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なきものねだり  作者: ほしがひかる
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 目を開けるとまだ僕は雪に覆われた屋上に居た。

そしてハッキリとした姿の、幸せそうに笑う一瀬真琴が見えた。

 けれど現実は残酷で。

 一瞬の幻は僕の理想が反映されたものだった。

 現実は白を基調とした部屋だった。目の前に広がる天井。部屋に漂う消毒液のにおい。腕に繋がれた点滴のチューブとパック。暖かい室温。それらがここは病室であるということを否が応でも示唆していた。

 僕は横になっている体を動かそうとするも硬直しているかのように言う事を聞かず、なんとか視線だけを動かして室内を見回す。右を見ると窓が目に入り、外は雪が降っていた。左を見ると、文庫本を開いて俯いている和子さんがパイプ椅子に座っていた。

 僕の視線に気が付いたのか、本を閉じてベッドに手を置いて僕の顔を覗きこむ。

「目が覚めてよかったわ」

 そう言う和子さんの声は掠れていた。

「丸一日も寝ていたのよ? 夜中にいきなり病院から電話が掛かってきて、時人くんが運ばれたって聞いた時はカンシンしたわ」

 カンシン。

 数秒、朦朧としているなかで考える。最初に歓心という漢字が出てきた。しかしそれでは状況にそぐわなく思える。そして次に寒心という漢字が浮かぶ。

 やっぱり口にする言葉は、苦手だ。こういう風に、伝えたい言葉が目に見えないから。

内心でそう呟いた。

和子さんの話によると、僕は一瀬真尋と共に救急車で運ばれたらしい。青井が屋上で倒れている僕を見つけた時には意識がなく、あと数分遅ければ体の一部が壊死してもおかしくなかったという。右手首の傷口から出血していたけれど、幸運なことに氷点下の気温が流血を阻止して多量出血死を未然に防いだのだ。とは言え、それでもけっこうな量が流れていたので危ない状態には変わりなかったそうだ。

その後、和子さんに十分ほど叱られた。なぜあんな過酷な状況に至ったのかも訊かれたけれど、僕はただ謝り続けることしか出来なかった。

そんな僕を見かねて和子さんは言う。

「お医者さんが大丈夫って言っていたから平気だとは思うけれど、あと一日二日は入院してなさい。私が学校には連絡を入れておくから。また倒れたりしたら時人くんのお父さんやお母さんに合わせる顔がないわ」

 大丈夫ですよ、と僕は言おうとしたけれど和子さんの心痛の表情を見てその言葉を飲み込んだ。

 でも本当は今すぐにでも立ち上がって旧校舎へ行きたかった。だけど疲弊した体がそうさせてくれなくて。結局やきもきした心持ちでもう一日病院生活を過ごした。一分一秒がいつもの倍以上に感じられて、瞼を閉じれば少しでも早く進むかと何度も試していた。


 僕は退院して家に帰らずそのまま旧校舎へ向かった。先に家に帰るにしろ、病院からの帰り道に旧校舎や学校があるのだ。ならば一刻も早く旧校舎へ行きたくて、その気持ちを僕はもう抑えられなかった。病院を出る際に真尋のことをナースステーションで訊いてみたけれど、彼女は一昨日のうちに、僕が目を覚ます前に退院していたらしい。

 外は先日よりも雪が町と山を侵食していて、深く息を吸って吐くと煙草の煙のように白い息が出る。

 もしかしたら、まだ真琴は居るかもしれない。いつもみたいに僕が旧校舎へ行って、いつも彼女が居た教室に行けば、またあの愛らしい笑顔で迎えてくれるかもしれない。

 一縷の望みを抱いて旧校舎へ辿り着いた。相変わらず雪は降っていて、旧校舎の外観は白く染まっていた。そのせいか、以前よりも寥寥たる景観だった。中に入るも外と同じくらいの寒さで身を縮めた。

 廊下を歩くとキシキシと木造の床が音を立てる。視線の先には彼女がいるはずの教室がある。

 結果を先に見たくなくて僕は俯きながら教室の入り口の前に立つ。引き扉を開けて、一歩、二歩と中へ入る。いつもと変わらない教室の床が見える。

 そして、顔を上げた。

 そして、僕の僅かな期待は、真琴の姿がない現実に消し去られた。

 ――本当にこの教室がいつも真琴の居た教室だろうか。

 この疑念がまず浮かんだ。そのおかげでへたり込まずに済んだ。

 確かめるべく、僕は教室を飛び出して他の教室も見て回る。しかしどの教室を見回っても真琴は居ない。居ない。居ない。

 もう残されたのは、最後に彼女を見た屋上だけだった。僕は二階の廊下の突き当りにある屋上への階段を登っていく。青井によって破壊された、南京錠の繋がれた鎖に目が留まる。再び僕は下を向きながら、屋上へ踏み入った。

