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記憶に新しい一瀬と出会いも一カ月半前。
十月中旬になると山は紅葉で染まっていた。
転校初日に色んな意味で珍しい僕を質問攻めにしてきたクラスメイトたちも今では落ち着きを取り戻していた。来る質問を淡々と作業のように答えていた僕の性格を理解して話しかけてくる人は居なくなった。
ただ一人を除いて。
「とっきー!」
授業の合間の休み時間。勝手にあだ名をつけて僕に話しかけてきたのは青井一樹だった。
向坂時人の『時』で、とっきー。
憎たらしいけれど、彼は好青年だ。僕がどう思っているかはともかく、一般的な人からすると彼は間違いなく好青年と言われるだろう。黒髪の短髪、背が高くて体格も良い、純粋な色に染まった性格をしている。なぜ彼のような人が都内にはいなくてこんな山間の田舎にいるのだろうと最初は思ったけれども、田舎だからこそ彼のような人がいるのだろう。
常に笑顔だ。僕に話しかけてくる時も。
僕は最初、聞こえないふりをする。
「とっきー!」
案外、しつこい。
「……何だい?」二回目の声掛けで気がついたふりをする。
「あのさ、今度の月曜日、ひま?」
「平日じゃないか」
「なーに言ってんの、月曜は土曜の体育祭で振り替え休日じゃん!」
そういえば、そうだった。
今週の土曜日はこの学校の数少ない行事の一つ、体育祭が行われる日だった。あまり関心がなかったからうろ覚えの記憶だけれど、この学校の生徒だけでなく町内の色んな人も参加する、いわば町民運動会のようなものだったはずだ。主催はこの学校である筈なのに参加者の大半が高齢の人ばかりだという。メインがどの年代なのか分からなくなる。
もちろん、仮病するつもりでいる。
「……そうだったね」
「なにも予定入ってないでしょ?」
「あー……僕は部活が」
「帰宅部のくせに、なに言ってんだよ」
青井は高く笑った。
「そう、帰宅部だから家に居なくちゃいけないんだ。その日、外に出ると部のルールに違反することになってしまうんだ」
「おもしろいこというな、とっきーは」
もちろん家に居なくちゃいけないというは嘘だけど、その日も旧校舎へ足を運んで一瀬と喋らない会話をする予定だった。
けれどそんなことは誰にも言えず、彼もその例外ではない。
「とりあえず、なにも予定はないんでしょ? だったら、出掛けようぜ。とっきー、もうここに来て二カ月くらい経ったけど、知らない場所とかまだいっぱいあるでしょ。町の案内しながら、いい所に連れてってあげるからさ!」
だから彼の強引な誘いをすぐに断ることが出来ず、悩んだ末、とりあえず今だけ僕は諦めた。当日にキャンセルするという手もあるから。
「わかったよ。でもそんな遠くまで行くのは嫌だな。足になるものがないんだ、自転車すらも」
「ああ、なら平気だよ。俺、普通二輪の免許持ってるし、バイクもあるから俺の後ろに乗りなよ!」
「……何が悲しくて、休日に男とタンデム走行しなくちゃいけないんだ」
「そんな悲しいこと言うなよー。いいもんだよ。この時期なら紅葉も見れるし、ここよりもう少し奥に行くと渓谷があってさ。そこなんかすんごいよ」
青井の話をラジオのように聞き流しながら他のクラスメイトに目を向ける。
教室には僕を含めて全員で十五人居る。新築の木の匂いがする広い教室には不釣り合いな人数だ。僕と青井を除く残りのクラスメイトは寝ている人もいれば、友人と会話をしている人もいる。その中には僕と青井の珍しい組み合わせを不思議な視線で見てくる人もいた。それに気づいたのは僕だけだろう。
視線を青井に戻す。
彼は相変わらず笑顔だ。何を話している時も彼は終始その表情を保っている。
でも僕は一度、夏休みが開けて間もない頃に彼のその表情が崩れたときを見たことがあった。
