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なきものねだり  作者: ほしがひかる
4/13

    6


 一瀬真琴は表情が豊かな女子だ。加えてお喋りだ。

 彼女と喋らない会話をしていて、生前もそういう子だったのだろうなと感じる。僕が黒板に言葉を並べ、彼女は口の動きだけでなく身振り手振りをして僕とのコミュニケーションを図る。

 一時は僕も彼女も手話を覚えようという案が浮上したけれど、その時点であまり手話の必要性を感じられなかった。

 小中学校合わせて九年間、高校一年半。僕の方を見て小声で僕の容姿の異質さを話している連中を見てきた。すると不思議なことに声なき声が僕の目から脳へと響くのだ。彼らが僕に対してどんな事を言っているのか、読唇する能力が自然と身に付いていた。不確実な能力ではあるけれど仕草や表情から、どういった事を口にしているのか、大体予想がつく。

 僕はそれらをあえて無視してきたけれど、彼らは僕が気付かないと思っているようだった。

 しかし、皮肉にもそうやって培った能力がこうして一瀬とのコミュニケーションで役に立っている。

 そして今日も。

〝やあ、また来たよ〟

 いつもの教室の黒板にそう書くと、窓際に居る一瀬は手を振って挨拶をしてくれた。

 たぶん、今彼女は『やっほー!』と言ったのだろう。そう口が動いていた。

 でも僕は彼女の声を聞いたことがないから、明確に彼女の声でそう言うイメージが出来ない。これが難点で、相手の声を聞いたことがあるのならば明確にイメージした声が頭の中に響くのだろう。そうではない彼女の場合は別だ。僕は一度も彼女の声を聞いたことがないから、ふわっとした曖昧なイメージしか浮かばない。

 誰か他の女子の声でイメージしてみようかと思ったことがあったけれど、何となくそれは彼女に失礼なような気がしてやめた。

 つまり、一瀬が口にしている言葉を僕は完全に受け止め切れていないのだ。

 彼女が僕に伝えた事を漏れがないよう細心の注意を払って口の動き、仕草や表情を見なければならないため、やや疲れてしまうというのが本音だ。

 けれどその疲れを認識するのは彼女と別れて家に着いてからだ。彼女と会っている最中は、それを感じない。他愛ない話、恋の話、愛の話などを普段話していて、僕が思っていた以上に彼女との喋らない会話は心が惹かれた。

 どちらかと言うと話の内容よりも、幽霊である彼女との会話自体に心が惹かれた。

〝もう十一月に突入したね。なんだか今年は時間の経過が早く感じられるよ〟

〝さて、また恋と愛について話し合おうか〟

〝『恋愛』と呼ばれるのだから、実際は恋も愛も同じなのではないか?〟

〝恋は粘土のように色んな形に変形する。そして恋が形を変えるたびに自分の人間関係も変化する〟

〝愛とは結局なんなのか。そこらへんに転がっているものなのか。それとも恋の変化した先が愛なのか。キミはどう思う?〟

〝キミは僕がいないとき、何を考えて何をしているの?〟

 今日も彼女との喋らない会話に費やす時間へ、心が惹かれていく。

 そういえば、と僕は思い出して黒板に昨日のことを書いていく。

〝昨日、青井一樹っていう人に振り回されたんだ。彼は好青年だと思うけど、結構強引なところがあるね〟

 書き終えて一瀬の方へ振り返ると、明らかに彼女の表情が曇っているのが分かった。その表情は誰かのそれと同じだったけれど、それが誰だったかを僕は思い出せない。

 黒板に〝どうしたの〟と書こうと思ったけれど、そうせずに彼女の顔の前で上下に手を振ってみた。惚けていた彼女を見たのは初めてだったから、どうすればいいのか分からなかったけれど、すぐにいつもの笑顔に戻った。

 何か引っかかる。なぜ彼女の表情が曇ったのか。

 少し考えれば、原因は明らかだった。

〝彼が、どうかしたの?〟

 一瀬は青井に反応したのだ。

 しかしなぜ彼に反応したのかが分からない。

 僕が日頃授業を受けている教室では生前の一瀬の使用していた机と椅子がそのまま置かれていることから彼女が青井やその他のクラスメイト達と仲が良かったのは把握している。

 彼とは特別仲が良かったのだろうか。

 それとも恋仲だったのだろうか。と思ったけれど彼女は『恋』について教えて欲しい、未練は恋を知りたいと僕に伝えた。となれば、彼女は青井とは恋仲ではなかったという事になる。

