9
14
明かりがなく短い帰路を経て家の鍵を開けると、空回りする感覚があった。
和子さんが来ているのだろう。
そう思って玄関を開けると、和子さんの靴が視界に入り、居間から和子さんが出てきた。
「おかえりなさい。遅かったわね」
「ただいま。すみません、用事があって」
「そんな気がしてたわ。まず手を洗ったら、居間に来てほしいの」
何だか、和子さんは怒っているように見える。
僕は何かしただろうか、と考えるけれど特に見当たる理由がなかった。
手を洗って冷えた手のまま居間に行くと暖房が効いていたけれど、すぐに手は温まらない。和子さんと対面になるようにコタツに入った。
「昔話をするわ」と和子さんは唐突に話し始めた「時人くんのおじいさん――私の兄さんは生まれた頃からメラニン欠乏症で髪も肌も真っ白だったの。こんな田舎だったから人も少なくて事情を知らない人は居なかったけれど、それでもよくいじめられていたりしました」
僕は黙って話を聞いていることしか出来ず、素直に耳を傾けていた。
「そんな兄さんが二十歳を超えて、ある日。お嫁さんを連れてきました。お嫁さんは兄さんのことを心から受け入れていて、不満も全くなかったそうです。そして数年後に一人の子供が生まれました。その子供は兄さんのメラニン欠乏症の影響は受けず、普通の子供でした。でもその子供――時人くんのお父さんは、よく兄さんのことで周りからいじめられていました」
「えっ」
一驚して思わず声を漏らした。
父親がいじめられていたなんて話は本人からも母親からも誰からも聞いていなかったから。
あの父親が、という思いが僕の中で強く顔を出す。
和子さんは続ける。
「兄さんのことでいじめられることが嫌で、時人くんのお父さんは兄さんと喧嘩したり家出したりすることが度々ありました。兄さんは申し訳ない気持ちで一杯でも、いじめられても強い子であれという教育方針は曲げませんでした。だから時人くんのお父さんはその教えの通りすくすく成長し、大学へ行く際にこの町から出て、社会人になって数年後に結婚しました。そして時人くんが生まれました。けれど時人くんは兄さんほどではないと言え、天性的に色素が薄くて明るい髪色と白い肌でした。まだ時人くんが赤ん坊の頃、時人くんのお父さんが兄さんや私たちに家族で会いに来ました。もしかしたら俺のせいで子供が俺や兄さんのようにいたぶりを受けてしまうのではないかという不安や申し訳なさが溢れて、その時に時人くんのお父さんはとても泣いていました」
一応和子さんの話は僕の頭の中に入ってきているけれど、油断したら驚倒しそうだった。それほど僕に影響があった。
だってその話は僕の中に蓄積されてきた父親の記憶とはまったく一致しない。赤の他人の話を聞かされているように思える。
「だから時人くんのお父さんは兄さんと同じようにいじめられたとしても強い子に育ってほしいと、心を鬼にして育てることにしました。予想していた通り、時人くんは小さい頃から周りから敬遠されがちで、高校にあがるとついに悪い事態が起こってしまいました。それを危惧していた時人くんのお父さんはあらかじめ、私に相談していました。もし俺の子供がいじめられて駄目だと判断したら、そっちの学校に転校させるから預かってほしい、と」
そこで和子さんは一旦話を区切って、僕の様子を窺った。
「信じられるかしら?」
「……いえ、とても信じられないです。特に、父さんがいじめられていたなんて」
僕がそう答えると和子さんは微笑んだ。
「そうでしょうね。時人くんのお父さんは強くありたくてそのことを隠してきたから。子供にも強くなってほしいその一心で、冷たい態度が表に出るようになっちゃったのだけれど」
「………」
まさか、そんなことがあったなんて。
到底、僕には信じられなかった。
それに話を聞いているかぎりでは、まるで。
「愛されていたのよ」
優しく、和子さんはそう言う。
「もちろん、今も時人くんのことを愛しているわよ。大切に思っているわよ。それは時人くんのお母さんも同じ。決して駒なんかじゃないわ」
「……母さんから聞いたんですか?」
「ええ。すごく悲しんでいたわよ。それに泣いてた。私たちがあの子にそういう風に思われてしまうのは、私たちのせいだったって言ってたわ」
頭がついていかない。
――僕が、愛されていた?
