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第七話

 蝉の大合唱はようやっと収まって来たが、まだまだ日差しは強く、中学校の校舎の白い壁に、樹々が濃い影を投げかける。その校舎の、一階の隅の窓が開け放たれていて、ふたつの肌色の禿げ頭が、やかましい喚声を外に逃がしながら、窓枠のあいだで揺れていた。

「ぎゃっはははは、四葉ってば、まるはげじゃん!」

「ぎゃっはははは、恵美だって同じだよお!」

 ちんけな扇風機がぎこちなく首を振り、油絵具の匂いをまき散らしている美術室。禿げた男の被り物をした恵美と四葉が、お互いの作品を指差して、大笑いしていた。そのふたりの男は、どっちもおんなじ顔をしていて、大きな目をいかめしくひん剥き、妙にリアルで、そんなふたりがかしましい声を上げて笑っているさまは、なんとも気味が悪い。

 被り物で視界の六割を奪われた恵美は、ふらふらとおぼつかない足取りで、部屋の隅でひとり黙々と、丸めた新聞紙をりんごに変えるべく、色を塗っているシロに近づいた。へらへら笑いながら声をかける。

「ねえ、鵜代さんも見てえ。これ、山賊役の人に被ってもらうの。すっごくリアルじゃない?」

 だがシロは、吸いつけられたように手元の新聞紙に絵の具を塗り続け、被り物のほうには見向きもしなかった。

「うん、いいと思う」

 硬貨を投入された券売機みたく、機械的にそう答える。

「鵜代さんも、いいって言ってくれたよお!」

 恵美は、馬鹿みたいに大声で報告しながら、どたどたと四葉のもとへと駆け戻って行った。

 シロの意識は、今何が起こったのかさえわからないくらい、新聞紙を赤色に染め上げることだけに集中していた。とにかく一刻も早く与えられた仕事を完成させて、この美術室から解放される、ただそれだけが今のシロの至上命令となっていた。

 なにしろ、今日は待ちに待ったニコラとテトラの漫才パーティーの日なのだ!

 とうとう双子が、夏じゅうの特訓の成果を舞台上で披露する。そう思うと、シロはわくわくして仕方が無かった。早く地下室へ行って、社長がやって来る六時頃までに舞台の準備を整えたいし、サプライズが上手くいくよう、段取りも確認しておきたい。気味の悪い山賊の被り物に気の利いた感想を考えてやる暇など、一切無かった。

 もう少しで塗り終わるというところで運悪くパレットの赤色を切らし、シロは悪態をつきながら、乱暴にチューブを握って新しい絵の具を絞り出した。まだ新聞紙の灰色の見えている部分にべたべたと塗りたくる。何かのスポーツ大会の優勝カップを誇らしげに掲げている女性の笑顔を赤く染め終えたところで、シロは椅子から跳ねるように立ち上がり、りんごを握って、山賊ふたりのもとに駆け寄った。

「終わった!終わった!終わったよ!終わったから、もう帰っていい?」

 興奮気味に、赤い塊を押し付ける。

 四葉はりんごを受け取りながら、のんびりとした調子で答えた。

「いいよお」

 その言葉を聞き終わらないうちに、もうシロは踵を返して、脱兎のごとく美術室の出口に向かっていた。だが、出て行きかけたところでふと、戸口の横に置かれた段ボールの中に、大量のしぼんだゴム風船が入っているのが目に入り、立ち止まった。振り返って尋ねる。

「ねえ、この風船、何かな?」

 四葉が、被り物を上げて顔を半分見せながら答えた。

「ああ、それね。去年模擬店の飾り付けで使ったやつらしいよ」

「去年?じゃあ、貰っちゃってもいいかな」

「別にいいんじゃない?」

 シロは、段ボールからありったけのゴム風船を掴み取ると、鞄に押し込み、美術室を出て行った。

 暑い日差しの下を小走りで行くと、瞬く間に汗が吹き出し、肌と服の裏地とを不愉快にくっつけた。だが、目前に最高のパーティーが控えているシロにとって、そんなことはお構いなしだ。町はずれの洋館への道を急ぐ。

