第五話
二ヶ月が過ぎた。
季節はすっかり夏に変わり、横暴な太陽が、陸上を闊歩する剥き出しの肌のすべてを焼いてやろうと躍起になっていた。
シロは相変わらず洋館の井戸に通い、飽きもせずニコラとテトラたちとくだらない遊びをして日々を過ごしていた。毎日、学校が終わると脇目も振らず地下室に直行する。社長に鬱陶しそうに睨まれたって、へっちゃらだ。コンセントはと言えば結局のところ見つからなかったが、ガラクタたちにとってそんなことは大したことではなく、すぐに忘れてしまい、遊びに没頭した。遊びのあいま、ハマサキには約束通り文字の書き方を教えてやった。不器用なマネキンにはまっすぐに線を引くことさえひと苦労だったが、優しい変人教師は、その震えるペン先が一分もかけてお手本の線をじりじりなぞるのを、まったく純粋な応援の気持ちで見守り続けられるくらいには、利他的であった。
毎日が楽しくて学校の授業なんて全然頭に入らないまま、とうとう夏休み前最後の登校日を迎えた。
だが、六限目の授業を終えて夢のバケーションを目前にしたクラスは、ある抜き差しならぬ議論で紛糾していた。
「誰か、四番目の小人の役やってくれる人居ませんかー?」
文化祭で披露する劇の役割決めである。
文化祭が行われるのは九月だが、夏休みが明けてからすぐに準備に取り掛かれるよう、休み前に役割を決めておくのが慣例になっていたのだ。
不人気な役にはなかなか手が上がらないし、人気の役を巡っては激しい精神的紛争が巻き起こる。これもまた慣例である。
鬱陶しい教育機関からの一ヶ月間の解放という人参を鼻の先にぶら下げられてさっさと帰りたいとはやる気持ちと、でも面倒な係は他人に押し付けたいという野望が渦巻く教室で、ただひとりシロだけが、そんな議論はどこ吹く風というふうに、ぼうっと窓の外のまだ明るい景色を眺めていた。頭の中にあるのはガラクタたちのことだけだった。あの最高におもしろい連中と一緒にやる悪巧みと比べれば、文化祭はそれほど楽しみなものとは思えなかった。
「小道具係、あとひとり、やりたい人居ませんかー?」
紛糾しながらも徐々に各ポストが埋まってゆき、まだ身を固めていない人々が焦りを募らせる中、学級委員が呼びかけた。
三人分の枠がある小道具係は、本来であれば比較的人気のポストだ。だが、このクラスに限っては、最もやりたくない役のひとつとして忌避されていた。というのも、すでに小道具係に決まっていた恵美と四葉という女子が、文字通り"熱血"だったからである。
美術部に所属するこの恵美と四葉は、他人のくせに双子のようによく似ていて、美術に関するあらゆるものに対するこだわりの強さもまたそっくりだった。常に自分たちの"最高"の仕事を提供することを是とし、たかが中学生の劇であっても、手は抜かない。三人目の小道具係に選ばれたが最後、夏休み中まで呼び出しをくらって彼女らの"最高"の仕事に付き合わされることは、去年の被害者が流布した話から、皆の目に見えていた。
「誰か一緒に小道具係やろうよ!」
「絶対楽しいよ!」
仲良く前後の席に並んでいる恵美と四葉が、自分たちが小道具係の株を大幅に下げているとはつゆ知らず、明るく呼びかけた。
クラスの皆は目を見交わし、誰か呼びかけに答えてやれよと暗黙の押し付け合戦を展開した。だが、自己犠牲の勇者は現れない。
そんな中、巧みな誘導とさりげない押しの強さによって、民主的な手続きを経ることもなく早々と可憐なお姫様役を勝ち取っていた真理恵が、声をあげた。
「ねえ、鵜代。あなたまだ係決まってないんじゃない?小道具係やったら?」
うわの空で外を眺めていたシロは、突然声をかけられてびくりと肩を震わせた。
「えっ、何?」
「小道具係!」
「あ、うん。いいよ」
思わず、そう答えた。
「じゃあ、小道具係は、恵美と四葉と鵜代で決まりね」
「鵜代さん、よろしくね!」
「一緒に頑張ろうね!」
恵美と四葉はそっくりな笑顔をシロに向けて言った。
