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青井一樹の印象が変わった。
木下と廊下で話した日。その日まで彼には何かあると踏んでいた点があった。
一つは、生前の一瀬との関係。
一つは、旧校舎の噂に関して。
前者については、僕の中である程度の踏ん切りがついたというか、疑念が払拭した。ただの幼馴染で、名前を出しただけで双方が目に見えて動揺するだろうかと思っていたけれど、共に過ごした時間が長いのならば、それは不自然な事ではないだろう。
そう、僕は理論づけた。
幼馴染が亡くなって周りが心配するほど彼は影響を受けていたのは事実で。彼は僕が思っている以上に笑顔以外の表情も感情も有する、脆い普通の人なのだ。あっけらかんとしていて「いつまでも泣いてると死んだ奴も泣いちまうぜ」とか言いそうな印象だったけれど、それは僕の思い違いであったようだ。
後者についても、実は僕の中である予想をしていた。
その予想が正しいかどうかを確かめるため、僕は青井が週末に泊まりにくるのを改めて承諾した。
迎えた週末の土曜日。
月曜日から十二月に突入して本格的な冬を迎える予兆か。この日は特に冷え込んでいた。外に出るのが億劫になるほどの気温だ。
そんな寒さがより増す夕方にもかかわらず、青井は自慢のバイクで軽やかなエンジン音と共に来た。前はラフな格好だったが、今日はさすがに防寒用ウェアを着ていた。この気温の中を防寒着無しで走ったら、青井は日々鍛えていると言えども、凍えてしまうだろう。
泊まりだからか、彼の背にはやたらと大きいリュックサックがある。まるでこれから登山に向かう準備みたいに。
フルフェイスのヘルメットをバイクのハンドルにぶら下げ、重そうなリュックサックを背負い直して彼は玄関に踏み込んだ。
血縁でもない青井が家に入った瞬間は不思議な感じがした。学校のある平日でもないのにこうして夕方にクラスメイトが家にいるというのは僕にとって初めての経験だから。
常識として、心では思っていないけれど、僕は一応言う。
「いらっしゃい」
「おお、お邪魔しまーす!」
この寒さの中でも彼はいつもと変わらず暑苦しいくらいに元気だ。
「その荷物、なに?」
最初に、彼の背にある大きいリュックサックを指摘する。
「これ? 着替えとかだよ」
「……何泊する気なの、キミは」
「違う違う! 着替えの他にも色々と持ってきたんだよ!」
「何を持ってきたの?」
「まあ、それは後のお楽しみってことで」
そう言うと彼は出来ているか怪しいウインクをした。それを僕は軽く流して、とりあえず寒さから逃れるため、暖房の効いた居間へ入るように促した。
「あー、あったけー」
荷物を部屋の片隅に置くやいなや、彼は滑り込むようにコタツへと下半身を入れる。
「手、洗ってきてよ」
「ちょっと待って。少し温まってからにさせて。寒くて死んじゃいそう」
「防寒着も脱いで」
「まだ寒いよー。俺、これ脱いだら凍死しちゃうよ?」
「暖房効いてるからそんなはずないでしょ。郷に入っては郷に従え、だよ」
青井は渋々とコタツから立ち上がり、洗面台へと向かっていった。彼が手を洗っている間に気になっていたリュックサックの中身を確認しようかと魔が差したけれど、僕は伸ばしかけた手を戻す。
男の替えの下着を見たときほど、鬱になる瞬間はない。
ほどなくして、青井は戻ってきた。
寒い。死ぬ。この言葉を繰り返しては手をこすり合わせていた。
「とっきー。俺の家、二世帯住宅なんだよ」
と彼は脈絡のない事を言う。
「と言うと?」
「今、何時?」
「六時だね。さっき、フォスターの草競馬が流れていたし」
「つまり、じいちゃんばあちゃんが居る俺ん家では、もう晩御飯です」
「つまり、キミは晩御飯を催促しているわけだ」
青井は寒さとは別に辛そうな顔をして頷く。
僕は分かりやすくため息をつく。でも僕も普段は青井とそう大差ない時間に夕食を賄う。僕の空腹事情も問題なさそうだ。
「……パスタ作るよ」
彼に有無を言わさず、僕は台所へと向かい、支度にかかった。
先にパスタソースを仕上げて、沸騰した湯に乾燥パスタに入れる。ぐつぐつと沸騰する鍋の様を見ながら、なんだかその様子がおかしく思えてきた。
沸騰している様子が、私だけのけ者で美味しいものを食べてる、と一瀬の怒る姿を彷彿させるから。
今、僕は鼻で笑ったことを自覚した。
心の中で「ごめんよ」と僕はこの場に居ない彼女に謝ってパスタの仕上げにとりかかった。
出来上がった品をコタツの上で項垂れている青井に提供すると、まだフォークを用意していないにもかかわらず彼は食べようとしていた。せめてフォークを用意するまで待とうよ、と彼を制止させるのが大変だった。