 とにかく、なぜ一瀬は青井に反応したのだろうか。

 そういった考えが頭の中を巡っていると、先ほど一瀬が浮かべた表情が誰と同じだったのか思い出した。

 転校してきて間もない頃に僕が青井に「あそこの席は、誰の席なの?」と訊いた時、彼が浮かべた表情が、先ほどの彼女の表情と酷似しているのだ。

〝青井と仲が良かったのかな。それか、彼と何かあったのかな?〟

 一瀬は何も答えず、再度表情を曇らせるだけで、教室に心地よくない静けさが広まる。

 普段も黒板にチョークを当てて生み出す音しか教室には存在しない。でも、今のこの静けさはいつもと違って気まずさというか居心地の悪さを孕んでいる。

 一瀬真琴と青井一樹という僕の知らない繋がりがある二人の間に僕が挟まれているような気がして、いたたまれない気持ちになる。

 これ以上、この話題を掘り下げるのは僕も彼女もよろしくない気がして、僕は話題を変えた。

〝そういえば何度か思ったことがあったのだけれど、キミはなんだか人魚姫を彷彿させるような感じがするよ〟

 無理矢理な話題のスキップだけれど、彼女と一緒にいて初めて感じた居心地の悪さを消し去るのならば気に留めなかった。

 一瀬はふっと笑った。しかしその笑顔は何だかいつも彼女のとは異なる、上手く噛み合わないような違和感がする。嘲笑という言葉が当てはまる、それだ。

 口の動きと身振り手振りから、彼女が言わんとすることを読み取る。

 すると、彼女は僕の予想外のことを口にする。話の繋がり的にはあっているのだけれど、なぜか彼女は否定の意を示した。

 私は人魚姫なんかじゃないよ、と。

 その意を理解出来なかったけれど、僕の思っているままに返事をした。

〝そうなのかな。何かと引き換えに何かを得て、目的を達成しようという姿勢とかそっくりじゃないか。恋というものがキミも人魚姫も絡んでいるし〟

 一度黒板を綺麗にして続きを書く。

〝差異は瓜二つの女性の恋敵がいるかいないかというところぐらいじゃないか? もっともキミの場合は恋という概念やそれ自体の事について知りたいみたいだけれど〟

 彼女はまた笑った。孕んでいる感情や意味は先ほどの嘲笑と同じように見える。何に対しての嘲りなのだろうか。僕の書いていることに対してなのか、それとも彼女自身に対してなのか、僕には分からない。

 黒板に書いてある人魚姫を指して彼女は首を振る。そして、瓜二つの女性を指してからその指を自分に向けた。

 私は人魚姫なんかじゃない、こっちの瓜二つの女性だよ、と彼女は言いたげだ。

 どういうことなのだろうか。

 瓜二つの女性は人魚姫からすべてを奪った人物だ。自分はこちら側の質が悪い方だよ、ということなのだろうか。一瀬の真意がよく理解出来ない。

 彼女との喋らない会話で伝えたいことがうまく伝えられず、会話そのもののキャッチボールが出来ないことは今まで何度もあった。けれど今回はそれとは違う。彼女の伝えたいことの意味が理解出来ない。

〝キミは誰かから何かを奪ってしまった、ということなのかな?〟

 もし彼女の伝えたいことの意味がそのままならば、こういうことなのだろう。

 けれど何かしっくりこない。

 彼女が何かを伝えようとする気配を感じ取って彼女の口元に視線を集中させたけれど、そこで午後六時を知らせる町内放送が町全体に流れた。フォスターの草競馬がゆったりと流れていて、一瀬にその放送は聞こえていない。だから彼女はそのまま口を動かしているけれど、僕には放送が夏に鳴く蝉以上の雑音に感じられるため、集中が乱されて彼女の口の動きが読み取れない。

 放送が終わるよりも前に、彼女は口の動きを止めてしまった。

 結局、彼女が伝えようとしていたことは分からず終いで、もう一度訊こうという気にはなれなかった。

 まだ流れ続けているフォスターの草競馬が空しく感じられた。

 同じ時を過ごせているのに彼女と僕の世界はまるで違う。

 彼女と共有できるものが限られている。出来ることが限られている。

彼女と出会って三カ月が経った。けれど決して、共有した時間イコール相手の理解度とはならない。

三カ月前まだ彼女と出会って間もない頃は、彼女と時間を共有していて、知らない世界を覗いているようで好奇心が満たされた。

 しかし最近分かったことがある。僕はその知らない世界の表面しか見られていない。その世界の過去や深淵を微塵も知らない。一瀬真琴という少女の上辺を眺めていただけだった。

 だからかもしれないけれど、もっと一瀬真琴について知りたくなった。彼女が生前に好んだ食べ物、放課後は何をしていたのかとか。そういった切れ端のような情報だけでもいい。その切れ端が集まっていけばいつか大きな意味を持つ一枚の紙になる。でも彼女の生前のことは積極的には訊けない。彼女に新たな未練を芽吹かせてしまう可能性があったのだ。

 僕が一瀬と交わした『愛を教える代わりに恋を教えて』という契約はいつの間にか二の次になっていることに気が付いた。当初は彼女がどうやって僕に愛を教えるのか好奇心以外はなかったはずなのに、いつからそれ以外に感情が芽生えてしまったのだろう。でもその感情が何なのか分からない。

 彼女のことをもっと知ろうと思ったけれど、今日は彼女の方からピリオドを打った。

 もう暗いから帰った方がいいよ、と彼女は笑顔で優しく、そう口にした。

 青井のことを僅かに掘り下げてしまったのが良くなかったのだろうか。一瀬は笑っていても、どこか困ったようで悲しそうな感情が笑顔から滲み出ている。

 一瀬のその表情を見て胸を抉られるような今まで味わったことのない痛みを感じた。

 なぜそんな痛みが、と僕は明確な原因が分からなかった。


 一瀬は軟禁されたように四六時中旧校舎の教室にいるため、別れるときはいつも僕がそこから去る。なぜか今日に限ってはいつもよりその足取りが重く感じられた。

 旧校舎は木造建築であるため、歩くたびにキシキシと廊下が音を立てる。

 廊下の窓から外を見るともう夜の帳で包まれていた。十一月に入ってからさらに早く暗くなるようになった。

 今夜は雲が夜空を隠すことなく、群青が一面に広がっていた。今の僕の胸の内にある謎の靄と相反して澄み渡っている。

 唐突に前方の闇から床が軋む音がする。

 この時間帯に、旧校舎に居るのは僕だけのはずだ。

 そして前に青井から聞いた噂が、急に頭の中にチラつく。

『旧校舎の噂ってやつ』

『噂?』

『そう。あの旧校舎には幽霊が出るとか、傷だらけの少女が旧校舎を徘徊するとか、毎月決まった日に湖の写真が置かれる摩訶不思議、っていう噂』

 傷だらけの少女。

 その噂の少女が実際に僕の目の前に現れた。窓から差し込む月明かりを挟んで僕とその少女は向かい合う。

 なぜか見慣れた学校の制服を着ている少女は何も発さない。制服の隙間から見える腕や太ももは包帯が巻かれていて肌は隠されている。唯一見える肌は首元と額だけだ。

 傷だらけ(包帯だらけという方が正しいのかもしれないけれど、ここはあえて青井から聞いた話の通り傷だらけにしておく)というのは間違いではなさそうだ。額には稲妻が走ったような大きな傷跡が見える。包帯の下の肌にも傷があるのだろうか。