この教室はその時も今も十五人の生徒が居るけれどけれど、実は机と椅子のセットが一つ余分に置かれている。窓側の一番後ろの席。転校初日は欠席で休んでいる人がいるのだな、とあまり気にはしなかった。しかし翌日も翌々日も、何日が経ってもその席に座る人が現れなかった。
そのことに関して、青井に訊ねたことがあった。
「あそこの席は、誰の席なの?」
と。
瞬間、彼の表情が強張って次第にいつもの笑顔が困惑の表情に隠れてしまった。彼は言葉を濁すだけで何も答えずにいた。
彼への質問を聞いていたのか、ある女子が彼の代弁をした。
「あそこの席は、実は、一瀬さんっていう人で……その……」
それを聞いて僕は色々と理解した。
「ああ、なるほどね。大体分かったよ、教えてくれてありがとう」
そう言って、代弁してくれた女子のその先の言葉を遮った。
あそこの席は一瀬真琴の席だったのだろう。数少ないクラスメイトを失った優しいクラスメイトたちが彼女の席を残してくれているのだと、僕は思った。
そうなると、一瀬が亡くなったのは今年の春よりも後ということになる。彼女が座っていた席があそこなのだとしたら、進級した春よりも後だろう。僕は初めて彼女が今年亡くなったのだと知った。
すぐ青井の表情を窺ったけれど彼は、いつもの笑顔に戻った。
彼の笑顔以外の表情を見たのはそれきりだ。
僕の目の前にいる彼の表情は、その時から変わらない。
「──ってことで、昼頃にとっきーの家に迎えに行くよ!」
彼の話を聞き流していたらいつの間にか、月曜の昼に迎えに来るということが決定事項になっていた。
もっと真剣に彼の話を聞いておくべきだったと、僕はため息交じりの息を吐いて、次の授業の開始を知らせるチャイムを迎えた。
幸運なことに体育祭の行われるはずだった土曜日は雨で、一年に一度の行事は中止となった。担任に虚偽の申告をする手間が省けて、微かにあった罪悪感から解放された。
ついでに月曜も雨よ降れ、嵐よ来いと願っていたのだけれど生憎の快晴だった。山間では天候が崩れやすいので悪天候を願うばかりだったのに、青井が迎えに来る頃になってもその願いが僕の期待に添うことはなかった。
彼は十二時ちょうどに、軽やかなバイク音とともに参上した。
インターホンを鳴らせばいいものを、彼はわざわざ大声で僕を呼ぶ。
「とっきー! きーたーよー!」
周りにほかの住人が住んでいない所で良かった。なぜ田舎で育った人はこういう人が居るのだろう。僕の大叔母もそう離れていない所に住んでいるけれど、僕の様子を窺うために時たま訪問してくる。その度に青井と同じようにインターホンを鳴らさず、僕の名前を大声で呼ぶきらいがある。
目覚めているのに目覚まし時計が鳴るような、それに似た感じだ。
「……やあ」
渋々、玄関から顔を出した。出なければ家に乗り込んでくる気さえした。
ここまで彼が図々しいというか強引な人物だとは思っていなかった。断る理由をいくつか思いついてはいたけれども、それはそれで後日が面倒臭いことになりそうで。僕は天秤にかけて、今日は彼に大人しく振り回されることを選んだ。もう一方を選んだとしても後悔することには変わりなそうだ。
「なんだか元気がないみたいだね」
僕の気など知らず、能天気に彼は言った。
「フルフェイスヘルメットのキミは顔色すら窺えないよ」
「俺はこの通り元気だよ!」
自身の元気さをアピールしたいがために青井はバイクをふかす。これまたうるさくて僕は耳を手で押さえた。
とても辛い。今日一日、彼に振り回されるのだと思うと、一瀬との喋らない会話が安らぎの時間に思えた。
僕は項垂れながら彼からヘルメットを受け取り、彼のバイクの後ろに跨った。初めてバイクの後部座席に座ったものの、予想していたより硬くて座り心地が悪かった。
「よし、行こうか!」
「って、どこに?」
「まずは町をぶらり旅かな」
後部座席についている突起のような物を掴んで、彼が走りだすのに備えた。
走りだすかと思いきや青井は後ろ振り向いて「これ、いいバイクでしょ?」と自慢してきた。