しかし、父親のあの突き放し方は、一体何だっていうのだろう。そこに強くあってほしいという思いがあるとは、僕には思えなかった。そこには愛なんて感じられなかった。
「お父さんは兄さんに強く厳しく育てられたから素直な愛し方が分からなかったのよ。それが結果的に突き放したように思われてしまったのはやむを得ないとしか言いようがないわ」
「………」
「時人くん」
和子さんは僕に両手を出すように促した。僕は両手をコタツから出して、まだ冷たいままの手をコタツの上に広げた。すると和子さん僕の両手を包み込むように優しく握った。
温かい。
急なことに体が思わず反応したけれど、すぐにその手を受け入れた。
「お父さん、入院しているのだから、会いに行ってあげなさい。お母さんに会いに行ってあげなさい。安心させてあげなさい。強く当たってしまったこと、謝りさない。そしてお父さんとお母さんに謝られてきなさい」
棘なんてものが一切ない口調で、和子さんは言う。
「あなたはちゃんと愛を受けてきた子よ。でもあなたにはまだ愛を受け取る準備が出来ていなかった。一方的な愛情は空しくも空回りするだけ。でも誰のせいでもないわ。環境がそうさせてしまったとしか言えないわ。だから、今日はこの話をしたの。今なら、分かるわよね?」
「……微妙です」
「なら、前に言っていた愛は見つけられたかしら?」
僕は首を振る。
「そう。別にそれでもいいわ。まだ愛は見つけられていなくてもいい。生きているかぎり、いつか見つかるわ。それに今からでも遅くないわ。ちゃんとお父さんとお母さんに会ってきてあげなさい」
和子さんの目が見られないけれど、たぶん優しい目をしているだろう。母親が子を見守るような、今まではそれだと分からなかった目。
「……少し整理する時間をください」
切実な思いで僕は言った。
「ええ。それでもいいと思うわ。愛はね、心から受ける、そう書いて愛になるのよ。あとはあなたが愛情を受け取れるかどうかよ」
そこで握られていた手が離された。まだ和子さんの暖かさがじんわりと残っている。
風呂に入るよう促され、そして和子さんは自宅へと帰って行った。
温かい湯船に浸かって、考える。
けれど、まだすべてのことを受け止められなくて、ただ天井を見つめてしまう。
愛とは何だろう。
真琴と話していても未解決だった疑問。その答えが意外なところでぽろっと姿を現した。
愛されていた。でも受け取る準備が出来ていなかった。
その言葉が頭の中で響き合う。
僕の、受け取る側の問題だったのだろうか。そうなのか、そうではないのか。まだ瞭然としない。
仮に愛されていたとして。しかし僕は愛し方を知らない。誰かを愛することを知らない。
夜は更けていく一方で、風呂場の窓の外から、雪が降ってくる様子が見えた。
またそのまま眠ってしまいそうになった。
でも、僕にはするべきことがある。温かい湯船から出てナイトウェアに着替えて、充電器に繋がれていたスマートフォンを手に取った。
明日、必ず真琴を見つけるためには役者が揃う必要がある。そんな気がして、その思いが一瞬の躊躇を取り払って、メッセージを打ち始める。
メッセージを送信し程なくして電話が掛かってきた。
「もしもし」
15
迎えた夜。
今日は昨日の夜から降り続けている雪のせいもあってか、著しく気温が低下していて、ましてや夜。凍えそうな寒さだった。僕と真尋はお互いに暖かい格好をしてきたけれど、それでも唇は紫色になる始末だった。
いまだに僕は昨夜の和子さんに明かされた話を引きずっていた。結局釈然としない心持ちで眠れぬ夜を過ごし、朝を迎えた。おかげで今日の授業中は何度も意識が飛びかけた。
そんな僕の様子を見かねて、旧校舎の薄暗い廊下で僕の隣を歩く一瀬真尋に「大丈夫?」なんて声をかけられてしまう。けれど、そう心配する真尋も顔が蒼白していて思わず僕も同じことを訊き返した。彼女もあの日以来、体の芯から疲れを取ることはできていないのだろう。僕らはお互いに口角を上げた。
