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〝恋と愛の違いとは何だろう〟
ジャムとマーマレードの違いのようであり、人間関係の真理でもあるように思う。
チョークを指揮棒のように持って振るい、今は使われなくなった教室の黒板に言葉を並べていく。
〝最初は自分のため。次第に相手のためになる〟
そう書いて僕から二メートルほど離れたところに立つ夏季仕様の制服を着ている少女へ視線を向ける。
少女は黒板に書いてあることがよく分からないようで、首を傾げる。
〝キミが知りたがっていた恋についての話だよ。定義とか概念のような〟
僕は今、たった一人の少女に恋の話をしている。事前に僕が恋について調べ、それを彼女に教える。まるで教師と生徒だ。
僕自身、恋をした経験はないけれど、それでも概念みたいなものは知っている。
少女はどういうことなのと言いたげにまた首を傾げて、セミショートの黒髪がパサリと肩に落ちた。
僕はまた黒板に向かって書いていく。
〝最初は自分のために恋をする。寂しさを埋めるため、彼女がいるとアピールするため、趣味や意見を分かち合いたいため、性欲を発散するため。どれも自分のためだろう?〟
そこで少女を一瞥する。
少女は頷いている。
〝でも交際するようになって時間を共有していくうちに、相手に思考や行動を合わせるようになり、それが当たり前になって、気が付けば相手を想う気持ちの方が大きくなる。だから、最初は自分のため、次第に相手のためになる。それが恋。僕はそう聞いて、そう思った〟
全部書くのに眠くなってしまうくらいの時間が掛かったけれども、少女は目をこする素振りすら見せない。
これは父方の大叔母から聞いた話だった。僕も最初聞いた時は少女と同じように首を傾げたけれど、そうなんだ、そうだよなと自分を騙すように納得した。黒板に書いたものに僕なりの意見も少しばかり混じっているけれど。
少女は僕と違って心の底から納得したかのように、首を縦に激しく振った。
深緑色の黒板に書いたものを消して、白い靄の上にまた書き始める。
〝他に何か恋について聞きたいことはある?〟
今度は簡潔に。
すると彼女は僕の目をまっすぐ見てくる。口を開き、母音の発音に沿った口の形を数度繰り返した。ゆっくりと、彼女の声が聞こえない僕にも伝わるように。
彼女が伝えたいことを僕は理解して、返事を黒板に書く。
〝僕は恋なんてしたことがないよ〟
少女の、あなたは恋をしたことがあるの、という僕への問いかけに対する返事。
期待していた返事と違ったからか、彼女は子供のように口を尖らせて拗ねた表情をした。
僕は付け加える。
〝愛を知らない僕が恋したことなんてあるはずが無いだろう〟
と。
それでも彼女は口を尖らせたままだ。その可愛らしくて淡い桜色の唇をそのまま掴んでやろうかと思った。でも、やめた。結果は目に見えているから。
ただ僕はふと思い出して、
〝そういえば、どこでも親と手を繋いで行動するような幼かった頃に同い年くらいの女の子と毎日遊んでいた時があったんだ。うろ覚えだけど、その時に僕とその女の子はお互いに好き好きと言い合っていたから、それが初恋だったのかもしれないね〟
そう書くと制服姿の彼女は、息子が彼女といる場面を見てしまった母親のように微笑んだ。なんだかイラッときた。
彼女は僕のその反応を見て、子供のように、楽しそうに笑った。
そして少女はまた口を動かす。
彼女と僕の間には、不可視の分厚い防音ガラスでもあるような感じがする。だから、彼女の声は聞こえない。でも言っている言葉は理解出来る。
〝可愛い初恋だね、だって? それはそうだよ。だって純真無垢で大人たちのような汚い欲望にまみれず、ただひたすら一色に染められた純粋な恋さ。でも当人の僕はそれを恋と呼べるのかは分からないけれどね〟
と、僕は少し雑な字で書いた。
なにせ、幼い子供だ。恋がどういったものなのかさえ理解出来ていない。好きという言葉の意味さえ理解出来ていない。誰彼構わず、その言葉を言い放っていたかもしれない。
しっかりとした輪郭も中身もない、虚ろな初恋だ。
僕は知らず知らずのうちに眉間に皺が寄っていたようで、少女は、
ご・め・ん・ね。