 しかし、限られた容姿からでも傷だらけの少女は高校生といえるほどのスタイルをしている。少女というものの年齢幅がどれほどなのか分からないけれど、彼女は僕と同い年くらいに感じられた。

 噂の少女は僕の目の前にいる彼女で間違いないのだろう。だけど彼女は一瀬とは違って生きているようだ。一瀬からは感じられない、いわゆる生気みたいなものを感じる。よく目を凝らすと規則的に肩が小さく上下に動いている。

 眼帯のない左目はアシメトリーの前髪によって隠れてしまっているため、どこを見ているのか分からない。

「……近づかないで」

 第一声。沈黙を破った傷だらけの少女の言葉はそれだった。

「近づかないでって誰に?」

「………」

 窓から差し込む月明かりを境界線に私に近づかないで、という意味だろうか。主語がないため何に対して「近づかないで」なのか分からなかった。

 これだから僕は口でする会話よりも文字にする会話の方が好きなのだ。

 月明かりだけが頼りの暗闇の中に佇む傷だらけの少女は怪談として語られても違和感はない。

 学校の怪談といえば、トイレの花子さんやテケテケといったものがセオリーだけれど、傷だらけの少女が夜の学校を徘徊するなんてものはどの怪談集やテレビのホラー特集を見ても載っていないし聞いたこともない。

 だからかもしれない。不思議と僕は傷だらけの少女に恐怖を抱かなかった。少女の手に刃物や凶器になり得るものが握られていたら、話は別だったけれど。

 ちなみに僕が傷だらけの少女と遭遇したことによって、青井の言っていた三つの噂はすべて真実となった。

 旧校舎に出る幽霊は、一瀬。

 傷だらけの少女は、実は包帯だらけの少女。

 毎月決まった日に置かれる湖の写真は、目撃したことあると青井が言っていた。

 どうしようかと考え悩んでいると、傷だらけの少女は口を開いた。

「真琴に、近づかないで」

 か細いけど芯のある綺麗な声で、今度は主語を付けてそう言った。その声と体面があまりにも似つかわしくなくて、第三者の人物がアテレコでもしているのではないかと思った。

「………」

 今度は僕が黙る、いや黙ってしまう番だった。

 表情に出ているのかどうかわからないけれど、少なくとも僕の胸の内では大波が立っていた。

 まさか、僕以外の誰かが一瀬の事を認識していたなんて。

「あなたが真琴にしてあげられることは、なにもない」

「……いや、そうは言っても僕は彼女に言われたんだ。愛を教える代わりに私に恋を教えてって。それが彼女の未練だとか」

「違う」

 即座に否定された。

 少女の顔はマスクと眼帯によって隠されているため、表情から少女の心情を窺うことが出来ない。

 けれど声に感情がのっている。少女の「違う」はなにか憤りのようなものを感じた。

「……そもそもキミは何者なのかな」

「あなたに教える必要性が、ない」

「そうかな」

「あなたには関係、ない」

「でももう僕は一瀬真琴と関係を持っている。キミは僕が一瀬の未練を果たす関係を否定したけれど、事実それで僕は一瀬と関係を持っている。キミとは直接的な関係はないけれど、間接的な関係はあるかもしれない」

「………」

「だからまったく関係がないとは言わせないよ」

 傷だらけの少女の名前を聞きたい訳ではない。名前よりも少女と一瀬の関係性を聞きたいだけだ。

 少なくとも少女は一瀬と何らかの関係を持っていたのはたしかだ。友人、知人、先輩、後輩、かつての同級生。一瀬を下の名前で呼んでいるから、それなりに親密な関係だったのだろう。

 もう一度「キミは何者なのかな」と訊く。

 傷だらけの少女は、その額にある大きい傷跡に触れながら、重々しく言った。

「……幽霊で、殺人犯」

 少女の言ったことを理解するまでに数秒を要した。口から入り咀嚼して飲み込むように、聞いて言葉を理解し、僕の質問と繋がりを見つける。

 たしかに僕は何者なのか聞いた。遠回しに一瀬との関係性を聞いたつもりでもあった。

 けれど脳が理解することを拒んでいるみたいに、少女の言ったことを素直に受け入れられない。

「キミはなんだか、現実的でない人だね」

 そう言うと、少女の体が僅かに揺れた。

「ある意味、当たってる」

「でも、なんとなくだけどキミと共感する点がありそうな気がする。夜の旧校舎に立ち入って一瀬真琴のことを共通認識している時点で、すでに一つの共通点があるけれど」

「……異色な髪色をしているあなたと共通点なんて持ちたくない」

「手厳しいことを言うね。でもこれ、地毛だよ。僕の意思とは無縁なんだよ。ついでに言うと肌色も少し白いだろう。これも生まれつき。目立ってしまって仕方ない上に、なにかと腫れ物扱いされる。キミのその額の傷と同じようなものさ。なかには例外が居るけれど」