シロは、まだ何が起こったんだかよくわからないまま、間の抜けた社交の笑顔で頷き返した。
クラスは、たいして重要なことは起こらなかったかのように再び次の役割決めに移った。だが、皆内心真理恵に感謝していたことは疑いない。
紛糾した議論もやがて終わりを迎え、生徒たちはやっとこさ、学校という網から広い夏休みの海に放たれた。
シロは早くガラクタたちに会いたくて、弾かれたビー玉のように学校を飛び出した。普段よりかなり遅い時間になってしまっていた。
蒸し暑い草原を蝉の合唱を聞きながらあくせく渡り、洋館に辿り着くと、もうすっかり慣れた動作で井戸をまたぎ梯子を下りる。暑い中急いで来たせいで汗をかいていたが、地下に行くにつれ、ひんやりとした心地よい冷気が肌を撫でた。梯子を下り切り、わくわくしながら大部屋に足を踏み入れ、叫んだ。
「ニコラ!テトラ!」
やかましい声が、広い洞窟の壁に反射してぼわんぼわんと響いた。返事は無い。
「あれっ?」
いつものように、同じくらいやかましい挨拶が返って来ると思っていたので、思わず拍子抜けした声を漏らしてしまった。
「マカ!ミスター・パパラッチ!」
やはり、返って来るのは自分のこだまだけだった。
いつもより来るのがずいぶん遅れたので、ガラクタたちは待ちくたびれてずっと奥のほうまで遊びに行ってしまったのかもしれない。そう思い、シロは歩き出した。
広い洞窟は、自分のぺたぺたという足音以外は、しんと静まり返っていた。景色はいつもと同じガラクタ山の連続だが、こんなに静かなのは初めてここへやって来たとき以来である。双子の人形と居るときはたいてい、必要以上の音量でわあわあ騒いでいるので、こうも急に無音の環境に変わってしまうと、不気味だった。巨大なガラクタ山が、いにしえの墓のように見えた。初めて来たときは不気味どころかウキウキしていたのに、慣れの作用というのは不思議なものである。
途中まで来たところで、シロははっとして足を止めた。前方の床の上に、大量の泥がぶちまけられている。水っぽい泥は放射状に飛び散って、なんだか凄惨な殺人現場の血の跡のようだった。背筋を悪寒が走った。
ふと、泥のぶちまけられているところから、ある一方向に、ぽつぽつと泥の黒い点が伸びているのに気づいた。ガラクタ山のあいだを縫うように、奥まで続いている。殺人犯が凶器から血を垂らしながら人気の無い山奥へ逃げて行く映像がふと頭に浮かんだ。シロは、なにげなくその点を辿り出した。
泥の道標を頼りに歩いていると、いつのまにか見慣れない道に入った。何度も来ているというのに、この巨大な地下室にはまだ見たことのない場所があるのだ。
シロはまた、床の上に何かが落ちているのを発見して立ち止まった。そろそろと近づき、傍にかがみこむ。そして、息を飲んだ。そこに落ちていたのは、茶色いブーツの片っぽであった。拾い上げて、眺め回す。ブーツといっても、通常の物よりはるかに単純な作りで、人間の足が綺麗に収まる形ではない。すなわち、これは双子の人形のどちらかが履いていた物に違いなかった。
そのとき、静かな洞窟の凍った空気が、にわかに引き裂かれた。
「助けて!」
「殺される!」
ばっと顔を上げた。
確実に、あの双子の人形の叫び声であった。
シロはブーツを掴んだまま、脱兎のごとく駆け出した。何が起こったのかはわからない。だが、とにかく反射の作用でそうしたのだった。
再び、文字にならない悲痛な叫び声が遠くに響く。音の出所は泥の道標が示す先だ。心臓が破裂しそうに早鐘を打つのを胸の内側に感じた。双子が無残にもバラバラに裂け散る映像が脳裏をかすめた。
疲れも知らず走り続け、とうとう点々の続く先に、恐ろしいものを見た。
全身真っ茶色のゾンビのような生き物が、こちらに背を向けて立っている。そいつの前には巨大な灰色の箱があって、中に何かを押し込もうとしているようだ。箱の上面から、白い手袋をはめた人形の手が抵抗するように突き出されるのがちらと目に入った。
はっと息を飲むシロ。ニコラとテトラが、殺される!