 中学校から洋館へ行く道の途中には、中くらいの公園があり、その入り口の隣に一枚の掲示板が立っていた。催し物のお知らせや宣伝チラシを貼る、地域の掲示板である。シロは、この掲示板の前も急ぎ足で通り過ぎた。だが、通り過ぎるときに視界の端でものすごく馴染みのある文字列を捉えたような気がして、数歩先へ行った後、迷いながらもやはり気になって引き返して来た。そして、その掲示板に貼られた新品のチラシを真正面から見て、はっと息を飲んだ。


 "弾丸ブリッツ 奇跡の再結成記念単独ライブ開催決定

 彗星のごとく登場し、数々の賞レースで活躍後、惜しまれつつ解散した弾丸ブリッツ。そんな彼らが、三十年の時を越えて、奇跡の再結成を果たす。当時のファンも、そうじゃない人も、必見。お笑い界を揺るがしたあの弾丸のような漫才が蘇るさまを刮目せよ。白雲三糖劇場にて。"


 十代の頃の弾丸ブリッツの古い写真が囲む真ん中に、ふたつの人間らしき黒いシルエットがでかでかと印刷されていた。

 シロは、自分の目が信じられなかった。なんというタイミングだろう!ニコラとテトラが初めて漫才を披露しようというまさにその日に、彼らの運命に新しい光を与えた伝説的漫才師の、奇跡の復活の知らせ。これを奇跡と言わずして、何を奇跡と呼ぶのだろう。なんだか、ずっと眠っていた弾丸ブリッツが、人間の文化に馴れていないニコラとテトラの、あまりにも純粋な憧れの気持ちに答えて目覚めたかのようだった。かつて笑いの世界を席巻したあのやんちゃなふたりは、名前も姿も知らない、人間ですらない、画面越しの彼らの愛弟子を応援してくれている。そんな身勝手な想像をせずにはいられなかった。

 シロはしばらくのあいだぼうっと、魅力に溢れたチラシに見入っていたが、ふいに急いでいたことを思い出してはっと肩を震わせた。身を翻し、また小走りで洋館への道を行く。道すがらずっと、あのチラシは吉報だ、今日のニコラとテトラの漫才お披露目会も大成功に終わるだろうという嬉しい予言だ、連なりがちな幸運の最初の一部なんだ……そんな思いがぐるぐると頭の中を巡った。

 洋館へ到着し、長い井戸を降りるとさっそく、弾丸ブリッツ再結成の朗報を双子に伝えてやろうと探したが、どこにも姿は見えなかった。マカに訊くと、奥のほうで本番前最後の猛練習をやっていると言う。それを邪魔するのは野暮だ。

 舞台の上では、アドルフとクリストーナも最後の練習をしていた。と言っても、彼らは一流を気取る節があるので、演奏する曲そのものの通し練習をしていたわけではない。つまり、素人には何をやっているのかよくわからない、音程を極限まで正しく合わせるため同じ単音を何度も長く鳴らすという行為をただひたすらやっていた。

 マカとミスター・パパラッチはと言うと、やはり今日もいつも通り呑気で、もちろんパーティーは楽しみにしていたが、特にやることもなく、舞台の周りで遊びと喧嘩の中間の追いかけっこをしていた。

 経のようなピアノとサックスのユニゾンが響く横で、シロは慌ただしく舞台の準備に取り掛かった。

 まず、舞台の中央にマイクを置いた。電源を繋いでいないので実際的効能は皆無だ。だが、やはり漫才は真ん中にこれが無いと締まらないのだ。漫才用のかっこいい四角いマイクをガラクタ山の中から見つけられなかったので、カラオケ用のひょうきんな丸いタイプで代用した。なんだか、漫才というよりもリサイタルが始まりそうな雰囲気で、少し滑稽だった。