 腫れ物を容赦なく触ってきたのは、東京の高校に居た『不穏分子』と青井一樹だ。しかし双方は百八十度違う理由で触ってきた。

『不穏分子』は僕を本当の腫れ物のように、目障りだから早く消えてくれというような理由。

 一方の青井はやたらと僕に構ってくるが、今までの傾向で言えば彼の場合は善意のような、教室にいつも一人で過ごしている僕を独りじゃなくさせようとするお節介で。

「キミのその額の傷、どうしたのかな」

 そう訊くと少女は優しい手つきで傷跡を撫でる。

「………」

「答えなくてもいいよ。誰にでも訊かれたくないことなんて十個くらいあるだろうし、ただ僕が気になっただけだから」

「……そう」

 傷だらけの少女は額の傷跡を撫でる手を止めた。

 すると何の脈絡もないことを彼女は話し始めた。

「一つだけ忠告しておく。真琴に恋しても無駄よ」

「……言っていることの意味が分からないんだけど」

 話の飛び方。意味の分からない忠告。それを飲み込めず、首を傾げた。でも彼女は構わず続けた。

「ただ空しく終わるだけ。良いことなんて一つもない」

「悪いけれどそれは前提からして間違っているよ。僕は一瀬に恋慕の情を抱いているから彼女に近づいているんじゃない。お互いに知らないものを教え合う関係、利用し合っているんだよ。僕が彼女に恋を教え、一瀬は僕に愛を教える。そして彼女がいつか恋を知ることが出来れば未練が解消される」

「だから、違う!」

 辺りが静まり返っていることもあり、ソプラノに近い少女の声は廊下によく響いた。

「さっきも言っていたけれど、その違うって何が違うのかな」

 僕は一瀬に未練は恋を知ることだと聞いた。だからそれに従っているだけだ。

 しかし傷だらけの少女は先ほどから一瀬の未練内容を否定しているように思える。

 もう一度、何が違うのかを訊こうとしたけれど、少女は踵を返してそのまま闇へと消えて行ってしまった。追いかけようとも思ったものの、なんだか闇へと姿を消す前の少女の背中がこれ以上追及してこないでと無言の圧力を放っていた気がした。

 雷雲が過ぎ去った後のようで、僕はその場に立ち尽くしたままだった。

 視線だけを動かして外を見るとさらに辺りは暗さを増していた。

 僕はある可能性を考える。

 ――もし、少女が否定したとおり一瀬の未練の本懐があったとしたら。

 いや、そんなはずはないと僕は首を振る。少女にも一瀬の姿が見えている可能性は高いけれど、だからといって少女の言うこと全てが真実だとは限らない。

 ――それに僕が一瀬に恋慕の情を抱く?

 そんなことある筈が無い。相手はすでに亡き者の幽霊。たしかに姿は見えるけれど、触れるどころか会話すらままならない者に恋なんてするはずがない。

 僕は一瀬に恋なんてしないということを自分自身に証明するために、彼女の未練が解消して彼女が消えてしまう時の事を考えてみた。

 彼女は未練を解消して笑顔で消えるだろうか。彼女のことだから、きっと終始笑顔でいるんじゃないかと思う。そして彼女が消えて、僕は放課後を共に過ごした相手が居なくなる。それだけだ。

 想像してみて、やはり僕は一瀬に恋なんてしていないし、することもないと思う。

 だけど、なんだか胸にぽっかりと穴が開いたような虚無感があった。

 なぜだろうか。

 その虚無感の正体を突き止められず僕は暗い廊下で一人、胸を押さえていた。


     7


 一瀬と出会ってから三カ月近く経ったというものの、いまだに僕は愛というものを知らずにいた。

厳密にいえば、愛というものの概念は一瀬から教えてもらったので不鮮明ではあるけれど、なんとなく輪郭を捉えることは出来た。

 好き嫌いの問題じゃなくて、居てほしいか居てほしくないかだよ。

 以前に一瀬は、大雑把にそう口にしていた。

 ならば、愛を知らない僕は居てほしいと思う人がいないということだろうか。逆に言えば居てほしい人が出来たら愛というものを知ることが出来るということなのだろう。

 それはいつになるだろうか。予想できない未来に、ため息をついた。

 今は授業中。誰にも邪魔されずゆっくりと考えに耽ることが出来る。

 愛とは何だろう。

 恋とは何だろう。

 それらの定義や概念について僕なりに考えるけれど、なぜか間もなくして思考が鈍ってしまって、手中のシャーペンの先を眺めて呆けてしまう。

 僕が今まで一瀬に教えてきた恋は主に大叔母やネットの情報を頼りにまとめたものだった。だから僕なりのそれらの定義や概念はまだ欠片もない程度だ。僕のなかでしっかりとした骨組みが出来ていないから周りから得た定義や概念を肉付けしていっても、やがて綻びが出てきてしまい崩れてしまう。

 シャーペンをカチカチとしては出てきた芯をしまう循環作業を繰り返して、今日の授業は終わってしまった。

「とっきー、今日はずっと上の空だったね」

 青井がそう言ってきたのは帰りのホームルームが始まる前だった。担任がまだ教室へ来ていないから教室の中を歩き回っているクラスメイトが多く見られる。

「そう見えたの?」

「だってずうっと目が死んでる魚みたいだったよ」

「それは元からじゃないかな」

「でも俺がとっきーの方を何回か見たの、気付かなかったでしょ?」

 そう言われると何も言えなかった。

 生まれつきの髪色に向けられる視線には敏感な方で、僕に向けられる視線の大体は反応してしまうものだけれど今日は全くそれがなかった。

「……そうだね。キミの言う通り、今日は終始授業に身が入らなかったよ。だから後でノートを写させてくれる?」

「全然いいよ。むしろいつも俺の方がとっきーに写させてもらってたもんな」

 彼はくだけた感じの笑顔になった。

 青井は先の話題を掘り下げてきた。

「で、なんで上の空だったん?」

 その問いに答えとして真っ先に浮かんできたのは一瀬の困惑と笑顔が混同した表情だった。瞬間、胸を針で刺されたような痛みが走り、僕は自然と眉のあたりに力が入る。

 僕としてはこの話題をこれ以上彼に教えたくなかった。幽霊と少しすれ違いが生じた、と正直に彼に話すのは何か違うし、それよりも一瀬との会話に彼の話題が出てきた際に一瀬は明らかに反応した。僕の知らない過去の一瀬を知っている彼には何も教えたくなかった。