「……というと?」
「400ccのフルカウル! スタイリッシュなボディがもうサイコーでしょ! この緑色と黒に染められたのも、もう俺の好みにドンピシャでさ!」
僕は何一つ聞いていないのに、彼が一から話し出すと十も出てくる。バイクのことに興味がないからどこが素晴らしいだのと言われても僕には分からない。
エンジンの音で何も聞こえなかったということにして、僕は何も言わなかった。
そして都内で聞いていた時とは少し違う感覚の音でバイクは走り出した。
今現在、僕が住んでいる家の目の前には比較的新しい道路が通っていて、そこは新道と呼ばれ、その新道の脇から続く急な坂道を下っていくと旧道と呼ばれる道路に出る。
この町は何十年も前からダムが出来るという話が持ち上がっていて、そのダムがつい何年か前にようやく本格的に着工した。それに伴って、雨が多く溜まると旧道はダムに巻き込まれてしまう可能性があるため、ダムの危険水位に近い旧道よりも上に新道を作ったのだという。
まだ通行可能な旧道に出るため、青井は急な坂道をバイクで下っていく。そんなに速度は出ていないとはいえ、結構恐怖心がある。
坂を下りきり旧道に出るとT字路へ突き当たった。左へ曲がるとスーパーマーケットや道の駅が集うこの町の最も人が集まる場所へ向かう。右へ曲がると山奥へ続く道。彼は「最初はこっちへ行こう」と言ってスーパーマーケットなどがある方向へ続く道を選んだ。
数分して道の駅へと着いた。
この町で最も人が集まる場所と言ってもそれはあくまでこの町の基準なので、僕からしたら閑散としているように見えた。道の駅の駐車場にある車はいずれも県外のナンバーで、近くを歩いている人は大抵が子連れの親子、それか地元の人間だ。
ここで昼飯を食べようという話になり、僕と青井は道の駅の中にある食堂でそれぞれ昼食を取る。
その最中に、
「とっきー、よく学校の旧校舎に行ってるよね」
と彼が突拍子もなく、話題を振ってきた。
ほぼ毎日、放課後や休日の昼間に旧校舎へ足を運んでいるので誰かしらにその姿を目撃されることは頭の片隅にあった。けれど、その誰かしらが彼だとは思っていなかった。
カレーライスを口に運ぼうとしていた手を止めた。
「よく知ってるね」
僕はカレーライスを口に運ぶ。
「うん。俺、バスケ同好会じゃん? 居残りで体育館に残ってるとさ、たまにとっきーが旧校舎から出てくるの見たことあるんだよね」
青井の言うバスケ同好会とは、人数が足りず部活動に認定されない集まりらしい。彼が旧校舎から出てくる僕の姿を見たのと同じように、僕は体育館で遅くまでバスケの自主練習をしている彼の姿を何度か目撃したことがある。彼の練習量は、本来の部活動の練習量を知らない僕が見ても明らかにストイックだと分かるほどだ。彼の努力が報われない姿を視界に入れながら帰る時がしばしばあった。
「キミは夜遅くまで練習しているんだってね」
でも、僕は彼のその姿を見たことを言わない。その姿を、知らないふりを続ける。
「でさ、いつも旧校舎で何してんの?」
さすがに幽霊と喋らない会話をしているとは言えない。
「特に何もしていないよ。何か珍しいものでもないかなって探検しているだけだよ」
「そうなんだ。じゃあ、とっきーは知らないかな?」
「何を?」
青井はラーメンのスープを飲み干して、珍しく悪戯っぽい笑顔を浮かべて言う。
「旧校舎の噂ってやつ」
それは初めて耳にするものだった。
「噂?」
「そう。あの旧校舎には幽霊が出るとか、傷だらけの少女が旧校舎を徘徊するとか、毎月決まった日に湖の写真が置かれる摩訶不思議っていう噂。結構前からクラスのみんなも噂してるんだけどなー」
その噂は三つで構成しているらしく、どうも僕はそのうちの一つに覚えがある。幽霊とは言わずもがな、一瀬の事だろう。でも、その他の二つは知らない。一カ月半もあの旧校舎に足を運んでいるけれども傷だらけの少女、湖の写真は目にしたことがない。もしかしたら僕のタイミングが悪いだけなのかもしれない。いや、タイミングが良いのだろうか。