 それから、舞台の縁に腰を下ろし、美術室で手に入れた戦利品の風船を膨らませ始めた。すると、ハマサキが白いワンピースの裾をひらひらと揺らしながら近づいて来た。

「あの、シロさん。パーティーの準備をしていらっしゃるんですよね。私にも何かできることありませんか?」

 シロは明るい顔をぱっとそちらに向けた。

「あ、手伝ってくれるの?」

「はい……」

「じゃあ、一緒に風船を準備しよう!」

 ハマサキは、シロに促されるまま隣に腰を下ろした。

 シロは、ゴム風船とヘリウムガスの缶を両手で持ち上げて見せた。

「ほら、これをこう、こう、こうやって……膨らませるの」

 純朴なマネキンは、シロが手際よく風船にガスを入れる様子を、真っ白な目で興味深そうに眺めた。風船がシロの頭くらいの大きさまで膨らむと、感動したようにおおと声を漏らし、手を打ち合わせた。

「どう?できそう?」

「や、やってみます」

 シロとハマサキは仲良く並んで作業を始めた。シロが五つ風船を膨らませるあいだに、不器用なハマサキはひとつしか膨らませることができなかったが、それでも初めての体験にやりがいと楽しさを感じているらしく、どこか誇らしげな顔をして取り組んでいた。

 シロは膨らませた風船に紐を結び付けながら、半分独り言のように漏らした。

「ああ、パーティー楽しみだなあ」

 そして、ハマサキのほうを振り向く。

「社長、びっくりするだろうな。笑ってくれるかなあ?」

 すると、ハマサキは自分の手元を見たまま口をつぐんだ。しばらく沈黙が続いた後、ようやっとぽつりと答える。

「そ、そうですね」

 どこか迷いのあるような、何かをためらっているかのような面持ちである。

 シロは何も言わずに、頭上にハテナの浮かんだ笑顔でハマサキを見つめた。何を迷っているのか気になったが、問い詰めることはせずに、相手が自分からその謎の答え合わせをする気になってくれるのを待った。

 やがてハマサキは、斜がちにシロに目をやり、意を決したように言った。

「あ、あ、あの、シロさん」

「なあに?」

「私、今日渡そうと思うんです……その、ラブレターを」

 それを聞いてシロは、ぱっと顔を輝かせた。

「ほんと?社長に?」

「ええ」

 恥ずかしそうに、再び目をそらす。

 だが直情的な中学生には、そんな繊細な恥じらいなんてお構いなしだ。嬉しい気持ちが溢れて来て、その気持ちの促すままはしたないくらい素直な大声で叫んだ。

「わあっ!すっごくいいじゃん!最高のタイミングだよ!」

 そして、マネキンの華奢な身体を抱きしめる。

 シロがあんまりストレートに賛意を示すので、弱気だったハマサキも自信がついたのか、嬉しそうにはにかんだ。

「今まででいちばん上手に書けたんです。これ以上は綺麗にできないっていうくらい。だから、勇気を出して今日渡そうと思って……」

「うん、うん、いいと思う。みんなにお祝いしてもらって、きっと社長もいい気分になってるだろうし、そんなときに渡すなんていちばんいいタイミングだと思うよ」

「ああ、全部シロさんのおかげです。シロさんが文字の書き方を教えてくれたから……私の気持ち、伝わるでしょうか?」

「伝わるよ。絶対伝わる!」

 シロは何度も力強く頷いた。

 ハマサキの顔はますますほころび、もうすっかり決心が固まったようだった。世間知らずなマネキンには、手紙を渡した後の具体的な展望というものは一切思い描けなかったが、それでもとにかく幸福な未来がぼんやりと浮かんで、罪の無い自惚れが彼女の心を優しく満たした。

「へへへ、ハマサキさんのために、ニコラとテトラにはしっかり盛り上げてもらわなきゃね」

 シロはそう言って、いたずらっぽく笑った。

「よし、風船は、そのくらいあれば十分かな。飾りに行こう」

 風船に結んだ紐の先をまとめて握り、大きな花束のようにすると、シロは立ち上がって舞台の奥の端まで歩いて行った。ハマサキも、小さめの花束を持って後に続く。

 ユニゾン練習を終えて休憩していたクリストーナが、大量の風船を宙に散歩させて行くふたりを見て言った。

「あら、素敵ね。わたくし、前々からこの舞台って地味過ぎると思ってたの。とっても華やかになるわ」

 変人中学生は、自慢げににんまりと笑って見せた。

 あちこちが傷んだ古い舞台の端は、床板が割れたりめくれたりしていて、紐を引っ掛けられそうな釘が、きのこみたいに上手い具合にぽつぽつと顔を覗かせていた。シロは風船の束をハマサキに預け、自分は一本だけ握って釘の上にしゃがみ、紐の先を括り付け始めた。

