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なきものねだり  作者: ほしがひかる
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 八月の頭。

 僕の知らぬところで手続きを終えていた転校に伴って、僕は父方の実家がある群馬の西部奥に移り住んでいた。父方の祖父は数年前に。祖母はそれよりももっと前に亡くなっているため、その家は形としてあるだけで全く機能していない状態だった。

 近くに住む大叔母が定期的に掃除をしていてくれたらしく、家の中は比較的綺麗な状態ではあった。

 密かに夢見ていた一人暮らしとはいえ、望んでいた形での一人暮らしではなかったというのが本音だった。

 家の周りには山しかなく、緑に覆われている。僕の知っている世界から隔離されたようなところだ。

 電車は一時間に一本もない。バスは一日六本。

 最寄りのコンビニは二キロ離れたところの橋を渡った先にポツンとある。

カフェなんて洒落たものはなく、大きなパチンコ屋が一つと、ここの地域の土産や特産品が揃った道の駅が、なにも無いこの場所では我が物顔で構えていた。

 ただ都内に居た時のような、誰かの不幸を知らせる救急車のサイレンや車の排気ガスなどがほとんどない部分についてはとても住み心地が良かった。水は美味しく、空気は澄んでいて、残暑の時期ではあるけれど風が通るだけで涼しい。夜になれば電車やバイクの騒音の代わりに、気持ちが安らぐ虫の鳴き声がして気持ち良く眠ることが出来た。場所が穏やかであれば必然と住人も穏やかになる。

 案外、こっちの生活の方が自分に合っているなと思った。

 幼い頃、まだ祖父母が健在だったときに何度か連れてきてもらったことはあったけれども、まだ母親の手を離せないような頃だったから、ここがどういう所だったのか漠然とした記憶しかない。

 だからどこか懐かしくて、新鮮だった。


 僕の誕生日から一カ月が経った八月下旬。

 夏休みは、大変有意義に過ごせたと思う。ほとんどの日を家の縁側で小説を読んでいたり、たまに近くの沢に涼みに行ったりして過ごしていた。

 時々、近くに住んでいる大叔母が僕の分のご飯を作りに来てくれたりして、生活において困ることはなかった。洗濯、掃除、読書、食事のループを繰り返していた。

 あと五日後には九月を迎えて新学期が始まる。

 この日は転校先の学校の校舎を見て回っていた。新しくお世話になる担任から、そうした方がいいと勧められたのだ。特に断る理由もなかったし、体感的に長くて残された夏休みの暇な時間を削るには都合がよかった。

 担任の話を聞けば、この学校に在籍している生徒は全学年を合わせて数十人しか居ないという。体育祭を行えるかどうかも怪しいくらいの人数だった。

 さすが田舎だなと思う。少子高齢化に関しては都内よりも顕著に進行している。

 この日は部活動をしている生徒がいなかった。そもそも生徒の絶対数が少ないため、他の生徒に出会わず恙なく校舎を見回ることが出来ていた。

 校舎自体は比較的新しい。各地で耐震工事がされているように、この学校は校舎自体が古かったため旧校舎の隣に鉄筋コンクリートの新校舎を建てたという。

 廊下の窓から風が吹いて、まだ青々しさの残る植物の香りが新校舎の中に溢れている。

 悪くない。むしろ、前の学校よりも断然良かった。

 前の学校がいささか窮屈過ぎたから、そこから離れたこの場所は違う世界のようで。

 どの教室を覗いてみてもその広さの割には合わない少数の机と椅子が置かれていた。

僕は想像する。普段この教室にいる生徒の授業風景や休み時間の過ごし方を。和気あいあいとしているのか、それとも流れる空気の音を聴いているかのように静かなのか。その中で僕はどういう風に過ごしているのか。

 最後の自分については上手くイメージすることが出来なかった。

 また、校内を歩き始める。

 小一時間ほど歩き回って行くところには大体行き尽くした。

もう帰ろうかと考えていたら廊下の窓から見回っておいた方が良いのか分からない旧校舎が目に入った。木造建築でかなり築年数が経過しているのが分かった。昔は綺麗なメープル色をしていたと思うのだけれど、今では何度も漆塗りをしたような深くて味わいのある色になってしまっている。

木造校舎にしては珍しく屋上があるようだ。ただし新校舎と同じような網のフェンスはなく工事現場で使われる三角コーンがその役割を担っていた。

 上方から見たら細長い長方形をしていそうな、二階建ての旧校舎に立ち入る。旧校舎の床は歩く度に軋む音がして不安を煽ってくる。けれど木造校舎とはいえ、造り自体は新校舎とそう大差ない現代的な構造をしている。

