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深海の星空  作者: ふあ
邂逅
13/63

手話と公園 2

 随分と珍しい様子の彼を、少女は途中にある公園に誘った。

「暇でしょ?」

 そんな無礼な台詞だったが、どうしようと数秒悩む顔を見せた後、彼は大人しくついてきた。


 いつも少年が自転車にまたがっているおかげで、こうして初めて二人は並んだが、互いの目の高さは、ほぼ同じ場所にあった。ようやく百六十センチを上回った少年と、平均身長より数センチ高い少女の身長は似通っていた。正確な測定結果を鑑みれば、少女の方が僅かに高かったが、それが誤差の範囲であれば、二人はどちらも首を傷めずに相手の顔を見ることができた。

 広めの公園で、細い体を伸ばす時計は十六時半を指している。幼い子どもたちが砂場やブランコではしゃぎまわり、小学生がおいかけっこをしている場所から少し離れ、少女はベンチに腰を下ろした。


「あんた、中学このへん?」

 彼女の左側に座り、更に左手に鞄を置きながら、少年は頷いた。

「第二でしょ。緑ヶ丘」

 少女の言葉に、少年は一瞬怪訝な顔を見せたが、すぐに自分の半袖シャツの袖を摘んで肯定した。在り来たりな白いシャツには、かろうじての区別として、袖に学校の名称が刺繍されている。卒業生である少女は、それをよく知っていた。

「じゃあ、家この近くなんだ」

「この近く、というか……近いかは、わからないですけど」

 しかし、首を傾げながら少年が伝えた町名は、少女が想像していた方角とは全く異なった。ここから彼女の家に帰るよりも、随分と遠い距離でさえある。

「遠くない? え、じゃあ、そっからわざわざうちの方まで、新聞配達しに来てんの。もっと家に近いお店とかなかったの」

「初めは、いくつか探したんですけど……高校生から、っていう所ばかりで。ぼくでもいいって言ってくれる専売所は、今の所だけです」

「それじゃあ、いっつも何時に起きてんの」

「四時、十分くらいですね……。四時半に出たら、自転車で、五時には間に合います」


 早朝に自転車で三十分かけて専売所に赴き、更に一時間半かけて新聞を届けた後に、急いで帰って学校に向かう。当然今日もそれらの帰りだと知り、生活リズムの崩れかけている少女は内心で感嘆のため息をついた。細い体してるくせに、意外と体力お化けなんだな。口には出さずに思った。

「あんたさ、それ下手な大人よりきつい生活じゃん」

「慣れたら、そうでもないです」

「大人ぶっちゃって。そんなもん、買ってるくせにさ。ただのおこちゃまじゃない」

 彼女が指差す方を見て、彼は自分の鞄を膝の上に置いた。

「ぼくの分じゃないし……。スーパー行って、目に入ったから買ったんです」

 チャックを開けた鞄に入っているビニール袋には、先ほどの駄菓子に、洗濯用洗剤や歯磨き粉といった消耗品が幾つか詰められていた。

「ふーん、お使いの帰りなんだ」

「まあ……。今朝見たら、洗剤が切れそうだったから、買って帰ったら、喜ぶかと思って……」

「そんで、お菓子なんか買ったの」

「これは、弟が、喜ぶから」

「弟なんかいるんだ」

 鞄を横に置く少年に、少女は僅かに驚きを込めた声をかけた。はい、と彼は肯定して頷く。

「卵ボーロなんか食べんの、その子」

「大好きみたいです」

「年離れてんだ」

「そうですね……。十一、離れてます」

「それはまた」


 余程小さな子なのだろうと彼女が推測した通りだった。それならば、彼の先ほどの対応には納得がいく。相手の耳が聞こえないことに戸惑いはしていても、膝をついて目線を合わせ、なんとか泣かせまいとする姿には、どことなく慣れた雰囲気があった。あの女の子は、彼の弟と年の近い子どもだったのだ。