「これは、結構大変そうだなあ」

 舞台の端から端まで風船が並ぶように結び付けて行くのは、なかなか骨の折れる作業だった。だが、しゃがみ、結び、立ち上がり、移動し、マネキンの白い手から風船を受け取って、またしゃがむ、その繰り返しをしていくうちに、地味過ぎる舞台はいつもよりは楽しげな場所に変わっていった。

「ああ、とてもかわいい景色ですね」

 ハマサキは、ふわふわと揺れる風船の列を愛おしげに眺めながら、そう漏らした。

「さあ、あとひとつ」

 そう言って最後の風船を受け取ると、シロはしゃがみこんだ。

 やっと大変な作業が終わるぞ、と思ったそのとき、指先に鋭い痛みが走った。

「いたっ!」

 思わず手を開いてしまった。解放された青色の風船が、自由を謳歌するようにのんびりと天井に向かって上っていく。

「シロさん!大丈夫ですか?」

 悲鳴を聞いたハマサキが、慌ててシロの隣にかがみこむ。

 シロは笑って首を振った。

「あはは、大丈夫。釘で指を引っ掻いちゃったみたい」

 だが、シロの指先から溢れ出した鮮やかな赤い血が玉を作り膨れていくのを見ると、ハマサキは恐怖で青ざめた(もちろん、合成樹脂の肌が本当に青くなったわけではない)。

「シ、シロさん、それはなんですか?あ、あ、赤いものが出て来ました」

「これは血だよ。人間は怪我すると赤い血が出るの」

「た、大変です、なんとかしないと」

「このくらいならたいしたことないよ。ほら、こういうふうに押さえとけば止まるし」

 そう言って、指の付け根に近いところをもう一方の手で握る。ハマサキは、理解できたようなできないような顔でその処置を見た。確かに血の玉の成長は止まったが、臆病なマネキンはまだ、初めて出会った赤い物体に怯えて震えていた。

 シロは顔を上げて、天井に到達した青色の脱走兵に目をやった。

「それより、あと一個だったのになあ。せっかく手伝ってもらったのに、ごめんね、ハマサキさん」

 ハマサキはぶんぶんと首を振った。

「いえ、いえ、シロさんさえ無事であれば、そんなの全然構いません」

 そのとき、洞窟の奥のほうから、黄緑色のスーツのふたりがやって来た。

「おおい、シロ、そろそろ時間じゃないか?」

 テトラがぶんぶんと片手を振りながら叫ぶ。

 シロははっとして、近くに転がっていた丸い掛け時計に目をやった。時刻はもう六時になろうとしていた。

「わあ、いつのまにこんな時間!社長を迎えに行かなくちゃ。ニコラ、テトラ、スタンバイしておいてね!」

「おうよ!」

 シロは急いでその場を離れ、地下室の入り口のほうへと向かった。

 途中で、マカとミスター・パパラッチに遭遇した。

「シロさん、社長を迎えに行くでありますか?」

「オイラたちも一緒に行く!」

 呑気なふたりも、お迎え隊に合流した。

 梯子のある小部屋へ繋がる階段の前に到着すると、そこでひとりと二体は社長が下りて来るのをそわそわと待った。とうとうニコラとテトラが漫才を披露する!夏じゅうの特訓を、今日、結実させる。そう思うと、落ち着くことはできなかった。自分がとちってサプライズを失敗させはしないかという不安がちょっぴりと、それを遥かに凌駕する量の、愉快極まりない時間への期待がシロの胸を満たしていた。

