邂逅 1
何の変哲もない一日だった。少女は板張りの天井を仰ぎ見、体を横たえたまま、今日という一日を振り返る。両手でたぐり寄せる糸の先は、他の日々と絡まり合い、日にちという感覚などとうに麻痺してしまっている。
その糸がふいと引き抜けた。細い糸が、かすかに他とは異なる形を結んでいるのに、少女は目を細めた。
十五時間ほど前、眠れない早朝の、確か五時半頃。あたたかいか、冷たいか、迷った末に手にした缶コーヒーは、心地よく身体を冷やしていき、日の出に僅かに足りない時分のアスファルトはまだ街灯に照らされていた。闇は色濃く空気を染め、まるで夜が朝を拒んでいる風な景色を、狭い庭の門から眺めていた。
カラカラと乾いた音がする。気のせいだと思っていたそれが自転車の音だと彼女が気づいたときには、小さくブレーキの音を立てて減速した自転車が門の傍らにある新聞受けの前に止まっていた。
そこに人がいるとは思わなかったのだろう。慣れた手つきで、自転車のかごから取り出した一部を、塀に空いた口に半分差し込んだまま、少年が手を止めて振り返った。
暗そうな奴。少し伸びた前髪の向こうで目を伏せた少年に、少女は勝手にそんな感想を抱いた。
「おはよ」
「……おはようございます」
自転車の前かごと荷台に、幾束もの新聞を積んだまま、器用にバランスを取り、返事を呟いた少年は新聞を奥に突っ込んだ。十分に子どもっぽさの残る横顔に、力仕事の似合わない線の細い体つきは、塀にもたれ掛かる少女よりも更に幼く見える。
「あんた、中学生?」
「はい」
前髪に隠れるように、目を合わせないまま頷き、一度頭を下げた彼は、まるで何かに追い立てられるかのように、右足でペダルを踏み込んだ。
中学生で新聞配達とか、マンガみたい。
少女がそう声をかけるまもなく、重たげな自転車をこぎ、少年の背中は日の出を頑なに拒む薄闇の世界に消えていった。街灯の光を受ける自転車の反射板だけが、夜の海で輝く夜光虫のように揺れていた。
暗い奴。今朝初めて見かけた相手を思いだし、少女は心の奥でぽつりと呟いた。そうして、不眠症の賜として、二度寝が許されないまま起き出した先で見かけた少年が、どんな顔だったかを思い出そうと、彼女は記憶の糸を更にたぐり寄せる。
だが、彼女が丁寧に指先で摘む細い糸は、突然太い手に鷲掴みにされ、修復不可能にこんがらがっていった。
「菜々ちゃん」
少女は、そうして名を呼ぶ男に返事をしなかった。かまわずに、彼女の胸にむしゃぶりついていた男は、その白く薄い肌をさすり、陶器のような頬に手を当てる。男の固く乾燥した、皺の寄った手には、彼女の繊細な肌を傷つける可能性への躊躇いなど露ほども存在しない。
「本当に、可愛いなあ」
価値のない褒め言葉などに、少女は表情を変えることさえせず、手足を投げ出したまま瞼だけを動かした。自分に馬乗りになり、あちこちをなで回しながら、首もとに顔を埋める相手の鼻息が、まるで他人事のように意識の外にある。
「あいつも、いいもん残してったよな。弟想いの兄貴だ」
他人事のくせに滑り込んできた台詞に対し、かろうじて、指を動かした彼女が、シーツに皺を作ったことに、男が気がつくことはなかった。
自分の身体をまさぐる手の動きに、肌にかかる吐息の荒さに、少女はその時を悟る。ようやく顔を動かし、乾いた唇を軽く舐め、視線を動かし、幾分掠れた小声をこぼす。
「叔父さん」
想像通り、頬ずりしていた頭が動き、ひどく短絡的で動物的な感覚に酔いしれる男の顔がこちらを向いた。それに少女は、「醜悪」という言葉を代名としてつけている。