僕はスマートフォンのライトで明かりを灯しながら真尋に話しかける。
「なんで、今日はこんな時間なの?」
スマートフォンの時計はもう一、二分で明日を迎えようとしている。
「だって、深夜の方が、真琴に会えそうな気がするから」
「もしかして丑三つ時のことを言ってる?」
「そう」
「丑三つ時は、正確には午前二時からの三十分間のことを言うから、まだ少し先だね」
そう言うと、真尋は少し唇を噛んで恥ずかしそうに俯いた。
どこか抜けているようなところは、姉と似ていた。やはり双子の姉妹だ。
今日彼女は包帯、マスク、眼帯のどれも身に付けていなかった。彼女と同じ顔を探せばいいのだ。けれど旧校舎のどこを回っても、やはり真琴の姿はない。
「あと行っていないところってあるかな?」
「昨日と同じところは、全部回った」
「そっか」
行けるところはすべて行き尽くした。
ただ、一カ所を除いて。
「屋上、鍵空いているかな?」
僕がそう言うと真尋の肩が僅かに跳ねる。彼女は視線だけを僕の方に向けて「屋上に、行く気?」と小さく、震える声で言ってきた。
「行こうと思ってるよ。あそこだけは昨日も見ていなかったし」
「……鍵は締まってると思う。私と真琴の一件があってから、ずっと鍵が締まってる」
「なら壊せばいい。キミのトラウマを思い返させるようで悪いと思ってる。だから、先に謝っておくよ。ごめん」
彼女は少し黙っていたけれど、すぐに「大丈夫。行こう」と言った。その声からは強い意志が感じられた。
旧校舎を二階に上がり、長い廊下の突き当りにもう一つ上へ行ける階段があった。その階段を一段ずつゆっくり、ペースを真尋に合わせて上っていくと、古い木造の両開き扉が視界に迫ってくる。幸いにも南京錠と鎖によって封鎖されている扉で、その鎖の錆びの進行具合がかなりのもので簡単に壊せそうだった。
僕はスマートフォンを真尋に預けて、その鎖をどうにかして壊そうとした。けれど、意外と丈夫でなかなか壊せそうになかった。その気になれば木造の扉ごと壊せると思うけれど、それは出来れば避けたかった。旧校舎と言えど、壊したら器物損害やら何やらで問題になりそうで。もちろん鎖だって壊せばそうなってしまうけれど、それは大小の問題だろうと考え、気に留めないようにしていた。
「けっこう丈夫だね」
思い切り引っ張ったりしたけれど、鎖は壊せない。
「……どうする?」
真尋が不安気に上目遣いでそう訊いてきた。
「大丈夫。たぶん、少ししたら助っ人が来るよ」
「助っ人?」
「うん」
そんな話聞いていない、という風に彼女は僕を睨むように視線を送ってくる。
時計を見ると、もう午前一時を迎えていた。
そろそろ来る頃だ。
そう思った折、聞き覚えのあるバイクの音が遠方から段々と近づいてきた。そのバイクの音は旧校舎の近くの辺りで止んで、静けさが復活する。そして、今度は僕のスマートフォンが真尋の手の中で鳴動した。
急な鳴動に驚いている真尋からスマートフォンを受け取って、電話に出る。
「もしもし。ありがとう、来てくれて。今、屋上に向かう階段の一番上に居るんだ。待ってるよ」
そう言って、電話を切った。
「……誰?」
真尋は訝し気に僕を見据えていた。
「すぐに分かるよ」
真尋に申し訳ない気持ちがあって、僕はその気持ちを微笑みで伝える。けれど伝わらなかったようで、彼女は真琴のように首を傾げた。
次第に下の廊下から足音が聞こえてきて、その足音の主が姿を現した。
瞬間、糸が張ったように空気が緊張する。
「真尋」
そう、憎々しく彼女の名前を呼んだのは青井だった。
名前を呼ばれた彼女は体が硬直したように動かなくなったけれど、なんとか体を捻じらせて僕の方に困惑と怒りの視線を向ける。
もう一度、僕は真尋に謝る。
