リュウグウノツカイ 1
「菜々ちゃんも、来年は受験生だから」
少女の母親がそう言って、それまで取っていた朝の地方紙を全国紙に変えたのは、ひと月前の四月のことだった。近所のスーパーの割引情報や、新作の家電が並ぶ色鮮やかな広告でかさ増しされる薄い新聞ではと、何かしら考えたのだろう。しかし、朝刊の厚さで成績が変われば苦労など誰もしない。急に母親面し始めたな、と少女は汚い感想を抱き、特に新聞の中身に目を通すこともなかったが、それは母親も同様だった。娘の成績向上に母の愛が協力したという既成事実が、テーブルの隅に毎朝転がっているだけだった。
だから、殆ど読まれずに、日が経てば紐で縛られ回収されるだけのそれを、わざわざ誰かが早朝に素手で運んでいるという事実など、少女は考えたことがなかった。あくまで新聞は、オートマチックに家の隅に溜まる紙の束だった。
「いつから配達なんかしてんの」
そんな家庭事情など、知ってか知らずか、少年は毎日真面目に、同じ時刻に紙束を届けに来る。
「中一から……」
「へー。長いんだ」
今年の四月以前までは、門の前を毎朝素通りしていたのだろうか、それともわざわざルートを変えたのか。だが、少年には、自らそんな事情を話す素振りなど微塵もなく、いつも通り、かごから新聞を一部だけ取り出す。
その、相変わらず伏せった目に、少女は少しだけ意地悪な心を抱いた。他人の仕事の邪魔をしているという自覚はあったが、彼のあまりに無関心な態度に、ちょっかいを出したくなった。
「今時珍しいよね、中学生で新聞配達とか。家のため?」
怒りを買ってもおかしくない不躾な質問だったが、新聞受けに手を伸ばす彼には、眉一つ潜める変化さえない。
「それは……。裕福では、ないですけど……」
代わりに僅かに困ったような、迷う素振りを見せる。新聞が押し込まれ、カサカサと紙が鳴る。
「けどって」
「……ぼくが、好きでやってるんです」
「好きって、なにそれ、趣味? そんなんで、毎朝こんなに早起きしてんの、学校もあるのに」
くそ真面目な趣味があったもんだと、少女は呆れた軽い笑みを漏らしたが、それを聞いた少年は伏せた目を少し上げた。自転車のハンドルに両手を戻し、言い返すわけでもなく、どこか馬鹿にした風な少女を見返す。
彼の表情に込められた不思議さを読み取り、少女は笑うことを止めると、彼の言いたいことを理解した。理由はどうあれ、仕事として早朝に新聞を配る人間より、理由もなくわざわざ早朝に家の前に突っ立っている相手の方が、よっぽど不可解な存在だ。
理不尽な苛立ちに、彼女は手にした缶で塀を軽く叩いた。自分はあくまで、ただ飲み物を買いに出てきただけ、それが偶然朝早く、加えて、偶然幾度か顔を合わせているだけであると、無言で語る。
「……美味しいですか」
どこか薄く苦味のある空気を取りなすように、非のない少年が言った。
「別に。安かろう不味かろうよ。今度飲ませたげる」
優しさが行方不明になった台詞に、少年は軽く頭を下げると横顔を見せた。元の通り口を結ぶと、海のような夜明けへ潜り、少女の知らない目的地へとあっという間に向かってしまった。