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なきものねだり  作者: ほしがひかる
7/13

    12


 運が悪い事に、風邪は日曜と月曜の二日間で治ってしまった。熱も咳も、風邪の象徴は消えていた。

 でも洗面台の鏡の前に立って自分の顔を見ると、酷い状態だった。明るい髪に、気味が悪いほど白い肌。その二つだけでも十分だったのに、さらにみにくさに拍車がかかっている。

 出来る事なら、もう一日とは言わず、今年が終わるまで家に閉じこもっていたかった。でも僕は外に出て、真実を確かめなければならなかった。

 そのために学校へ行って、放課後、旧校舎に行く必要があった。


 学校へ行くと、久しぶりの視線をクラスメイトや他学年の生徒から浴びた。実際にその視線は特に意味を持っていなかったかもしれないけれど、過敏に反応してしまう。

 教室に入るとまず目についたのは、やはり青井だった。虚像の自分に縛られた姿があった。彼と視線が交差し、彼が話しかけてくる光景が容易に想像出来た。

 しかし、彼は話しかけてくることなんてなく視線をすぐにそらして近場に居たクラスメイトと話し始める。メッセージに返信しなかったことに怒っている様子ではなさそうだし、少し彼のその様子が気にかかった。けれど僕から話しかける気はさらさらなかったし、むしろ有難かった。

 十四の視線を浴びながら席に着くと、聞き覚えのある声にかけられた。

 声の主は木下だった。

「おはよう、向坂くん。風邪ひいてたんでしょ? 大丈夫なの?」

 心配する表情を浮かべながらそう訊いてきた。

「うん。大丈夫だよ。あ、木下さん良かったら、あとで昨日の分のノート見せてくれるかな」

 彼女は「え」と驚いて声を漏らしたけれど、すぐに微笑んだ。

「いいよ、私のでよければ。でも、あまり、まとまってないかも」

「平気だよ。見せてくれるだけでも有難いから」

「うん、分かった。お昼休みに渡すね」

 僕は頷いて、ありがとう、と言った。

 ホームルームの開始を知らせるチャイムが鳴り、クラスメイトが自分の席に戻って行くのにもかかわらず、木下は僕のところから戻らなかった。

 僕は疑問の視線を彼女に向けると、彼女は周りには聞こえないような小さい声で、口に手をかざして話す。

「向坂くん、一樹と何かあった?」

 え、と僕が声を漏らす番だった。

 木下は噂とかには疎いくせに、意外とこういう所は鋭いらしい。

 僕は努めて平静を装って、

「いや、何もなかったよ」

 と答えた。

 木下はどこか納得のいかないような表情をしていたけれど、担任が教室に入ってきたのを確認して「そっか」とだけ言って自分の席に戻って行った。


 珍しく学校のある日に青井と話をしなかった。

 何度か視線が交差することはあったけれども互いにすぐに逸らしていた。彼は僕をそっと一人にさせてくれていたようであり、僕から遠ざかりたかったようでもあった。

 せっかく出席したというにもかかわらず授業に身が入らなくて、終始青井の告白が頭にへばりついていて、そっちのことにばかり気を取られていた。

 一日の授業がすべて終わり、ついに放課後を迎えた。

 茜色に染まっている教室には僕以外に誰も居なくて、僕だけがその世界に取り残されているような感じがした。

 正直、僕は真実を確かめるのが怖かった。手応えのなかったテストの結果を待つようであったけれど、それとは比較にならないほどの精神的負荷がかかっていた。

 でも僕だけ真実を知らずにはいられない。知っているのは青井と一瀬、おそらく傷だらけの少女。その三人と関わりのある僕だけ取り残されていて、いまだに躊躇していて動かない体を急き立てる焦燥感に駆られていた。 

 そして、重々しい足取りを無理に早く動かして教室を出た。

 外に出ると校舎も、校庭も、山も、すべてが茜色に染められていた。夕日に向かって走ろうというどこかで聞いた台詞が頭を過る。でも僕は夕日に背を向けて、暗い道の先へ進む。その先にあるのは旧校舎だ。