「悪いと思っているよ、本当に。でも、こうしないとキミはたぶん今日来なかっただろうから」
そう言っても真尋は僕を睨み続けた。真琴と同じ顔に睨まれるっていうのは、なんだかとても心苦しい。
一方の青井も僕を睨んでいるように見えた。前の彼からは想像もつかない表情で。
憎まれ役は僕でいい。今日の主役は僕以外の人なのだから、僕は通行人Aでいい。それぐらいの脇役でいいのだ。
僕は錆びついた鎖を指す。
「来てもらって言いたいことは山ほどあるだろうと思う。でも、さっそくで悪いけれどこの鎖、壊してくれるかな?」
青井は返事も頷きもせず、でも了解してくれたようで階段をゆっくり上ってきた。
彼と位置を交代して僕と真尋が彼の背中を眺め上げる形になって、真尋に小声で訊かれる。
「……なんで、一樹に言ったの」
「彼もまた真琴の未練を課せられた人なら、ここに居るべき人だと思ったから。だから昨日の夜、彼に連絡してお願いしたんだ」
〝明日の夜遅く、旧校舎に来てくれないかな。話すべきことがあるんだ〟
昨夜にそうメッセージを送ってすぐに電話が来た。数日の間、青井と一切話をしていなかったので、どう話を切り出したらいいのか困った。けれど彼に嘘をつくのは違う気がして、素直にすべてを打ち明けた。僕には幽霊の一瀬真琴が見えていること。彼女の未練を果たす手伝いをしていること。そして真尋が居ることも事前に言ってあった。はじめは断られていたけれど、僕が今まで見せなかったしつこさに彼の方が折れて、なんとか約束してもらえた。
人に心からお願いをするというのは、初めてで、精神的に疲労が半端ではなかった。
ガキンッと音が勢い良く響いて、思わず僕も真尋も肩を跳ねさせて青井の方を見る。鎖のつなぎが離れていた。彼の足もとには鎖の破片が落ちていて、鋭利な棘をぶら下げて鎖は役目を終えた。
さすが体育会系、と思わず感心した。
彼は僕を見下ろして、確認を取るような視線を向けてきた。
それに頷いて「行こう」と答えた。
扉を開けると冷蔵庫よりも冷たい空気が一気に舞い込んでくる。睡眠不足や色々な疲れがあってか、僕は一瞬目眩に襲われて視界が揺れてよろけた。一度壁に肩を預けて、気を引き締め直し体勢を戻す。
扉の向こう側からは、雪がスローモーションのようにゆっくり降っているのが見えた。
最初に感じたのは絶望だった。
真琴の姿を確認出来なかったから。
だけどスマートフォンのライトを消して徐々に夜目が効くようになってくると、少し離れたところに泡沫の彼女は居た。この雪が降る真夜中でも彼女は相変わらず夏季仕様の制服姿だった。
その異質な恰好の彼女を視覚で認識出来るのは僕しか居ない。だから「居た」と僕が言うまで青井と真尋は真琴がいることを知らなかった。
木造校舎の屋上はもちろん床がコンクリートではないため安心感がなく、その上雪が少し積もっている。一面に雪が積もっているため、真っ白なキャンバスのように見えた。一歩踏み出すと床が軋む音がして不安を煽る。
そして、その音に反応したかのように真琴がこちらを振り向く。幽霊にも気配とかは感じられるのだろうか。
真琴がどういう表情をするのか予想はつかなかったけれど僕らが居ることに驚きはなかったようだ。
寒さに身を縮めて隣を歩く真尋に、そこにいる姉に話しかけるよう促す。
「真琴……居るの?」
双子の妹がそう話しかけるも姉は数秒、口を開かなかった。返事がないことに真尋は不安の視線を僕へ向けてきた。
真尋を誘導して真琴との距離を少しずつ詰めていった。僕と真琴の間が二メートルほどになった屋上の真ん中あたりで、やっと彼女は口を開いた。
だけど、僕と青井にはその声は聞こえない。それでも真尋にはハッキリと聞こえたようで、目を見開いていた。
「本当に、ここに居たんだ」
そう呟いた。
次に僕は青井を引いてさらに真琴との距離を詰める。僕が手を伸ばせば触れられる距離で青井に手を伸ばすように言った。