 当然、どの教室にも人の気配もない。机は逆さまになった椅子を載せてすべて端に寄せられていた。一応、整理はされているようだった。

 誰からも使われることのなくなったそれらは、業者が回収に来るまでここで大人しく待っている。いつかその時が来るまで。放置された様は僕のように思えた。

 黒板は丁寧に磨かれていたが、チョーク受けにチョークが僅かに残っていた。

それを見た瞬間に僕は衝動に駆られた。無性に黒板を汚したくなってチョークを手に取り、何の意味もなく、ただ直線を描いた。

カッ、シューと乾いた音がする。

 僕は直線をしげしげと眺める。

 人はこれを見てどう思うだろうか。磨かれた黒板に落書きをした悪戯のことではなく、この〝一〟とも〝ダッシュ記号〟とも読み取れる直線を。

 口にする言葉よりも文字にする言葉の方が、僕は好きだ。活字も好きだし、僕自身が書くことも好きだ。

口で言った言葉は目では見ることが出来ないうえに、同訓異字の漢字を受け取る側の人が勘違いしたらどうするのだろうか。活舌の悪い人とどうしたら滞りなく会話できるだろうか。

一番厄介なのは口にしてしまった言葉は世界に刻まれてしまったように取り消すことも出来ない。

 文字の言葉の一番魅力的な点は言葉遊びや当て字が出来る事だ。以前読んだことのある小説の作家は言葉遊びに長けていて、独創的なその世界に僕は引きずり込まれた。僕の人生の中でも指折りの印象深さだった。僕には小説を書く能力なんて欠片もないけれどその影響を受けてなおさら文字の言葉が好きになった。

 僕はしばらくの間、その直線を眺めて消した。一点の曇りもなかった深緑色の黒板に、薄い雲が出来たようなチョークの消し跡が広がった。

 どうせ誰も使わない旧校舎なのだからいいだろう、と思って踵を返した。

 しかし。

 いつから居たのだろう。

 すぐ後ろに一人の少女が居た。しかも割と距離が近い。一歩踏み出せばぶつかってしまっていたかもしれない近さで。

「わっ」と素っ頓狂な声が出た。

 見覚えのある制服を着ている少女は首を傾げている。その仕草にマッチングしている幼さの残る顔立ち。肩にかかりそうな長さの黒髪。細いけど健康的で筋肉質に見える淡い小麦色の腕と足。陸上部にでも居そうな女の子だ。

 でも彼女にどこか違和感を覚える。そう感じる理由は分からないけれど、なぜかこの教室というよりも空気にすらミスマッチしているような感じがする。どうやってもカメラの焦点が合わないような、そんな感じ。

 本当にいつから居たのだろうか。気配もなく足音も全く聞こえなかった。黒板と睨めっこしていて気付けなかったのだろうか。

 率直に尋ねる。

「キミ、だれ?」

 答えは返ってこない。彼女は首を傾げるだけで。

 彼女の反応から推測する。もしかして聞こえないのか。

 だから振り返って黒板と再び向き合う。チョークを持って少女にもう一度尋ねる。

〝キミ、だれ?〟

 と。

 彼女は理解したのか、数回軽く頷いて口を開いた。

 けど何も聞こえなかった。彼女は口を開け閉めしているだけで。

 おちょくられているのだろうか。そう思った。しかしよく見ると彼女は規則的な口の動きをしていた。何かを言っているのは確かなのだけれど聞こえない。

〝何も聞こえないよ〟

 そう黒板に書くと彼女は一度、深呼吸をした。そして先程と同じ口の動きを極めてゆっくりと動かした。まるで赤ん坊に話しかけるように。だけど先ほどと変わらず何も聞こえない。

 もう一度頼む。そして同じ口の動きをしてもらう。

少女の口の動きに注視すると、たぶん彼女は名前を言っていた。

 確認するために書く。

〝いちのせまこと。これで当たってる?〟

 花が咲いたように彼女は笑った。僕の読み取りは当てっていたのだろう。

〝一之瀬真

 一ノ瀬真実

 一瀬真

 一瀬真琴

 市瀬誠〟

 僕は思いつく限りの「いちのせまこと」を漢字で黒板に書いていった。

 彼女は僕の隣に近づいてくると四つ目に書いた〝一瀬真琴〟を指し僕の方を見て数回大きく頷いた。彼女はこれ! この漢字! と言いたいのだろう。

 一瀬の顔が至近距離にある。少し手を伸ばせば触れそうな近さで。

 彼女の視線が僕の目元よりも少し上に移動する。僕の髪を見ている。その視線には今まで受けてきた不快さはなくて、純粋な疑問だけが感じられた。

 説明した方がいいのか、と思い僕は簡潔に自己紹介を書く。

〝生まれつき体の色素が薄くてこの髪色なんだ〟

 今思い出したけれど彼女の来ている制服は新しく通う高校の女子生徒が着用するそれだった。転校先が気になっていたから、あらかじめインターネットで調べた時に学校のホームページで見たことがあった。