「七不思議になるにはあと四つ足りないね」
「いやーこれだけでもスゴく怖くない?」
「キミも東京に行けば、幽霊よりも人間の方が色んな意味で怖いって分かるよ」
「なんだよ、悲観的だなー。もっとこう、怖がったり話を盛り上げたりする気はないの?」
最後の一口のカレーライスを食べて、僕は食器を返すために立ち上がる。
「そういう性分になってしまったから、難しいね」
彼のブーイングを背中で聞きながら僕は食器を返しに行った。
駐車場に戻り再びバイクに跨った。
「それで、次はどこへ行くの。僕の家?」
青井は苦笑してヘルメットを被る。
「とっきーの家に戻るのはまだ早いよ」そう言って前を向いて「さっき話した旧校舎の湖の写真、実は俺、見たことがあるんだ」
「へえ」
特に驚きはしない。噂が真実になっただけだ。
「その湖ってね、実はここから近いところにあるんだよ。俺も行ったことがある場所で、だからそこに行こうかと」
「いや、なんで」
「単純に綺麗だからだよ、景色が」
エンジンが動き出す。僕に有無を言わさず、青井は走り出した。
道の駅まで来た道を逆戻りして行き、先ほどのT字路のところを今度は反対方向に進んでいく。すると先ほどは目につかなかった小さな案内標識があった。それには『野反湖まで三十キロメートル』と表示されていた。
あまり声を張るのが得意ではないけれど、エンジン音と風をかき分ける音にかき消されない程度の声で青井に問いかける。
「行き先は野反湖ってところなのかな」
彼は振り返らず、僕よりも声を張って答える。
「そうだよ!」
「三十キロメートルって書かれていたけど……」
時速三十キロメートルで走って一時間。倍の速度で走っても、信号停止や休憩を見積もっても三十分以上は容易にかかる。
「そうだよ! ちょっと遠いけどね!」
「体力というか、尾骨に限界が来そうだ」
「なら、運転代わる?」
「バイクの免許なんて持っていないよ」
「取っちゃいなよ! とっきー、どうせ暇なんだから!」
やかましいなこの男、と思ったけれども口には出さず、それで黙った。
目的地までの道中は曲道や坂道がサーキット場のようにいくつもあった。ほぼ一本道で交差点はなく、進めば進むほど民家が見られなくなった。代わりに紅葉が増えて、自然のトンネルをずっと走っていった。
エンジンの音と空を切る音だけの中で、一瀬は今何をしているのだろうと、ふと思う。
彼女は幽霊だ。あらゆる物に触れられない。そんな中で僕と喋らない会話をしていない時はどう過ごしているのだろうか。物に触れられないということは、本を読んだり、スマートフォンをいじったり、暇を潰すという行動が出来ない。
それに幽霊は睡眠するのだろうか。もしそれも出来ない体なのだとしたら、一日の大半の中でどういう事を考えているのだろう。眠れないということは、思考を止められないということだ。僕が彼女と同じ体になってしまったら、堪えられないかもしれない。
でも僕が幽霊になるには、必須条件である未練というものがない。今も草原の上で何もせずにそのまま訪れる死を待っていてもいいと思ってしまっているから。
そして僕は死んでも未練はないのだな、ということに初めて気が付いた。決して満足しているから未練がないという事ではなく、その真逆だ。何もかも僕は持っていないから、未練すらも抱かない。僕が死んだとしても誰からも気付かれないのではないだろうか。
死のうと思えば、いつだって人は死ぬことが出来る。舌を噛み切る、走行中のバイクから頭を下にして飛び降りる。様々な方法で容易くその命を絶つことが出来てしまう。
一瀬が亡くなった理由はまだ知らない。でも彼女には未練があるということは、不本意の死だったのだろう。
もし僕が死んだら幽霊となって彼女に触れてみたりすることは出来るのだろうか?