青井が手を伸ばした先には真琴の右手があり真琴は避ける素振りもしなかった。青井の手と真琴の手が当たり、僕には自然に見えたそれが、彼には何もない空間で見えない何かに当たったとしか思えないだろう。
「本当に、ここに居るのか」
そう呟いた。
今日、この場にはいつもの黒板がない。僕と真琴を繋いでいた文字の言葉に頼ることが出来ない。致命的な問題ではあるけれど、ここには彼女と普通に会話できる人物が居る。
だから僕は真尋に会話の仲介役を頼む。真尋は僕と並んで、僕の視線の先に合わせる。見えていないだろうけれど、なんとか見えないだろうかと努めているのが伝わった。出来ることなら僕の視界に写る姉の姿を、妹にも見せてあげたいと思った。それが出来ないのだから、生きている人と幽霊のコミュニケーションは不便だと改めて感じた。
「まず、ごめん。キミを傷つけるつもりは微塵もなかったんだ。でも、一時の感情に揺さぶられてキミを傷つけてしまった。あんなことを言ってしまって、ごめん」
視線を真尋に送り、同じことを彼女に伝えてもらう。
そして動画の音ズレのように何拍か間を置いて、真琴から返事が来る。声も同じだという妹を通して。
「私もごめんなさい。あなたのことを思って言ったけどそれがかえって裏目に出ちゃった。あなたと真尋から姿を消したのは整理する時間が欲しかったからなんだ。だから、ごめんなさい」
初めての会話だった。
真尋は姉の言葉を一字一句そのまま僕に伝えてくれている。おそらく口調も合わせてくれているだろう。真琴の口の動きを読む癖でそれが分かる。
予想していたよりも真琴の口調はずっと穏やかで優しくて温かく感じた。一言一言に彼女らしさが表面に出ている。
「知っていただろうけれど、キミに会うためには三人で来るべきだと思っていたんだ」
間を置いて。
「うん。嬉しいよ、久しぶりに真尋と一樹の二人に会えて。あなたが居なかったらたぶん、二人は私がどこに居るかもわからなかっただろうし、なにより二人が一緒にいることもなかったと思う」
「だって、それがキミの望み、いや未練の一つだったのだろう?」
間を置いて。
「そう。黙っててごめんなさい。全部言ってればあなたと喧嘩することなかったかもしれないのにね」
真琴はそう言って申し訳なさそうに、でも微笑んだ。それにつられて僕も少し微笑む。
ああ、やっぱり真琴との会話はどこか心地いい。変に考え込んだりしなくていいから、素のままの自分でいられる気がする。
「キミが八月になってから青井や真尋と接触を図るようになったのは、何か理由があったのかな?」
間を置いて。
「そうだね。この体になってすぐの頃は私の未練って何だろうって、私自身が把握出来てなかったの。でも三つ思い当たる節があって、私の未練はそれなのかなって思ったら二人と接触できるようになったの」
「そっか」
真琴はそうして妹の真尋に自身の未練を伝えた。そのうちの一つ、真尋に謝罪したかったという未練はすでに解消されている。残る二つのうち、片方は僕が担っている。だけど、もう一方の未練。
「でもこの先は当人たち次第だよ。僕はあくまでセッティングしたまでだから」
視線を青井と真尋に向ける。けれども二人は向かい合おうとしない。互いに気まずさが滲み出ていてギクシャクしている。その間に挟まれているので二人とも僕に、どうすればいい、という視線を向けてくる。
雪がゆっくりと降るように時間もその速度に合わせて流れる。
最初に行動に出たのは、意外にも真琴だった。彼女は僕の右隣に居る青井に手を伸ばすやいなや、彼の手を両手で包み込むようにそっと握った。いきなりの接触に青井は戸惑いの表情を浮かべるけれど、真琴はその手を放さない。彼女は青井の手を自分の顔の前まで引き寄せた。その姿はまるで礼拝堂で祈る聖職者みたいだ。