 頷く彼女はふっと微笑んで、また口を開け閉めして何かを言っている。

 どうやら名前を訊かれていた。

 書き慣れた名前をテンポよく書いていく。

〝向坂時人〟

 次に。

〝キミはいつから後ろに居たの?〟

 と訊ねる。

 一瀬の返答は意外にも、最初から、だった。

 いや、そんなはずはない。だって僕はこの教室に入る時、誰も居ないことを確認してから入った。でも僕が気付かなかっただけなのかもしれない。

 黒板を使うという奇妙な会話が面白くて僕は書く手を進める。

〝キミは耳が聞こえないの?〟

 そう訊くと、彼女は首を振る。

 口を開いて、無音の説明をしてもらう。

 ゆっくりと口を動かしてくれたから、彼女が何を言っているのか理解する事は出来た。でも言っていることの意味が理解できない。

僕はそれを今まで目の当たりにしたことがなく、その上信じていなかったから。

 その旨は一瀬が僕の頬に触れようと手を伸ばして、初めて理解することが出来た。

 その手が僕の頬に触れることはなく、指先がそのまま頬に吸い込まれるようにすり抜けた。

違和感。

その一言で説明するには難しい感覚。僕は一瞬で混乱して頭の中を行きかう情報量に酔ってしまった。どういう顔をしたらいいのか分からないし、どういう顔をしていたのか分からなかった。

 なんとか右手だけを動かして、一瀬に確認する。

〝本当に幽霊なの?〟

 一瀬は軽やかに頷いた。

 驚きはした。目の前にそれが実在していることに。

 でも不思議と拒絶や恐怖はなかった。むしろ、即効性の酔い止めの薬を飲んだように、スッと胸の中に入ってきてすぐに彼女の存在を当たり前に受け止められた。

〝幽霊って本当に居るんだね〟

 彼女は腕を頭の後ろにまわしてなんだか照れくさそうに笑った。

〝幽霊って普通は丑三つ時とか、夜に出会えるものじゃないの?〟

 今はまだ昼過ぎ。太陽が一番高い位置にあるような時間だ。

 一瀬は、私もわからない、というふうに控えめに腕を広げて首を傾げた。

 前に居た都内でこの時間帯に幽霊が出るのは場違いというか、彼女にだけピントが合わないような感じがする。けれどこの山の中の世界では似つかわしい。加えてこの時間帯でも自動車の走る音も大勢の人々による喧噪もないから静かだ。だから夜と同じような静けさで違和感がないのかもしれない。

〝キミは何歳なの〟

 彼女は指を使って歳を伝える。

 奇しくも僕と同じ十七歳だ。幼さの残る顔立ちだから年下だと思っていた。

〝キミは学校の七不思議とか、そういう話題に出てくるような怖い子なのかな?〟

 彼女は首を振る。

〝キミは生霊じゃなく、死んでしまったが故の霊なの?〟

 彼女は頷く。

〝キミはなんでここにいるのかな〟

 彼女は口を開いて声なき言葉を言う。い、え、ん、と母音に沿って唇の閉じ方や舌の動きからみ、れ、ん、と読み取れる。

 一瀬はどうやら未練があるらしい。

〝未練って、なんの?〟

 彼女は短く、二回だけ口を動かす。そうした後に初々しく頬が微かに紅潮した。

彼女の未練は僕らの年頃ではありきたりな悩みとしてあがるものだった。

〝恋、か〟

 細かく数回頷く彼女を見て、僕は思う。

 さて、困った。彼女には悪いけれど、僕には手を貸すことも相談にのってあげられることも出来ない未練だな。

と。

〝それは誰か、想いを告げられない相手がいたの?〟

 そうであれば手っ取り早い話なのだけれど、彼女は首を振る。想いを告げたかった相手がいるのだとしたら、ここにその相手を連れてくるだけで、あとは僕の関知するところではないのに。けれどそうではないみたいだ。

〝であれば恋ということ自体に未練がある、ということなのかな〟

 死ぬ前に一度でも恋をしてみたかったという心残り。

僕だったら死ぬ前にそんなこと思いつきすらしないだろう。愛情を一度も感じたことがない僕にとって恋とは――恋の根幹が愛情なのであれば――この先も知ることのないものだ。