そう、ゆっくりと、はっきり口を動かした。申し訳なさそうな表情をしているけれど、その気持ちは全く伝わってこなかった。彼女らしい一面だ。誰が相手でも、仕方ないなあ、と思わせてしまう愛嬌のある子だ。表情筋が動くことを忘れてしまったような僕とは違い、彼女は表情が豊かだ。
〝じゃあ今度はキミが愛について教えてくれるかな〟
本来ならば、僕と彼女は出会うことなかっただろう。
僕と制服姿の少女、一瀬真琴との黒板を通じた会話は、およそ一カ月ほど続いている。
決まって場所は木造建築の旧校舎で、同じ教室。
普通に会話が出来ない僕らは、こうして黒板を使わなきゃならない。
幸いなことに僕は口に出す言葉よりも文字の言葉の方を好んでいる。だから、あまり精神的な苦痛はない。
一瀬は、声が出せない、聞こえない、触れることが出来ない、の三拍子が揃った『幽霊』だ。
僕が口にする言葉を聞く事は出来ない。また彼女が口にする言葉は、僕には聞こえない。
人間と幽霊は直接会話することは出来ない。まさに死人に口なし。
だから、僕は一瀬のゆっくりと動かす口を読んで、一瀬は僕が黒板に書いた言葉を読んで、そうして会話をする。これが会話という定義に当てはまるのかは分からないけれど、これが僕と一瀬なりの会話だと、僕は思う。
定義は個性と同じく、人それぞれだから。
彼女と初めて出会った頃に比べて、意思疎通は普通―――それこそ黒板なんて使わないで普通に喋る会話と同じくらい―――に出来るようになった。一カ月前は彼女が何を言いたいのかよく分からなかったし、僕もどうしたら彼女に言いたいことを伝えられるか分からない状態だった。
お互いに大人とそう変わらない体なのに赤子同士のコミュニケ―ションみたいだった。
それでも、僕はなんとか泡沫な彼女と会話がしたかった。
それほど、その頃の僕は誰かと会話することを欲していて、でも人とは会話したくなかった。笑ってしまうほど矛盾していて、僕自身がそれほど拗れていた。今も拗れているという自覚はあるけれど。
僕がそうなってしまった経緯と、一瀬と出会った経緯は切っても切れないほどに結び付いている。
世の中に当たり前のように存在する不条理を知ったあの日、僕と一瀬は出会うことは決まっていたのかもしれない。
どうしようもないほど太陽がギラギラと自己主張をしていた二カ月前の七月下旬。
僕が通っていた都内の高校では、夏休みを目前に控えクラスメイトが浮足立っていた。そんな中でただ一人、僕だけはその高校の夏休みを迎える事を許されなかった。
都内から遠方の、いま在籍している高校に転校することになったから。
すべては僕の生まれつき明るすぎる髪色と極度に白い肌、そして夏の不快な暑さのせいだ。
そう、罪を擦り付けていた。
2
始まりは、僕が生まれるよりも、ずっと前だ。祖父から始まる。
断片的な記憶ではあるけれど、僕の父方の祖父は白髪に白髭の姿だった。赤い服を纏ったらサンタクロースに見えるような人。一見、普通のどこにでもいるおじいちゃんと変わらないけれども、実質は異なる。
祖父がメラニン欠乏症という先天性の遺伝子疾患だったというのを僕が知ったのは、祖父が火葬されている間に親戚同士の談話を聞いていた時だった。生まれつき身体中の色素という色素が抜け落ちて白い肌と体毛になってしまうという病気らしい。
大人による大人の会話の内容が完全に理解できない小学校低学年くらいの時分。だからその時に理解出来た事は、祖父は生まれつき身体の色が白い病気だったということだけだ。
たしかに肌も日焼けクリームを四六時中塗りたくっているのではと思うほど白かった。けれど、物心がついたからそうだったから、歳を重ねるとみんなそうなるのだろうなと当たり前のように思っていた。いつか僕もああいう風に体の色が脱色するのだろうなと思っていた。
しかし僕のその予想は外れていた。
僕の父親は祖父のメラニン欠乏症の影響は受けず、五十歳を迎えても黒髪で程よい肌色をしていた。
でも僕は違った。隔世遺伝だかなんだか知らないけれど、生まれつき色素が薄かった。母親が色素の薄い美人だけれども、母親のそれとは明らかに異質な薄さだった。だけどメラニン欠乏症と呼べるほどの度合いではなく、しかし絵具で塗ったような明るい髪色。一度も紫外線を浴びたことがないような白い肌。
そのおかげで幼い頃は母親の友人に、羨ましいわ、私もこれぐらいの白さが良かったわ、なんて幾度も言われた。
僕は男なのに肌の綺麗な女の人以上に白い肌を持ち合わせていることがこの上なく煩わしかった。