長い一瞬の後に真琴は僕の左隣に居る妹の方を見る。妹はその視線に気が付くことはない。けれど何か話しかけているようで、自然と妹の視線は真琴の方へと向いていた。
姉と会話しながら妹は「でも」や「私が」などと口にしていて、悲しそうで困った表情をしている。
真琴の言っていることを読唇すると、どうやら説得をしているようだった。
二人がずっと私に呪われたように仲違いしているのは嫌だ。だから誤解を解いて昔みたいに笑いあってほしい。
そういう感じで。聖職者が無実の罪人を諭しているかのように見えた。
やがて真琴と真尋、二人が同時に頷いた。真琴は握っていた青井の手を放して一歩引くも、青井は彼女に手を握られていたままの状態を戻そうとしなかった。そこにあったたしかな感触をずっと思い返しているようだった。
僕の左隣から小さく深呼吸するのが聞こえた。そして。
「一樹」
と自分を恨んでいる相手の名前を呼んだ。
青井は真尋の方に顔を向ける。
視線があった瞬間に真尋は臆したように見えたけど、彼女は逃げることなく立ち向かって話し始める。
「……私が犯した過ちは、許されることじゃない。死のうとして真琴を殺してしまったのは、もう取り返しがつかない。悔やんでも、悔やんでも、悔やんでも、悔やんでも、どうすることも出来ない。一樹に恨まれるのは、至極当然のことだと思う。幼馴染で仮にも恋人だったんだから」
言いたいことを整理するために真尋は一度黙るけれどすぐに続ける。まっすぐ青井の目を見ながら。
「だから赦してなんて言わない。私も赦してもらおうとは微塵も思ってない。一年後も、五年後も、十年後も、この先ずっと私は十字架を背負い続ける。でも、真琴が言ってるから、真琴の未練だからとか関係なく、私自身が一樹とまた昔みたいに話せるようになりたい。三人でいた頃みたいに。そんなことを言う資格は私にはないと思う。余計に一樹に恨まれるかもしれない。けど、それでもいい。いつか一樹が私と話してくれるようになるんだったら、一年でも、五年でも、十年でも、何十年でも待つ。こいつが真琴を殺した奴なんだって心の中で思いながらでも、一樹が昔みたいに話してくれるようになるその日が来るのなら何だってする。だからもう二度と死のうとは思わない。おこがましいけれど真琴の分まで一樹と話したい」
それは悲痛の叫びだった。
罪を背負う者が言う言葉はすべて否定され、拒否される可能性もある。それでも真尋は心からの思いを伝えた。
決して真尋を擁護するわけではないけれど見方によっては彼女も青井と同じ立場の人間なのかもしれない。自分の過ちによって予期せぬ姉の死を目前にした人間なのだ。
死んで楽になろうという行為に神様が下した罰は死よりも苦しい罰だった。
真尋の叫びに、青井がどう答えるか。視線が彼に注がれる。
頭を白く化粧していた雪を払って、青井は開口する。
「怒ってるよ、今でも」
しんと静まり返った屋上にその声が響く。
「何に怒ってると思う?」
目を合わせている真尋に訊ねる。
「……真尋を死なせてしまったこと」
「それも当たり」と端的に答えて「他には?」ともう一度問う。
真尋には最初に答えたこと以外思いつかないようで、客観の視点で僕が答える。
「彼女が死のうと悩み詰めるまでキミに何も相談しなかったこと」
「それも当たり」と彼は僕を一目する。
そして彼は「最後に」と言って、自分の胸元を指す。
「俺自身に怒ってる。幼馴染がそんなに悩んで苦しんでいたのに何も気付けなくて自分自身に腹が立ってる。もしも俺が、っていう思いを何回も頭の中で繰り返した」
「そんなこと――」
ない、と真尋が言いかけたのを遮って青井は話し続ける。
「――ある。誰かが、誰のせいでもないって言うかもしれない。でも逆に誰のせいでもあるって言うことも出来る。身近にいた人が気付くべきだった。本人が身近にいた人に相談するべきだった。環境がそうさせてくれなかった可能性もある」