お預けされた犬みたいな彼にフォークを与え、
「ボナペティ」
と僕は言う。
「ぼ、ぼな……?」
「イタリア語で、召し上がれっていう意味だよ」
言葉を理解した瞬間、青井はパッと表情が明るくなり本当に犬のようにがつがつと食べ始めた。
「めちゃ美味い!」
「そう」
僕の返事は素っ気ないけれど、自分の作った料理を誰かに美味しいと褒められるのは悪くない気分だった。
早食い選手権に出たら一等賞をとれるようなスピードで彼は食べ終えた。まだ僕は自分のパスタを二口しか食べていないというのに。
「足りた?」
「うーん。ちょっと足りないかな」
そう言う彼の表情は、ちょっとではなさそうだった。
「もう一回作るのは正直、面倒だよ」
「いや、いいよ。大丈夫!」
彼はおもむろに立ち上がって、食べ終えた食器をシンクに入れ水にさらす。何をする気なのか気になっていた僕は彼を視線で追っていた。
すると、いつの間にか暖房の効いた居間から存在感のあったリュックサックが消えていたことに気が付いた。僕がリュックサックの所在を尋ねようとしたが、その必要はなくなった。
青井が廊下へと出て、目的の物を持ってきたからだ。
よく耳を澄ますと、そのリュックサックから軽い金属同士がぶつかるような音が響いていた。コタツの横に置いて、彼がチャックを開ける。
中から出てきたのは男物の下着ではなく、スーパーの袋に入れられた大量の缶の酒だった。それに続いて出てきたのは、袋に大々的に『おつまみ』と書かれた品や菓子類だった。
あまり状況を把握出来ていない僕は口にパスタを運ぶ手が止まっていて、思わず尋ねる。
「なに、それ」
「んー。酒」
いや、それは知っている。
「そうじゃなくて、なんで高校生のキミが酒を持ってるのかなって話」
「家からパクってきた。せっかくの泊まりだし、こういうのがあった方が面白いかなってさ。だから廊下で冷やしといた」
あはは、と彼は笑った。
酒を持ってきたということにも驚いていたが、それよりも驚いていた点は、彼が、という点だ。
「……キミはそういうことをしない人種だと思っていたけれど」
「まあまあ。大学に行ったらサークルとかでもどうせ飲まされるんだしさ! 訓練だと思って!」
止まっていた手を再び動かして、僕は少し早く食べ進めて食器を空にする。その間も彼は、少し気分がよさそうに見えた。まだアルコールを口にしていないのに。
洗い物を足早に片づけて、居間へと戻る。
「とっきーは、飲むの初めて?」
缶を両手に持つ青井がそう言った時点で、彼が何度か飲酒を経験したことがあるということが窺えた。
「今まで一度も飲んでみたいと思ったことがなかったからね。ちなみに今も飲みたいとは思ってないけど」
「まあまあ」レモンかグレープフルーツの缶を差し出して、「どっちか選んで」と笑顔の彼に促される。
まだこの時点なら断れる。口に付けたが最後。
けれど。
「……レモン」
「はいよっ!」
僕は断らなかった。断ったら空気が悪くなりそうだな、という理由などではなく。少し躊躇したけれど、この後のことを考えると飲んでみた方が良いだろうと僕は推測して、自らの意思で断らずに彼の非行の誘いを受け入れた。
缶ジュースとは若干感触の異なるステイオンタブを手前に引いて、炭酸が少し抜ける良い音がする。
「それじゃ、カンパーイ!」
青井の音頭には反応せず、お互いの缶を軽く当てて、口に運ぶ。
初めての酒は度数が低い缶酎ハイだからか、清涼飲料水のような味がした。でも飲み込むと清涼飲料水にはないツンとしたアルコールと思われる匂いが鼻を突き抜けた。そして飲み込んだ酒が食道を通って胃に到達する感覚があった。液体が通った道は、冷たさと同時に熱を帯びた気がした。
これが酒なのか。
非行による罪悪感や背徳感よりも、大人の階段を一段登ったという感じの方が大きかった。実際にはそんなことはないだろうけれど。
少しずつ口に含んでは味わって飲み込む。それを繰り返す僕。一方で青井は、ドラマとかで見かける、社会に疲れてしまった大人のような豪快な飲み方をしている。喉越しする際のゴクッという音が僕の耳にまで届いていた。
「キミ、本当に僕と同い年?」
「精神年齢は二十歳過ぎてるかも」
それはないだろ、と心の中でツッコミを入れた。
しばらくは特にこれと言って体に変化はなかったけれど、青井が酒と一緒に持ってきたおつまみを食べ進めていると次第に顔が火照るのを感じられた。それに少し頭の回転が鈍るような感じもする。酔うというのは、たぶんこの感覚を言うのだろう。