「いいよ」
興奮に溺れる男の目に映る自分に向かって、心を亡くした言葉をつぶやき、少女は足を動かした。
この三文字の言葉があれば、全てが合意の元になるのだと聞かされたとき、少女はあまりの馬鹿馬鹿しさと、勝手の良さと、吐き戻すほどの嫌悪感に、この男を枕元の電気スタンドで殴ろうという気を失った。初めのうち、本当に数回の間は、泣いてまで嫌がった記憶があるが、賢明な彼女は、二三度、頬に拳を受ければその無益さを理解した。足首に作られる青あざを風呂に入り目にする度に、怖気立つことにさえ飽きてしまった。なにもしない、せめて腕を伸ばさないことだけが、彼女の唯一の抵抗だった。
「菜々ちゃんがな、悪いんだからな」
だからせめて、彼女は手を投げ出したまま。軽く曲げた指を、真っ白なシーツに絡ませるだけ。
「こんなに可愛いのが、悪いんだ」
一体それは何罪だ。懲役何年の罰なんだ。
そんな自問すら、少女はやめた。
呼吸のために小さく開けた口からこぼれる、耳にしたくない切れ切れの声を、少女は止めようとはしなかった。口元を腕で塞ぎ、懸命に唇を噛みしめる有様を可愛いと評価されたせいだった。
まるで海の底に沈んでいくように、全ての音を遠ざけ、感触を失わせ、ただ天井を見つめる。見つめるほどの力はない、ひたすら見上げる。時々、思い出したように鳥肌が立つ。そのたびに、触覚が死に切れていないことを思い出す。
さあ。今日も数えよう。終わりがやってくるまで。
少女の光を失ったうつろな瞳には、天井がある。たとえそこに叔父の姿が映っても、彼女はそれを透かして数え続けた。
いち、にい。さん。よん……ご、ろく。
板張りの安っぽい天井は毎度のことで、どうせなら少しぐらい金をかけてみせろと、初めは悪態を抱いたものだった。態度と自尊心だけは、常人の五六人分膨れ上がっているくせに、こうしたところで僅かな損失を惜しがる器の小さな人間が、今彼女にしがみついている男だった。
今は、この天井に、毛の先ほどだけ感謝している。この部屋を選んだ人間ではなく、数え切れない筋を走らせる、この部屋の古い天井板に対して。
にじゅうご、にじゅうろく……さんじゅうよん……よんじゅうに。
視界から溢れれば、適当な場所から。数を忘れればまた一から。最低限の視線だけ動かして、渇いた喉を使うエネルギーを抑え、未だに無意識のうちに強ばる身体に、力を入れるなと促して。
ろくじゅうはち、ろくじゅうきゅう……。
喉の奥から、少女は短い声を上げた。無視しきれなかった痛みに、身体が放つ信号を拾い上げ、空気を震わせてしまった。咄嗟に息を呑み、喉を潰し、頭の働きと身体の痛みを引き剥がす努力をする。身体が感じる痛みを脳で理解し、漏らしてしまう引きつった声を聞いた叔父が、愉快にほくそ笑むのを彼女は知っていた。だからせめて、その時間を短縮させるため、鷲掴まれる胸を大きく上下させる。
いくつまで数えたか、忘れてしまった。
再び天井を見つめ、少女は一から数え始める。風の泣くような自身の声を鼓膜から遠ざけ、醜悪から目を逸らし、触れるシーツの感触さえ切り離しては、ひたすら数を数えていく。
ひゃく、ひゃくいち……。ひゃく、に……ひゃく、さん……。
百三。少女の奥底にその数字だけが痩せた膝を抱えて蹲った。以前そこにいた数字を彼女はすっかり忘れていたし、この百三も、あと五分もすれば記憶から消え、成仏するだろう。小さく開けた口をしゃぶられながらも、舌一つ動かさないまま、彼女は少しだけ、彼らを羨ましいと思った。