「双子を放せっ、このバケモノ!」
シロは振りかぶると、持っていたブーツを全力で、ゾンビ目がけて投げつけた。
ブーツは見事に茶色いゾンビの後頭部中央にヒットし、鈍い音を立てて跳ね返った。
「いてぇっ!」
悲痛な声をあげ、ばっと振り向くゾンビ。
振り返ったその顔を見て、シロは思わず間の抜けた声を漏らした。
「あ、あれ?」
頭から泥をかぶったみたいに真っ茶色になっているが、眉間にしわの寄ったその不機嫌な顔は、まさしく社長のそれであった。
振り向いた拍子に社長の肘が背後の箱にぶつかり、上げられていた蓋がばたんと箱の上に落ちた。
灰色の古い洗濯機が、ごうんごうんと動き出した。
社長は揺れる洗濯機を背に、泥まみれの顔をこれ以上無いくらい憎々しげに歪めて、投てきの才能に恵まれた少女を睨んだ。
「おい、シロ、おまえなんてことしやがる!」
シロは思わず肩を縮こませる。
「ご、ごめんなさい」
今がいったいどういう状況なのか、まったく理解は追い着いていなかったが、とりあえず謝罪が口を衝いて出た。
そのとき、ぴりついたムードとは正反対の朗らかな声が呼びかけた。
「おや、シロさんじゃありませんか」
「今日は遅かったね!」
いつも呑気なマカとミスター・パパラッチが、どこからともなくぴょこぴょこと現れたのだ。
「マカ!ミスター・パパラッチ!いったいどこに居たの?」
目を丸くして尋ねる。
ミスター・パパラッチは、胴体をぶらぶら振って楽しそうに答えた。
「ニコラとテトラの処刑を見に来てたんだ」
その言葉を聞いて、シロははっとした。双子の人形のことを思い出したのだ。慌てて飛び上がり、中で爆竹が弾けているかのように派手な音を立てて揺れている洗濯機に駆け寄った。蓋に手を掛け、二の腕の筋肉が盛り上がるくらい力を込めて引っ張る。だが、あいにくしっかりとロックが掛かっていてびくともしなかった。
「助けなきゃ!ニコラと!テトラが!死んじゃう!」
シロは悲痛さで涙を流さんばかりに叫んだ。
その必死な子どもの背中に、社長は呆れたように言った。
「何馬鹿なこと言ってるんだ?人形なんだから死ぬわけないだろ」
子どもは、洗濯機の蓋を引いていた手を止めた。
「あ、そっか」
突如与えられた冷静な思考に押され、とんまな返事がこぼれ出た。
だが、すぐに仲間を想う正義のヒーロー然とした表情に戻った。振り向き、社長にすがりつくように言う。
「でも、でも、こんなところに押し込んで、ぐるぐる回しちゃ、かわいそうじゃない?」
社長は鬱陶しそうに首を振った。
「大丈夫だよ!あいつらには痛さも痒さも無いんだから。むしろ、汚れたまんまほっといたら、虫が湧いてぼろぼろになっちまう」
だが、シロは納得いかないように唇を歪めた。
すると、マカがちょこちょことシロの足元に近づいて来て、言った。
「シロさん、ニコラとテトラは大丈夫でありますよ。アレはまあ、あんまり楽しいものではないみたいですけど、終われば、ちゃんと元気に戻りますから」
「そうなの?」
「うん、うん、ニコラとテトラの処刑はいつもやってることだから、心配することないよ」
ミスター・パパラッチも、何がそんなに嬉しいんだか、レンズをきらきら輝かせて口を挟んだ。
マカとミスター・パパラッチに言われて、シロはやっと納得した。
「ところで……社長はどうして泥んこなの?」
すると社長は、泥まみれの顔の中だと白く浮いて見える歯を剥き出して、忌々しそうに言い放った。
「おまえには関係ねえ!」
そして、身を翻して去って行った。「まったくどいつもこいつも……俺を悪し様にして何がそんなに楽しいんだ?……」そんなふうにぶつぶつ文句を垂れる声がかすかに聞こえた。
去って行くゾンビの茶色い背中を見送りながら、ミスター・パパラッチはそっとシロに耳打ちした。
「ニコラとテトラが社長を待ち伏せして、泥をぶっかけたのさ」
あの凄惨な殺人現場はどうやら、いたずら狩人ニコラとテトラの猟場だったようだ。とすると、パパラッチが冗談めかして呼んだ処刑というのは、社長にとっては本当に処刑の意味合いを持ったものだったのかもしれない。
シロとマカとミスター・パパラッチは、轟音を立てる洗濯機の前に並んで座って、洗濯が終わるのを待った。
三十分近く待ってようやっと、灰色の処刑台は、処刑の終わりを告げるピーという音を鳴らした。洗濯機の蓋が内側から押され、げっそりした表情の双子が顔を出した。船酔いしたようなおぼつかない動作で箱をまたぎ出る。シロたちは双子のもとに駆け寄った。
「ああ、こりゃ、何回やっても慣れやしねえ……」
ニコラとテトラは、シロに支えられながら、近くにあった適当なガラクタ類の上にどっかりと腰を下ろした。
水を吸った人形の身体は、なんだか縮んでしまったようで、いかにも惨めだった。怒りに任せて適量以上にぶち込まれたであろう洗剤の匂いがツンと鼻を刺す。