そんな疑問というか興味が湧いた。
幽霊同士となったら触れる事は出来るのだろうか。
彼女と普通の会話が出来るのだろうか。
単純にそう思った。
けれどすぐにその考えは僕自身に否定された。僕には未練がないから死んだとしても幽霊になることはない。
でも死んだら僕は彼女と交わした取引―――彼女が僕にどうやって愛というものを教えるのかという結果を知らずに死んでしまうのは、僕の本意ではない。
ということは、これは未練なのだろうか。
だとしたらずいぶんとチープな未練だなと思う。何かに興味を持っていてその答えや結末を知らずに死ぬことで、それが未練となるのならば世界中の人は幽霊となり溢れてしまうだろう。
一瀬も恋というものに興味があって死んだ、というだけなのかもしれない。たった一つの興味が未練になって彼女は幽霊となった。
そう考えると今まで色んな意味で遠くて対極的な存在だと感じていた彼女が少しだけ身近に感じられた。
およそ四十分の時間。彼女の事を考えていて、運転手と一切話をしなかった。
野反湖は群馬と長野の県境に位置するところにあった。
実のところダム湖でそれなりの面積がある。
ダムとは言ってしまえば人工的なもののはずなのに、しかし微塵もそう感じないほどに自然的だった。
群馬県は山に囲まれている県として有名であるため、県境に位置するこの湖も山々に囲まれている。ここの標高自体もかなり高い場所にある。
「とっきー、どう? めちゃくちゃ綺麗でしょ!」
遊歩道を下りていった先の湖のほとりで青井はそう言う。
僕もそこから湖と僕らを囲む紅葉に染まった山々を見渡す。
山々に囲まれているというのにとても開放的で、紅葉の朱色と湖が反射する空のパステルカラーがお互い主張しながらも決して邪魔し合わないように自然と溶け込みあっている。
まるで湖を中心に世界が成り立っている。そう勘違いしてしまいそうになるほど現実とはかけ離れた景色だ。
そして、なぜだか懐かしいような感じがした。デジャヴというやつだろうか。
「……すごいよ」
「そうでしょ! 来てよかったでしょ!」
悲観的で滅多に素直な感想を口にしない僕の口から自然と賞賛の言葉が出た。
青井曰く、この湖は別称で『天空の湖』と呼ばれているらしい。たしかにその名に相応しい標高であり、何よりその『天空』という名前の響きが非現実的で、少し興奮することすら覚えた。
近くに上方から湖を眺めることが出来る展望台があるらしく、青井に誘われてついて行った。展望台に着くまでの道は山登りと何ら変わらない傾斜の階段で、普段あまり運動しない僕にとっては激しい運動だった。普段からバスケで体を動かしている青井は辛そうな表情を見せるどころか急な傾斜を走る余裕の姿を見せた。
実際に展望台に着くとそこは展望台というよりも休憩場所というほうが正しい場所だった。その場所はまだ先へと続く階段の途中であったし、木のベンチが一つ放置されたように置いてあるだけだった。
それでも展望台と呼べる定義には当てはまっていた。
さっきは湖の淵に居たから見えなかったけれど、眺める角度が変わると湖は見事に青く澄み渡った空と周りを囲む山々を映し出していた。その光景は逆さ富士よりもボリビアのウユニ塩湖を彷彿とさせる。
天空の湖と天空の鏡。
ウユニ塩湖はまさしく鏡だけれど、野反湖はどちらかというとキャンバスのようだ。空の青色と山の緑色と紅葉の朱色が描かれているような感じで、僕は様々な色がある目の前の湖の方が綺麗に思えた。
「すごく、いいね」
秋の香りを含んだ風に吹かれながら、僕はそう言った。
この光景は、青井に強引に連れ出されたことと長い時間かけて辿り着いた苦労にお釣りがくるほどの価値があった。