 やがて、階段の奥から革靴のこんこんという足音が聞こえてきた。シロの鼓動が早まる。

 入り口からひょいと社長が顔を出した。そして、目を丸くした。

「な、なんだ、どうしたんだ?」

 なにしろ、ガラクタたちにとって社長が様子を見に来るか来ないかなんて普段はどうでもいいことで、わざわざ迎えに来てくれたことなんて今まで一度も無いのだ。待っているものといえば、悪童の仕掛けた罠ばかり。それが今は、満面の笑みを浮かべたシロと、レンズをきらきらきらめかせているミスター・パパラッチと、紙面をつやつや輝かせているマカが、意味ありげに並んで自分のことを見つめている。

「お待ちしておりました、社長!どうぞこちらにお越しください」

 実にもったいぶった様子で、わざとらしく丁寧にそう言うと、シロは社長の腕を掴んだ。

「お、おい、なんなんだってば」

 社長は困惑したように顔をしかめた。だが、シロはそんなことなどお構いなしに、腕を引っ張って歩き出す。

「今日は社長のために、特別な催しをご用意しております。どうぞ、お越しください」

「また変な罠にかけるつもりじゃないだろうな」

 疑うようにそう言い、なかなかその場を動こうとしない。だが、あんまり強く腕を引かれるので、しぶしぶ歩き出した。

 マカとミスター・パパラッチも、人間ふたりに連れ添うように、両脇を楽しげにぴょんぴょんと飛び跳ねて進んだ。

「社長、安心するであります。今日は、ニコラとテトラのいたずらじゃあありませんよ」

「うん、うん。今日は、とっても楽しいことだよ」

 それでも社長は、どこかから石でも飛んで来るんじゃないかとか、落とし穴にはまるんじゃないかとか、始終不安げに辺りに気を配りながら歩いていた。

 しばらく行くと、風船で飾り付けられたささやかな舞台と、そこで待つアドルフとクリストーナの姿が見えた。

「社長!どうぞ、特等席にお座りください」

 シロは、舞台の真ん前に用意された、木箱に毛布を被せて作った、この界隈では豪華な部類に入る椅子を指して言った。

 社長はやはり不安が拭えないらしく、毛が均されて濃淡の一律になった毛布の表面をじろじろ眺めながら、座ったものかどうか迷っていた。だが、ふと顔を上げて、ニコラとテトラの悪巧みに加わるはずのないハマサキが別の客席に座っているのが目に入ると、少し安心したのか、警戒しながらゆっくりと腰を下ろした。いつもと違い、心ばかり華やかな舞台を見回して、つぶやく。

「いったい、何が起こってんだ……?」

社長が席に着くと、シロとマカとミスター・パパラッチは、踊るように舞台の上へ上がり、センターマイクの前で仲良く横一列に並んだ。真ん中に立ったシロは、しかつめらしく咳払いをし、背筋をぴんと伸ばして言った。

「えー、今日はどうも、お越しいただきまことにありがとうございます。私及びガラクタ一同より、社長にメッセージがございます」

 怪訝そうに見上げる社長。

 シロは両脇のふたりに目配せをして、「せーの」とささやいた。

 歯茎を見せて、にんまりと笑う。

「社長!お誕生日おめでとーう!」

 パーン!

 軽快なクラッカーの音が響いたかと思うと、色とりどりの紙屑が散った。拍手するかのように、グランドピアノが最高音からのグリッサンドを鳴らし、アルトサックスが伸びやかに祝いの遠吠えをする。マカはぴょんぴょんジャンプするたび身体を折っていろんな形の花に変身したし、パパラッチは素早くフィルターを入れ替えて次々にカラフルなフラッシュを焚いて見せた。社長の斜め後ろに座っていたハマサキも、祝いの気持ちを込めて、これでもかというくらい小刻みに両手を打ち合わせていた。

「おめでとう、社長!」

「いつもありがとう、社長!」

 社長は、びっくりした表情で、自分にありったけの祝辞を浴びせる舞台上のシロとガラクタたちとを見つめた。

「な、なんで知ってるんだ?」

 困惑したようにそう言う。

 そのとき、クラッカーから飛び出した四角い黄色の紙屑が、ひらひらと宙を舞って、社長の帽子の上に落ちた。そして次の瞬間、まったく意図せずそうなってしまったというふうに、こぼれるように、社長の顔にふっと嬉しそうな微笑みが浮かんだ!