そんな僕を見かねた青井が訊いてくる。
「顔赤いけど、大丈夫?」
「勧めてきた本人が何言ってるの。でも、大丈夫だよ。むしろちょっと心地いいくらい」
「とっきーは弱いんだね」
「そのようだね」
僕は自分の酒に対する耐性を知れたので良かった。
将来は進んで酒を飲まないようにしよう。
さっきは深く聞かずに流したけれど気にかかっていたので、テイストの違う二杯目の缶を開けて彼に訊く。
「キミはやっぱり大学に行くの?」
「そうだよ。誰かから聞いてたん?」
「木下さんから。キミが大学に行きそう、と言っていたよ」
「うん。進路相談でも、今のところ、先生とその流れで話進めてるし。夢の一人暮らしもしてみたいしね」
「そっか」
何も決めていない僕にとっては――自分で訊いといてなんだけど――耳が痛くなる話だった。
彼が羨ましくと思える。
「木下は他に何か言ってた?」
僕は働きの鈍っている頭を努めて動かす。
「そういえば、木下さんとキミの印象について話していたよ」おつまみのナッツを一つつまんで「キミは僕が転校してくる前と印象が違うようで、少し驚いた」と言った。
「印象、ね」
さっきはまで楽しそうに笑顔を浮かべていた青井は急に冷めたような表情になった。僕がさっきつまんだのと同じナッツを一つ口に放り込んで続ける。
「とっきーから見てさ、俺ってどんな印象なの?」
木下と話した時の会話を思い出して、そのまま伝える。
「初見は好青年だったけど、本当は子供がそのまま成長したような。そんな印象」
彼は笑って、
「そっか、そっか」
とだけ言った。
「だから改めて言うけれど、僕的にはキミがこういうことをするような人だとは思っていなかったよ」
人差し指で彼の前に置いてあるいくつかの空いた缶を指す。
だから彼がリュックサックから酒を取り出した時には本当に意外だった。前の学校に居た『不穏分子』たちならまだ分かるけれど。
彼は僕の倍以上の量の酒を飲んでいるのに、また新しい缶へと手を伸ばして開封する。
「でもそれってさ、とっきーの印象でしょ? 外側から見ただけで中身まで分かるはずないじゃん」
青井が強めの口調で話しているのが、アルコールのまわっている僕でも分かった。
「とっきーだって周りの人に勝手に初見の印象っていうか、外見だけで今まで決めつけられてきたりしたわけでしょ。それと同じ」
「そうだね。言っていることは分かるよ」
「印象はあくまでも印象なんだよ。中身までが印象通りというわけじゃない。なのに第一印象で人の中身まで決めつけるのはおかしいと思う」
彼は少し憤っているようだった。何に対して憤っているのかまでは分からないけれど。
「つまり、キミは何が言いたいのかな」
素直にそう訊くと、青井は手に持っていた缶を少し勢いよく机の上に置いた。カンッと軽い音がして、彼はいつの間にかまた一缶飲み干していた。
「……勝手に決めつけた印象で人の行動まで縛らないでほしいんだよ」
彼は項垂れて言った。
もっともな話だ。僕もそう思う。
その人の中身をまるで知らない人間が知った顔でその人の性格や環境を語る。それは人伝に伝播していき多くの人がそれを信じ込み。結果、その人はその虚像の自分通りに行動しなければならない環境になってしまう。その虚像に従わなければマイナスな印象がまた伝播して広がっていってしまう。よく聞く話だ。
虚像に縛られている、と彼は言いたいのだろう。
でも僕は意見を述べる。
「たしかにそうかもしれない。けれどあくまで周りに印象を与えているのは自分だよ。今までの自分の行動の結果でしかない。だから自分が与えてしまった印象に縛られているっていうのなら、それは甘んじて受け入れるべきだよ」
今まで外見の印象だけで見放されてきた人より。
青井は僕の意見に言葉を詰まらせたようで、黙り込んでしまった。少し不快な沈黙が生じてしまったので僕から口を開く。
「けれど、僕は印象通りにキミを縛ったりはしないよ。あくまでキミはキミなのだから」
僕がそう言うと、彼は頭を掻く。
「いや……俺が縛られる分には、別にいいんだ」
少し意外な返答だった。
「と言うと?」
「俺だけでなく、周りにいる人も縛るのはやめてほしかったんだよ」
珍しく消えてしまいそうな声で彼はそう言う。
「なるほど。周囲の身近な人には関係ないってことだね」
「そう。だから」
彼はその先を言いかけて「なんでもない」と続けるのをやめた。
その先が気になったけれど、彼が言う気がないのなら深追いするのはよくないだろう。
この話の流れを利用して、僕はあることについて彼に訊くことにした。
あの予想を。
