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8
十一月の中旬。
その日、僕の顔面は蒼白していた。
「なんだこれ……」
思わずそう呟いてしまう中間試験の結果だった。
教室の自分の机の上に広げた数教科分の答案用紙を眺めていて、傍らには当然のように青井が立っていた。
「とっきー、やばくね……」
「……そうだね」
同情されていると思ったが。
「めっちゃ点数高いじゃん! 最低八十点以上ばっか!」
何を言っているんだ彼は、と思って彼の手に握られている答案用紙を覗くと、軒並み赤点の瀬戸際だった。
「いや……全然ダメだよ」
「どこが? それって俺に対する嫌味だったりする?」
違う、と僕は答える。
正直なところ点数はそこまで悪くない。文系選択をしたけれど数学で点数は取れていたし、全体的に自信のあった個所はちゃんと赤丸で評価されていた。
僕が思わず「なんだこれ」と呟いたのはそこではない。
なぜそこで、という基礎的な問題でのミスがどの教科でもあった。いわゆる凡ミス。詰めが甘い、という話ではなく僕自身でも不思議に思うほどのミスだった。
特に目立ったのが、現代文の長文問題。登場人物の意図の読み取りだった。全く意図を汲み取れず、支離滅裂な答案をしている。
僕はどうかしてしまっていたのか、と自己嫌悪に陥った。
中間試験があったのは約二週間前。ちょうど、傷だらけの少女と遭遇した時だ。その二週間の間も旧校舎に顔を覗かせていたけれど、傷だらけの少女とは一度も遭遇することはなかった。次々に悩まされることが多くて浮かんだ疑問を解消しようと自問自答を繰り返していたから、あまり勉学に意識を向けることが出来ていなかった。
そのせいだろうか。思わぬ凡ミスを悔やんだ。
「まあ何はともあれ! 目前の試験は終わった!」
目を覆いたくなる結果を投げ出して青井は陽気に言った。
「またすぐに期末試験があるけど」
「とっきー。今の俺に現実を突きつけないで。せっかく勉強の呪縛から解き放されたのに」
「キミは学ぶことを覚えた方がいいよ。そうすれば呪縛と思わなくて済むようになる」
耳を塞ぎ完全に現実逃避している彼を横目に、もう一度答案用紙と向き合う。
この町に来てから濃い日々を過ごしていて、何度目かの『気が付けば』を繰り返し、あと一カ月と少しで一年が終わってしまう時期になった。
これから本格的な冬を、迎える。
最近、一瀬と会う度にあれこれと考えるようになった。
以前はもっと気軽に、何も考えず会いに行くことが出来たはずだった。お互いに恋と愛を教え合うだけでなく、何気ない話題を派生させて数時間が瞬く間に過ぎ去っていった。
それに一瀬に心配されることが増えた。
疲れてそうな顔してるけど大丈夫?
もう外が暗いけど平気?
休んだほうがいいよ?