 次に浮かんできたのは、傷だらけの少女だった。

 だから、僕は後者の話を出すことにする。

「実は昨日も旧校舎に行ったんだ、夕方から夜にかけてね。そしたらキミから聞いた三つの噂の一つが現実になったよ」僕はわざとらしく少し間を空けて「傷だらけの少女に遭遇したんだ」と言った。

 青井が驚いて、この話に食いついてくるのが僕には目に見えていた。

 でも実際には違った。

 彼の表情から笑顔が抜け落ちた。僕が彼の笑顔ではない表情を目撃したのはこれで三度目になる。前回は野反湖にて、僕と語っていた時の真面目な表情だった。けれど今回のその表情は一度目の時と同じ、一瀬の座っていたであろう席を訪ねた時と同じ表情をしていた。

 表情が強張り、困惑の影に笑顔が隠れてしまった。

 え、という驚きの声を上げたのは僕でも青井でもなく、僕らの近くをすれ違ったクラスメイトの女子だった。たしか以前に一瀬の席を訪ねた時も青井ではなく彼女が説明してくれた。

名字は木下だったはずだけれど、下の名前は思い出せなかった。

「向坂くん。その傷だらけの少女って、何?」

 木下はそう問いかけてきた。

「木下さんは旧校舎の噂を知らないの?」

 旧校舎の噂、と彼女は復唱した。

 その噂は現に実在しているため噂と呼んでいいのか分からないけれど、話を円滑に進めるために僕は訂正せずに続ける。

「簡潔に言うと、女の子の幽霊と傷だらけの少女、それと毎月決まった日に誰かが置いたか分からない野反湖の写真。この三つの噂が流れているんだ。僕も青井から聞いて初めて知ったんだけどね」

 三つの噂を全て復唱する木下を傍らに青井は表情を険しそうな表情を浮かべていた。

「……何時頃なんだ?」

 ぎこちなく口を動かして青井は言った。

「大体、夜の七時半頃かな」

「そうか」

 彼の声の低さに驚いた。いつも陽気な声しか発さない彼がここまで何かを押し殺すような声になるとは。別人のようで、彼の印象とは不釣り合いなそれだった。

「僕は木下さんも噂のことについて知っているものだと思っていたけれど」

 彼女は首を振って、

「初めて聞いたよ、そんな噂。この町じゃ色々と狭くてちょっとした世間話も全部人伝で回ってくるけど。そうじゃないってことは最近出てきたばかりの噂なのかな」

 そこで僕は引っかかりを覚えた。

 以前に僕が青井から噂に関して知った際に、彼はその噂が流れるようになって久しいというようなことを言っていた。そしてそれをクラスメイトも口にしていると。

 そんなことないよ。

 僕がそう言おうとして、それを遮るように青井が話し始めた。

「木下は噂だけじゃなくて色恋沙汰とかも、そういう系の話は疎いからなー」

「ちょっと何よそれ。私のことバカにしてるでしょ」

「そんなことないよ!」

 脇腹を小突かれて青井は笑っていた。先ほどの別人は何時とはなしに姿を消していた。

 いつも通りの彼の姿だった。

「ところでさ、今度とっきーの家に泊まりに行っていい?」

 話題が車線変更したところで、木下は友人に呼ばれ僕らの所から遠ざかっていった。

「唐突で僕のことを考慮していない発言に、拒否以外の答えが返ってくると思っていたのかな」

「いつだって、提案自体は唐突でしょ?」

「屁理屈を言われても答えは覆らないよ」

「なら、とっきーの家に無理にでも行くよ」

 時折彼が見せるその強引な所に僕はうんざりとしていた。野反湖の時も彼が強引に僕を連れて行ったと言っても過言ではない。

 その強引な所には何か狙った意図がある、という事はいつも感じられない。その場その時の思い付きや感情にひたすら忠実なだけ。野反湖の件に関しても僕にあの景色を見せたいという事だけが頭にあり、それ以外のことは特に考慮、熟慮していない。

 でも、今日はそれが違って感じられる。

 先の彼があまり見せない表情や声があったからか、彼の目の奥に意図を孕んでいるように感じた。

 それを感じてから、返事の第一座席に居座っていた拒否という答えはその座から退いていた。

「……勝手にしなよ」

 一瞬の迷いから曖昧な答えが口からポロっと出た。

「やった!」

 青井の喜びの言葉が聞こえたと同時に教室のドアが開いて閉じる音が聞え、担任が教壇に位置して青井は自分の席へと戻って行った。

 彼の背中を目で追いながら、僕の中では疑心が芽生えていた。

 青井には何かある。

 その何かはまだ具体的には分からないけれど、大まかに分かっていることは一瀬との関係があったということ。ただの友人ではない関係が。

 それに旧校舎の噂に関しても。周りの皆が噂している、と彼は言っていたにもかかわらず、木下はその噂のことを知らなかった。彼が言うように木下がそういう噂などに疎いだけという可能性もあるかもしれないけれど。

 ホームルームを終え、転校してきた時以来、言葉を交わしていない他のクラスメイトに旧校舎の噂について聞いてみた。一応、知らない人がいるかもしれないということを踏まえて七人に聞いてみた。