「ここに来てよかったでしょ?」
青井は嬉しそうに歯を出して笑った。
欲を言うと一人で来て長い時間この光景を沈潜したかったけれど、彼に誘われなければこの光景を知ることも出来なかったし辿り着く手段もなかった。
「……申し訳ないけど実はキミが僕の家に来る一秒前まで、雨よ降れと祈っていたんだ」
「どうして?」
「キミが苦手だから」
「おっと、唐突な告白だな」
「いやもっと前から、キミに話しかけられる度に僕は嫌悪の表情を浮かべていたんだけど、キミは気付かなかったみたいだからさ」
「マジか! 全然気付かなかったよ。凹んじゃうなー」
本当に気付いていないとは思っていなかったけれど、今日に関しては気付かれなくて良かったかもしれない。この光景を知れたから。
「苦手なのは今も変わらないけれど、でも一応感謝しているよ。一応は」
「うーん。嬉しいけど嬉しくないなあ」
「それでいいよ。それに僕とはあまり関わらない方がいい。キミも僕と関わり続けるといずれ煙たがられてしまう」
「なんで?」
彼は純粋に疑問の視線を向けてくる。
「なんでって、分からないの? 僕の外見は普通の人とは違う。奇異の視線を向けられる髪色と肌色をしているからじゃないか」
「だから?」
「だから、僕とは関わらない方が……」
うまく答えられず、僕は窮してしまう。
今まで彼のように深く踏み入ってくる人が居なかったから、突き放し方が分からない。
笑顔だった彼はいつの間にか無表情になっていた。でもその無表情のどこかに呆れの念が見える。一体何に対しての呆れなのか、僕には分からない。
数秒の沈黙が過ぎた後、先に口を開いた青井が言う。
「俺とお前は違う」
彼の言葉に、反射的に目が見開いてしまった。差異を言われたことに対してではなく、初めて彼に『お前』と呼ばれて、素直に驚いた。
「親が違う。生まれた瞬間が違う。育った環境が違う。住んでいる場所が違う。性格が違う。何もかもが違うのは、当たり前のことだろ。みんな何かしら違うけど、それは欠点とは言わない。たしかにお前は髪色と肌の色が目立つ色をしている。でも、それは欠点なのか? 自分がそれを欠点として受け止めてしまってるから、煙たがられていると思ってるんだ」
「………」
「それは欠点じゃなく、むしろ美点だよ。出る杭は打たれる。お前は打たれ過ぎて杭が反対方向まで貫通しちゃったんだ。鋭い先を他人に向けて傷つけないようにしようとしているんだけど、それが不器用なんだよ。もっと素直になりなよ」
こんなに真っ直ぐと言葉をぶつけられたのは初めてで、僕は何も言えず、ただ彼の話を聞いているだけで頭の処理が追いつかなかった。
「……今までそう思えていたら、苦労はないよ」
これが精一杯の反論だった。
「だったら、これからそう思うようにすればいいだけの話だろ? だって、綺麗な髪色してるじゃん。肌の色だって、元から日焼けしてるような肌の俺からすれば、綺麗じゃないか。すべては受け止め方次第で変わるんだよ」
また沈黙が流れる。
睨めっこをするみたいに、僕と青井は視線をぶつけ合った。視線を逸らしたら負けだ。
そして自然と同時に僕と彼は吹き出した。僕は嘲るように小さく笑い、彼は喜んでいるように大きく笑う。
僕は空を仰いで、ため息をつく。
「ああ、だから僕は、キミが苦手だよ」
「えー。そこは感動するところでしょ、とっきー」
「むしろもっと苦手になったよ」
ひどいなー、と彼は不満気に口を尖らせていた。
すべては受け止め方次第で変わる。
たしかにそうかもしれない。けれど、もはや手遅れだ。今までの姿勢を変えるのは雨粒で石を変形させるよりも難しいと思う。唐突にウォーターカッターでも来ない限りはそう簡単に変わることはない。