 その表情は、今まで見てきた不機嫌な怒り顔とは全然違っていて、天使が息を吹きかけた子どもみたいに綺麗だった。両の瞳が素直に、目の前の好ましい祝いの景色を反射していて、シロはその瞬間、ハマサキが以前社長の瞳を褒めた意味が、ほんの少しばかりわかった気がした。

 シロは手で合図をして周りのガラクタたちを鎮めると、改めて社長のほうを向いて背筋を伸ばした。

「それではこれより、ニコラとテトラから社長へ、特別なパフォーマンスをプレゼント致します。お楽しみください!」

 そして、マカとミスター・パパラッチとともに舞台を駆け下り、今度は客として社長の両脇に座を占めた。わくわくと肩を揺らしながら、舞台を見守る。

 ひょうきんなカラオケマイクが一本ぽつんと残された舞台上で、アドルフとクリストーナが、見事なまでに完璧に頭の音を揃えて、出囃子の演奏を始めた。重厚な二種類の音が、地下室の地面を揺らし、ジェットコースターの最初の上り坂のようなドキドキを与える。

「なんだなんだ、歌でも歌ってくれるのか」

 社長は、照れたようにはにかみ、事情を知っている周りの連中を見やって、ひとりつぶやいた。

 そして、出囃子が鳴る中、あのふたりでやる掛け合いの冒頭につきものの、自分たちで自分たちを盛り上げる拍手が響き……

「はいどーもー!ニコラとー!」

「テートーラーでーす!」

 ガラクタの山の陰から、いつも以上に元気溌剌に、双子の人形が舞台上に飛び出して来た!その爆発的登場は、まったく弾丸のようだったし、弾丸ブリッツのようだった。シロは思わず歓声をあげ、手を打ち鳴らした。

 ニコラとテトラはマイクの前に立つと、まるでもう何百回も舞台に立ったことがあるかのように、片方がまっすぐ立って片方がちょっと斜に構えるような、これぞ漫才師という姿勢になって、歴戦の士のようになめらかに喋り始めた。

「どーもー、俺たち、ニコラとテトラっつって、双子の人形で漫才やらせてもらってます!」

「名前だけでも覚えて帰ってやってください!」

「縫い目の細かいほうがニコラで、粗いほうがテトラです」

「嘘つけ、どっちも同じだろうが!俺だけ雑に作られてねえんだよ」

「テトラは実は、途中までは靴下になる予定でした!」

「んなわけあるか!どんな路線変更だよ、形状が全然ちげえだろ!」

 テトラのツッコミに応じて、客席のガラクタたちの最初の爆笑が響いた。

 完璧なタイミングで掛け合うそのふたりの、実に楽しそうなこと!彼らはすっかり漫才師だった。彼らは、自分たちが漫才をすることを当然のこととして、完璧な自然性をそこに実現していた。自分たちは漫才をするために生まれてきたのだということを、つゆ疑っていなかった。宇宙が、ニコラとテトラという存在を、長い歴史の中のまさにこの瞬間、広大な空間の中のまさにこの場所に、横並びに立たせて喋らせることを、ずっと前から原子と約束していた、それを見せつけるかのようだった!

「俺、人間ってなかなかおもしろいと思うんだよ」

「まあ、確かにな」

「人間になったらやってみたいことあるんだ」

「ほう、なんだい?」

「逆立ちして、頭から腐るか足から腐るか実験したい」

「てめえ、トチ狂ったのか!」

「だって、腐るって人間にしかできないぜ?俺、これがいちばんやりてえよ」

「他にもいろいろやれることあるだろ!なんでそれがいちばんなんだよ!」

 ニコラとテトラは、弾丸ブリッツ譲りの駆け抜けるようなテンポで次々と言葉を繰り出した。お互いの言葉が次の言葉を引き出し、いくつもの気の狂った応対が極めて自然に繋がって、そこにあるべき会話の総体を作っていく。さらに、アニメーションのようなちょこまかした身振りが、笑いを誘う滑稽さを全段階に添える。ガラクタたちの笑いが、初めて見るはずのニコラとテトラの漫才に、計算されていたみたいに心地よく合いの手を入れた。

