第一話 初夏
「朝霧さま、夕餉の時間でございます」
鉄格子の前で膝をついた千代は、奥に向かって声をかけた。
陰鬱な鈍色をした鉄格子の向こうには、宵闇に沈む座敷があった。
広さは二十畳ほどであろうか。鉄格子の近くに小さな座卓。奥に衣装箪笥がひとつ。明かり取りの高窓の下に文机。そしてその横には少しの書物が積まれている。
うら寂しくなるほど閑散とした佇まいだった。
その座敷のほぼ中央。
井草の匂いも香しく、青々とした畳に端座し、虚空を見つめていた男がゆっくりと彼女のほうへ顔を向けた。
何を見ていたものか、それとも何も見ていなかったのか、うつろな視線が彼女を絡めとった。漆黒の瞳に映る虚無には底がなく、千代の背がざわりと粟立った。
が、それもほんの刹那のこと。
「ああ、もうそんな時間?」
と屈託のない笑顔を浮かべた。男の瞳には千代を怖気づかせるものはもう何ひとつ浮かんでいない。
「はい」
短く答えて、夕餉の膳を鉄格子の片隅にしつらえられた配膳用の隙間から差し入れた。
格子の向こう側には、配膳口の高さに合わせた小さな座卓が置かれており、そのままそこで食事ができるようになっている。
母屋から遠いため、膳を運ぶのはなかなか骨が折れる。細心の注意を払って運んではいるが、粗相があってはいけない。汁がこぼれていないか、盛り付けが崩れていないか、差し入れざま、膳に一通り目を走らせた。
「今日は良い桃が手に入りましたので、後で切りますね」
腕に持ち手を通し、肘からぶら下げていた小ぶりの籠を顔の前あたりまで掲げて示す。
「桃か。良いね」
朝霧と呼ばれた男の端正な顔が笑み崩れ、涼しげな目元が柔らかく細まった。
あまり好き嫌いを言わない男だが、桃は好物らしい。本人が面と向かって千代にそう言ったわけではないが、これまでの付き合いでなんとなく察していた彼女は、自分の予想が当たっていたようだと確信を持ち、誇らしい気持ちになった。
「その前に夕餉をきちんとお召し上がりくださいね。でないとこの桃をお出しするわけにはまいりません」
「おや。千代はまたそんな意地悪を言う」
「朝露さま」
たしなめるように名を呼べば、呼ばれた男はさも楽しそうに笑った。
「分かっているよ。ちゃんと食べるから安心おし」
根負けしたとでも言うように軽く肩をすくめた。
彼は音もなく立ち上がり、千代のいる格子近くへ歩み寄った。膳の前に座ると、流れるような所作で箸を持ち、膳の上の料理を食べ始めた。
その動作は的確で、濃い宵闇さえものともしていない。
「お暗いでしょうに」
千代はランプに火を入れながら呟いた。
「慣れているからね。このくらいの暗さはどうということもない。逆に、日中の日なたみたいな明るいところへ出たら、眩しすぎて見えないかもしれないね」
独り言であったが、他に音もない部屋ではよく響く。簡単に朝露の耳にも届いたようで、彼は淡々と答え、それから煮物の芋を頬張った。
「申し訳ございません」
千代の口を突いて出たのはそんな言葉だった。何に対して申し訳ないのか、言った本人ですら分かっていない。困ったように眉尻を下げる彼女をちらりと見て、朝露は小さな笑みを口元に浮かべた。
「君が謝る必要はない。僕はこの暮らしが気に入ってるんだよ。欲しいものはたいてい手に入るし、日がな一日好きなことをしていられて、おまけに君が甲斐甲斐しく身の回りの世話をしてくれる。これ以上気楽な生活ってあるかい?」
「朝霧さま……」
それは座敷牢に閉じ込められていても、ですか?