そう彼女に心配されることが、また僕を悩ませる一つでもあった。
まるで彼女の方が僕と会うことに悩まされているみたいで。そんな深読みをして、確かめもしていない憶測で頭が一杯になっていく。それは夜中に就寝するときもずっと続いていて眠りに就けるのが朝方になってしまう。もう感覚が麻痺していて、それが習慣付いてしまった。
だから彼女が僕は疲れていると感じたのは誤りではない。
そして僕は知らずに暗黙の了解を破ってしまった。
〝キミの両親はどんな人だったのかな〟
一見、何気ない会話の中にあって違和感のない質問だけれど、それは相手による。ましてや両親に会えない存在の者であればなおさら。
プライベートに関わる話題は一瀬から禁止されていたわけではない。プライベートがどのラインからそのエリアに入るのか定かではないけど、両親という話題は確実に、それも幾分か踏み込んだところにあるものだ。
僕は一瀬になるべくならそういった、未練解消の進行を妨げるような言動はしないように心掛けてきた。それは特殊だけど常識と呼べるものだと思う。トラウマを抱えた人にわざわざトラウマを彷彿とさせるようなことをするだろうか。過去に良い思い出のない僕自身が、それを一番知っているはずだった。
彼女のプライベートに足を踏み込んでしまったことに後悔しているのは事実でも、本音では、そうしないよう心掛けてきた今までの努力が一瞬にして水の泡となってしまったことに、ダメージを受けていた。
質問を取り消そうとしたけれど一瀬の顔を見ると、意外にも彼女の方が何ら気にしている様子はなかった。
彼女は僕の失言にさらりと答えた。
両親は優しくて笑顔の絶えない人たち。登山や観光巡りが好きで、よく家族で出かけていた。
天井を仰ぎながら、一瀬は微笑んでいた。
遠い世界の住人の話を聞いているような気分になった。比較するのは良くないと分かっていても、心の中で僕の両親と比較してしまう。無機質な僕の両親とは違い、温かさに溢れる両親を持つ彼女が幽霊でも生きている人のように感じられる理由が分かった気がした。
そして今度は僕が質問される立場になった。
話の繋がりで、僕は両親に会いに戻らないのか、と。
もちろん、答えはノーだ。
〝父親に関しては僕の顔を見たくないようだし、母親は父親の意見に何も口出ししなかった。両親は僕とは会いたくないんだよ。それに、僕もあまりその必要性を感じていないという所がある。生涯顔を合わせないということはないけれど、少なくとも今日明日に会うのは得策ではないよ〟
こう長く黒板に書くと慣れてきたとはいえ、さすがに手首と腕が悲鳴を上げる。
一旦チョークをチョーク受けに置き、一瀬と向き合う。
彼女は相変わらず綺麗な顔立ちをしている。カラーコンタクトが入っているのではと思うほど大きい目。淡い桜色の唇。全体的に幼さが残る顔立ち。もう冬を迎える頃なのにいまだに夏用の制服で、程よい小麦色の肌。
彼女だけ時間が止まったままだ。
気が付けば彼女と視線が交差していた。
ずっと視線を逸らさずに動かない僕を彼女は不思議そうに首を傾げてまた心配する。
なんでもないよ。
僕は黒板に書かず首を振って、その意思を表す。
前に、体調が優れないと彼女に嘘をついた時以来、僕は嘘をつくことに躊躇いが希薄になっていくのを感じていた。ついてしまった嘘は取り戻すことが出来ないから、相変わらず罪悪感に胸を締め付けられる。
けれど、彼女にまた心配されるよりマシに思えた。
もうこれ以上悩み事を増やすのは本意ではない。
だから僕は憂虞してしまい、以前よりも一瀬と喋らない会話をする回数が目に見えて減っていた。
九月の頃よりも黒板が綺麗だ。
僕の真意を察してか、一瀬から新たな話題を出してきた。
好きな食べ物の話。
最初に僕の好きな食べ物を尋ねられて、素直に答えた。
〝ソバかな〟
僕は彼女に好きな食べ物を答えるよう促す。
パスタが好き。ピザが好き。お寿司が好き。とんかつが好き。焼き肉が好き。ラーメンが好き。餃子が好き。果物が好き。ケーキが好き。シュークリームが好き。お団子が好き。ソバも好き。