 いつもと変わらない教室の窓際に彼女は居た。窓から外を眺めている姿は、その背中に哀愁が漂っていて、幽霊の彼女が一層美しく見えた。

 彼女は教室に入室した僕に気が付き、振り返った。

 彼女はすぐに笑顔を浮かべたけれど僕の顔を見るやいなや、まるで怪我をして帰宅した子供を心配する親みたいな表情になった。

 今の僕には、彼女のその心配する気持ちさえ、煩わしく感じた。

 案の定、体調が悪いのか、何かあったのか、と一瀬に訊ねられた。

 黒板に歩み寄りチョークを手に取って書く。

〝そんなにひどい顔をしているのかな、僕は〟

 苦笑して一瀬の方へ視線を振り向けた。彼女は一所懸命に頷いている。

〝少し疲れているだけだよ〟

 けれど、彼女は首を振った。

 彼女の返事の仕草に苛立ちを感じて、眉間に皺が寄った。

〝元からみにくかった僕に拍車がかかっただろう?〟

 そう書くと彼女は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になり、ゆっくりと首を傾げた。

彼女が首を傾げるのは大抵、疑問を抱いた時だ。

 しかし彼女が疑問を抱いたことに、僕は疑問を抱く。

〝なにが分からないの?〟

 と。

 すると一瀬は窓際を離れて僕の方へと一歩、また一歩と近づいてくる。後退しようにも僕の後ろには黒板が立ちはだかっていて、それを妨げる。

 気が付けば一瀬は三十センチくらいの至近距離に立っている。彼女の黒髪が一本一本見える。あまり身長が高い方でない僕よりも彼女は低くて、両手にすっぽりと埋まりそうな小顔が僕の目の前にある。視線が僕の頭頂部と目元を行き来する。

 そして彼女は一言、口にする。

「綺麗な髪。それに綺麗な肌」

 一瀬の声が聞こえたような気がした。

 至近距離で明確に口の動きが読めるからか、一瞬、そう錯覚した。それでもやはり彼女の声を聞いたことがないから、すぐに幻聴は頭の中で、氷が溶けてしまうみたいに姿を消していった。

 突然のことに脳の処理がついて行けず、僕は黒板に書くという作業を忘れてしまい、彼女の言ったことの一部を復唱する。

「きれ、い?」

 ふと口にした片言の言葉を一瀬は理解したようで、ニッと歯を見せて笑った。

 綺麗。きれい。キレイ。

その言葉について何度も考えるうちにゲシュタルト崩壊していき、数秒経って僕は思考が固まった。

 笑顔を見せている彼女の目は、まるで美しい景色を見ているような、そんな目をしていた。一体、彼女にはどんな僕の姿が見えているのだろうか。不思議でたまらなかった。

 手からチョークが抜けて床に落ちた音で僕は我に返って一歩分ほど彼女から距離を取った。

 違う。今日僕は一瀬に訊くべきことがあってここに来たんだ。決して普段通りのように彼女と会話するためではない。困惑している自分にそう言い聞かせる。

 床に落ちて二つに折れてしまったチョークを拾い上げて、僕はやっと本題に入る。

〝今日はキミに真実を確かめに来たんだ〟

 彼女は首を傾げる。

 真実? と確認を取るように。

〝キミは僕に嘘をついているだろう?〟

 手早く雑にそう書いて一瀬の表情を窺う。けれど変化はない。まだ僕の指摘している部分に辿り着けていないようだった。

〝キミは恋を知りたい、そう言ったね〟

 彼女は神妙な面持ちで頷く。

〝でも、それは嘘だ。本当は知る必要はなかった。そうだろう?〟

 もっと多くのことを書いてから最後の確認の言葉を書きたかった。しかしまともに会話が出来ない僕らにとっては黒板に綴られる言葉が唯一の頼みであり、繋がりでもあり、そう長々と書くことは難しい。