 しかし、結果は全員から否定の返事が返ってきた。

 その時には青井がいつも浮かべている笑顔にすら疑心を抱いていた。


 今日、僕は一瀬に嘘をついた。

〝体調が優れないから、今日はもう帰るよ〟

 彼女がいるいつもの旧校舎の教室の黒板にそう書いて、本来なら彼女に貰う必要がないだろう承諾を得て帰路に就くことにした。

 一瀬との別れの際、彼女の微笑みのどこかに安堵のような表情が垣間見えて教室を去ろうとする歩みが止まりそうになった。僕の心の隅にも安堵のような感情が存在していたけれど、彼女のそれを見て寂寥感のようなものが一瞬顔を見せた。

 今まで彼女に真意を濁すという事は何度かあったけれど、明確な嘘をついたのは初めてだった。罪悪感もあったけれど、それ以上に今日は無性に彼女と顔を合わせるのが辛かった。その理由がハッキリとは分からない。

 帰宅して家の玄関の鍵を回すといつもの小気味良い感触と鍵が開く音がせず、空回りしたような感覚があった。

 一瞬、空き巣の文字が脳を過ったけれど、冷静に考えれば鍵が開いていた理由が判明した。

 合鍵を持ち合わせている大叔母が今日は来ると前日に電話で言っていたことを僕は思い出し、安堵と面倒な感情が混じったため息が漏れる。

 せめて今日は一人が良かった。大叔母が来ていることを忘れて空き巣が家を荒らしに来ていたと勘違いしてしまうほどに、今日の僕は冷静さや思慮する力を欠いていた。正確には最近の様々な原因による疲れが蓄積していて、それが今日ついにキャパを越えかけたのだ。

 重い玄関のドアを開け、重い足取りで玄関の敷居をまたぐと大叔母が僕の帰りを待ち構えていたかのように、正面に居た。

「おかえりなさい、時人くん」

 和やかな声と表情で大叔母の和子さんは僕を迎えた。

 柔らかなウェーブのかかった髪が顔のサイドで揺れている。六十を越えた年齢にもかかわらず、まだその年齢に見合わない見た目の若さとヴァイタリティを備えている。ヴァイタリティでは僕よりも富んでいると思うほどだ。

「ただいま」

 僕がこの町へ移ってくる時から何かと和子さんにはお世話になっている。荷物の移動や転校の際に保護者としての付き添い。他にも色々と。まだこの地に慣れていなかった僕にとっては幼少期の頃から顔を知っている和子さんの存在が大きかったのも事実だ。

 今日に限っては別だけれども。

「今日は寄り道してこなかったのね」

「寄り道、ですか?」

「学校の旧校舎にいつも寄っているんでしょう」

 なぜそのことを知っているのか、訊こうとするよりも前に和子さんが続ける。

「私の耳にまで届いてるのよ。越してきたばかりの子が旧校舎に足を運んでるってね。あそこはもう使われなくなって何年も経つから結構目立つものよ?」

 木下が言っていた通り、どうやら本当にこの町は色々と狭いらしい。

 ということは、僕が旧校舎に行っていることを木下だけでなく他のクラスメイトたちも知っているのだろうか。あまり他のクラスメイトたちとは接点がないから訊かれることもなかった。

 であれば旧校舎の噂のことは、和子さんは知っているのだろうか。

 話の流れをうまく使って訊いてみたけれど、和子さんからもその噂に関しては初耳だという答えが返ってきた。

「その噂目当てに旧校舎へ足を運んでるのかしら」

「違いますよ」

 一瀬の時とは違って、嘘の答えがすんなりと出てきた。

「ただああいう廃れたような建築物に興味があって探検しているだけです」

「そう。なら無茶はしちゃだめよ。床が腐って、いつ抜け落ちたりしちゃうか分からないもの」

「はい。気を付けます」

 それから和子さんと夕食を摂っている最中、学校の様子などを聞かれた。

 僕がこの町へ来ることになった経緯を知っている和子さんは、学校のことについて訊かれることが多い。

 こんな僕に心配をかけてくれるのは申し訳ない気持ちになる。

 一度、心配なんてしてくれなくても構いません、と和子さんに言ったことがあった。

 その時は、まず怒られた。心配するのは当り前よ、と。

 なぜその時に怒られたのか僕には分からなかった。経緯を知っているのならなおさら、僕にはあまり関わりたがらないのが普通ではないか。

それなのに、心配するのは当り前よ、と。

 怒られたのだから僕の取るべき行動は、ごめんなさい、の一択で素直にそうした。反射に近い行動だったけれど、それが正解なのはたしかだった。頭を下げ、上げた後の和子さんの表情は柔らかな微笑みだった。

「友達が出来たみたいで良かったわ」と和子さんがそう言って、僕は啜っていた味噌汁から視線を上げた。

「僕に、ですか」

「ええ。こないだ道の駅の食堂に男の子と一緒にいたでしょう。たしか青井さんの息子さんだったかしら? あの時、私もご近所さんたちと居たのよ。声をかけようと思ったのだけれど、楽しそうにしているところに水を差すわけにはいかなかったから、遠目で見ていたの」

 友達、と僕は復唱した。

 傍からはそう見えていたのか。

 けれど楽しそうにしていたというのは、否定しなければならなかった。

「彼を友達と言えるかどうかは分かりませんが、楽しかったというわけではありませんよ」

「そう? なんだか活き活きとしているように見えたから」

 活き活き。

 どうやら僕には分からないだけで、和子さんは視力が劣ってきているようだ。

 道の駅の食堂で青井と話していたことといえば、旧校舎の噂。僕が初めて青井から噂について知った時だった。

 その会話内容が聞こえていないにしても、あの時に僕が活き活きとしていたというのは完全な見誤りではないだろうか。

「そんなことないですよ」

「でも今私とこうして面向かって食事しているよりも楽しそうだったわ。ちょっと青井さんの息子さんに嫉妬しちゃうわね」

 和子さんはご飯を口に運び、「冗談よ」と言って笑った。

 味噌汁へと視線を落とす。

 そこに映るのはいつ見ても変わらない僕自身だ。口を真横に一文字。動くことなく変わらないという意味で絵に描いたような目。自分でもつまらなそうな表情をしている奴がいると思う顔だ。石造みたいに動くことはないのではないかと思っているほど。