アルコールがまわっている今の状態なら、そのことをするりと訊けそうだ。この事を訊くためだけに酒を飲んだのだから。
「キミの印象はさっき言った通りだけど、実はもう一つあるんだ」
一呼吸置いて続ける。
「キミは嘘をつくのが下手だっていう印象が」
追加された、覚えのないであろう、自分の印象に青井は不思議そうに僕の方を見る。彼の顔は少し赤くなっていた。
缶に残った少量の酒を一気に飲み干して、僕は言う。
「旧校舎の噂。あれって、実はキミが作った噂だろう?」
瞬間、空気が緊張する。
僅かに跳ねた肩。
見開いた目。
力の入った手に押し潰されかけている空き缶。
青井の反応が、質問に対する答えを物語っていた。
僕の予想は、やはり正しかった。
「いや、正直なことを言うとそれしか分かっていないんだ。キミが何のために旧校舎の噂を作り出したのか、目的とか理由は知らない。でもキミが僕に教えてくれたその噂は、クラスメイトに訊ねても、この町にずっと住んでいる僕の大叔母に訊ねても、知らないとしか答えが返ってこなかった。僕に教えてくれた時、たしかキミは結構前から周知の噂だと言っていたはずなのに」
どういうことなのかな、と最後に付け加えた。
噂を生み出した親である彼にそう訊ねる。
何度目になるか。青井が笑顔以外の表情を見せるのは。でも彼の話を事前に聞いたから彼の笑顔の下に隠してある表情は、僕のような色々なことに疲れてしまった表情が本当の彼だということが、今なら分かる。
青井は答えることに躊躇していると言うよりも、まず何から話そうかと頭の中を行きかう情報を整理しているように見える。その間は暖房が立てる低い音と一定の間隔でカチコチと秒針を進める時計の音だけが部屋に響いていた。
秒針が一周半回った。やがて彼は変形してしまった缶から手を放し、姿勢は崩したままで視線だけを僕の方へ真っ直ぐと向ける。
相手が一瀬ではないというのに、つい癖で彼の口元を注視してしまう。
そしてその口から最初の言葉が発される。
「怖がるんじゃないかな、と思って」
怖がる、と僕は復唱する。
「都会とは違うこんな田舎。ましてやボロボロの旧校舎。そこに怖がる要素を付け足したら、怖がって旧校舎に近づかなくなるんじゃないかなって」
「近づかなくなるって、それは僕のことを言ってるの?」
青井は目を閉じて深く頷いた。
「どういうことなのかな? ちょっと話の筋が見えなくて困っているんだけど」
「……最初の最初から話すと、長くなるんだけどいい?」
もちろん、と僕は頷く。
彼は一度、深呼吸をした。
「……今年の六月、一瀬真琴っていう女の子が死んだんだ。旧校舎の二階からだったけれど、打ち所が悪くて転落死。クラスメイト全員が幼馴染みたいなものだから当然みんなが真琴の突然の訃報に打ちひしがれて、悲しんだ」
一瀬の名前が出てきたときに思わず心の中では反応したけれど、なぜ彼女の名前が、とは思わなかった。彼の口からその名前が出てくることは、とても自然なように思えた。
「俺も最初は意味が分からなかった。なんで真琴が、ってね。でも真琴の葬儀に出席した時、棺桶に入ってる状態を見て彼女は本当に死んでしまったんだ、もう会話することさえできないっていう現実に泣いたよ。やっとそこで泣けた。しばらくはバスケの練習どころか、飯さえまともに食えない状態が続いてたよ」
それを聞いて木下が言っていたことを思い出した。
僕が転校してきて彼の印象が戻った、という話を。
なぜ僕が転校してきて彼は戻ったのか、その理由はまだ分からない。
「せめてもの手向けにと思って、真琴の月命日に、あいつが好きだった野反湖の写真を旧校舎に置いていったんだ、七月、八月とね。真琴の家族はみんな登山とか観光が好きらしくて、よく野反湖に行ってたんだ。俺も真琴や友達と一緒に野反湖に行ってさ、写真をその時に撮ってたんだよ。その時の写真を、供えてた」
「その写真が、三つの噂の一つの話?」
「ああ。噂にはリアリティがないとな」
なるほど。
都市伝説も似たようなものだ。
僕はその写真を目撃していなかったから本当に実在するのかと疑っていたけれど、青井は見たことがあると言っていたことにようやく合点がいった。
僕は話を続けるよう、彼に促す。
「それで、八月の月命日の日だった。俺が旧校舎に写真を供えて帰ろうとしたら、誰かに頭を撫でられたような感覚がしたんだよ。振り返っても誰も居なかったんだけど、でもなんだか温かみのあったような気がして。その時に、もしかしたら真琴はここに居るんじゃないかなって思ったんだ。不思議な話だろう?」
彼の最後の問いかけに、僕は反応しなかった。いや、出来なかった。
頭を撫でられた?
