リュウグウノツカイ 3
ちっとも眠った感覚はなく、体は怠いくせに眠れない頭のまま、少女はそれでも訪れる朝を感じる。上手く眠れてしまえば、一生夜にいてもいいのにな。それは非常に幸せな世界に思えた。朝など来なければいい、そんな在り来たりな想像をし、朝を嫌うあまり、様々な事柄を終わらせる方法さえ考えてしまう。
例えば、学校の職員室に爆弾を仕掛けたりとか。体育倉庫からバットを盗んで、校門の前を三番目に通る誰かを殴ってみるだとか。体を張って電車を止める方法とか。そんな、実行には遠く及ばない野蛮な想像を、ひどく落ち着いた思考で、少女は毎朝繰り返す。憂鬱な時間を超えていく。
十五分考え、三十分後にまた目が覚めた。
時計を手に取る。五時十五分。
そうだ、喉が渇いた。少女は頭の中で両手を打った。飲み物を買いに行こう。折角僅かな眠気を帯びた目をこすり、布団から出した両足で床を踏みしめる。三時間も着ていないパジャマから、簡素なTシャツとハーフパンツに着替え、カーディガンを羽織った。
家の麦茶や牛乳では味気ない。あれがいい、あの安い自販機、八十円のやつ。外の空気を吸いたいと思っていたところなんだ、丁度いい。何より安い。経済的だ。自分に声無く語りかけ、少女は机の引き出しから小銭入れを取り出し、脱いだパジャマを持って部屋を出た。
静まり返った家の中、脱衣かごにパジャマを放り、軽く顔を洗って口をゆすぐと、外に出た。漆黒を過ぎた夜には、訪れる朝焼けの白がゆったりと混ざり始めているが、夜の帳は未だカーテンのように世界を覆っている。
門を出て、右手へ進む。二軒分の塀を辿ると、街灯のスポットライトに照らされる自動販売機が、静寂の中、静かに唸っていた。明かりに寄せられた指先ほどの蛾が、ふらふらと羽ばたいている。
その前に立ち、少女は少し考えた。安さが売りだと豪語する通り、並ぶ商品は見覚えも聞き覚えもないメーカーの缶ばかりだ。水ならまだいい、きっとそこまで一般的な味とは離れないだろう。幾度か買ったコーヒーは、薄いくせに苦くて不味い。ジュースには、如何にも体に悪そうな緑色のソーダの絵が缶に巻きついている。
たまにはいいかと、少女は小銭入れから硬貨を出し、気まぐれにジュースのボタンを押してみた。音を立てて落ちた缶を拾い、プルトップを開け、軽く匂いを嗅ぐ。甘ったるい砂糖の匂い。少し口をつけた。
まず。
一口で顔をしかめ、口にまとわりつく甘ったるさと、人工甘味料の味に辟易する。安いものだし、このまま溝に流してしまおうとも思ったが、流石に一口で捨てるのは気が引けた。数日前の自分の台詞に対し、いくら年下でもこれを進めるのは如何なものかと思い、仕方がないので缶を持ったまま家の方へ引き返した。
ただ喉が渇いただけ、目が覚めて、眠れなくなって、朝の空気を吸いたくなっただけ。誰に聞かれているわけでもないのに、少女が自分へ語りながら、ちびちびとジュースを胃に流していると、薄まる夜の中から、聞き覚えのある軋んだ音が響いてきた。
タイヤの空回る音に、軽いブレーキ。
「おはよ」
決して朝に強くない彼女の覇気のない声に、それ以上に元気のない声で、少年は呟くように答えた。
「おはようございます」
左足を地についた彼は、いつも通りかごに手を入れる。伏せった目が新聞受けに向くのに、少女は片手を突き出した。
「……どうも」
少し迷いながらも、彼は目線を彼女の手に移し、新聞を手渡した。
一口中身を含んだ缶を塀の上に置き、想像よりも重みのある新聞を彼女は両手で持ち直す。四つ折りのそれを軽く振って文字に目を落とした。街灯が投げかける薄明かりに浮かび上がるのは、近年増加傾向にある、小中学校におけるいじめの実態。ちっとも面白くない。
普段通り、軽く頭を下げ、横顔を向けかける彼に、彼女は目を落としたまま声をかけた。
「何か面白いことないの?」
え、と短い声を出し、振り向いた彼に、少女も顔を上げた。いつも伏せっている目が、少しだけ丸く開かれている。
「今日の新聞。面白いこととか、書いてないの」
「面白いこと……」
愉快な答えなど期待しないまま、適当な返事を少女は待つ。彼にとっての面白いことが、自分にとって面白いとも思えないし、まず、この暗そうな少年が面白いと思うことなどあるのか。失礼なことを彼女が考えていると、意外に時間をおいた彼は口を開いた。
「リュウグウノツカイ」
「なに、りゅう……?」
聞きなれない単語に眉をひそめる、彼女のオウム返しに、彼はもう一度繰り返した。
「深海魚です。リュウグウノツカイ」
聞き取りやすいよう、先程よりテンポを遅らせて、言葉を区切るのに、彼女は軽く首を傾げる。深海魚と返されることなど、これっぽちも想像していなかった。
「深海魚って、海の深いとこに居るやつ?」
「はい。二百メートルの深さから、深海です」
四五十階建ての立派なビルがすっぽりと埋もれる深さの海のことを、少女が考えたことなど、これまでの十七年の人生においては一度もなかった。
「最近、よく打ち上がってるって、話題になってて……」
「そんな深いところにいるのに、そいつ、上がっちゃうんだ」
少年は、普段のように目を伏せてはいない。深い海を泳ぐ彼らの姿が、彼の中にはあるようで、見つめてはいなくとも、きちんと相手に目を向けて頷いた。
「だから、それで最近書かれた本の紹介があって……。三十七面の文化面。カラーで、海を泳いでる写真も載ってて。ラブカとか、他の魚も……」
また知らない単語が出てきた。だが、少女は口を挟まず、初めて自ら口を開く彼の言葉に耳を傾ける。彼は呟いてはいない、確かに、相手に伝えるために声を出している。
しかし、彼女が初めて聞く言葉を更に数個重ねると、彼は途端に口を閉じてしまった。どうしたのかと少女が見つめる顔で、彼はたちまち目を伏せてしまう。話しすぎてしまったと、ひとつ失敗を犯しのだと思ったらしい。
俯けた視線を泳ぐように軽く振り、彼は呟いた。
「ごめんなさい……」
少女が意味を尋ねる隙もなく、彼は小さく頭を下げると、左足をアスファルトから剥がし、右足でペダルを踏み込む。もう彼女の方を見ない横顔で、朝の訪れる夜を見つめながら、重たげに自転車をこぎだした。見たことのない深海に、彼がいつもと変わりなく消えていくのを、少女はいつもと少し異なる感情とともに見送った