でもそういう考え方もあるという事が分かった。少なくとも青井はそういう風に考えていて僕を珍しい生き物とは思わない。普通の人として接してくる奴なのだと改めて実感した。
頬を撫でる秋風のように常に変化し続ける柔軟な思考を持っているのであれば、僕はこの場で考え方や生き方が変化したかもしれない。
だとしても僕は石でいい。誰にも気付かれないような石。通行人Aのままでいい。客観的に物事を見る方が僕の性分には合っている。
「やっぱり、本当に苦手だよ」
心なしか、目の前の絶景が先ほどよりも太陽の光が強く反射しているように見えた。
野反湖から帰宅した頃には夜の七時を回っていた。
一瀬のいる旧校舎へ行こうと思っていたけれど、久しく彼女以外の人と長い時間を過ごしていなかったので、自分で思っているよりも心身が疲弊しているようだった。だから今日彼女のもとへ行くのは断念せざるを得なかった。
僅かばかりの体力で簡単なパスタを作って、それを眠気と闘いながら食していた。
そういえば、だれかと食事をしたのは二カ月ぶりくらいだった。
パスタを口に運ぶ手を止め、昼食を青井と向かい合って食べていたことを思い出した。
こっちへ来てから一人で食事をするのが当たり前になっていた。とは言っても、こっちへ来る前、父親と母親の三人での食事は一言も喋らず食器の音と自分の咀嚼音だけが聞こえるものだった。栄養を補給するだけの作業。それは孤食と言っても過言ではない状況で、今とそう差はない。母親が料理を用意してくれるかという違いだけ。
食べ終えたパスタの皿をシンクに放り、明日洗おうと思って、軽く水にさらした。
シャワーを浴び、ナイトウェアに着替えて祖父が使っていた寝室へ向かった。さすがに祖父が使っていた介護用のベッドは祖父が亡くなった時に撤去されていたので、僕や両親が訪れた際に使っていた布団を敷いて床に就く。
眠ろうと瞼を閉じると今日一日の出来事が頭の中で濃縮されて再生する。シャワーを浴びて眠気が覚めてしまったのか、体は疲れているのになかなか寝付けない。
祖父の部屋にあった大抵の遺物は納戸へと移してあった。僕がここへ来る前に大叔母が整理したのだという。そのためほとんど何も無い、質素な和の寝室と化してしまった。
なにか眠りに就けるまで時間を消費できるものはないかと、僕は布団から起き上がって納戸へと向かった。
納戸には様々なものが置かれていた。祖父の趣味だったのか、水墨画や墨彩画の巻物、骨董品が数多く安置されていた。その種類によって分別されて整頓してあり、中には日本刀もあり完全に和の趣味の世界だった。
そんな和の世界で、一際場違いな絵柄の本があった。少ないページ数で大きめのイラストが堂々と表紙に描かれている絵本だ。いくつかの冊数があり、懐かしい気持ちにさせるそれに僕は引き寄せられた。
空腹な青虫が孤独ながらも満足に食事をして綺麗な蝶に咲く作品。仲の良い双子の野ネズミが楽しく食事する作品など、誰でも知っているような絵本。
なぜここに絵本があるのだろうと不思議に思った。もしかしたら幼い頃の僕に祖父や祖母が読んでくれたのかもしれない。懐かしいという感覚があるのだから多分そうなのだろう。けれどその光景を明確に想像することは出来なかった。
いくつかの作品を流し読みしていると、ある一冊の童話の絵本が目に留まった。表紙のタイトルは『にんぎょひめ』。
瞬間、一瀬の屈託ない笑顔が脳裏に浮かぶ。
以前、一瀬は人魚姫のようだと重ねたことを思い出した。
自然と絵本を手に取って流し読みせず、丁寧に読み進めていく。