再び青井の頭が雪で白く染まり始める。
幽霊の真琴は聞こえていないだろうけれど目を細めて心配そうに彼を見つめる。
「俺は真尋をまだ赦すことが出来ない。それは俺自身を赦せないのと同じ。だから真尋がこの先ずっと十字架を背負うっていうなら俺もそれを背負う」
話に耳を傾け続ける真尋の目にじわじわと涙が浮かんでくる。
「もう、一人で全部背負い込むな」
あと少しで彼女の涙のダムが決壊しそうだ。
「だから、学校に来いよ」
優しくそう言った一言がダムに大きな亀裂を生じさせた。
一度溢れたものは止められない。
降る雪よりも早く流れ落ちる涙を真尋は拭おうとしない。
青井と目を合わせたまま泣く、泣く、泣く。嗚咽する声は聞こえない。静かに。けれど荘厳な滝のように。
その涙には今まで泣けなかった分の様々な思いが含まれているように思える。
過ちに対する後悔の涙。
姉を死なせてしまった罪悪感の涙。
幼馴染に対する不安の涙。
一緒に過去を背負ってくれる安心感の涙。
およそ半年間止まっていた二人の時間が、再び動き出した。
二人を見守る真琴も、今にも泣きだしそうな表情だった。
同じように見守る僕はなんだか胸の辺りがじんわりと火照るのを感じていた。
――こういうのを何て言うのだったかな。
そう考え込む。その間にもカイロのような緩やかな温かみが広がっていく。
――そうだ、心温まるって言うんだ。
映画を観ていても小説を読んでいても体験する事の出来なかったそれに、僕は戸惑いつつも胸に手を当ててその感覚を素直に受け入れる。
その矢先、小さな驚きの声が真尋から聞こえた。
彼女は自然と流れ出ていた涙が止まっていて、空間のある一点を目が零れ落ちるのではと思うほどに見張っている。
そこには、僕だけが視覚で認識することが出来るはずの真琴が。
「ま、こと」
かすれた声で真尋はそう呟く。
まさか見えているのだろうか。今まで見えるはずのなかった姉の姿を。
しかしなぜ今になって認識出来るようになったのか。
思い当たる節が幾つか頭に浮かんだけれど、僕はその中でも最有力のものを確かめるためにスマートフォンの画面を点ける。
午前二時。
時計はその時間を表示していた。
古来より常世へ繋がる時間帯があると言われていた。
その時間帯は大きく二つ。
夕暮れ時の別称として呼ばれる、黄昏時。
そして深夜二時からの三十分間を差す、丑三つ時。
今、後者の時間帯に突入したのだ。
丑三つ時と聞くとどうしても恐れの印象が強いけれど、今はそれすら忘れてしまう。
もう一回、妹は亡き姉の名前を呼ぶ。
「真琴」
呼ばれた名前に反応して姉は恐る恐ると妹の方へ手を伸ばす。それへ呼応するように妹も手を伸ばす。双方の指先が触れ、指が絡まり、手を強く引き合う。自然と体が引き寄せられて真琴と真尋、同じ顔立ちの二人が抱き合う。お互いに腕を背中に回して優しくも、力強く。
まるで切れた糸が再び結びつくような光景だった。
真尋の止まっていた涙がまた、先ほどよりも溢れだした。真琴も一筋の涙が道を作るととめどない涙が零れ落ちた。迷子になった子供が母親と会えた時のように、真尋は声を出して泣いている。おそらく真琴も。互いの名前を呼び合っては「ごめんね」と繰り返しているようだ。
不思議な光景の中、僕と青井は顔を見合う。
「キミも真琴の姿が見えているの?」
彼は首を振る。
「いや、見えてないよ」
「どうしてだろう」
「分からない。俺には真尋が何もない空中を抱きしめてる様にしか見えない。でも、とっきーは見えてるんでしょ?」
「見えているけれど、彼女のむせび泣く声は聞こえないよ。それに真尋の方は抱きついているからキミと同じように触れることが出来ているみたいだ」
僕と青井は特に変化はない。
けれど真尋にだけ変化があったのは、彼女が姉と魂を分けた存在だったからかもしれない。そう考えるのが自然だった。
隣でそわそわとしている青井に言う。