 なので、短く端的に書いていくしかないのだ。

 いまだに僕の思うところを把握しきれない一瀬を見かねて、僕は遠回しに聞くのを放棄してまた端的に、核心を突く言葉を綴る。


〝青井から聞いたよ。キミと彼は、恋仲だったのだろう?〟


 幽霊の彼女には心臓なんてものは機能していないし備わっていないはずだけれど、彼女の鼓動が一気に跳ね上がるような様子を、僕は見逃さなかった。

 真実を知るのは怖い。

けれどそれは真実を知られてしまう側にとっても平穏なことではない。

 彼女の表情からは動揺というものはあまり感じられないけれど、僕の一挙一動に警戒しているような感が滲み出ていた。

 一度、青井が告白した内容を全て想起する。

『俺と真琴は付き合ってたんだ。いや、付き合わされてたって言う方が正しいのかもしれない。でもその関係は事実だった。幼馴染の中でも一番仲が良かったし、そうなるのは自然だと周りが勝手にそう思っていたんだ。虚像の俺に縛られてる俺は、それにどうすることも出来なかった』

 月並みに言えばそれは、周りに流された。

 でも青井が言ったように、その関係は揺るぎない事実だった。拒否の意があれば、そんな関係に発展するはずもない。

 僕は一瀬と出会って、彼女が恋を知りたいということに対して何の疑いもなく、共に時間を過ごしてきた。それが前提であったし、今まで積み上げてきたものの根幹であった。

 だけどそれが崩壊してしまった。

 正直なところ、今までの一瀬は僕の理想であった。

それは僕の勝手なもので、人魚姫のように代償を払ってまで未練を解消しようとする彼女に興味が惹かれていたし、彼女と過ごした時間は心地よかった。僕のモノクロだった世界を色鮮やかにしてくれた。

だからこそ、その理想までもが崩壊してしまう真実を受け入れられなかった。せめて青井の告白が嘘だったのなら良かったのだけれど、今こうして僕の目の前にいる一瀬の反応から真実だということを肯定せざるを得なかった。

〝キミのプライベートを知ってしまったことは悪いと思っている。でも、どうしてなのかな〟

 どうして、には多くの疑問が含まれている。

 恋を知る必要はなかっただろうに、なぜ僕に恋を教えてくれと頼んだのか。

 その気はなかったのだろう。けれど結果論から、なぜ僕に嘘をついたのか。

 その他にも僕自身把握しきれていないような疑問があるけど一言にまとめて、どうして。

 どの疑問に対する回答が彼女から返ってくるか、僕も分からない。

 しかし彼女が一番に口にしたことは、予想外の返答だった。

 彼女は首を振って、嘘はついてないよ、と。

 おそらくそれは恋を知りたいという彼女の未練に対して、嘘はついていないということだろう。しかしながら青井と一瀬が恋仲だったという事実がそれを否定する。彼女が言っていることは矛盾していて理解出来ない。