一つ訊いていくつもの答えが返ってくる。好きな食べ物が多いのは、とても彼女らしい。
今まで彼女ととりとめのない話を数多くしてきたけれど、当たり前のような、彼女の好きな食べ物を初めて知った。
そして最後に彼女は付け加える。僕は見逃さないために彼女の口の動きに注視する。
もう一度、食べたいな。
そう呟いた。
僕は無意識にこの話題をしなかったのかもしれない。好きな食べ物というありきたりな話題ですら彼女に生へ執着させるのではないかと、心の片隅で懸念していた。
つまり、些細であれども、彼女に新たな未練を抱かせてしまう可能性があったのだ。
それを今日、抱かせてしまったかもしれない。
でもその心配はすぐに解消した。
一瀬は、食べたかったなー、と駄々をこねる子供のように頬を膨らませた。その表情から、未練とは呼べないものだと僕は感じ取った。
彼女は笑って、僕の細い体を指摘した。
〝別に僕は食べないわけじゃないよ。食べても体重が増えないんだ〟
あなたは女子の敵だ、とまた笑われる。
〝キミは沢山食べそうな子だよね〟
その通り、と彼女は笑った。
僕はそこから彼女に好きだったこと、趣味、好きなスポーツ、好きな音楽、好きな動物。見合いのような問いかけをした。彼女のことについて色々訊いて、今さら感が否めないことばかりを知った。
彼女の生前について話すことに躊躇いがあったけれど、彼女によってその躊躇いは無くなりタガが外れたように僕は色々訊く。
何も考えず、悩まず彼女と喋らない会話をしたのは久しぶりのような気がした。心地いいとさえ感じるほどに。
一瀬と出会った当初は、心地いいと常々思っていた。
世の中の理不尽にあてられた僕はこの世界に似合わないと感じていて、別世界の住人のような彼女と同じ時間を過ごすことが出来るから。
しかしあくまでそれは僕の身勝手な思い込みであり、実際には彼女も普通の、ありふれた女の子だった。
彼女が普通の女の子であったと感じる度に、未練や悩みがありそれに僕も悩まされる度に、僕の身勝手な思い込みが形を崩していって心地いいと感じていた居場所が消えていく気がしていた。
それさえも僕の身勝手だったのだ。
親にないものねだりしても無残な結果に終わり、拗ねる子供のようだ。
彼女はいつでも彼女のままでいたはずなのに、問題は僕自身だった。
一瀬真琴という普通の女の子の幽霊と出会ってから、今日が一番、彼女のことを多く知ることが出来た日だった。
〝また来るよ〟
久しぶりに黒板にそう書いて、名残惜しく、僕は彼女と別れた。
街灯のない夜道も、今日ならよく見えそうな気さえした。
風呂に浸かって疲れを十分湯の中に落としきりナイトウェアに着替えていたら、タオルの上のスマートフォンが短く二回振動した。
和子さんからだろう。
画面を点けると、いつ登録した(させられた)のか覚えがない、青井からメッセージが届いていた。
『週末に泊まりに行くよん!』
その後に機嫌を窺うような顔文字が添えられていた。
メッセージに返信せず、スマートフォンの画面を消して胸の中で僕は考える。
なぜ青井はこんなにも僕に構うのだろう。
泊まりに行きたいなら別のクラスメイトの家に泊まりに行く方が楽しいだろうに。
実際に彼は教室でクラスメイトたちによく誘われる。しかしその誘いのほとんどを断っているのを僕は見かける。バスケの練習がしたいから。用事があるから。とにかく理由を付けて断る。
当然、その理由が嘘だとは断言できない。たしかに放課後に体育館で自主練習をしている彼をほぼ毎日見かける。同好会だから公式の大会には出られないにもかかわらず、ほぼ毎日。だから僕にはなんだかクラスメイトの誘いから逃げるために自主練習をしているように見える。
彼の思うところは知らないけれど。
本当に泊まりに来るのだとしたら、僕の聖域に踏み込んでくる仕返しとして、みっちり勉強会にでもしてやろうか。
洗面台の鏡に目をやると、僅かに口角が上がっている僕が映っていて、その自覚がなかったから驚く。僕でも笑うことがあるのか、と人として当たり前のことに違和感を覚えた。