――お願いだ。居てくれ。

恐る恐ると顔を上げる。すると突風が吹き、雪がまつ毛に付着して目を細めた。

狭い視界で見渡した屋上に、真琴の姿が見えた。

けれど、一片の雪と真琴の姿が重なった瞬間、そこに彼女の姿はなかった。

〝なきものねだり〟と僕が血で書いた言葉も積もった雪でどこにあるか分からない状態だ。

突きつけられた現実にどうすることも出来なくて、しばらく立ったまま動けなくて。

 ――本当に彼女は消えてしまったのか。

どのくらいの時間そうしていたか分からない。

ぼんやりと屋上一帯を眺めていたら、ポケットに入っているスマートフォンが震えた。青井からの着信だ。少し躊躇して、通話ボタンを押した。

『もしもし? とっきー、体調はどう?』

 そう、彼の声が聞こえてきた。心なしか、嬉しさのある声に聞こえた。

「……うん。大丈夫。退院したよ」

『そっか。なら良かったよ』

「キミが倒れていた僕を助けてくれたんだってね。ありがとう」

『いや、本当に焦ったよ。最初顔見たとき、死んでるんじゃないかと思ったよ。救急車呼んだ本人が倒れてるもんだから隊員の人たちも慌ててたよ』

「……そっか」

 そこでお互い黙った。急に風が荒ぶ音だけ聞こえる。

 なあ、と青井が電話の向こうで言う。

『とっきー、これから空いてる?』

「空いているけれど……少しの間、一人になりたいんだ」

 いや、それは嘘だ。本当は会いたい人がいるくせに。そう思うけれど、しかしその会いたい人には、もう会うことが出来ない。

 それでも青井は続ける。

『今、もしかして旧校舎に居る?』

「……よく分かったね」

『まあね。なら都合がいいや。ちょっと付き合ってよ』

「いや……」

 彼の誘いを断ろうとした。

 次の彼の言うことを聞くまでは。

『そこからさ、真琴のお墓、すぐ近くのところにあるんだよ。実家が近辺だから』

 一瀬真琴の墓。

 そういえば僕はまだ一度も彼女の眠るそのところへ行ったことがなかった。彼女の墓の場所も知らなかったしそもそも彼女の墓があるということ自体忘れていたからそれは当然なのだけれど。

『真尋も居るよ』と彼は言って『だからさ、とっきーもちゃんと墓参りしようよ。な?』

 青井は僕を説得するように優しい口調でそう言った。

 少しの間、僕は葛藤する。

 墓参りすべきなのは分かっている。だけれど、現実と向き合いたくない。

 僕が返事をどうしようか迷っている間に彼は『今からそっちに行くよ。二分も掛からないで着くから』と言って電話を切ってしまった。

 そして、本当に一分半ほどで青井と真尋が旧校舎の入り口のところへ来た。そこで僕は、今日が平日だということを思い出した。ということは、真尋は今日学校へ登校したのだろう。僕の知らないところで彼女は前へ進んで行っている。

 真琴と同じ顔の彼女を見ていると、とても胸が苦しくなった。彼女を見ることが出来ず俯いていると青井に話しかけられた。

「やっぱりここに居たんだね。このさぼり魔め」

 最初に口を開いた青井は、そう言って笑った。

「笑う君は、虚像の自分じゃなかったの?」

 彼は頷く。

「そうだけど、それも自分の一部だって受け入れることにしたよ。とっきーが甘んじて受け入れるべきだって言ったじゃないか」

「そうだっけ?」

「そうだよ」

 そんなことを言った気もする。

 笑う青井は久しぶりに見たけれど、なんだかそれがやはり彼らしくて、どこか吹っ切れたようにも見えた。

 僕は視線を隣の真尋に移す。

「キミは学校へ行ったの?」

 彼女は頷く。

「……授業が全然、追いつかなくて、困った」

 それはそうだろう。真尋は姉を死なせてしまったという罪の意識に囚われてから約半年も学校へ行っていなかったのだから。けれど彼女が言うには一応保健室登校はしていたらしく、出席日数に関してはまあ問題ないらしい。