青井の頭を撫でたのは、九分九厘、一瀬で間違いないだろう。
でも、それはつまり、幽霊の彼女に触れることが出来た、と解釈しても差し支えない。
それはおかしな話だ。
僕が一瀬と出会ったとき、彼女は僕の頬に触れようとして、手が僕の頬をすり抜けていくのをこの目で見たし、肌に触れた感触もなかった。驚きと空しさだけがあったのを今でも鮮明に覚えている。
話を突っ込みたかったけれど、そうすると彼の真実の告白が滞ってしまうから、その話は後回しにした。
「……それが噂の幽霊のもとの話かな」
「そう。まだここに真琴がいるんだって思った日から俺は毎日旧校舎に行ったんだ。夏休み中だったしいくらでも時間はあった。そして旧校舎に足を運ぶ度に、俺の頭を撫でたり、肩を叩いたり、頬に触れたり、背中に手を当てたりする感覚があった。やっぱりここには真琴がいるって確信し始めた八月の終わりごろ、とある転校生が来た」
彼はそう言う。
彼の表情も姿勢も変わらないけれど、彼が言っている転校生はまぎれもなく僕のことだ。
「その転校生は不思議なことに旧校舎に行くんだ。毎日ね。見かけない顔だったし、使われなくなった旧校舎で鉢合わせるのはなんだかお互いに変に怪しんじゃうんじゃないかと思って、俺は旧校舎に早く行きたい気持ちで溢れてたのに我慢して、俺は旧校舎に行く時間帯をずらした。その転校生が帰るまで体育館でバスケの自主練習で何時間も潰して、帰ったのを見計らってすぐに旧校舎に行ったよ。汗臭い体のままで」
初めて知る事情に申し訳ない気持ちが芽生え、僕は何も言わずにいる。
「そして二学期になって、その転校生は正式にクラスの一員になったわけだけど、どうも周りを敬遠しがちで。誰とも話さなくなった時を見計らって俺は話しかけたんだ。すると意外と波長が合うっていうか、猫を被ってる俺じゃなくて本当の俺と気が合いそうな感じがして話しかけ続けたんだ。俺的には嬉しかったんだ、虚像の俺に縛られないで話せる人がやっと出来るんじゃないかって。でもなかなかその転校生は気を許してくれなくって」
それはそうだ。
まだあの頃の僕は本当の青井の姿と事情を知らなかったのだから。
「だから思い切って誘ってみたんだ。遊びに行かないかってね。結果的には強引な形になっちゃったけど、野反湖に行ったり、少し踏み込んだ話をしたり、旧校舎の噂を教えたり。その成果もあってか、少し俺に気を許してくれたっぽくて、話したりする回数も増えたんだ。でもその転校生は相変わらず旧校舎に出入りしてる。俺の計画では噂に怖がって近づかなくなるんじゃないのかなって思ってたんだけどね」
それで現在に至るってわけ。
青井は最後にそう付け加えて、話を締めくくった。
話を聞いていて彼に訊きたいことが数点あったけれど、まず僕は彼の告白した話に欠落している部分を指摘する。
「キミが旧校舎の噂を作り出した真相は大方分かったよ。でも、噂であと一つ残っているものがあるじゃないか」
傷だらけの少女。
「キミが噂を作り出した時点で、傷だらけの少女に関して知っていたわけだ。噂にはリアリティが必要なんだろう? 彼女は一体、何者なのかな」
刹那。
彼が険しい表情になったのを僕は見逃さなかった。
しかし、傷だらけの少女の正体や素性を知っているであろう彼は、なかなか話そうとせずにいる。傷だらけの少女の正体を明かすことに渋っているわけではなさそうだけれど、なかなか話そうとしないのには別の感情や理由が阻害していそうな気がする。
「傷だらけの少女には、何か正体を明らかに出来ない理由でもあるのかな」
「いや、そうじゃない」
彼はすぐに否定した。
「それはキミ自身の問題?」
「そういうわけでもない」
また否定した。
けれど、と彼は続ける。
「なるべくなら、あいつの話はしたくないんだ」
あいつ、とは傷だらけの少女のことだろうか。
僕がその確認を取るために彼に訊くと、彼はゆっくりと頷いた。
「筋違いかもしれないし、俺の行き場をなくした感情をただあいつにぶつけているだけかもしれない。でも、俺はあいつを赦せないんだ」
「赦せない? 何を?」
青井は緊張している面持ちで、ゆっくりと、はっきりと言う。
「あいつが、真琴を殺したんだ」
日常ではまず聞かない言葉に、僕は困惑した。
