんで、必要なことは全部本から学ぶしかなかったよ。この人は俺になんかちっとも興味が無くて、やることと言えば、なんの役に立つのかわからねえガラクタの収集ばっかりだった」
「お金持ちだったの?」
「最初はな。いわゆる立派な家柄ってやつで、代々受け継いで来た財産があったんだ。こう見えても俺は、いいとこの坊ちゃんなのさ。だが、その栄光も、じいさんの代で終わった。ご覧の通りの収集癖なうえに、資産運用の才なんて微塵もねえ。財産を譲り受けた途端、あっという間に食い潰しちまった。死ぬ頃にゃすっからかんで、俺に残されたのも、このぼろっちい家と、あの売れねえガラクタの山だけだったというわけさ」
「あの洞窟、おじいさんが作ったんだね」
すると社長は、皮肉っぽく笑いながら答えた。
「ああ。いい大人が、まったく馬鹿なこと考えるもんだ」
「そうかな?私は、ああいうの好きだけどな……」
シロは独り言のようにそうつぶやいた。
会話は止まった。社長はしばらくのあいだ黙って、懐かしむように写真を眺めていた。静かな室内に、夏のあいだに死に損ねた蝉が庭で鳴く声と、シロがコーヒーをすするずずずという音だけが遠慮がちに響く。
この静けさとあいまってか、写真を眺める社長の横顔はなんだか孤独で寂しげに見えた。兄弟は居なさそうだし、両親に先立たれて、おじいさんも死んだとなれば、もう家族は誰も残っていないのだろう。世間から隠れるようにひとりで暮らしている気難しい男を、こんな人里離れた場所にある腐りかけの家に、わざわざ訪ねて来る友人が居るとも思えない。ガラクタたちが居るとはいえ、寂しくはないのだろうか。社長には謎めいたところが多いが、なんとなく、いろんなことが終わってしまって、もう残りの人生がどうでもよくなってしまったような雰囲気を漂わせていた。
そうこうしているうちに、マグカップの白い底がようやっと顔を見せた。シロは、カップを机に置いて、腰を上げた。
社長も写真から目を離し、見送りのため立ち上がる。
シロは先に部屋を出ようとしたが、そこでふと足を止めた。
「あ、そうだ」
後ろに居た社長のほうを振り返る。
「なんだ?」
「地下室で見つけたの。パーティーが終わったら返そうと思ってたんだった」
ズボンのポケットに手を突っ込み、中をまさぐる。何かをこぶしに握りしめて取り出した。
「これ、大事なものでしょ?」
そう言って開いた手のひらに乗っていたのは、あのシルバーのペンダントだった。
だが、相手はそれを見るなり目を見開き、にわかに顔色を変えた。黒い憤怒の炎はもうすっかり消え去っていたはずなのに、恐ろしい敵意の表情が瞬く間にその顔に戻った。
社長は、シロの手から乱暴にペンダントをひったくると、力任せにごみ箱の中に叩きつけた。ペンダントは、鈍い音を立てて、盛り上がっていたごみの山を押しつぶした。
「だ、大事なものなんじゃないの?」
シロは、びっくりして尋ねた。
「大事じゃねえ」
吐き捨てるように言い、憎々しげに歯を剥き出す。
社長の急な激昂にうろたえたシロは、どうしていいかわからず、いらだちで歪んだその顔と、ごみ箱とを交互に見やった。ペンダントは下まで落ちないで、まだごみ箱の縁から銀色のFor My Loveの文字を覗かせていた。これほど怒って投げ捨てるくらいだから、社長は元恋人とのあいだで相当不愉快なことがあったのかもしれないし、もしかしたらふられたのかもしれない。でも、少なくとも、わざわざ誕生日を彫り付けたこのプレゼントが贈られた当時は、深い愛情が込められていたはずだ。そう考えると、屑のあいだで涙のように光を反射しているペンダントがひどくかわいそうに思えた。
シロは、おずおずと言った。
「い、いくらなんでもそんなふうに捨てなくたって……心を込めたプレゼントなんだし……」
だが社長は、それを遮るように怒鳴った。
「おまえには関係ねえ!黙ってろ!」
シロは口をつぐんだ。あまりの剣幕に、もはや新しく言葉を紡ぐ勇気は出なかった。
小さくなったシロをぎろりと睨むと、社長は抑えた、だがやはりいらついたままの口調で言った。
「いいから、さっさと帰れ」
そして、部屋から追い出すようにシロのすくんだ肩を押す。
その後は、なんの会話もすることもなく、不機嫌な社長に玄関まで見送られ、すごすごと夜の道を帰って行った。