シロは、はぐれていたブーツの片っぽをニコラに手渡しながら言った。
「私、社長がふたりを洗濯機に押し込んでいるところを見たよ。殺しちゃうのかと思った」
ニコラが、指の無い足をブーツに突っ込みながら答える。
「いや、死にはしないよ……だけど、なんて言えばいいのかなあ、あの感覚。目が回るっていうか……本当、殺されるみたいさ」
隣でテトラが頻りに頷いた。
それからしばらく休んでなんとかグロッキー状態から抜け出すと、人形たちは、しわくちゃになったスーツを伸ばし始めた。黄緑色のスーツは前も後ろもツギハギだらけだ。ちゃんと同じ色で揃えればよいのに、継ぎ布は皆微妙に濃かったり薄かったりするので、なんとも目立って不格好だった。
「それ、社長が縫ったの?」
そうシロが尋ねると、テトラは頭を捻った。
「さあ、俺たちが気づいたときにはもうこうだったから、わかんないな。でも、他にやりそうな奴も居ないし、多分社長じゃないかな」
「へえ。もうちょっと上手に縫ってあげればいいのに」
ニコラは力なくへへへと笑った。
「あの社長だからな。まあ、昔からこうだし、俺はこの格好で満足してるぜ。これなんか、いかしてるだろ?」
そう言って、黄色いネクタイをひらひらと揺らして見せる。
ミスター・パパラッチが羨ましそうにレンズをきらめかせた。
「いいなあ、オイラもそんなの付けたい」
「馬鹿、おまえのどこにネクタイを付けるんだよ」
皆、和やかに笑った。
笑いが収まると、シロはまた尋ねた。
「みんなは、どうやって生まれて来たの?」
すると、テトラが訳知り顔で答えた。
「社長が俺たちを作ったって言ってたよ」
「へえ、社長が」
そうつぶやいた後、少し考え、食い下がった。
「じゃあさ、社長はどうやってみんなが動いたり喋ったりできるようにしたの?」
社長は実は魔法使いなのだろうか?シロの頭にぱっと思い浮かぶ魔法使いのイメージは、幼い頃に見たアニメに出て来たかわいい魔女だったので、あのだらしない中年男がかわいらしい杖を振ってガラクタたちに魔法をかけるさまを想像すると、実に気味が悪かった。
ニコラは顔をしかめた。
「そんなこと知るかよ。社長に訊けばわかるんじゃねえの?」
「でも、社長に訊いたら怒りそうなんだもん」
不満げに口を尖らせるシロ。
「みんなは自分のこと、なんにも知らないの?」
「そうだなぁ……俺たち、なーんも知らねえ。いつ生まれたのかも、どうやって生まれたのかも、なんのために生まれたのかも」
「社長はなんにも教えてくれないの?」
「教えてくれない……?教えてくれないというか、そもそも俺たち、そんなこと気にしたことなかったから尋ねたこともなかったよ」
「オイラたちみんな、気づいたらここに居たんだ。気づいたらみんなが居て、社長が居て、それから毎日怒られながら、遊んで暮らしてきた」
「それが楽しかったから、どうやって生まれたかなんて、気にしたこともなかった」
「ふうん……」
ガラクタたちは本当に満足そうな表情をしていた。これ以上問いかけても、実のある答えは何も返って来そうにない。シロは納得できないような、もやもやとした気持ちを腹に隠しながら、息を漏らした。
「この洞窟って不思議なことばかりだね。何度も来てるのに、まだまだ知らない場所があるし。こんなところに洗濯機があるのも、初めて知った」
そう言って、向こうで今は行儀よく沈黙している灰色の箱に目をやる。
テトラは笑った。
「そりゃ、無理もない。俺たちはなるべくここに近づかないようにしてるからな」
「あの箱、見るだけでもゾッとしちまう」
シロは、考えごとをするようにあごを指でさすった。
「しかも、あんなに古い洗濯機がまだ動くんだ……」
そこで、何かにはたと気づいて、ふいに動きを止めた。
シロが一時停止ボタンを押されたみたいに急に止まってしまったので、ニコラとテトラは訝しげに顔をしかめた。
「どうしたんだ、シロ?」
だが、シロはにわかに震え出し、双子の声など聞こえなかったかのように、独り言ちる。
「そうだ、そうだ、洗濯機が動くってことは……」
ニコラは無視されたことに少し腹を立てて、再度尋ねた。
「おい、どうしたんだってば」
すると、シロは満面の笑みを湛えた顔をばっとニコラに向けて叫んだ。
「電気だよ!電気!洗濯機が動くなら電源があるはずだよ!」
ニコラは訳がわからず目を丸くして、シロの興奮で輝いた顔を見つめ返した。
シロは跳ねるように立ち上がると、洗濯機の傍へ駆けて行った。ガラクタたちも、状況がまったく呑み込めていないものの、とりあえず後を追う。
シロは陰気な灰色の箱の裏に這いつくばった。そして、叫ぶ。
「あ、あった!あった!これだ!」
ガラクタたちは、興奮するシロの後ろから覗き込んだ。
その指さす先の地面では、現代の果実の供給源が魅力的なふたつの穴をこちらに向けていた。