〝でもキミは青井と恋仲だったのだろう?〟

 肯定。

〝なら恋を知る必要はなかった〟

 否定。

〝恋を知りたいというのは嘘だ〟

 否定。

 一瀬の真意がつかめなくて疑問が増えるにつれて苛立ちも少しずつ募る。僕を悩ますのはいつだって彼女だ。今日はいつにも増してそれが顕著だ。

 彼女が普通に喋ることが出来たのならばもっと円滑に進むのに、それが不可能だからなおさら苛立ちも募る。

 彼女もまた僕の思うところが分からないようで視線を床に落として戸惑いの表情を浮かべている。

 黒板に書こうとチョークを黒板に当てると、ズボンのポケットでスマートフォンが振動した。静かな教室で不気味にバイブレーションの音が響く。

 着信画面には和子さんの名前が表示されていた。

 一瀬に断りを入れてから電話に出た。

『もしもし? 時人くん、聞いたかしら。お父さんが倒れたこと』

 ああ、そのことか。

 昨日の母親との電話のやり取りがフラッシュバックしてため息が漏れる。

「ええ。聞きましたよ」

『……お見舞いに行ってあげないの?』

「父さんの方から顔を見せるな、と言われているので」

 事情を知っている和子さんは、会えと執拗に言わなかった。

「すみません、今、立て込んでいるのでその事についてはまた後で連絡します」

『あ、まっ――』

 その先を遮るようにして、僕は通話を終了させた。スマートフォンの電源をオフにしてポケットにしまう。そして再び一瀬と向かい合った。

 話を逸らすというわけではなさそうだけれど、一瀬は電話について訊ねてきた。僕も一旦頭の中を整理させたくて手短に答える。

〝父親が倒れて入院してるっていう一報の電話だよ〟

 話を戻そうと僕は意識を切り替えた。

 一方の彼女はそうしなかった。

 彼女も母親や和子さんと同様に、他人事なのに泣きそうな表情を浮かべて、会いに行かないのかと訊いてきた。

「行くわけないよ」

 もうその一件に関しては考えるのも億劫で、僕はそう呟いて首を振った。

 視線を彼女から窓の外へと向けるともう外は月明かりだけの世界になっていた。教室もまたその明かりだけが窓から差し込んでいるだけだった。少し焦燥感に駆られて話を戻そうとするけれど、彼女はまだ父親の件を引っ張る。

 会いに行った方がいいよ。死んでしまったらもう二度と会えないんだよ。と。

そう彼女が口にしているのは読み取れる。

けれど、口を一所懸命に動かしても声が聞こえないからか、僕が無視しようとしているからか。彼女のその思いは僕をすり抜ける。

死ぬようなことじゃないよ、と僕は捨てがちに思うけど、幽霊である彼女が死んだ人間には二度と会えないと言うのは酷く現実性があって、しかしこうして幽霊の彼女と僕は対面しているわけで。だからそれが嘘っぽくも聞こえた。

今までになかった執拗さと真剣さで彼女は僕に、父親に会うよう言い聞かせてくる。

そのことはどうでもいいだろう。今はそれよりもキミの未練の本懐の方が僕にとっては重要なことなのに。まるでキミはその話から逃れたいみたいじゃないか。

誰もが会え、会うべきだと、口うるさい教師のように言ってくる。客観的にはそうした方が良いと皆言うけれど、それは僕が決めるべき判断だ。他の誰も関係ない。それは一瀬にしても同じだ。

心の中で数ある何かが複雑に絡み合って、行き場をなくして、白熱していく。

そして。

思案の外だった。

無意識だった。

気が付けば僕は握っていたチョークを手の中で握りしめていて、言葉へと変化した感情が口から漏れ出ていた。

長々と喋っていたように思えたし、一瞬のようにも思えた。

漏れ出る感情に任せていたから自分で何を言っているのか分からなくなって、頭の中は色が抜けたみたいに白くなっていく。

何を喋っていたのか思い出せないけれど、思い出したくもなかった。

彼女を罵倒することは言っていないと思うけれど、たしかに彼女を傷つけてしまうことを言っていた。

一瀬の頬を涙が伝っていたから。静かに泣いている彼女は、彼女自身も気付いていないような、自然な表情のまま涙を流していた。

床に落ちた涙の滴が純度の高いアルコールのように一瞬で消える様子を、僕はただ見つめることしか出来なかった。

それでも彼女に言うべき言葉を探し出す。

一度、瞬きをして床から視線を上げる。

しかし。

さっきまでが嘘のように、一瀬の姿が消えていた。

あまりにも一瞬のことで僕は混乱して教室を見回すけれど彼女の姿はどこにもなくて、僕は一人空しく教室に佇んでいた。

閑静な教室で、僕が最後に口にしてしまった言葉が何度も耳に響く。

『幽霊のくせに』

それが彼女に直接聞こえているはずはなかった。でも、結果は火を見るよりも明らかで。

言い訳するように僕は呟く。

「だから、口にする言葉は嫌いなんだ」

 文字にして書く言葉はまだ消せば取り返しがつくかもしれないけれど、口にした言葉は消せない。ずっと耳に残ってしまう。

 僕はどうしようもなくて、チョークをさらに握りしめるしかなかった。

 特別なにかを欲していたわけではない。なのに、僕は色んなものを失ってしまった。代わりに得たものは胸のあたりに感じる虚空とナイフで刺されるような深い痛みだけ。感じたことのない激痛に戸惑うことしか出来なくて、やるせない気持ちに蝕まれていく。

 世の中の不条理さを知って大人に近づいた気でいても、僕はまだ感情で左右してしまう子供だと痛感させられた。


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