でもその言葉がまるで片方の糸を持っているかのように、僕のある記憶の糸とその糸が結んだ。
傷だらけの少女と遭遇した日。
僕が何者かを尋ねると彼女は「幽霊で、殺人犯」と答えたのだ。
その時は現実的でない言葉に、比喩で答えているのだろうか、と思ったけれど、青井の話を聞いているとどうやら比喩ではなさそうな気がしてきた。
でも。
「一瀬さんは、転落死したはずじゃなかったのかな」
僕はそう彼に訊いたけれど、すぐに自分の中で否定の答えが浮かぶ。
青井は一度も、事故で死んだ、とは言っていない。
彼の返答を待たずに僕は続ける。
「殺した、ということはどういう意味なのかな。それは比喩? それともそのままの意味?」
「……両方、かな」
曖昧な答えだった。
傷だらけの少女のことをこれ以上掘り下げても話がまとまらないような気がして、僕は代わりの質問を見つける。
「仮に傷だらけの少女が一瀬さんを殺したのだとしたら、キミはなんで赦せないのかな。もちろん、一瀬さんとキミが幼馴染であるということを踏まえてこの質問をしているよ。けれどキミはさっき、筋違いかもしれないし、行き場をなくした感情をただぶつけているだけかもしれない、と言った。だとしたら、そこにある感情は、何なのかな?」
この質問を最後にするつもりだった。僕が青井に質問する度に、彼は苦悶の表情を浮かべるのだ。実際に彼は一瀬が死んだときに深く傷ついている。これ以上彼の傷を抉るようなことはしたくなかった。
せめてあと一つのピースだけでいい。それだけでも一瀬についても、傷だらけの少女のことについても知ることが出来たのならば、僕の中で次第に完成形を見せつつあるパズルの全貌が見られる気がする。
だから、静まり返った居間で、僕は青井の返答を待っていた。
そしてやっと、彼が口を開いた。
「
」
青井の告白によって、僕の中でパズルのピースがすべて埋まっていく感覚がした。
でも、僕はそれを認めたくなかった。
パズルが完成してしまうのを。
そのパズルは僕の完成予想図とは、まったく違っていた。
それに、彼の告白も認めたくなかった。
それを認めてしまったら、今まで僕が積み上げてきたものを一瞬で崩壊してしまう。
彼の告白を聞いている時は、彼の言葉を理解することが出来なかった――理解しようとしなかったのかもしれない――から、すべて真っ白の言葉に聞こえた。
けれども、僕の意思とは関係なく頭の中を彼の告白がリフレインする。
「……え?」
たった一文字の言葉が口から漏れ出た。
「だから事前に、俺の印象の話をしたんだ。そして、周りの人を巻き込むのはやめてほしかったって」
アルコールのせいではない、別の要因で頭が回らなくなっている僕は、なんとか青井の言葉を理解しようとする。むしろ彼の告白によって酔いなんてものは僕の体から消えてしまっていた。
青井は話し続ける。
「周りの人に勝手にそう思われて、そういうことになっていたんだ」
僕は、何も言わない。
「そこに特別な感情はなかったんだ、最初は」
僕は、何も言えない。
「でも、俺は失って気が付いたんだ。この感情は――」
「もういいよ!」
青井のその先の言葉を聞きたくなくて、その先の言葉を遮るように、反射的にそう叫んだ。
その先の言葉を聞いてしまったら、本当に僕は崩壊してしまいそうだった。
僕自身初めての言動に戸惑っていたし、彼も初めて見る僕の姿に窮しているようだった。
自然と僕は立ち上がっていた。
とにかく、今のこの状況に変化を求めたくて時計を一瞥して、
「……もうこんな時間だ。風呂に入って、温まったら、もう寝よう」
と切実に、そう言った。
まだ時計の短針は九の数字を差しているのに。
青井は僕から視線を動かさず、
「……ああ、そうだね」
と言った。
僕の中で渦巻く思案を彼は知らないし、理解しようとはしていなさそうだった。
けれど彼は疑問の言葉は口にせず、僕の突飛な意見に同意した。
青井が言うように、やはり彼と僕は気が合うのかもしれない。
彼は風呂に向かう時に僕に背を向けて、これだけは言わせてくれ、と言った。
「俺があいつを赦せないのは、そういうことがあったから、なおさらだよ」
僕からの返事を待たずして、彼は着替えを持って居間から出て行った。
