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第四話 雪


 高窓の向こうでは雪がチラチラと舞っていたが、半地下の牢は暖かかった。

 火鉢に火は入れてあるものの、そばにかぶりついていなくても特に問題はない。一年を通して気温の変化が少ないのはありがたいことだった。


「雪、か」


 ぽつりと独り言を漏らした。

 もうすぐ千代が来てから三年の月日が経つ。

 初夏にあんなことがあったものの、朝霧と千代の関係に表立った変化はなかった。

 しかし、それでいいと思っていた。

 このまま変わらぬ日々を過ごし、少しずつ老いてゆく。

 きっと自分はそんなに長生きは出来ないだろう。

 そうしたら、彼女は口止め料をたっぷり含んだ慰労金をもらって好きなところへ出て行くのだろう。


「朝霧さま」


 いつもより緊張した声で呼ぶ。


「どうした?」


 振り返れば、格子の向こうで千代が深々と頭を下げている。

 彼女が身に着けている真新しい着物に嫌な予感がした。


暇乞(いとまご)いに参りました」


 予感は的中していた。腹の底から湧き上がるどす黒い感情を隠して、穏やかに問う。


「ずいぶん急な話だね。どう言うことかな?」

「ご当主様のお計らいで、嫁ぐことになりました」

「兄の?」


 なぜ兄が下働きの縁談の世話などする?

 使用人など替えの効く道具だとしか思っていない男が。


「はい。私には勿体ないような良い御縁で」


 それはそうだろう。あの男の頼みを拒むような馬鹿はそうそういるはずがない。

 どんな良縁であろうとでっち上げられる。たとえば小作人の娘を華族の跡取りの嫁に仕立て上げることだって不可能ではない。


「相手の方はとても親切にしてくださって、両親と兄弟を呼び寄せても良いと言ってくれています。私の家族なら自分の家族と同じだ、面倒を見るのは当然だ……と」

「そう」


 身に吹き荒れる黒い嵐をおさえながら、短い返事を繰り返す朝霧の心情も知らず、千代はもう一度深々と頭を下げた。

 三つ指を付き、「お世話になりました」と使い古された挨拶を口にした。


「幸せにね」


 ようやく絞り出した言葉はかすれていた。

 彼女の家族の面倒まで見る、とはよく言ったものだ。彼女をこの座敷牢に縛り付けていた枷が粉々に砕けてしまったではないか。朝霧は顔も知らない男に向かって憎悪をたぎらせた。


「……はい」


 返事をためらったのは何のためか。別れを名残惜しいと思っているのか、それとも名残惜しいふりをしているだけか。

 今までのあの親しさはまやかしだったのか。朝霧だけの勘違いだったのか。いいや、それとも兄の権力に屈したのか、婿になる男の金の力に屈したのか。

 どうなんだ、千代。

 どれが正解なんだ!

 朝霧の奥歯が、ぎりっと小さな音を立てた。

 と、遠くから千代を呼ぶ声が聞こえた。千代はその声に向かって「いま行きます」と声を張り上げた。

 そして再び朝霧に向き直った。


「朝霧さま、失礼いたします。もう、行かないと」

「ずいぶんと急ぐのだね?」

「はい、あちらの家の――私のお姑さまになるお方が重い病に伏せっていらっしゃるそうで、一刻も早く祝言を挙げてたいと。ですから、すぐの列車でこちらを発つことになりました」


 そう、と生返事を返す朝霧を心配しつつも、再度出発を促された千代は、何度も後ろを振り返りながら出て行った。

 後にひとり残された朝霧は、湧き上がる怒りを鎮めることもできず、鉄格子に拳を叩きつけた。

 腫れるのも構わず、何度も何度も。


「おや。ずいぶんな荒れようだな、朝霧。とうとう狂いでもしたか?」


 嘲るような声は、久しぶりに聞く兄のものだ。


「兄さん。珍しいこともあるものですね。あなたがこんなところへ来るなんて」


 感情を一切消し去った目で兄を見る。


「当主がこんなところに顔を出すなんておかしいか? まぁおかしいよな? でも今日は特別だ」


 にたり、と嫌な笑みを顔に貼り付けた男は、どこか爬虫類を思わせる。造作は朝霧とよく似ているのに、雰囲気は全く違っている。


「なぁ、朝霧。残念だったなぁ。お気に入りの玩具を取り上げられる気分はどうだ? 悔しいか? 悲しいか?」


 朝霧が黙ったままなことに勢いづいたのか、男は鉄格子の間近まで歩み寄り、楽しげに喉を鳴らした。

 自分が投じた一石がどんな波紋を呼んだか。憎い弟がどんな吠え面をかくか。それを確かめに来たのだ、この男は。


「ねぇ、兄さん。僕はね、この座敷牢で朽ちたって別に良いと思っていたんですよ。――さっきまでね」


 沸々と湧く怒りの間から、哄笑が漏れる。煮えくり返った腹を抑えつけるのはもうやめだ。

 己の中の黒い獣を解き放ったのは自分ではない、この愚かしくて卑しい兄だ。


「あなたと違って権力になんて興味はない。適当に生きて、適当に死ぬ。別に生まれたくて生まれたわけでもないし、家を守るなんて厄介事は(はな)からごめんです。あなたは幼い頃から僕を敵視していたけれど、それは杞憂だったんですよ。当主の座は初めからあなたのものだった。――でも、もうそれは過去の話だ」

「お前は何を言っている?」


 朝霧に気圧されて、男は一歩後ずさった。その襟を格子の間から伸びた朝霧の手が掴み、強引に引き寄せた。男の身体が鉄格子に当たり、大きな音を立てた。


「ねぇ、兄さん。知ってるんですよ。僕は大病を患ったんじゃない。あなたに毒殺されかかったんです」

「な、なにを言い出すんだ」


 落ち着きなく逸らされた視線が全てを物語っていた。


「もうひとつ。最後に良いことを教えてあげましょう。僕はね、力を失ってなんていなかったんですよ。何度も命を狙われるのは面倒だし、自分で自分の力を封印しただけです」

「なっ!」

「せっかく大人しくしていてあげたのに、あなたは僕を怒らせた。だからもう容赦はしませんよ。ねぇ、兄さん。僕の力、どんなものだったか、覚えてらっしゃいますか?」


 赤い唇が、にっと吊り上がった。

 それを凝視しながら、男はぶるぶると震える。


「人の心を覗き、そこに隠された恐怖や欲望を操る力。もちろん強靭な精神力を持った人は操りにくいですけどね。兄さん、さぁ、あなたはどちらでしょうね?」

「や、やめ……」

「ずっと使っていなかったから、力加減が上手くいかないかもしれませんが……。別にそんなことどうでもいいですよね?」


 地を這うような哄笑が座敷牢にこだました。



次話投稿予定:8月21日(火曜)20時

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