「歯痒い?」
「俺だけ見えないからね。正直妬ましいくらい」
「考えがあるよ」
と僕は言って、双子が落ち着くタイミングを見計らう。
時間にして五分ほど経った頃。
ようやく落ち着きの傾向が見られて、鼻を啜って涙を拭く真尋に話しかける。
「悪いんだけれど、ちょっとだけいいかな。彼にも抱きつかさせてあげてくれる?」
「ちょっ、とっきー! そこまでは言っ――」
彼の照れ隠しを聞き終わるよりも前に、真尋が真琴から少し離れる。
青井はなかなか足を踏み出さない。というよりも向かうべき場所が分からないようだった。真琴の姿が見えていないから当然のことだろう。
僕は手招きをして真琴に青井の目の前まで来てもらうよう促す。
真琴は一歩ずつ歩み寄ってくる。屋上は雪が五センチほど積もっていたけれど、彼女の足跡は付かなかった。
「今、キミが腕を伸ばせば触れられる距離に彼女は居るよ」
僕がそう言うまで青井は目の前にいる幽霊の彼女を認識出来なかった。
先に手を伸ばしたのは真琴の方だった。そして青井の両手をまた優しく包み込むように握る。
「あ……」
そう、青井は声を漏らして、真琴にされるがまま抱きつかれた。
初めはどうしたららいのか分からないといった様子だったけれど、次第に彼は抱きついている彼女を受け入れるように、そっと、抱きしめ返した。身長差が頭一つ分以上ある二人の抱擁は不自然に見えたけれど、傍から見るそれは、たしかに恋仲のものだった。真尋の時とは違う感じがする。その差は家族か、恋人かだろう。
愛を実際に形で視認出来る抱擁だ。一方的な愛では成り立たないように、互いが互いを受け入れていた。
幽霊だから体温なんてものがあるか分からないけれど、真琴の体温が青井に伝導していくかのように、徐々に彼の緊張をほぐしていき、気が付けば二人は泣いていた。彼もまた「真琴」と見えない彼女に向かって名前を何度も呼んでいる。それに応えるため、名前を呼ばれる度に彼女は大きな胸の中で頷いていた。そして背中に回した手で上下に何度もさする。彼らは恋人の関係なのかもしれないけれど、少し、母親に慰められる息子の光景にも見えた。
「あなたは、いいの?」
泣いていたせいか、気温が低いせいか。鼻が赤くなった真尋にそう訊かれた。
僕は意識して口角を上げて言う。
「僕は彼女に触れないよ」
「それは、わからない。私が、触れたんだから」
しかし僕は首を振った。
真琴に触れないのは何となく予想がついていた。だって、僕は通行人Aなのだから。見守ることしか許されない立場だから、仕方のないことだ。
青井と真琴は、真尋の時と同じくらいの時間、抱き合っていた。
それから僕を除いた三人は何とかして会話をしていた。真琴と真尋は普通に喋ることが出来るけど、そうでない青井は真尋を通じて真琴と話していた。それを僕は近くで眺めていた。
その会話の中で生前には伝えられなかったこと――失って初めて気が付いた想い――を青井は真琴に伝えた。
その時の二人の顔を僕は目に焼き付けた。
嬉しさが溢れて、それが涙に変わり、でも幸せそうに笑顔でいる顔。
ようやく僕は、僕に課せられた真琴の未練を果たせたようだ。僕が直接、未練を果たしたわけではないけれど、真琴は恋を知ることが出来たのではないか。そう思う。
彼女は、本当は心のどこかで恋というものを知っていたのだろう。でもそれを恋と呼んでいいのか自信がなかったため、僕を頼って、これを恋と呼んでいいのか確かめていたのだ。
そして自信がついて、青井の遅すぎた告白に答えた。
答えは言うまでもなく心からの、イエス、だった。
時刻は午前二時十四分。
あと十六分。
そのタイムリミットは丑三つ時が終わることと、未練をすべて解消した一瀬真琴という幽霊の少女が消えてしまうことを示唆している。
心温まる光景を前にして、僕の心の中では正体不明の不安が募り始めていた。