遠い街まで
時刻が八時を迎える頃、鈍行の列車は最後の駅に到達した。三時間ぶりに揺れない地面に下り立ち、二人は言葉数の少ないまま、駅前でカロリーを摂取するためのパンを買った。とあるテレビ番組で紹介されたと、宣伝ポスターがでかでかと謳っていたが、駅前でロータリーを眺めて食べたそれが、美味しいのかどうか、少女にはよく分からなかった。隣でただ口を動かすだけの少年も、感想は同じだろうから、聞くことはしなかった。
人通りの多い場所でわざわざ手を繋いで歩けば、邪魔にもなるし、人々の目にも留まってしまう。だが、僅かでも不安が高まれば、若しくは相手の心細さを感じては、どちらからともなく掌を差し出し、握り合った。人混みで、見知らぬ男とぶつかりかけた時。近くを歩く学生たちが、大きな笑い声を上げた時。通りかかったガードレールに繋がれた中型犬が吠えるのに、驚いた手を少女が握り締めると、少年はどこか照れくさそうな顔をしながらも、強く手を握り返した。
果たして、今現在、奴らを撒けた場所に立っているのだろうか。電車を乗り継ぎ、県境を越えたが、二人が確信を得ることはできない。距離をとれば安心なのか、時間が経てば安全なのか計り知れず、影のようにまとわりつく不安を心に住まわせたまま、電車を乗り継ぎ、ただひたすら歩いた。
新幹線や飛行機といった交通機関の存在に、二人は触れなかった。どちらも金がかかりすぎるし、かといって向かう当てもあるはずがない。その上、狭く、長時間脱出できない場所で、万が一奴らと鉢合わせたらと思うと、ぞっとする。
思い出したように他愛のない会話をぽとぽとと零し、更にもう一つ県をまたいだ電車から下りた先は、人通りの絶えない人口二百万都市の市内だった。多くの人々とすれ違いながら、自分たちが、光に集まる虫のように、魚のように、人の集まりに惹かれていたのだと二人はようやく気がついた。
オフィス街と歓楽街の境目。娯楽施設に向かう若者や、真面目に営業をこなすサラリーマンたちの人波に、地元では出くわさない、詰襟の中学生男子や、赤い棒ネクタイを首から下げた女子高生の姿が次第にちらちらと見られ始めた。彼らのように制服を着ていないことを怪しまれるのか、私服に着替えて出掛けるただの中高生に混じって気にもとめられないか。二人には伺い知れない。
ジャケットに通学鞄の少年は、右手を歩く少女の、夕日に照らされる横顔を仰ぐ。
「だいぶ、歩きましたね」
彼の言葉に、そうだねと、彼女はそっけなく言葉を落とした。
「半日ぐらい、経ちましたね」
「うん」
「疲れてないですか」
「平気」
足が棒のようだと嘆く身体の本音など、これっぽちも見せてくれない彼女に、少年は肩を落としてみせた。
「ぼくは、疲れました」
決して弱音を吐かない、体力のある少年は、深い溜息を一度つき、立ち止まると、スニーカーの爪先で軽く地面を叩いてみせる。
「男が、疲れたとか言うなよ」
「本当だから」
自己犠牲が過ぎる少年が、珍しく頑固に言ってくれるのに、疲れ果てていた少女は思わず明るい笑みを見せた。ちっとも疲れた顔をしていない少年も、それを見て笑ってくれる。
「少しなら、きっと大丈夫ですよ。足を止めたって、またすぐに歩いていけば」
「そうだね。お腹空いたし」
痩せた腹を撫で、音を拾いにくい雑踏を逃れ、彼の袖を引き路地裏に入ると、この先にちょうど良い店はないかと少女は見渡した。幾つもの企業の看板が入口に並ぶビルを背にすれば、本屋や雑貨屋、徐々に、やかましいゲームセンターやカラオケが立ち並び、見覚えのあるファストフードのチェーン店の前では、数人の高校生たちがたむろする。
「こんなとこじゃ、あんま休憩になんないよね」
五月蝿い人ごみのイートインで、人目や次の客を気にしていては、今では余計に疲れがたまる気さえする。庇うように軽く左耳を抑えながら振り向くと、ついて歩く彼もこくりと頷いた。