 今さら知りたいとも思えないけれど。

 けれど彼女は首を傾げて頭を左右に行き来させている。

どうやら何かが違うらしい。もしくは彼女自身も把握出来ていないのかもしれない。

 しかし、なぜ彼女は最期の時に恋なんてものが心残りとして頭に浮かんだのだろう。

 僕の目線ではあるけれど、一瀬は男受けも女受けも良さそうな雰囲気を醸し出している。本人は無意識なのだろうけれど。それに顔立ちも悪くない。幽霊という致命的な一部を除けば、誰から出も声を掛けられそうだ。生前であれば恋に悩む必要や理由など無かったのではないかと思う。それとも僕には分からない乙女心というものが関与しているのだろうか。なんにせよ、恋事情が分からない僕には彼女の未練が理解出来なかった。

 少しして、考えがまとまったのか。一瀬は曇っていた表情が明るくなって僕の方に細い人差し指を向けた。次にその指を自身の胸あたりに向ける。まるで手話のようだ。

 それから片目を閉じ微笑んで、顔の前に両手を合わせた。そして四回、口を動かす。

 お、い、え、え。

母音はこうで、それに肉付けすると。

お、し、え、て。

 彼女は何を言っているのだろう。

 彼女の言っていることが不明だったのではなく、彼女が伝えたその内容について。何を言っているのだろう、と意味が分からなかった。彼女のその仕草から僕に何かお願いをするというのは分かっていた。けれど内容が、まあ、どうしようもない。

 僕は意図的に少し呆れた表情でため息をつく。

 黒板に文字を走らせる。

〝おしえて? それは何を? 恋について? その定義や観念について? 言っておくけれど、それは確実にお願いする相手を誤っているよ。僕は恋をしたことなんてないし愛情なんてものも知らないから、どちらかといえば僕もキミと同じ立場だ。恋なんて知らない。僕とキミが違うのは、それを知ろうとしているかの差だけだよ〟

 文字を少し雑に書いてしまった。

〝だからそういうことが知りたいのであれば、違う相手を探してくれるかな。ごめん〟

 もう一度言うと、僕は愛情というものを知らない。親からも、周りにいた人たちからも、そういうものを感じたことがない。すべては気味が悪いほどに明るい髪色と白い肌のせいで。

恋愛感情の基盤は愛情だと思う。愛情を受けたからこそ人を好きになって恋することが出来る。

だから愛情知らずの僕は一瀬の未練に関係するべきではない。と言うより関係することが出来ない。

そう結論を僕は出した。

にもかかわらず、なぜか彼女は首を振る。何に対して首を振っているのか、僕には分からない。

〝キミがいつ死んだか分からないから、キミを知っている人がこの場に来てくれるか分からないけれど、キミの知っている人がこの場に来たら、その人にお願いしてくれるかな?〟

 淡々と、彼女とこの度で別れようとする。言い方が悪いけれど彼女は人ではないとはいえ、僕はもう人と関わるとろくなことにならない気がする。

 けれど彼女は首を振り続けている。彼女のその首を振る意味が分からず、少しずつ苛立ちが募り始めた。

 彼女はなぜ否定し続けているのだろう。

 埒が明かなくて単刀直入に訊く。

〝なんで首を振っているの?〟

 そう書くと一瀬は延々と振るように思えた首の動きを止めて、また僕の方を指す。そしてまた彼女は自分を指した。さっきと同じことをしている。また、おしえて、と口を動かす。

 夏の暑さが僕の苛立ちの沸点を下げているのだろうか。それとも苛々とする感情を加速させているのだろうか。

 話が進まなくて彼女の真意が分からない。

最後に〝さよなら〟と書いて彼女を見捨てるようにこの場を立ち去ろうと思った。

 でも僕をそうさせなかったのは、一瀬がまた意図の読めないことをしたからだ。

 彼女は自分を指していた指をリターンさせて、また僕を指した。

 そして、今度は最後の口の動きだけを変えて。

お、し、え、る。

そう、僕に伝えた。

「は?」と思わず声が漏れた。声が出てしまうほどにその、おしえる、という意味が分からず、蓄積していた苛立ちさえどこかへ吹き飛んでしまった。

 黒板に書くこと、彼女に何を言っても聞こえないことも忘れて、

「なにを」

 と僕は言った。

 それでもたった三文字のその言葉は何も聞こえない彼女にも伝わったようで、彼女は微笑んだ。

 苛立って不器用に訊いた僕の問いに対する彼女の口の動きは短く、単純だった。

 たった二文字の言葉。

でも僕がある意味、知らない言葉。

 彼女のその口の動き方を僕は声を付けて真似する。

「……愛?」

 彼女は頷いた。

 今になって夢を見ているのではないか、または、彼女は僕の空想が作り出したものなのではないかという思いが頭の中を過った。

 しかし拳を強く握りしめて爪を手のひらに食い込ませても、痛みで夢が覚めることはなかった。仮に彼女が僕の空想上の人物だったとしても、一体何の故あって彼女は作り出されたというのだろう。