髪色と肌の色の交換が出来るものなら喜んで交換してやりたかった。自分の明るい髪色と白い肌を認識する度に、祖父の火葬時の鼻にこびり付くような独特なにおいを思い出して、良い気持ちではなかったから。
小、中学校の九年間ではほとんど一人だった。周りの人は異質な姿の僕が受け入れられないらしく、珍しい虫を発見したかのように遠くから眺めるだけで。たまに話しかけてくる人がいると思えば、ただの冷やかしや遠回しの嫌味を言ってくるだけ。
けれど誰とも関わりがなかったおかげで勉強に集中することが出来たから良かった。部活はもちろん入ることなく、先生達はさすが大人で色々と察してくれたようだった。
でも一人というのは、あまりに考えてしまう時間が出来て、加えて精神的に成長段階の時期だった。気が付けば、悲観的にものごとを考える性格になっていた。一本しかないレールの上を走るように、必ず辿り着く先だったから。
『目的を伴う目標を掲げて行動しろ』と口癖のように言う父親の信念に沿う形で、僕はひたすら勉強をして高校受験に挑んだ。勉強というレールを走っていれば、いつかゴールが見えてきそうだった。
その結果、高校は都内のそれなりに偏差値の高い学校へ行くことが出来た。
でも、なぜ高校というのは学生生活の中でも社会的協調性を最も学ぶ三年間であるのか。何かと強制的にグループワークをさせられて、その度に同じグループになったクラスメイトが奇妙なものを見る目で僕を見てきた。でもそれくらいなら小、中学校と九年間で慣れていたから、蚊に刺されるよりも微々たるものだった。
ただ、問題だったのは半端に関わろうとしてくるクラスメイトと、それに応えてしまう僕自身だった。だから関わっていくうちに、小学低学年ほどの人情が僕の中に生まれてしまった。
そういった半端な関わりの生活が一年経ち、進級してクラス替えが行われた。するとまた視線が僕に集まるようになった。そう思い込んでいるだけだと自分に言い聞かせるようしたのだけれど、今度のクラスではそうはいかなかった。
たまたま一年生のときが恵まれていて、クラスの中にいじめがなかった。そういうことをしようとする人もいなかった。
運悪く、二年のクラスではそういうことをする『不穏分子』が集まっていた。ダボダボのズボン、ワイシャツの裾を出し、上履きの踵を踏んでいる。初見でこの先の一年間が思いやられるだろうなと確信に近い予感がした。
二年生になって二カ月が経過して僕にいじめやそれに近い被害があったかというと、実はなかった。
情報というのはどこから広まるのかわからなくて、どこまで広がるか分からない。
僕の父親が教育委員会の委員であることをその『不穏分子』たちは知っていた。何を危惧したのか、僕に奇異の視線と時折聞こえてくる蔑みの言葉くらいだけだった。てっきり、もっと悪意が表面的に滲み出た嫌がらせをされると思っていたのだけれど、そういうことは全くなかった。
むしろ、クラスメイトの女子からは声をかけられる事が頻繁にあった。主に黄色い声が。
肌白いよね、天然の髪色が羨ましい、向坂くんは好きな人いないのとか。高校生は多感な成長期間で価値観や趣向が変わってくるからか、女子はあからさまに好意を表に出しているのが、僕でも分かった。けれどそれは厄介なことでしかなかった。
彼女たちが淡い好意と淡い期待を持ってきても僕はどうすることも出来ず、ただ苦笑いを浮かべるだけ。
女子からそういった扱いを受けるのが気に食わなかったのか、クラスの『不穏分子』から蔑まれる頻度は増え、もともと居心地の良くなかった教室が悪化した。
そして、迎えた七月下旬。
期末試験はとっくに過ぎ去り、次は一カ月間の夏休みが待ち構えていた。
学生にとって大きなイベントが沢山含まれた夏休みを目前に、クラスメイトのみならず学校中に意気揚々とした雰囲気が包まれていた。生徒は浮足立ち、蝉は短い余命を気にせず騒音を発し、空模様までもが晴れ晴れとしていた。
しかし遠くに見える入道雲が嵐を招きそうだった。
終業式を二日後に控えた日。
その日に限って、午後の天気予報は雷雨だった。
僕は、生徒指導室に居た。部屋には僕と担任と学年主任の先生だけで息苦しい空気だった。
先陣を切ったのは担任だった。
「なあ、向坂。お前が憤る気持ちは、まあ、理解出来る。ただそれでも手は出したらダメだ」
諭すように、そう言った。