「それじゃあ、行こっか」

 青井がそう言うと真尋は頷いたけれども、僕は彼女のように素直には頷けず、黙っていたら青井に手を引かれて無理矢理連れて行かされた。以前もこういう強引なことがあった気がする。その時はまだ真琴が居た。

――ダメだ。何を考えても彼女に繋がってしまう。

 僕の前を歩く二人が眩しく見えて、やはり僕は俯いて歩くしか出来なかった。


 一瀬真琴の墓は旧校舎よりも僕の家の方が近かった。家からおよそ徒歩十分ほどのところ。冬でもなお凛とした佇まいでいる竹林の中にひっそりと建てられていた。彼女に似つかわしくない淋しさ溢れる場所だった。

 半年の時を越えて、僕は初めて、本当に真琴の死と対面した。

「来たぞー、真琴」

 青井が墓に眠る彼女に呼び掛ける。当たり前だけれど返事はない。それでも彼はどことなく嬉しそうで笑顔だ。なぜ彼は笑顔でいられるのか、その精神が理解できなかった。

 僕らは順番に石碑の前で合掌をした。お線香も持っていなかったため、ただ合掌するだけで何となく申し訳ない気がした。

墓は比較的綺麗にされていて塔婆や植木も整えられていた。墓誌に一瀬真琴の名前が刻まれていてそれにまた彼女の死を、現実を突きつけられる。

青井に視線を向ける。

 すると彼から話を切り出した。

「まさかここに真尋と来る日が来るなんてなー。少し前までそんなこと思いもしなかったよ」

 真尋の方を見ると、彼女は申し訳なさそうに下を向いた。

 でも、と彼は続ける。

「真尋と来られて良かったよ。じゃないと真琴がぷんぷん怒ってそうだから」と言って笑い「それも、とっきーのおかげだよ」と目を細めた。

 それに僕は軽く首を振る。

「僕のおかげなんかじゃないよ。何もしてない」

「でもあの日、とっきーが真尋と会うよう話を進めてくれなかったら、今、ここに俺たちは居ないよ。ずっと真尋と仲違いしたままだった。それに真琴の過去をずっと引きずったままで、あいつともう一度触れることが出来ないことになるところだった」

「………」

「だから、ありがとう。やっと前進することが出来るよ」

 彼もまた前に進んでいるようだった。

 僕はといえば、真琴が居なくなったことに打ちひしがれて停滞している。情けないと思うけれど、それほどに彼女の存在は僕にとって大きなものだった。彼女が消えてしまった世界は色彩を失ったように見える。

 たしかに彼女から得たものもあった。でもそれ以上に彼女を失ったことの方が上回っている。

 明日、明後日、明明後日、一週間後、一カ月後、一年後。僕が旧校舎へ行っても彼女はそこに居ない。役目を終えたはずの旧校舎は、さらに存在する意味を無くした。

 もう彼女はどこにも居ない。この先も会えない。

 それだけが頭の中を覆い尽くして、思わず顔が歪む。

「あの」

 僕に声をかけてきたのは真尋だった。

 学校の鞄から何かを探し出して、取り出した目的のものを僕の方へ差し出してきた。

 それは一枚の写真だった。

「これ、あなたに」

「写真を?」

「そう。だいぶ昔のものだけれど、こないだ、家の押し入れから出てきた」

 写真と言うと、どうしても青井が真琴に供えていたという野反湖の写真が脳裏にチラつく。

 真尋から受け取った写真を見る。だいぶ色あせていて少し写真の端に切れ目が入ってしまっている。

 三人の子供が並んで写っている写真で、その背景にある景色はたしかに野反湖だった。でもそれより気になるのは子供の方だ。

 でもその三人の子供には見覚えがあった。特に、真ん中の男の子。

「……僕だ」

 何万回も鏡で見てきた顔、明るい髪、白い肌。幼い顔立ちをしていて、今の僕からは想像できないような屈託ない笑顔を浮かべているけれど、まぎれもなくその男の子は僕だった。四、五歳くらいに見える。

 そして僕を真ん中に挟む両隣の女の子は、幼い真琴と真尋だった。

「なんで、僕がキミと、真琴と」

 予想外の光景に、写真と真尋を交互に見る。

「……私も分からない。けれど、私も驚いた。あなたが写ってるなんて」

 僕の脇から青井が写真を覗きこんできた。

「お、本当にとっきーたちじゃん。小っちゃくて可愛いね」

 こんな写真を撮った覚えはなかった。でも幼かった頃にも山間のこの町へ来たことがあるのは不鮮明だけど覚えている。その頃はまだ祖父も祖母も健在で、よく構ってもらっていた気がする。けれど、真琴と真尋に会っていた記憶はない。

