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深海の星空  作者: ふあ
邂逅
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邂逅 2

 堕落した本能に従い真っ赤な顔をした叔父が、嫌が応でも、うすく汗ばんでしまった少女の髪をかきあげる。

「菜々ちゃん、気持ちよかったかい」

 その言葉に少女は返事をしなかった。僅かに頭を傾け、聞こえなかったふりをした。

 手を止めないまま、叔父は少女に忌々しげな舌打ちを降らせる。それを頭から被りながら、目を細めて何も知らない風を彼女は貫き通す。だって、外せって言ったのはあんたの方じゃないか。それを声に出すほど彼女は愚かでも幼くもなかった。気が萎えるから外せと言われれば、逆らう必要性も見当たらず、左耳の補聴器はケースに閉まわれたまま鞄の中で沈黙している。だから聞こえないんだと、叔父の台詞に少女は目を逸らした。

 菜々ちゃん。菜々ちゃん。聞こえるように吐かれる言葉が、右耳に吹き掛かり、少女は竦んでしまう肩を意識的に抑えつける。

 彼女の感受性は、次第に湧いていく男の苛立ちを察するには十分に成長していた。菜々ちゃん。菜々。菜々。からからの喉など、動かしたいとは思わないが、無意味な痛みを最終的に浴びる羽目になるとは知っていたから、少女は自身の耳にさえかろうじて届く程度の、細い小声で空気を震わせた。

「叔父さん」

 彼女を呼ぶ男は、少女からそう呼ばれることに歪んだ悦びを覚える。過敏に声を辿る男の腕に、少女はようやく動かした右腕を触れさせる。これで、男が全ての機嫌を持ち直すことを、彼女は嫌というほど知っていた。

「私のこと、好き?」

 みるみる満足感に浸り、ともすれば興奮に至る叔父の表情を、少女は力のない瞳で眺める。天井を見ている時間のように、ただうっすらと開いた瞼を向けただけだが、男にそれを気にする風などはない。

 ああ、好きだよ、大好きだよ、この世の誰より愛してるんだ、生まれた瞬間から、愛していたよ。

 歯の浮く寒気のする台詞に、少女の心の奥にはおかしさがにじみ出る。生まれた時なんて、知らなかったくせに。本当に調子の良すぎる男だ、見るに堪えない人間だ。


 父の両親がとっくの昔に離婚している事実を鑑みると、叔父が長年姿を見せなかったことも、存在さえ知らず、名字も異なる、赤の他人同様であった現実も、少女にとっては当然のことだった。それが今になって、こんな台詞を吐き出すなんて、正気の沙汰じゃないとも思ったし、母の盲目さにも呆れてしまった。

 詳細さえ知らずとも、七八年前に突然現れては叔父だと名乗ったこの男が十六年前に塀の中に入ったことは知っていた。六年の懲役。実刑判決。その刑罰の名称を知ると、性犯罪者の再犯率の高さに納得し、更正という漢字の意味から辞書で引いて調べてみたが、腹落ちする解答は学校の図書館では見つからなかった。


 そんな人間にさえも逆らえない悔しさが、少女の中で初めは燃えていた。怒りだとか、憎しみだとか、不甲斐なさだとか、かき集められたマイナスと名のつく感情が、胸の奥に溢れんばかりに詰め込まれ、強い火力でぐつぐつと煮込まれていた。やがて水分は蒸発し、それらは綯交ぜになったまま、指先ほどに縮こまり、時折思い出したようにころりと転がるだけになった。だが、それらは、少女の中で言葉を失い、自己主張をしなくなっただけで、消えたわけではない。彼女が使いもしない新品のナイフを常に鞄に隠しているのが、その証拠だった。


 この小心者め。


 叔父の言葉に、心の奥底で呟いた罵倒は、乾ききった砂漠に染み込むひと雫。

「ちゃんと、飲んでおくんだよ」

 ようやく少女の体から名残惜しそうに離れる叔父は、言い聞かせるように言った。


 責任ひとつ取れないくせに、何が愛してるだ。死んじまえ。


 脂肪のせいで背骨すら見当たらない背中に向かって、少女は奥の奥で罵声を吐き捨てる。加えてこっそりと中指を立てていた頃は、最早懐かしい。指を立てる意味を考えれば、むしろ被害を被ったのは自分であるという事実を思い出し、馬鹿馬鹿しくなったのだ。だから、天を示す指を幻として瞼に映すだけ、今はそうするだけで、彼女は細い背中を丸めた。



 静まり返った早朝の住宅街に侵入する、グレーの乗用車の中から、少女はなるだけ手早く助手席のドアを開け、最低限の隙間から滑り降りた。まだ何か言い足りないらしい男に耳を貸す気などさらさらなく、温度を失った瞳で運転席の男を振り返る。

 またなと、馴れ馴れしい言葉を吐いたような相手には、かろうじて頷いただけだったが、満足そうにアクセルが踏み込まれるのを、門の前で黙って見送った。

 全てが一瞬の出来事で、逃げ場すらなくした少年は、ペダルを踏み込むのをやめ、咄嗟に左足を地面に着いていた。轢いても構う様子など見せない車に自転車をひっかけられないよう、車体ごと傾かせ、塀にもたれるように避けた。振り向いて目にした車のヘッドライトの眩しさに目を細め、紙の重みにバランスを崩しそうな自転車を、膝を曲げた左足で懸命に支えていた。

 ペダルを踏み込む時間が、あと三秒も早ければ、見ないふりができたのに。何とか持ち直し、息をつく彼の不運を想いながら、少女は足音を立てて数歩近寄る。

「誰か、見えちゃった?」

 少年が差し入れたばかりの新聞を引き抜く。昨日同様、彼は目を伏せさせると、首を横に振った。運転席の人間の顔を見通すにあたって、夜のヘッドライトは人の目には強すぎた。きっと彼は嘘など吐いてはいないだろうが、彼女は、ふうんと素っ気なく息を吐く。

 叔父にとっては、彼は偶然通りかかっただけの、新聞配達の少年だ。記憶に残す必要もない、二度と顔を合わせる予定さえなければ、告げ口なんて以ての外だ。いや、彼に対してそう思い返すことすらしないだろう。

「まあね」

 ひとりごち、少女は緩く丸めた新聞で、自身の肩をとんとんと叩いた。口元だけで軽く笑い、少年を一瞥する。

「誰にも言うなよ。殺すから」

 まだ日も昇らない静寂の中、決して大きくない少女の声に、彼は一度頷く。目を合わせることもなく、口を開きもせずに、彼女の脅迫に小さく頭を下げると、取りなすように右足を踏み込んだ。

 いざとなれば刺してしまうか、せめて、この教科書やノートや薬やナイフの入った重い鞄で頭を殴り、気絶させて記憶を奪おうかとも思っていたが、それを実行せずに済んだ幸運に、少女は軽く頭を振った。ばかやろう、と誰に向けたのか自分ですらわからない言葉を、ただ一言だけアスファルトに零した。

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