僕が生徒指導室に居る理由は、他の生徒に手を上げた、というだけの単純な話ではない。
例の『不穏分子』たちが、同じクラスの男子を取り囲んでリンチをしていたのを目撃した。リンチされている彼はたしか、教室の隅で過ごすような、口数の少ない男子だった。彼とかかわりのない僕は、見て見ぬふりしようと思えば、そうすることは出来た。
でも、そうすることが出来なかった。いつしか僕の中に生まれた幼い人情があったからだ。幼い人情は、正しいと思うことに従っていて、その時は怖いものなしで、正しい行動をしただけだ。
『不穏分子』に向かって注意してしまったのが始まりだった。
彼らの矛先はリンチしていた男子から僕へと変更して、まず、罵倒された。それはいつものことだ。違うのは顔を合わせているかどうか。
だから罵倒程度はかすり傷にも満たないはずだった。
でも幼い人情が憤りを抱えてしまい、改めて自分の異質さを認識させられたからか。気が付いた時には目の前にいた罵倒してくる男子に手を出してしまった。右拳で頬を一発。不快な感触が拳頭から腕へ伝わっていく。
我ながら非常に情けないな、と思う。
今までの環境でそういったことに耐性がついていたと思い込んでいた。実際には歳相応の精神しか持ち合わせていなかった。いや、もしかしたら幼い人情を抱えてしまったことで精神も幼くなってしまったのかもしれない。
とにかく、僕は手を出してしまったことは揺るぎない事実だ。
でも『不穏分子』は質が悪い事に、僕が手を出したことをいいことに、先生へ報告した。おそらく自分たちの都合のいいようにすべては語らず。
彼らがリンチしてきた方がまだマシに思えた。
そう思った理由は、僕の父親が教育委員会の委員であることだ。もしその息子が学校でクラスメイトに暴力をふるったとなれば、結果は予想がつくし、今後の僕の処遇も分かる。けれど納得は出来なかった。たしかに手を出したのは僕だけれど、それに行きつくまでの経緯も理由もちゃんとある。
だったら、教師にはこう言えば良いのだ。
「ですが、僕はいじめられていたクラスメイトを助けるためにそうするしかなかったんです」
これで幾許か情状酌量の余地があるだろう。
けれど、それをくみ取ってもらうことはなかった。
パイプ椅子にふんぞり返っている学年主任が口を開く。
「いじめられていたクラスメイト? そんなことはお前が殴った生徒からは聞いていないぞ?」
と強めの口調で僕に言った。
「それはそうですよ。いじめる側が自分から、僕たちはいじめを行っていました、なんて言うはずがありませんよ」
僕がそう言うと、学年主任は眉間に皺を寄せて鋭い目つきになった。
「なんだ、向坂。お前はうちの学校にいじめでもあると思っているのか?」
吐き捨てるようにそう言った。
――ああ、こういう方向なのか。この学校の教師は。
いじめが発覚すればそれは学校側の責任でもあるし、その学年主任や担任にも責任がある。それから逃れるために僕が出来なかった、見て見ぬふり、という方向に向かって先生は走っている。
「でも、事実ですよ」
それでも僕は走り負けることはない。
百聞は一見に如かず、論より証拠というように、いじめられていたクラスメイトの男子を証人にすれば、先生も無視するわけにはいかないだろう。それに僕の父親が教育委員会の委員であったことは、逆に幸運だった。先生がそれでもいじめを認めないというのであれば父親に、教育委員会に直接報告すればいいのだ。
「いじめられていた男子が証人ですよ」
勝利を確信した微笑みが思わず少しこぼれた。
けれど。
「そうか。わかった」
学年主任はそう言うと「入れ!」とドアに向かって大声で言って、数瞬、耳が痛くなるような静けさが部屋を包み、ドアがガラガラッと開かれる音がした。
ドアの方向へ振り向くと、背筋に冷たいものが走った。
僕の視線の先には、いじめられていたはずの男子と、僕が殴ってしまった『不穏分子』が仲良さそうに肩を組んでいたからだ。でも肩に手を回しているのは僕が殴ってしまった『不穏分子』だけだった。
事実上の被害者である『不穏分子』は憎たらしさを覚える笑顔で、その表情に似合わないことを言う。
「せんせぇ、俺、いきなりそいつに殴られたんすよ。俺はただ、こいつと遊んでただけだっていうのに。なあ?」
『不穏分子』は確認するように、隣に居るいじめていた男子に視線を送った。
すると。