 けれど和子さんにはこの顔が時々によって変わるように見えるらしい。不思議極まりない。

 僕自身さえも自分の笑顔が想像つかないのに。

 最後に笑ったのはいつだろう。作り笑いしたのは転校前の学校であったけれど、本当の笑顔というのは思い出せない。

 食べ終えた後に残った食器類を片付け、居間で食後の休憩として湯呑に入れた日本茶を飲んでいると再び和子さんから話しかけられた。

「そういえば、もうあの質問は来ないのかしら」

 僕が首を傾げると、

「二カ月くらい前に、恋ってなんですかねって質問してきたじゃない」

 と和子さんは口角を上げた。

 その質問というのは僕が一瀬に教えるために和子さんに訊いてみたことだ。

 インターネットを使って恋というものを調べてみたものの、さすがに情報量が多くて恋についての正確性に欠く情報もあったため、生身の人間に訊く方が早いだろうと判断した結果で和子さんに訊いたのだ。

 和子さんはそれを僕が誰かに恋している、と勘違いしているのだろう。だから猫のような、意地悪い笑みを浮かべているのだ。

 なぜ大人というのは若い人間の恋の話となると薄ら笑いするのだろう。話を聞きながらいつしかの自分と重ねて甘酸っぱい思い出を想起したいからなのか。失った過去を思い出すというのは、良き過去の記憶がない僕からすれば得になることがないから理解しかねるものだ。

「今のところは、ないですね」

「そうなの」

「はい。ちなみに僕のこととは関係のない質問だったという事だけは了知しておいてください」

 はいはい、と和子さんは空返事をした。

 それにしても、と和子さんは続ける。

「時人くんくらいの歳の頃、私も恋してたわ」

 やはり僕の予想通り、大人は若かりし頃の自分と重ねたがるようだ。

「そうなんですか」

「ええ。相手は兄さんだったけどね」

 興味の惹かれない話が始まるなと思っていたけれど、唐突な告白に僕の聴覚神経は和子さんへと集中した。

「祖父、ですか」

 勘違いではないと確認するために、一つ一つの言葉にさえ神経を注いで、そう訊いた。

 僕に隔世遺伝を受け継がせた本人。でも恨みは微塵もない。

「そう。歳が近かったら恋することなんてなかったのだろうけれど、私と兄さんは歳が離れてたの。いつ兄さんに恋したの、なんて聞かれると明確にそのタイミングは思い出せないけれど、でも自覚したのは兄さんが結婚するって決まった時かしらね。皮肉にもね。本人から直接結婚するっていう話を聞いた時、もちろん嬉しい気持ちが一杯に溢れたわ。でもその反面どこか寂しいところもあって。そして兄さんが結婚相手を家に連れてきた際に、その奥さんとの会話とか何気ないやり取りをしているのを見ていて気付いたことがあったの」

 もったいぶるように一息ついてから和子さんは再開する。

「奥さんがね、すごく幸せそうな顔してるの。もういつ死んでも構いませんって言わんばかりの。その時に、兄さんみたいな人と結婚したいって思って、そこから不思議と兄さんを目で追うようになっちゃったのよ。生まれつき遺伝子疾患で髪も肌も白かったけれど、そんなの全く気にしなかったわ。小さい頃は可愛がってもらっていたからっていうのもあったけれど。もしかしたら私のどうしようもない恋のわがままも聞いてくれるのではないのかなって思ったりしたこともあったわ。でも叶うはずもない恋だってことは自覚してたの。だから結局、想いは届かず仕舞いに終わったのだけれどね」

「……まるでドラマみたいな話ですね」

「でしょう。でもたまに、想いを伝えても良かったのかもしれないとか思ったりもするわ」

 僕は首を傾げる。

「なぜです? 和子さんが想いを伝えなかったからこそ平穏で円滑に過ごせてきたのではないですか」

「そうね、たしかにそう。私は義姉さんの事も大好きだったから、伝えなかったのが正解かもしれないわ」

「じゃあ、どうして」

 リスクしかない行為を後悔することに理解できず、僕はそう尋ねる。

「もしかしたら、万が一っていうじゃない。極々僅かな可能性だけでもあったのなら、その僅かに希望を託したいじゃない。結婚していて、しかも実の兄妹。手の届かない存在ではあったけれど、手を伸ばしたくなるものじゃない。恋ってそういうものだわ」

 僕にはやはり理解出来なかった。僕の祖母が和子さんの義姉にあたるけれど、祖母のことを好いて家族として受け入れていたのなら、わざわざそれを壊すようなことはしようとは思わないはずだ。

 でも平穏で幸せに満ちた日常を崩壊させてしまうかもしれないというリスクを背負ってまで想いを伝えても良かったのかもしれない、と和子さんは語る。

「強欲は身を滅ぼしてしまいますよ」

 それが僕の意見だった。

 その状況は甘んじて受け入れるべきだ。

 自ら身を傷つけるような真似はしなくていい。

 けれど、和子さんは首を振った。

「それは違うわ。身を滅ぼしてでもしない限り、本当に欲しいものは手に入らないものよ」

「………」

「矛盾してる、と思っているでしょう。そんなものよ。恋は思案の外っていうように、恋をすると盲目になるし自分でも予想外の行動をとることだってある。損得とか、効率とか、生産性とか、そんなのどうだってよくなるの。以前言ったけれど、恋は、最初は自分のためよ。自分が良いと思えば何だっていいのよ、極論ね。でも私は兄さんと義姉さんに幸せになってもらいたかったから、自分の想いを押し殺したの。これだって自分を傷つけるようなものでしょう。兄さんの幸せが欲しくて、私は自分を傷つけた。そして手に入れたのよ」