「適当なとこ行こ。あ、そっか、地図使えばいいのか」
ショルダーバッグからスマートフォンを取り出し、地図アプリを立ち上げる彼女を見ながら、彼はようやく口の端を歪め、苦い顔を作った。
「変なところ、言い出さないでくださいよ」
「補導はされないようにしとくよ、一応」
今になって補導どころか、足のつく場所さえ可能な限り避けなければならない。彼女のいたずらがそこまで無茶を言うはずはないが、懐かしい互いの台詞に、二人は顔を見合わせ小さく声を上げて笑った。覚えてたんだ。口には出さず、そんな言葉を交わした。
四階建てのネットカフェは薄暗く、眠たげな受付店員は、特に怪しむ素振りもなく、二人が奥へ進むことを許した。一階には、恐らく臨時に使われる数個のブースにドリンクバー、STAFFの文字が入った事務所への扉、東西に二つの階段と、最低限の設備しか見当たらない。
一階にしか置かれていないドリンクバーから、それぞれ中身を入れたプラスチックのコップを片手に、受付に近い西階段から二階へと上がる。近々発売予定の漫画本やゲームの広告が貼られた階段を上がり切ったが、部屋の中央に並ぶ本棚を、小さなブースがコの字型に取り囲む上階には、客の姿はひと目には見られなかった。遠くから物音は聞こえるが、それがどの方角なのかすら分からない、閑散とした店だった。
「平日だから、人少ないのかな」
彼女の声に、階段から奥へ二つ目のブースを開け、中を確認する少年が振り返る。
「そうですね。普通は、明日も学校とかあるし」
「こういうとこって、遅くに混んできたりするんだって。終電逃したリーマンが、朝まで過ごすんだって」
「そんなに遅くなるって、大変ですよね、仕事って」
「知らないけど、飲んだりするんじゃないの、大人って」
経費の問題か、天井が低く、壁の薄いブースの中はシンプルで、二人が並んで座れる程度の広さしかなく、床の半分は掘りごたつに埋められている。さっさと靴を脱いでマット素材の床に座り込み、そこに足を放り込む彼女を見ると、彼も静かに閉めた扉の鍵をかけた。板を渡しただけのテーブルには、比較的画面の大きなノート型パソコンと、電気スタンドが乗っているだけだ。小さな子どもなら、秘密基地みたいだと却って喜ぶかもしれない。
「お酒飲んで、終電も忘れちゃうんですか」
鞄を下ろし、横に腰を下ろした少年は、元々大きくない声を少し潜め、答える少女も、流石に近隣に丸聞こえではなかろうが、よく通る声のボリュームを幾分絞る。
「知らないよ、私は。でもさ、お酒飲むと、どうでもよくなったりするんだって。テレビで言ってたけど。つまりさ、知能が落ちるんだよ」
部屋の隅にあるコンセントに、充電器を挿し、スマートフォンの充電を始める彼女に、彼は脇にあったブランケットの一枚を差し出した。だが、眠くはないし、寒くもないと彼女は首を横に振る。
「あんたのお父さんとか、飲んだりしないの」
「滅多にないです。すぐ酔っちゃうんだって。帰りも、いつも遅いから、そんな暇ないだろうし……」
「そう言って、本当は一杯やってんじゃない?」バッグを肩から下ろす彼女は、軽く頬を上げる。
「飲み会なんかも、最低限で、年末とか」
「そう言って」
「してないです」
やめてくれと彼は目で訴えたが、冗談だと彼女が笑えばすぐに穏やかな表情を取り戻す。少女の好きな、少年の性格。
「ぼくには、早く飲めるようになったらいいなって。そしたら、一緒に美味しいところ行こうって」
「飲めないのに」
「そう」
その時を思い出しているのか、彼が嬉しそうに笑うのを見ると、彼女も疲れを忘れ、何だか嬉しくなってしまう。
「煙草も吸わないの」
「昔は吸ってたけど、辞めたって。母と結婚する時に」
「へえ」彼女は目を丸くした。「いいお父さんじゃん」まるでうちみたいに。
大好きな家族を褒められ、少年はその通りだと、どこか恥ずかしげに、それでも誇らしげに頷いてみせた。




