リュウグウノツカイ 2
夜明けの会遇がぽつりぽつりと、日常に点在するようになったある晩、少女はその背を眺めながら、燃え尽きたはずの感情を持て余していた。
白々しい。よくもまあ、抜け抜けと手を合わせられるもんだと、家の仏壇の前で両手を重ねる叔父の丸めた背に、仏間と廊下の境から、唾を吐くように汚い感情を心中で投げつけた。線香の束の横にオイルライターがある。あれで火をつけてやるのはどうだろう。脂がのっているから、準備などなくともさぞかしよく燃えるだろう。
だが、家が火事になれば自分や母親まで生活に困る羽目になる、この男のためにそんな苦労はごめんだと、少女は視線を引き剥がした。
「菜々ちゃん、お皿運んでちょうだい」
母も母だと、部屋を移動した少女は、いつになく動作と声を弾ませる母親を見て、うんざりする。人はこうまでも、単独で生きることに耐えられないのか。小遣い程度の金で叔父が恩を売っているのは知っているが、母が依存しているのは、金銭面ではない。だからこそ、時折こうして図々しくやってくる男に、いそいそと手料理を振る舞うのだ。夕刻になって急に連絡を寄越す相手のために、娘との普段の夕食を遅らせてまで、時間を合わせる母親の姿は、眺めていたくはなかった。
だから、少女は茶碗の一つを棚に伏せさせた。
「どうしたの。それ、貸してちょうだい」
しゃもじを手にする母親から、少女は目を逸らす。
「いい。私、お腹空いてないから」
「何言ってるの。もう九時でしょ、空いてないわけないじゃない」
「いらない。本当に、入らないの」
「でも折角なのに」
「宿題多いから、終わらせてくる。お腹空いたら、後で勝手にするよ」
訝しげでも、本心から残念そうな顔色を見せる母親の横を通り過ぎた。なんとか引き止めようと、どこか必死な姿は、一刻も早く視界から消し去りたい。
「まあ、女の子だし、そんな日もあるよ」
最も意識から排除したい人間が、安安とキッチンに入ってくるのに、少女は気づかれないよう軽く唇を噛む。
女の子だしって、どういう意味だ。わかったような口利きやがって。
毒づきながらも、一切表情を変えることなく、叔父の横を通り過ぎた。舐めるような視線を受け流し、少女は軽い笑みを顔に貼り付けた。
「ごめんね。折角だけど」
不審そうな母親と、三日前に会ったばかりの男に対して、矛盾した台詞を投げかけ、彼女は自室へ踵を返した。
自立心の弱い、弱い者虐めの好きな小心者の叔父が、この家の中で少女に触れたことはなかった。彼女の母親を手放すことさえ惜しむ、道徳の死に絶えた男の強欲さのおかげだった。だから少女も、母親の暮らすこの空間では、姪としての可愛げを最低限守っていた。
だが、その硬い手のひらが肌をさする感触を思い出し、相手は所詮、倫理を溝に投げ捨てた人でなしだと思い起こせば、いくら夜が更けっても、彼女は目を閉じることなどできなかった。
我侭な空きっ腹を撫で、油断してはならないと、スタンドの明かりを付けたデスクの前に腰を下ろす。宿題が多いというのは、ほぼ終わらせていても嘘ではない。数字の並ぶノートを広げ、教科書を開き、参考書を取り出した。
彼女の成績は極めて優れていた。右手の細い指にシャープペンシルを挟み、マーカーと付箋で彩られた参考書を左手で開く。この世の他の事象から自分自身を隔離するように、ひたすらノートに文字と数字を書き込み、不眠症に至る夜行性の頭で問題を解いていく。やがて、階下に母親と叔父の存在する世界から少しでも遠ざかるために、左耳から取り出した機械のスイッチまで切った。時間の流れさえ忘れようと、卓上時計を裏向ける。空っぽの胃は、ようやく自己主張を諦めた。
直線の上を動き回る点P、シグマの下にKイコール一、虚数i二乗によりプラスがマイナスへ。
気まぐれな睡眠欲が声を出すのを無視するため、ノートに描かれた二次関数の曲線をぐるぐるとなぞっていると、遠くに自宅のドアが開く聞き慣れた音がした。耳をすませると、深夜の静寂の中、ドアはすぐに閉まり、車のエンジン音が遠ざかっていくのと共に、再びドアが開いて閉まる音。どうやら、母はわざわざ見送りに玄関先へ出ていたらしい。
溜息とともに大きく欠伸をしながら、少女は手にしたペンを教科書の上に軽く投げた。伸びをして、一気に力を抜き、背もたれに身をあずけて暗い天井を眺める。母が食器を洗う音、風呂に入る音、二階に上がるスリッパの足音が、寝室の向こうに消えていく。
全てが消えてしまってから、彼女はようやく立ち上がり部屋を出た。
ピークを越えてしまったせいか、空腹は感じなかったが、寝ようとした時に飢餓感で眠れなければ困ると、キッチンの棚から小さな袋を取り出した。味噌汁椀に中身を開け、沸かした湯をかけると、長方形に固まっていた細い麺が、ゆっくりとほぐれていく。頭上の最低限の明かりの下で、静まり返った真夜中に隠れて、カロリー低めのドライフードを食べていると、忘れかけていた胸のもやもやが彼女の中で何かを囁きだした。それらが、自らの惨めさを嘆き出す前に、少し塩辛い一滴を飲み干すと、少女は椀を軽く水道水ですすぎ、手早く風呂場に向かった。食事はまだしも、自宅で風呂に入ったパジャマ姿のまま、あの叔父と同じ空間で呼吸をするなど、天地がひっくり返っても許したくない。
嫌なことを考えたと、シャワーだけを浴び、追い焚きするのも面倒だと湯船には入らず、パジャマに着替えた。ドライヤーの音も控えめに、背に垂らす濡れた髪を、軽く乾かす。
時計を見ると、時刻は既に午前二時を回っていた。
自室に戻り、点けっぱなしだったスタンドの明りを消してベッドに潜り込んだが、予想通り眠気は姿を消していた。数時間、机で強い光を浴びていたせいか、先ほどシャワーを頭にかぶったおかげか、冴えた頭はすっかり不眠モードに陥っている。
それでも、階下に睡眠薬を飲みに下りるのも億劫で、それが今から効果を発揮する時間を考えれば、服用しても狂った生活リズムは直せない。なにやってんだろ、ほんとに。ため息をついて、少女は毛布を口元まで引き上げた。
意識を失うのに一時間かかり、更に一時間後に目が覚めた。
窓の外はまだ暗く、頭を傾けると、枕元の目覚まし時計は、蛍光に縁どられた針で午前四時を示していた。