 私を含めみんなが幸せになる道を。

 そう最後に付け加えて、束の間の沈黙が広がった。

 少し想起することに熱中していた和子さんは我を取り戻したらしく「ごめんなさいね、急なカミングアウトでこんな重い話をしちゃって」と言って笑った。

 僕はこうして、和子さんが独身である所以を知った。

「……やっぱり一つ質問してもいいですか」

「ええ。六十以上の年月生きてるから大抵のことは、答えること、出来るわよ」

 する予定のなかった質問を僕は和子さんに突きつける。

「愛って、何ですか」

 僕の根底にある疑問で、僕に欠けているもの。

 そして僕の知らないもの。

 恋よりも複雑で、理解できないもの。

 その答えを知りたいから、単刀直入にそう訊いた。

「分からないわ、私にも」

 答えが来ると思って身構えていた緊張が解けた。

「大抵のことは答えられるのではなかったんですか」

「大抵は大抵。全知ではないもの」

 僕は落胆のため息が少し漏れた。

「愛に正解があるなら誰だって知りたがるわ。それに正解があるのだとしたら世界中の誰もが幸せになれる。その正解を目指していくだけでいいのだから」

 たしかにそれはもっともだ。世界中の人間が幸せになれるのだったら戦争も必要ないし、国境や人種などといった隔たりもなくなる。

「でも実際には愛に正解なんてない。例えば愛の象徴とも言える結婚というものが何の意味を持つと思うかしら?」

「……法的な意味を持つ、じゃないですか?」

「そうね。お互いを想い合う人たちが一緒にいたいと思っているのであれば、別に結婚しなくたってもいいの。ただ一緒にいればいいだけの話だから。でも結婚するのは、法的な意味を持つことに躊躇しないほどの愛を感じている。つまり、結婚するっていうのは一つのラインなのよ。そのラインは人それぞれだけれど、結婚という一つの儀式を行えば周りにも、私たちはこれだけ愛し合っていますよっていう風に了知してもらえるのよ」

「つまり、結婚はお互いが愛し合っていると再認識する一つの手、ということですか」

 和子さんは頷き、湯呑を口に運んだ。

 しかし、僕が訊きたかった話の路線からは脱線してしまっていて、僕の納得できる筋ではなかった。

「そもそも僕が知りたいのは、愛というものの概念や定義そのものです。前に和子さんから恋は自分のため、というのを聞いて納得することは出来ました。でも、僕にはその恋と愛の差異が判別できません。一口に愛といっても様々な種類があるじゃないですか。恋人の愛情。家族の愛情。これの何が違うんですか」

 前のめりになって拳に少し力が入っているのに気が付いた。僕は姿勢を戻して、湯呑に残った茶を全部飲み干した。苦くて渋い味が舌に残って顔を僅かにしかめる。

「……どうしてそんなにも愛に執着して知りたがるのかしら?」

 今度は僕に質問を突きつけられた。

 そう言われて疑問が浮かんだ。

いつから僕は愛について知りたがるようになったのだろう。愛のない環境を甘んじて受け入れてきたはずなのに。一瀬と恋と愛を教え合うようになってからだろうか。いや、当初は愛を知りたがっていない僕にどうやって愛を教えるのかという方に興味が惹かれていた。

 本当にいつから知ろうと思ったのだろう。

 その疑問を残したまま、和子さんの質問に答える。

「理由は、分かりません。でも知らないままでいるのはなんだか歯痒くて。最近そう思うんです」

 自分で『最近』と言って、最近知りたくなったんだと気付いた。

でもきっかけは覚えていない。

「……さっきも言ったけれど、私にも分からないわ。結婚というラインと同じで、愛自体も人それぞれよ。純愛、歪愛、性愛、偏愛、恋愛。ころころと形を変えるものよ、雲みたいにね。だから実際は誰も愛なんて手に入れることは出来ていないのかもしれないわ」

 意見を言おうとすると、それよりも早く和子さんが続ける。

「けど、恋と愛の違いは明確にあるわね」

 僕は少し前傾姿勢になった。

「それを知りたいんです」

 一瀬に教えるために。僕自身のためにも。

「恋は自分のためって言ったの、覚えているわよね? なら、自然と違いに辿り着くわ」

「……恋の延長線上ということですか」

 すると和子さんは一度肩を大きく上下させて呼吸をする。

 そして微笑んだ。

 僕の予想した答えが正しいのか違うのかを答えず、

「辿り着く先は、自分で見つけなさい」

 と言って、和子さんは立ち上がり湯呑を台所へと持っていった。

 曖昧で不鮮明な答えを残していったおかげで僕は悶々としていた。

 和子さんが居間から出ていく際に僕は「どういうことですか」と力の入った声でそう訊いた。

「人間だもの」とどこかで聞いたフレーズを残して和子さんは出ていった。

 答えは自分で見つけろ、人間とはそういう生き物だ、ということだろうか。和子さんは達観したことばかりを言うから、十七年しか生きていない僕には六十余年生きてきた人の真意は掴めない。

 その後、和子さんは自宅へと帰り、静けさと数々の疑問が残ったままだった。その日、僕はなかなか寝付けず、朝方にようやく眠りについた。


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