いつでも変わらない明るい髪色。気味が悪いくらいに白い肌。
敵討ちの相手を見るような目で鏡に映る僕自身を見ていると、あることを思い出した。
『それは欠点じゃなく、むしろ美点だよ』
野反湖で彼に言われたことだった。
パラダイム転換を示唆する一言だけど、しかし当事者の僕は事実として、姿が変わるわけではない。
みにくいアヒルの子は成長するまでは、ずっとみにくいアヒルの子なのだ。
人魚姫とみにくいアヒルの子の作者のアンデルセンは、自分がみにくいアヒルの子だと思っていたころは気付かない幸せに囲まれていた、というような言葉を残している。
それは環境が良かったからではないか。周りに幸せがあったからではないか。と僕は思う。
塞ぎこんでいる人にとっては、このアンデルセンの言葉は適用されるだろう。
でも、僕の場合はそうでなかった。環境がそうではなかった。どこへ行くも奇異の視線を向けられた。
その結果、強制的に一本のレールの上を走らされるように、僕は現在の僕となった。
望んでいないという点ではみにくいアヒルの子と同じだけど、僕の周りには幸せなんてものは存在しない。
やたらと構ってくるやっかいな好青年と、幽霊となった女の子がいるだけ。
そう思っているから、どちらかと言えば、みにくいアヒルの子よりも、残酷という意味で現実味のある人魚姫の方が僕に適しているようで好きだ。
グアッ、とアヒルの鳴き声を真似する。
鏡に映る僕と向き合いながら、僕は自嘲した。
寝る前に納戸から人魚姫を持ってきて読み返そう。
結局、今日も寝たのは夜が深くなってからだった。
9
重たい瞼をこすりながら、僕は学生としての悩みに再び直面していた。
先日のテストの結果はさておき、重要性で秤にかけるとこちらの問題の方が大事に思えた。
進路だ。
もう二年の冬。早い人であればあと半年近くで進路の合否が決まる人さえ出てくる。
僕はと言えば、進路の方向すら定まっていない状況だ。
以前、父親に言われた『目的を伴う目標を掲げて行動しろ』が頭の中でリフレインする。今の僕にやりたいことなんてない。だから目的無くして目標は成り立たない。
越してくる前は努めていた勉強も、この学校に来てからはあまり時間を注いでいない。というのも一瀬と会う時間の方にそれなりの時間を注いでしまっているから。僕としては、これを削りたくはない。なるべく一瀬との時間を削らず、なおかつ今後の進路について考えなくてはいけない。
とは言え、僕自身、この先どのようにしたらいいのか。暗闇の中を手探りで進むよりも難しいように思う。暗闇の中ではいつか出口が見つかるかもしれない。
でも左右どちらに進めばいいのか、前進すべきか後退すべきか分からない。僕はそんな迷宮の入り口に立っている。どうしようもなく、強制的にその迷宮に入ることになる時期。
そんな僕にも、一応、先導者がいる。
担任教師という先導者。
「それで、お前はどうしたいんだ? この時期にまだ何も決めてないんだから、少し焦った方がいいかもしれないぞ、向坂」
何も考えていない僕にはこれからどうしたいかを言えるはずもなく、ただ相槌を打つだけになってしまう。
担任の言うことに相槌を打っていくだけで、進路相談が終わってしまった。
一対一の進路相談のためだけに設けられた教室を出て、廊下を歩きながら僕は進路について考える。
将来の自分をイメージして、すぐにその思考を止めた。
どうなるのか分からない先を考えようとしたって、分からないことは分からない。それにこの話に関しては僕一人で考え込むよりも、保護者である和子さんと熟議する方がいいだろう。
遠い先の将来を考える事は止める。
すると、ふと思うことがあった。
僕がこの学校を卒業する頃、一瀬はどうなっているだろう。
相変わらず僕と喋らない会話を続けていて、恋と愛について教え合っているだろうか。それとも、恋というものを知り、理解し、未練を解消した彼女は消えてしまっているのだろうか。
遠い将来の自分よりも、あと一年と少しで来るだろうその時の方が、僕はイメージ出来なかった。