 僕はなんとかして奥底にあるだろう記憶を引っ張り出そうとする。それでもこの写真を撮った記憶は出てこない。

 しかし、代わりにあるものを思い出す。

 それは以前、まだ幽霊の真琴と出会って一カ月くらい経った頃だ。彼女と黒板を使って喋らない会話の中で出てきた話。

 真琴に恋をしたことがあるのか尋ねられた際、僕は幼い頃に名前の知らない女の子と遊んでいたと言ったことがあった。その名前の知らない女の子の顔はクレヨンで塗りたくしたように思い出せなくて誰だか分からなかった。

 しかし、この写真の彼女たちを見て思い出した。

 その名前の知らない女の子は、真琴と真尋、そのどちらかだ。もしかしたら僕が忘れているだけで二人ともそこに居たのかもしれない。

「……ずっと、なんであなたに真琴が見えるのか、不思議だった。でもその写真を見たら、なんとなく納得した」

 僕は何も言えず、ただ写真を穴が開くほど見つめている。

 そして次第になぜか視界がぼやけてきた。僕はもうその原因を知っている。

「……その写真は、さっき言った通り、あなたにあげる」

「……ありが、とう」

 自分でも分かるくらいに声が震えていた。

 涙で写真が濡れてしまわないように気を付けながら写真を見る。

 僕が真琴と旧校舎で出会ったのは偶然なんかではなかった。

僕にだけ彼女の姿が見えていたのも偶然なんかではなかった。

 恋を知りたがっていた少女は僕を引き寄せてくれたのだ。

 その少女がこの写真に写る幼き日を覚えていたのかは分からない。

 でも、僕と少女は再び巡り合った。

 あまりにも遅い再会で少女は死んでしまっていた。

 けれど幽霊となった少女を中心に、止まっていた歯車がまた動き始めた。

 その少女に、幼い頃に同い年くらいの女の子と遊んでいたことがあって、虚ろな初恋をしていたかもしれないと言ったことがあった。

 たしかに恋という字は、旧字体で戀と書く。

まるで〝言〟葉が糸となって繋ぎを持っているように思える。

 その少女は隣にいる男子と恋仲だった。

 その恋は周りに押し付けられた形から始まり、やがて本物の恋となった。

 少女は人魚姫のように手の届かない恋をして、それを叶えて、消えていった。

 少女が恋したのは僕ではなく青井一樹という男子だ。

 だから、僕は少女に恋していたとは言えない。

 なら、僕が抱いていた感情はなんて言うのか。

 僕はもうその答えを知っている。

 それは愛していたと呼ぶんだ。

 少女に愛とは何かと訊いたら、居てほしいと思う人が現れたらそれは愛だと答えた。

 その少女のことを僕は大切に思っていた。そしてずっと居てほしかった。

 しかしそれに気が付いたのは、その少女が消えてしまう直前だった。

 悲しいかな。人は失う時に初めて物事の重要性や肯綮に気が付く。

 それは僕も青井も同じだった。

 彼は少女を失ってから恋していたと気づき、僕は愛していたと知った。

 もし少女が消えてしまう際に愛だと知っていたら僕は血で、そう書いていたかもしれない。

 けれどそんなストレートな言葉はまだ僕には扱えなかっただろう。

〝なきものねだり〟

 でもこの言葉には、自然と愛しているという意味も含まれていた。

愛していたから少女を欲した。

 消えてほしくないと願った。

 そして、少女にその意味がちゃんと届いていた。

 僕の意識が薄れる中で、少女が笑っていた理由を。

ありがとうと言っていた理由を、今知った。

ありがとうと言うべきなのは僕の方だ。

少女は愛を教えるという約束をちゃんと守ってくれた。


そろそろ限界が近づいていた。

少女に想いが届いていたと分かった時から、もう堪えられそうになかった。

「少し、少しだけでいい。一人にさせて、くれるかな」

 僕を見守る二人にそう頼む。

 二人は何も言わずに頷いて、僕と少女の眠る墓から遠ざかっていく。

 もういいだろう。

 二人には聞こえないように。

 けれど、眠る少女には聞こえるように。

 僕は静かに声を上げて、泣いた。


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