先に青井が風呂に入っている間、僕は居間に散らかったゴミや空き缶を片付け、掃除機をかける。今はとにかく気を紛らわせたかった。なるべくなら、一瀬のことを一切考えたくなかった。意味もなくシンクを磨いたり、包丁を研いだり。そういう意味もない事をして、何も考えずにいようと、僕は必死だった。
青井が風呂から出てきて寝巻に着替えている間に、僕はさっさと空いた風呂場に駆け込む。けれど、彼に伝え忘れていた寝室の場所を伝えるために僕は一度彼の居る居間に戻り、その旨を伝える。
すると「居間で寝るからいいよ」と言う。
さすがに布団がなくては寝れないだろうと思って「寝室の襖を開けて布団を持ってきなよ」と伝えると、彼は「分かった」とすぐに頷いた。
風呂場に戻り、軽くシャワーで体を流し、すぐに湯船に入った。
一瞬、体が温まっていく心地よさに目を閉じて思考が湯船に溶けていったけれど、目を開けるとすぐに思考が動き出してしまう。もう一度目を閉じるけれど、最初の湯船に浸かった時の快感無くして思考が止まることなく、さらに思考が頭の中を巡る、巡る、巡る。
どうしようもなくて、目を開けて天井の一点を見つめることにした。
白い。
目の前にある単純な事実とは裏腹に、僕の中で様々な思考や感情が複雑に絡み合って蠢く。
その中でも顕著に突出している感情があった。
憤りに近い、それだ。
それを憤りと呼べないのは、理由が筋違いかもしれないから。ただ、行き場をなくした感情が複雑に絡み合って、その複合物がそれに近いものだったから。
だから完全に憤りとは言えない代物だ。
でもこれを憤りと認めていいのならば、僕はなぜ憤りを感じているのだろう。理由が筋違いだとしても、本来ならば、僕の関知するところではないのに。
青井はもう眠りについただろうか。
正直言うと、今日はもう青井とも顔を合わせたくなかった。
寝室ではなく、このまま、風呂で寝たくなる気分だった。
11
週が明けて月曜日。時計の短針は午前の十一時を差していた。
僕は居間でコタツに温まりながら、一時間前に届いたメッセージを読み返す。
『風邪、大丈夫?』
送り主は青井からだった。和子さんからも同様の内容のメッセージが届いていて、和子さんの方には『大丈夫です』と返信をしてあるが、青井の方にはしていなかった。
メッセージにある通り、僕は運よく風邪をひいた。熱もあるし、咳も少し。
青井が泊まりに来た土曜。僕は気が付けば二時間ほど本当に風呂で寝てしまっていて、湯もすっかりぬるくなり、そしてこの有り様である。
青井と顔を合わせたくないのは今も引き続いていて、出来れば学校にも行きたくなかったので、有難い限りだった。風邪に万歳。
熱があるけれど、しかし思考は止まることなく、脳は働き続けている。せめてもっと高熱になれば思考すら止まるのだろうに。
居間を見渡すと、おそらく青井が寝室から持ってきた人魚姫の絵本がコタツを挟んで向かい側に置かれていた。
もそもそとコタツから抜け出してその絵本を拾い上げ、元の定位置に戻る。
何度も読んだが、改めて最初から読み返していく。
人魚姫が人間の王子に恋をして、純粋な強欲に文字通り身を削るも、恋は実らずに終わる。
相変わらず悲しい物語だ。だけど前は素直に読めたのに、今は何もかも疑心暗鬼になってしまっていて素直に読み進めることが出来なかった。
人魚姫は人間になるための口実に王子に恋をしたのではないか、とか。
でも物語はそんな僕の疑心をよそに純粋な恋と愛の物語で、疑心を一蹴する。
静かに絵本を閉じて、コタツの上に置いた。
置くと同時に、スマートフォンが長いバイブレーションを起こす。電話を知らせるアクションだ。画面には和子さんから、と思いきや、久しく声を聞いていない母親からだった。
母親から電話が掛かって来た時点で、穏やかな話の内容ではない予感がしていた。
『もしもし。お母さんです』
電話を介しているからか、久しぶりに聞く声だからか。僕の知っていた母親の声とは若干の差異があった。
「なに?」
用件だけを言って。その願いを込めて、短くそう言った。
『……今朝、お父さんが倒れたの。過換気症候群? っていう病気で。症状がちょっと重くて入院することになったの』
「……そう」