喉から出かかった言葉を、千代は慌てて飲み込んだ。それは一介の使用人たる自分が決して言ってはならないこと。わきまえていても情と言うのは厄介なもので、ことあるごとに顔を出したがる。
「千代。そんな顔しない」
ハッと我に返り、弾かれるように顔を上げれば、鈍色に光る鉄格子の向こう、白く端正な顔が苦笑いを浮かべていた。
「申し訳ございません」
深々と頭を下げる。
「今日は謝ってばかりだね」
「もうし─」
「ほら。言ってる傍からまた!」
「あ……」
噴き出した朝霧と対照的に、千代は真っ赤な顔をして縮こまった。口を開いたらまた「申し訳ない」と言ってしまいそうで、何も喋れなくなってしまった。
真っ赤な顔で狼狽える彼女を、朝霧はさも愛おしそうな顔で眺めた。が、見つめられている当の本人は焦ることに忙しく、朝霧がどんな目で自分を見つめているのか、まったく気づいていない。
その無防備さがますます朝霧を喜ばせる。彼は満足そうに喉の奥で笑った。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
何食わぬ顔で箸を置く。
「いつもすまないね」
「いえ」
空になった膳を受け取りながら、短く答えた千代の口元は小さくほころんでいる。屋敷の住人たちは使用人など物としか思っていないが、しかしこの朝霧はことあるごとに感謝を口にする。感謝されようと、されなかろうと、命ぜられた仕事をこなすのは当然のことだ。しかし、ねぎらわれて嬉しいと思わない者などいない。
他の者たちにどのような理不尽な仕打ちを受けても、こうして朝霧の顔を見たり、他愛もない雑談が出来れば、それで全ての嫌なことはどうでも良いことに変わる。
「千代がこの屋敷に来てもうどのくらい経つかな?」
「二年半になります」
「そうか。君が来たのは寒い時分だったね」
記憶をたどれば、牛蒡のように黒く痩せ細った娘の姿が脳裏に浮かぶ。あちこち擦り切れたみすぼらしい着物は丈が全く合っておらず、袖や裾から貧相な手足がにょきりと突き出ていた。
鼻の頭を赤くし、細かく震えていたのは、寒さからだったのか、それとも極度に緊張していたからなのか。その答えはいまだに分からないままだと思い出す。
「千代はここに来てすぐ僕の世話係を命じられたんだろう? 怖くはなかった?」
屋敷の奥に押し込められた囚人。
それはいくら忌もうと、蔑もうと、放逐することもできない厄介者。
たいていの場合、表ざたにできない何かしらの事情があるゆえに閉じ込められているのであり、それは時として存在してはならない存在だったり、手のつけられないほど心を病んでいる者だったりする。
後者は言うまでもないが、前者であっても長きにわたる囚われの内に心を病み、歪み、扱いにくいことも多い。
座敷牢の主は、家族だけでなく使用人にとっても厄介この上ないのだ。
現に千代の前に、朝霧の世話を命じられた者は何人かいたが皆、恭しい態度の奥に嫌悪を見え隠れさせていた。
まぁ、仕方のないことだ。
たとえ、運ばれてくる食事の量が少なくなっている時があろうと、椀にのこった吸い物の量より膳の上にこぼれてしまった量のほうが多い日があろうと、取寄せを頼んだはずのものが届かなかろうと、特段の不自由は感じてこなかった。
たいして動かねば腹も減らず、取り寄せを頼んだものだって喉から手が出るほど欲しいと言うわけではない。
だが、世話係が千代に変わってからと言うもの、今まで普通だと思っていたそれらの事が、実は理不尽な不自由であったことをまざまざと見せつけられたのだ。
千代の素直さは彼にとって癒しのようなものだ。我欲と野望に凝り固まった魑魅魍魎どもが暮らすこの屋敷に仕えながら、それに染まらない。彼女の心根の強さが頼もしく、そして興味深い。
「どうしたの? 正直に言っても、叱ったりしないよ」
答えあぐねて押し黙る千代を、朝霧は優しく諭すように促した。柔和な顔をしているが、しかし答えを聞かないうちは引き下がらないという雰囲気を醸し出している。
朝霧は存外頑固で、その頑なさを重々承知している千代は、このままでは埒が明かないとあきらめのため息をついた。
「確かに最初は驚きましたし、ちょっと怖いとも思いました。でもそれは朝霧さまにお目にかかるまでのことです」
千代は籠から取り出した桃を器用に切り分けはじめた。柔らかい果肉に刃物を埋もれさせながら、初めて会った日のことを思い出す――。