「人間になったらやってみたいことと言えば、俺はテレビに入ってみたいね。みなさん知ってます?人間はちっちゃくなって、テレビっていう板に入れるんです」

「テレビ?入りたいも何も、テトラ、おまえこの前テレビに入ってたじゃん」

「はあ?俺がいつテレビに入ったんだよ」

「テレビの中で人間の足を優しく覆ってたじゃん」

「いや、それ靴下だから!俺は靴下じゃねえっつってんだろ!」

 双子はますます調子を上げて、もはや漫才師のある"ゾーン"に入っていた。ひょっとするとこのときのふたりは、何度も何度も再生したあの弾丸ブリッツの漫才と今の自分たちとが、完全に重なり合ったような感覚を持っていたかもしれない!

 他のガラクタたちもどんどん引き込まれ、ミスター・パパラッチは可笑しさのあまりもう座っていられずに床を転がり出すし、マカは薄い紙面をよじって笑い、舞台の後方に居るアドルフとクリストーナさえ、黄緑色のふたつの背中が軽快に動くさまを見て、くすくすと身体を震わせていた。

 シロもまた、何度も練習を見てやったためにほとんど流れを知っているのに、初めて見たかのようにおもしろくて、足を踏み鳴らし、馬鹿みたいに高い声であはははあはははと笑った。漫才そのものの滑稽さと、お披露目会が大成功しているという事実に対する喜びとが、二重になって彼女の気分を絶頂に至らしめた。彼女は、今という時間に全身を使って夢中になっていた。

 そうだ!シロはあまりにも夢中になりすぎていて、そのためにあるひとつの重要なことに気づかなかったのだ……

 夏じゅう研究を重ね、練りに練ったニコラとテトラの漫才は、地球時計の針を巨大な誰かが宇宙から指で押しているみたいに、瞬く間に過ぎてゆき、もう終わりに近づいていた。

 テトラが、ニコラの後頭部を叩く。

「もういいよ!」

 そして、揃って頭を下げる。

「ありがとうございました!」

 まさしく弾丸ブリッツと同じ、嵐のような漫才だった。挨拶を言い終わらないうちから、シロはもう手が痛くなるぐらいに拍手をしていた。マカがひゅうひゅうと口笛もどきを鳴らし、ミスター・パパラッチはバシャリバシャリと絶賛のシャッターを切った。楽器たちもねぎらいのメロディを奏でる。

 ニコラとテトラは、深々と頭を下げたまま、動かなかった。全力で駆け抜けた後の、溢れんばかりの充実感を、じっくりと噛み締めているかのようだ。ふたりへの拍手喝采はなかなか収まらなかった。

 ニコラとテトラの漫才は大成功だ。夏じゅうの練習の成果を、完璧に出し切った。きっと社長も喜んでくれている……!最高の気分でふわふわとしていたシロは、手を叩きながら、満面の笑みを浮かべて隣の社長のほうを振り向いた。

「社長!ふたりの漫才、おもしろかっ……」

 だが、言いかけて、口をつぐんだ。

 先ほど照れくさそうに微笑んでいたのとは打って変わって、今の社長の横顔は、固く強張っていたのだ。険しい目つきで、下げられたままの双子の頭を睨んでいる。

「社長?」

 困惑して思わずそう漏らすシロ。

 その声で周りのガラクタたちも異変に気づき、一斉に静まり返った。

 急に喝采がやんだので、ニコラとテトラは怪訝そうに、頭を上げた。すると、固い表情でそのふたりを見つめていた社長が、おもむろに口を開いた。

「……どこで漫才なんか覚えたんだ?」

 感情を抑えたような、抑揚の無い声だった。 実は、ニコラとテトラが漫才を披露しているあいだじゅう、社長は、客席の笑い声には一切加わっていなかった。だが、夢中になり過ぎたシロは、そのことにちっとも気づかなかったし、自分たちのパフォーマンスを完璧にやり遂げることに必死にだったニコラとテトラにもまた、客席の反応を見る余裕など無かったのだ。