「可愛くて、危なっかしいんです」

 明るい放課後の日差しの中、彼はいつも引き結んでいる口元を緩めていた。

「両親が見てられない間、ぼくが面倒見るんですけど……いたずらばっかりで。コンロに手を伸ばしたり、お風呂によじ登ったり、ベランダに出ようとしたりして」


 迷惑そうな話をする彼は、その時を思い出しているのか、どこか楽しそうだった。そういえば、こちらに向けられる笑顔は初めてだと、少女はそれを見て思う。

「なんか、あんたとあんま似てないっぽいね」

「全然似てないです。弟は、いっつもにこにこしてて、元気で、可愛くて」

「馬鹿兄貴じゃん」

 否定せず、彼はその通りだと笑う。少年の笑い声は、決して大き過ぎず、耳に優しい。笑顔は、底抜けてなどいないが、静かで柔らかく、きっと大事な弟にもこうして笑いかけ、可愛がっているのだとは楽に察することができた。

「じゃあ、あんた、帰ってこんなんするの。たかいたかーいって」

 少女は宙に伸ばした両腕を軽くあげてみせた。

「いえ。ぼくだと危ないって、あまり抱っこするなって、両親は言うんです」

「信用ないんじゃん」

「そうですね。……でも、たまに二人で、団地の駐車場で遊んでる時、おぶって走ってあげると、すっごく喜んで」

「ふーん。あたし、ちびっ子と関わることなんて全然ないし、兄弟いないからよく分かんないけど。懐いてんだ」

「そうなら、嬉しいんですけど……」

「急に弱気になりやがって」


 控えめな少年の台詞に、彼女は不敵に笑うと、こちらを向く彼の顔の手前で、軽く空気を弾いた。自分の卑屈さを理解している少年は、苦笑する。

「でも、その子が生まれた時って、もう十一だったんでしょ。よっぽど面倒見てきたんじゃない」

「両親、共働きなので。見てはきたつもりです」

「そんなら懐くもんでしょ、子どもなんて」

「そうですね……」

 少々赤みを増す空気に照らされる横顔で、彼は僅かに首を傾げたが、思いついたふうに、少しだけ細めた目を開いた。


「夜……いえ、明け方、ぼく、四時過ぎに家出るんですけど。うち、団地で狭いから、気を付けないと家族を起こしちゃうんです。それで、すぐに出るんですけど、ゆうと……弟が目を覚ましちゃうと、一緒に行くって言い出すんです。まだ真っ暗で、寝てていいのに。おにいちゃんと行きたいって、外行きたいって、眠いくせに騒ぐんです」

「ふうん」

 うっかり弟を弟と呼ぶことさえ忘れた彼の話に、少女は頷く。

「両親も起きちゃうし、だけど、ぼくは出ないといけないから……いつも寝かしつけてもらうのは、悪いけど」


 呟いてはいない、しかし強く訴えもしない彼の語り口調は、柔らかく穏やかで、その話の登場人物たちが、如何に大切な存在であるかを物語っていた。いいじゃん。少女は思う。その弟も、帰りにおやつを買ってきてくれる兄に、きっと懐いているんだろう。


「じゃあ、もしね。もしもの話よ、その子がさ、大きな病気になったりしたら、どうする? 現代医学じゃ治らない、原因不明の病気になったら」

 それだけ大切な誰かの不幸に、この少年は何を考えるだろう。そんな少女の問いに、彼は不審そうに眉を寄せたが、すぐに返事をした。

「医者になります」

「医者? 自分が?」

 あはは、と少女は笑う。

「あのね、中学生。医者ってそうそうなれないんだから。あんたの偏差値知らないけど、よっぽど頭良くって、ずっと勉強して、それなりにお金もないといけないんだから。それに、治らないってさっき言ったじゃん」

「それなら、頑張ります。現代医学で駄目なら、成功するまで頑張ります」


 なんて根拠のない話だ。やっぱりこいつは馬鹿なんだ。さっきまで笑ってたくせに、こんなに真剣な顔をして。

「そんでもさ、病気ってお金もかかるのよ。技術があったとしても、お金がなけりゃどうしようもない」

「なら、もっと働きます。もっとずっと働いて、早く大人になります」

「それでも足りなかったら? 大人になる時間もなかったら?」

「内臓売ります」

 あまりの台詞に、少女は吹き出した。いいことを思いついた、そんな表情を少年が見せたことに、現実的なのか妄想的なのか分からない言葉につられて笑ってしまう。

「若い臓器って、高く売れるって言うじゃないですか」

「大馬鹿だね、ほんとに。腎臓でも売るの?」

「二個ある分なら、かたっぽぐらい、平気ですよ。助けられるんなら、腎臓でも、肺でも、目でも」

「心臓ならって言われたら」

「あげます」


 少女の冗談に、少年は冗談を返してはいなかった。まるで本当に、弟が病気になったかのように、彼は笑わず真面目に考えている。

「よっぽどだね。ほんとに、あんた。よっぽど頭悪いんだ」


 彼が抱く感覚を、賢い少女は知らなかった。自身の心の奥底に隠れて転がる、羨望という名の感情には気づかないでいた。だが、「嘘でしょ、いざとなれば出来ないくせに」そんな意地悪な台詞は頭には浮かばず、本気で、これ程までに馬鹿馬鹿しい台詞を並べる彼の真剣さに笑った。