いや、本当のことを言うと、したくなかった。
この町に来てからの僕の生活の中心に立っているのは、まぎれもなく一瀬だ。ほぼ毎日、彼女と顔を合わせている。会話する回数や時間で言えば、青井や和子さんを優に凌ぐ。だから必然的に毎日彼女のことを考え、授業中でさえ彼女のことが頭に浮かぶ。
そんな彼女が消えてしまったらどうなるだろう。危うく保たれたジェンガを主に支えている一本を取り除くと崩壊してしまう。簡単に言えばそうなのだが、実際に僕にそれが起きてしまったら、どうなるかなんてイメージしたくない。
脳裏に前の学校の人間の顔が浮かび、その顔に囲まれる生活に戻ってしまうのでは、と僕は捨てきれない過去に襲われる。
過去に襲われる一歩前で、廊下で木下と鉢合わせた。過去の記憶は消え去り現実に戻される。
「木下さん、これから面談?」
普段であれば僕からは声をかけることはまずない。でも今は話しかけずにいられなかった。早く過去の記憶を完全に消し去りたいために。
一瞬、怯んだような表情を見せた彼女は頷いてから、答える。
「そうだよ。何で男子が先で女子が後なんだろう。本当だったら名前順で私、もう終わってるのに」
「でも、人数少ないからそんなに変りないよ」
「ううん。気持ち的な問題だよ」
自分から話しかけるというあまり慣れないことをして、僕は必死に頭の中で話題を探す。
「そういえば、青井は進路どうするのかな」
本当は全く興味のない話を切り出す。少し、後悔した。
「さあ? 私も全然聞いてないけど、たぶん大学に行くんじゃないかな。あ、バスケは続けたいって言ってたし、体育会系の大学なんじゃない?」
「でも、彼には学力が足りないと思うけど」
僕が素直にそう言うと、木下は吹き出して笑った。
なぜ彼女は笑ったのだろう。
理由を尋ねると。
「だって辛辣なんだもん。たしかに事実なんだと思うけどね」
「事実だよ。中間試験の彼の結果、僕だったらひっくり返って頭を打って死んでいるよ」
彼女はまた笑う。
「それにしても、やっぱり向坂くんと一樹って仲良いんだね」
「……どこが?」
思いもしなかった言葉に、僕は首を傾げた。
「休み時間とかいつも一樹と話してるもん」
「それは語弊があるよ、木下さん。いつも彼が一方的に話しかけてきてるだけで、決して会話じゃないよ」
会話はお互いが話す、聞く、を繰り返すものだ。僕は青井の話には一応耳を傾けてはいるけれど、適当に相槌を打つばかりで僕から話すことは、ない。僕と一瀬のように声を使って話すのが出来なくとも、黒板を使ったり読唇したりして喋らない会話をしているのが、僕の中で言う会話だ。
でも、と木下は言う。
「一樹と話してる時の向坂くん、なんだか、こう……活き活きしてるっていうのかな? そんな感じ」
活き活きしてる。
僕はそう呟く。
和子さんにもそう言われたが、本当にそうなのだろうか。さすがに二人にそう言われると僕も否定する自信が無くなってくる。
「仮にそうだとしても、僕は彼とは仲良くないよ」
むしろ苦手だ。
「うーん。まあ、いいや。でも向坂くんと話すようになってから前の一樹みたいに戻ってきたから、良かったよ」
「戻ってきた?」
木下は、あ、と言葉を漏らして口に手を当てる。その仕草はまるで、言ってはいけないことを言ってしまったように見える。
数秒の間、彼女は何か躊躇しているような感じだったけれども、少し表情を困らせて話し始めた。
「あのね、実はね、一樹は向坂くんが転校してくる前まで元気がないっていうか、変に落ち着いてたんだ」
「落ち着いていたって、どういうこと?」
「えーっとね……、今の一樹、向坂くんから見てどんな印象?」
質問の意図が分からないけれど、僕は彼の印象を深く考えずに頭に浮かんだ通りのまま答える。
「初見は好青年だけど、実は子供みたいに陽気で強引なところがある。本当に子供がそのまま体だけ成長したような感じかな」