ディズニー作品には人魚姫をもとにしたアニメーション映画があったはずだ。でもそれは原作とは違った、ハッピーエンドで終わる理想のストーリーだったと思う。
僕が読んでいる人魚姫の絵本は原作に忠実で仔細にイラストと日本語で構成されている。
冒頭の部分はディズニー作品と大差ないけれど、読み進めていくにしたがって僕の知る悲劇の物語になっていく。
人魚姫は溺死しかけていた人間の王子を助け、彼に一目惚れした。手が届かない存在であるため、しかしどうにか結ばれたい人魚姫は人間になることを望んで魔女のもとへ行き、声と引き換えに人間の足を手に入れた。
けれど声が出せなかったために瓜二つの女性が王子を助けたと誤解され、その女性と王子は結婚してしまい、姉たちから得た短剣で王子を殺せば自分は死なずに済むのだが、人魚姫はそれが出来ず海の泡となって消えてしまう。
王子の幸せのために自身の命を失う道を取った人魚姫。
なんともやるせない物語だ。
残酷な人魚姫の運命だけれど、一番残酷なのは王子ではないだろうか。
真の命の恩人に気付かず、人魚姫と瓜二つの女性を愛し、幸福な時間を過ごす。
声が出せない人魚姫は真実を伝えようと必死だった。なのに想いを伝えられず、瓜二つの女性に全てを持っていかれて挙句には命を捨てるはめになる。
もし王子が婚約した女性と人魚姫が瓜二つではなかったら、人魚姫は王子と結ばれていたのだろうか。顔が同じというだけで選ばれなかったのだ。それだけで運命が変わっていたのかもしれない。
そんな悲劇の物語のヒロインと一瀬真琴は、やはりどこか彷彿とさせる箇所がある。
欲するもの(未練)があり、あるものを犠牲に何かを得る。でも得たものも何らかの代償がある。
人魚姫は声を犠牲にして足を手に入れるも、歩くたびに激痛が伴う代償を。
一瀬は会話する能力、あらゆるものに触れることが出来なくなる犠牲を払って未練を解消する機会を得るも、僕以外の人からはおそらく認識されない代償を。
そして人魚姫も一瀬も、恋が関係している。
そこまで恋とは魅力的なものなのだろうか。僕には分からない。
一瀬と人魚姫の異なる点は瓜二つの女性がいないという点。それは運命を左右するほどの大きなものだ。つまり、行く先を阻む者が存在しないのだ。
それに人魚姫もそこまでして『死ぬことのない魂』を欲しがるとは、ないものねだりもいいところではないか。人魚という運命を背負って生まれてしまったのならば、それを甘んじて受け入れるべきではないだろうか。
――何を惜しみ何を恨みん元よりもこの有様の定まれる身に。
かつての戦国武将がそう言ったように。
僕が明るい髪と病的なまでに白い肌をもって生まれる運命だったように。
単純に僕が恋というものの魅力を知らないから、悲観した考えになってしまうのかもしれない。猫に小判、豚に真珠。愛情を知らない僕なんかに恋というものの価値なんて分かる筈もない。
眠気の波が押し寄せてきて僕は絵本を閉じて元の場所に戻し、納戸を出て再び床に就いた。
消灯して瞼を閉じて、思考が働く。
僕がないものねだりするとなったら、一体それは何だろう。手に入る筈もないものだ。それは愛か、それとも恋か。はたまた黒髪と自然な肌色だろうか。
でも僕はそれらを、何かを犠牲にしてまで手に入れようとは思わない。今のままで十分だ。自分の運命を受け入れている。
今日、野反湖に向かう途中で僕が死ねば一瀬に触れることは出来るのだろうかという興味を抱いたことを思い出す。
これはないものねだりとなるだろうか。
命を犠牲にしてまで彼女に触れてみたい。
いや、単純な好奇心だ。欲しているわけではない。
誰かに対して言い訳しているわけではないけれど僕は心の中でそう呟いて、少しして意識がブラックアウトした。