 問いかけたのは彼女の方なのに、そうして、笑われる少年は、不本意だと憮然な顔を見せたが、全てがifの話であると思い出せば、口元を緩めた。可笑しそうに笑う少女の顔に、何も言わないまま、どこか幼さの残る笑顔を見せた。

 笑われてんのに、やっぱり変な奴。だが、そう思う彼女は、そんな変な奴に対して、不思議な感情が湧いているのに気がついた。ほんの少し前の自分が抱いていた、世界の生きとし生けるものに対する、憎しみの嵐が、いつの間にか収まって、穏やかな波間へと化けている。


「なんか、ちょっと気晴れたわ」

 彼が見せる、押し付けられない、控えめで緩やかな笑顔は、儚いくせにそんな効果を持っていた。

「気?」

「すっごい苛々してたからさ。もーほんと、通り魔にでもなろうかってぐらい」

「苛々って、なにかあったんですか」

 前髪の向こうで、不思議そうな目をする少年に、少女は軽く手を振ってみせる。

「大人の話よ。おこちゃまのあんたに言ったって、どーしようもないこと」

 男どもの下心や、女たちの嫉妬心、無責任な担任を始め、少女の苛々の幅はひどく広かったが、わざわざ年下の彼に語ろうという気にはならなかった。思い出すと、折角収まりかけた心の波が、再びざわめき出す気もしたのだ。


 そうして、少女は少年に、煽るような台詞を吐いたのだが、彼は少し考える素振りを見せると、彼女に言い返す代わりに、再び自分の鞄に手をいれる。

「ひとつ、食べますか?」

 取り出したのは、残りの四袋が連なった、子ども向けの駄菓子。

「これ、カルシウムが入ってるって。苛々してる時って、カルシウム摂るといいんだって、聞きました」

 いかにも子どもじみた台詞だが、これが少年なりの励まし方なのだ。中三のくせに、可愛いやつだなと、少女は笑う。

「でもこれ、あんたの弟の分でしょ。千切ったのバレたら、拗ねるんじゃない?」

「綺麗に切ったら、きっとわからないし……」

 目を落とし、袋同士の境目を折り曲げながら、しかし少年は首をひねる。

「いや、察しのいい子だから、わかっちゃうかな……」

「怒るよ、その子。折角の大好きなおやつをさ、兄貴が女の子二人に浮気してプレゼントしたなんて知ったら。ぶちギレんじゃない? もう遊んでくんないかもよ」


 弟が彼に懐いているのなら、お気に入りの兄が買ってきた折角の大好きなおやつを、見知らぬ誰かに奪われたと知れば、きっと怒ってしまうだろう。まだ保育園に通う程の小さな子どもなら尚更だ。


 彼女の言い方に、初めはきょとんとしていた少年も、意味を理解すると可笑しそうに笑った。それを見ていると、何故だか少女も、カルシウムを摂る前から、苛々が収まり、心のもやもやが晴れていくのを感じる。

「それなら、半分こしましょう」

「半分こって、その言い方。小学生じゃないんだから」

「ぼくが、我慢できなくて、食べちゃったってことにします。食べれば嘘にはならないから。あと三つは全部あげて、許してもらいます」

 開いた小袋の中身を、二人は一粒ずつ数えて、ちょうど同じ数だけ食べた。少女が嘗てそれを口にしたのは、もう覚えてもいないほど昔のことだったが、これほど美味しいものだったか。口の中で、小さなクリーム色の粒は、柔らかく溶けていった。