「そう。そうなんだ。それが本来の一樹なんだよ。でも、さっき変に落ち着いてたって言ったじゃない? 向坂くんが来る前の一樹は、みんなに一線を引くようになった気がするの。最近みんなが一樹のことを誘うけど、前はむしろ一樹からみんなを誘ってたんだ。でもそれもなくって、ちょっと……ううん、結構心配してたの」
僕の青井の印象は、本当に先に言った通りのままだ。だから木下が言う、僕が転校してくる前の彼の姿が想像出来ない。
遠回しに訊くのも彼女を困らせるような気がして、僕は率直に訊く。
「その頃、彼に何かあったの?」
恐らく、木下は僕がこう聞いてくる事は予想していたのだろう。あまり表情を変えずにいる。
けれど、少しだけ彼女の声のトーンが下がる。
「……一瀬さんっていう女の子がね、本当は居たんだけど……亡くなっちゃったんだ。六月に」
驚きはしなかった。何となくそんな気がしていたから。
それに彼だけでなく、幽霊となった一瀬にも彼の名前を出すと、明らかに空気や表情が変わったのだ。何かしら関係があったと考える方が自然だ。
混乱させないために、僕は一瀬のことを知らない振りをする。
「その一瀬さんっていう人と、青井は仲が良かったのかな」
「うん。そりゃあね。この町じゃほとんどエスカレーター方式みたいに、自然と幼稚園から高校までみんな一緒だから。だからみんな幼馴染みたいなものだもん」
そう言う彼女は顔が少し下向きになる。
幼馴染という関係性がどれだけの仲の良さを表すか僕には分からない。けれど本当に幼馴染という一言で表せるほどで、青井と一瀬はあんなに目に見えて表情を変えるだろうか。
一瀬の未練が、恋について知りたい、という内容だからないとは思いつつ、僕は捨てきれない可能性を木下に尋ねる。
「彼とその一瀬さんは恋仲だった、とか?」
僕の質問に彼女は、首を振る。
「私には分からないな。正直言うとこないだ一樹に言われた通り、私、そういう話に疎いから全然分からないんだ」
「そっか」
極僅かな可能性の答えを知りたかったけれど、木下が分からないと言うのならば仕方ない。
ただ、青井にそんな姿があったことは知らなかった。僕が転校してきた初日から彼は今の彼のままだったから、全く分からなかった。
木下は下向きだった顔を上げて微笑む。
「ありがとうね、向坂くん」
なぜ僕が礼を言われるのか分からなくてまた首を傾げる。
「向坂くんが転校してきてから一樹が前の一樹に戻ったのは事実だもん。だから、ありがとう」
「僕は何もしてないよ、彼が自分から僕に話しかけてきているだけで」
「でも、やっぱり向坂くんの存在は一樹にとって大きいものなんじゃないかな」
いや、それは違う。と僕は心の中で首を振る。
たしかに僕は生まれつきの髪色と肌色によって悪い意味で存在は大きかったかもしれないけれど、彼女が言うようなプラスになるような存在じゃない。
ここでまた否定すると話が長引きそうだったので、僕はされる覚えのない礼を受け取った。
客観的に見て感じたことを、僕は別れ際に木下に言う。
「木下さんは、青井のことが好きなんだね」
「えっ」
彼女が叫びに近い声を漏らしたと同時に頬が朱色に染まる。野反湖で見た紅葉のような色をしている。
一生懸命に否定しようと彼女は否定の言葉を口にするけれど、どれもちゃんとした言葉になる前に口から漏れてしまっているようで、噛み噛みになっている。
誰にも言わない旨を伝えて、彼女の慌てるさまを見ながら僕は最後に言い残す。
「みんな、優しいんだね」
死んでしまった一瀬が使用していた席をそのまま教室に残してあげるなんて。
それは付け加えずに言うと、木下はキョトンとした表情になった。さっき僕が彼女に覚えのない礼をされた時もこんな表情をしていたのだろうか。
僕と木下の違うところは、その後、笑顔になるか否かだ。言うまでもなく、僕は否だ。
きっと、彼女や青井、一瀬のように笑うことが出来たのなら、今までより素直に色んなことを受け入れられるようになるのだろう。世の中に当たり前のように存在する不条理さを。生まれつき普通の人とは違う髪色と肌色を。やたらと構ってくる好青年を。
僕が受け入れる器を変えなくちゃいけないのかもしれない。