 大笑いをした後の、まだ興奮が抜け切らないようなほころんだ表情で、プレゼントに対する礼を言われる予定だった双子の人形は、決して上機嫌とは言えない口調で問いかけられ、まごついた。だが、ポジティブなニコラはすぐさま元気を取り戻して、凍った空気を和ませるように、無理やり明るく答えた。

「へへ、気になるか?」

 そして、舞台から飛び下り、脇に転がっていた例の派手なトランクを拾い上げる。留め金をぴんと弾いて、がばと開いて見せた。

「ほら!」

 トランクの中には、シロの持ち込んだ大量のお笑いのDVDが並んでいた。サプライズを成功させるため、見つからないようにここに隠しておいたのだった。

 ニコラはトランクを支えながら、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。

「これを見て、めちゃくちゃ練習したんだ。まったく、外の世界には、こおんなにおもしろいものがあったんだな!全然知らなかったぜ。社長ってば、早く教えてくれたらよかったのに……」

 だが、ふいに笑顔を失った。

 トランクに詰まったDVDを見つめる社長の目の奥に、ゆらゆらと黒い怒りの炎が燃えていたのだ。それは、ニコラとテトラのいたずらに引っ掛かって腹を立てる、傍から見ると微笑ましいような、いつもの社長の怒り方ではなかった。心の底から湧き上がる、憎しみにすら近いような憤怒が、そこにゆらめいていた。

 社長は立ち上がると、つかつかとニコラに近づいた。

「俺は、おまえらにそんなものを見ていいと言った覚えは無い」

 ニコラは思わず手を滑らせて、トランクを地面に落とした。静まり返った洞窟内に耳障りな音を響かせて、DVDが散らばる。

 人形は、肩を縮こませて相手の顔を見上げた。いつもは悪ガキらしい肝っ玉の大きさで、叱られるのだってへっちゃらなのに、今目の前に居る社長の表情は、これまで一度も見たことがないほど、あまりに恐ろしかったので、何も言葉を返すことができなかった。舞台上のテトラも、口をぽかんと開けたまま、ただ茫然とふたりの様子を見守ることしかできなかった。

 社長はふいに、シロのほうに顔を向けた。

「おい、シロ、おまえか?これを持ち込んだのは」

 足もとに散らばったDVDを指差して言う。その一様におどけたデザインの記録媒体群は、今の状況に不釣り合いな楽しげな色彩を地面に描いていた。

 シロは、重苦しい雰囲気に気圧されて、口を開くことができなかった。

 すると、社長は声を張り上げた。

「おまえかって訊いてるんだ!」

 恐ろしい怒鳴り声が、広い洞窟をびりびりと揺らした。

 シロはびくっと肩を震わせ、怯えた顔で、こくりと頷いた。傍でマカとミスター・パパラッチが抱き合ってぶるぶる震えているのが、視界の端に映った。

 シロの返答を見ると、社長は露骨にため息をつき、憎々しげにつぶやいた。

「余計なことしやがって」

 そして、地下室の出口のあるほうを親指で指して、言った。

「シロ、一緒に上に来い。話があるから」

 逆らうことはできなかった。

 社長の背後で、ニコラが踏み出して何か援護を言おうとするのが目に入ったが、シロはぶんぶんと首を振り、それを制止した。

 思い描いていた虹色の未来とは、まったく真逆の、陰鬱な暗い景色だ。笑わせたい、いつもの感謝を伝えたい、そう思ってやっただけなのに、どうしてこんなことになったのか……怒りで冷たくなったような社長の背中に付いて、シロはとぼとぼと歩き出した。歩きながら、ちらと後ろを振り返る。

 そこには、虚しく揺れる風船を背景に、不安そうに身を寄せ合う楽器たち、震えるマカとパパラッチ、茫然と立ち尽くすニコラとテトラ、そして、小さく畳んだ紙片を握りしめて、去って行く人間たちを悲しげに見つめるハマサキの姿があった……

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