「じゃあ、お返し。いいこと教えてあげる」

 最後の一粒が溶けてしまうと、少女は少年の方へ身を乗り出した。

 戸惑う彼の右手をつかみ、拳に握らせ、顔の横に持ち上げる。

「これで、おはよう」

 その手を下ろさせると、少年はようやく納得したように頷いた。

「知っといて損はないでしょ。さっきの子が、また道に迷った時、泣いちゃったら、あんたも泣いちゃうんじゃない?」

 短時間では、会話になるほど詳しい手話は教えられないが、少女は自分の手を動かし、彼に真似させる。彼は至極興味深そうな顔をして、覚えてしまおうと同じように手を動かした。


 おはよう。ごめんね。ありがとう。


 顎の下で開いた親指と人差し指を、下ろしながら閉じていく。

「これで、大好き」

「だいすき……」

 呟いて、彼は真剣な態度で手を下ろす。そうして顔を上げ、正面の少女の顔がにやにやと笑っているのに気が付くと、うっと息を飲んだ。緩めていた表情から、一気に口を結び、視線を泳がせてしまうのは、彼の幼い照れ隠しだった。

「マセガキ」

 少女がわざと意地悪に笑い、顔を覗きこもうとすると、少年はたちまち前髪に隠れてしまう。

「そういうことじゃ……」

 一気に小さくなった彼の声は、公園の時計台から流れる、六時を告げるメロディーに掻き消えてしまった。



 流れ出すきらきら星を背にして公園を出ると、夕日は随分と体を夜に埋めてしまい、着いてくる影は随分と長く引き伸ばされていた。まだ遊びたいと愚図る子どもが、母親に手を引かれて角を曲がっていく。

「もう遅いけど、大丈夫ですか」

 少女の左手側を並んで歩く少年が言った。

「大丈夫よ。まだ日が暮れたわけじゃないし」

「でも、家まで距離ありますよね」

「家知ってんの。ストーカーか」

「だって、毎朝……」

「わかってるって」


 からかいの台詞に、不満げな少年へ少女は笑いかける。これでも怒りはしないのか。ようやく笑顔は見られたが、彼の苛立ちの表情は、少女はまだ見ていなかった。

「大した距離じゃないし、大通り通ってくし。それより、あんたの方がずっと遠いじゃん。よかったの? こんな時間になって」

 彼女が尋ねると、少年は大丈夫だと頷いた。

「今日は、お迎えもないし……」

「死ぬんだ」

「そういうお迎えじゃなくって……。弟が、保育園に行ってるので」

 仕様のない冗談が流される。二人の歩く方角が別れてしまう通りが、見えてきてしまう。

「あんたが迎えに行ってあげてんの」

「今は、母親も時短で、職場の帰り道だから、いつもは母が行ってます。それでも、抜けられなかったり、帰りに用事があるときは、ぼくが行ってるんです」

「それじゃ、今日みたいなさ、迎えがないときは、なにやってんの。夕刊は配ってないんでしょ」

「バイトは、朝だけです。普段は……洗濯物入れといたり、掃除とか……上手にはできないから、ちょっとだけ、晩ご飯作るとか」

「苦労少年」

「難しいことはしてないです。昼間は誰もいないし、ぼくはどうせ暇だから」


 今時珍しい中三だな。少女は、出会った当初に抱いたのと同じ感想を抱いた。

「今日はよかったの」

「まあ、少しぐらいは……。急いで帰れば、大丈夫です。明日から、ちゃんとやり直します」

「明日やろうは馬鹿野郎よ」

 随分とふざけた、無慈悲な言葉だが、困った顔をした少年は、それでも少女が可笑しく笑うと、目を細めて笑った。


 少女にとって、これほど誰かと話し込んだのは、随分と久々のことだった。せいぜい五分、十分のつもりが、一時間以上も隣にいる相手と言葉を交わしていただなんて、普段の生活では考えられない。

 自分の中で燃えていた強い炎が、いつの間にか弱火どころか、掻き消えてしまっているのに、彼が笑うのを見て少女は気がついた。


 今日最後の日差しを横顔に受けて、少年がさようならと言いかけた。

「またね」

 よく通る声とともに、少女が片手をあげる。それを見ると、少年は小さく頭を下げ、同じ言葉を口にした。僅かに迷いながらも、上げた左手を軽く振り、家を目指す人たちの雑踏に踏み込んでいく。


 変わった奴。変な奴。

 声に出さず呟きながら、少女は彼の後姿が見えなくなってしまうまで、幾度も振り返り見送った。しっかりと伸びた、少年の細い背中は、朝とは異なる夕暮れの世界に、消えていった。

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