話の内容は、予想外ではあった。けれど狼狽えることはなかった。
「で、だから、なに。まさか顔を見せろ、とか言わないよね? 父さんの方から顔を見せるなって言っていたくせに」
『………』
自分で言っておきながら、産みの親に対して随分な言い草だな、と思う。
「しかも、過換気症候群ってことは、過呼吸みたいなものでしょ? 死ぬことないんだし、大丈夫でしょ」
『そうなんだけど……その、ストレスによって引き起こされるものらしいの。もちろん、時人が会うことでどうなるかなんて、お母さんには分からないけれど、でも、ずっと会ってないじゃない。だから、お父さんに顔を見せて、少しでもいいから安心させてあげて?』
僕は思わず、笑ってしまった。
「僕が父さんに会う? そしたら逆にストレスが溜まってまた倒れるんじゃないの? そもそも父さんが会いたい、なんて一言も言ってないでしょ。群馬から東京は近いとはいえ、わざわざ、命に別状なくて過呼吸で倒れた父さんに会いに行くためだけに高い電車代払うの? しかも本人が会いたいとは言ってないのに? 言っちゃなんだけど、無意味。馬鹿げているよ」
なぜ、こんなにもすらすらと毒を放出出来るのだろう。
以前だったら無関心無意味でも、はい、分かった、の二つ返事で向かっただろうに。
毒を吐き切って黙っていると、電話の向こう側から、小さく鼻をすする音や軽く嗚咽している音が聞えてきた。泣いているのか、と一瞬罪悪感に心が覆われかけた。でも、それはすぐに払われた。
『どうして、そんなこと、言うの?』
どうして。
その一言に僕の中でまた新たに毒が生成されて、今まで溜まりに溜まっていたものを母親に追い打ちする。
「どうして、なんて父さんや母さんが一番分かっているでしょ。愛情を注がれなかった人たちに対してどうしたら愛情を持てるの? 僕は母さんたちから愛情なんてものを感じたことは、一度もなかった。父さんが笑ってくれることもなかった。いや、内心では嘲笑っていたかもしれないね。クラスメイトに手をあげる愚息だって。母さんは、たぶん、そんなことを思いこそしなかったかもしれないけれど、いつも父さんの言うことに従うばかりだったじゃないか。僕が父さんに顔を見せるなと言われた時も、何も言わなかったでしょ。ただ悲しそうな顔をしていたけれど、あれも父さんにそういう顔をしろって言われたからじゃないの。あの時の表情は、哀れんでいるって言うんだよ。母さんが思ってたことなんて知らないけれど、当事者の僕からすればそうとしか感じられなかった。それとも、なに。僕はあくまで母さんと父さんの駒だったのか? たしかにそれなら合致するよ、駒に愛情なんて注がないって!」
口が、自分の口ではないように感じた。
ひたすら感情に任せていたから、理性なんてなかった。
最後に、僕の内の深淵から湧き上がってきた感情を言葉に変換して言おうとした。
――血が繋がっていてもこんなんだったら、血が繋がってなくても愛情のある親が良かったよ。
だけど喉まで出かかって、口から出なかった。
この言い方では、まるで僕が親から愛情を注いでほしかったみたいではないか。
それは違うだろう。僕は今までの環境を甘んじて受け入れてきたはずだ。だからそれを口にする以前に、思うこと自体が間違っている。
その過った考えを覆い隠すために別の言葉を捻り出す。
「……僕らは家族なんかじゃない。他人だよ」
電話からカシャンッと響く音がした。たぶん、母親が携帯電話を手から落としたのだろう。
僕はその音を聞いて、電話を切った。部屋が静かだから、最後に告げた言葉が耳に響き続けている。
切れたスマートフォンを雑に放り、長く、長く、息を吐く。
ついに言ってやった。
僕は長年の鬱憤を晴らした。
満足感で心が満たされた。
けれど、同時に、急に吐き気が僕を襲った。
トイレに駆け込んで、胃液だけが吐き出る。胃にはもう吐くものは何もないはずなのに、吐き気が治まらない。どうしようもなくて、吐き気を我慢しようと胸を強く叩く。鈍い痛みが胸に広がる。幻聴だろうか、なんだか胸の内から音がする。まるで空洞の金属の箱を叩いているような、空しい音が。
何なんだ、一体。
僕が何をしたって言うんだ。
もう、寝る以外、現実から逃れるには手段がなかった。