 自分が分からなくなってきた。

 だから僕はいつの間にか息を漏らすように小さく笑っていた。

 十七年というまだ短いか長いかも分からない時間を過ごしてきて愛情を知らなかったことに対して僕は後ろ髪を引く思いなんてない。

今の僕があるのはそういう時間を過ごして来たからであって、自分を哀切さに染められた境遇だと思ったこともなかった。自分が生まれながらにしてそういうレールを走るだけだった。自分の事を他人事のように思うようにしていたから、僕は自分を悲劇の主人公のようには思っていない。主人公より、悲しみに暮れる主人公を遠目に見る通行人Aの方が気楽で済む。自分を他人のように思うだけで、何もかも気楽になる。

 そう思っている。今でも。

 でも、一瀬は愛情なんて不要だと思っている僕に、愛とは何かを教えるという。

 愛情は不要だと考えている。そんな僕にどうやって教えるのだろう。しかも会話すらままならない幽霊なのに。

 少し、興味が湧いた。

 一カ月前に僕の中から幼い人情は消え去った。もう姿形はない。

 それでも。

〝いいよ。これはお互いにないものを教え合うという取引ということだね?〟

 と僕は答えた。

彼女は歯を見せて笑って頷く。花が咲いたように笑うとは彼女のためにあるような言葉に思えた。

 これは僕のための取引だ。彼女の未練を手伝うことが目的ではない。あくまでそれは「目標」で、目的は「僕の好奇心を満たす」だ。

 自分はこの世界に相応しくないと思っていた。悲観的な意味で。

一瀬真琴という、違う世界に住まう幽霊の彼女から何が得られるのか。

幽霊に愛を教えてもらうなんて滑稽だと思ったけれども、それ以上に好奇心が僕を動かす。

〝じゃあ、これから僕は色々と『恋』について調べてみたり、考えてみたりしてキミに教えるよ。なるべく毎日来るようにする〟

 一瀬は表情がより一層明るくなった。生き生きとしているその表情を見ていると、とても亡き者だとは思えなかった。

 

 旧校舎を出るといつの間にか日が傾いていた。僕が思っていたよりも田舎に夜の帳が下りるのは早いのかもしれない。それに一瀬と喋らない会話をするのは時間の進む速度が早く感じられた。

 新校舎の職員室へ戻り、僕が戻るのを待っていた新しい担任に礼を言って僕は帰路につく。

 僕の移り住んだ先の家と転校先の学校は、二百メートル強のトンネルを間に挟んだところにある。登校と下校するにはありがたい距離だった。

 トンネルの中を俯いて歩いている最中に、僕はある物語を思い出した。

 アンデルセンの人魚姫。

 一瀬は人魚姫を連想させるような感じがする。

 一般的に知られている人魚姫といえば、恋焦がれていた王子に振り向いてほしくて、人間の足を手に入れた。その引き換えに魔女に自身の声を差し出した辛い運命を背負ったヒロインだ。

 一瀬は生と声と聴覚。そしてこちらの世界のあらゆる物に触れる力を失った代わりに、未練を解消する機会を得て幽霊になった。しかしそう考えると僕には人魚姫よりも一瀬の方がもっと悲劇的なヒロインのように思えた。

 たしか人魚姫の物語では人魚姫はなによりも『死ぬことのない魂』を欲していたはずだ。

 人は短い命でも『死ぬことのない魂』によって生まれ変わることが出来るけれど、人よりも遥かに長く生きる人魚は人と同じように生まれ変わることが出来ない。水の泡となって消えてしまう。だから人魚は何よりも『死ぬことのない魂』を欲して、それを得るためには本当に人になる必要があり、人になるためには王子から愛してもらうことが必須だったのだ。

 一方、実際に一瀬は『死ぬことのない魂』となって、旧校舎に存在する。

 人魚姫でも得られなかったそれを手に入れることの出来た彼女は、それだけでも人魚姫よりは幸運だといえるだろうか。

 まがいものの人魚姫だ。

 顔を上げるともうすぐトンネルを出るところで、左手の坂の先に家が見えていた。


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