「……は、はい。そうです。僕は、彼と、遊んでいただけで――」
といじめられていたはずの男子は、そう言った。最後の方は消えそうなロウソクのように頼りない口調だった。
状況をうまく飲み込めず、混乱した。
追い打ちをかけるように学年主任は口を開いた。
「向坂、お前には彼らがそういう関係に見えるのか?」
学年主任の方を見ることが出来なかった。
代わりに僕の視線はある一点に集中していた。
いじめられていたはずの男子の学生服のポケットだ。ポケットから僅かにはみ出した薄い飴色の紙が見えた。その紙にはゼロが四つ書かれている。それも、二枚。
瞬間に、ハメられた、と理解した。
いじめられていた男子が元々、『不穏分子』と組んでいたのか。それとも、いじめられていたというのは事実で、僕をハメるためだけに彼を買収したのか。この際、どちらの可能性でもよかった。
いじめられていたはずの男子と、『不穏分子』はすぐにドアの前から姿を消した。
もう結果は決まってしまったから。僕の一方的な暴力だったと。
「……まず、お前は周りをどうこう言うよりも、自分の髪色くらいどうにかしたらどうなんだ?」
学年主任のその言葉から久しぶりに葬儀場のにおいが蘇る。
不思議とその言葉に我慢することが出来た。我慢するということは反論や弁解することを諦めたとも言える。だから僕は自分の行為を正当化することを諦めたのだ。
それからの記憶は曖昧だ。
学年主任が「親御さんには、報告するからな」と言って、すぐに父親が学校へ飛んできた気がする。僕の顔を見た瞬間に父親は強烈な平手打ちをした。その瞬間だけは頬に焼けるような痛みではっきりと覚えている。僕は父親が学年主任と担任に頭を下げた姿を見て自然と僕もそうした。
担任は終始表情が変わっていなかったと思う。僕に無関心だったのだろう。
連れ去られるように父親と自宅へ帰り、父親に言われたこと。
「お前が高校に入った目的は暴力を振るうことだったのか? しばらく顔を見せないでくれ」
たったそれだけだった。
それは突き放しだった。息子に失望して切り捨てるとしか考えられない言葉。
もともと感情を露わにせず、プログラムに忠実なロボットのような父親だけど怒りの念と失望の念がハッキリと感じられた気がする。
生まれてこの方、父親から愛情の念というものは一度も感じたことはなかった。だから、その二つの念が初めて父親から僕に伝わった感情だった。
母親も同席していたのだけれど、父親に意見を自分の意見を言った姿を見せたことない母親は、ただ黙っているだけで、父親が部屋から出て行ったあとに、悲しそうな顔をしただけで哀れみの表情に見えた。
僕はいつから脱線してしまったのだろう。
いじめの注意をした時からか。幼い人情を持ってしまった時からか。それよりももっと昔、僕が明るい髪色をもって生まれてきてしまった時からか。ゆっくりと毒に侵されていくように、いつの間にかまともな人生のレールから脱線してしまったのかもしれない。
翌日。終業式の前日にもかかわらず、僕が学校へ行くことはなかった。僕の知らぬ間に父親によって転校手続きがされていた。二学期の始まる九月から父親の故郷、群馬の西部奥にある学校へ通うことになった。
けれども不思議と転校することや両親のもとから遠くへ離れることに嫌な気持ちはなかった。家族を繋ぐものが愛情だとしたら、最初からそれがなかったと思う僕には寂しさを感じることはなかった。
昨日のようなことを不条理な問題だと知った。僕から幼い人情は跡形もなく消え去った。もしかしたら僕自身が捨てたのかも。正しい行動が必ず正解に直結するとは限らない。
代わりに大人の汚れた事情を知ったから僕は少し大人になることが出来た気がする。
しかもこの日は僕の誕生日だった。
歪んで拗れた十七歳をこの日、迎えた。
3
十月上旬。
僕が今住んでいる渓谷を越えた先にある山間の地は、もう肌寒い。山に囲まれているというよりも、まさに山の中にある場所なので早くもチラホラと紅葉が色付いていた。学校の校庭のふちにはキンモクセイがあって良い香りを風に乗せて、僕のもとへ届けていた。
旧校舎の窓から外の景色を眺めていた僕はその感想を教室の黒板に書く。
〝キンモクセイの良い香りがする。もう秋だよ〟
これに対して幽霊の一瀬真琴は、そうなの? という表情で首を傾げた。
〝だってもう十月に入った。僕とキミが出会ったのは八月の終わりだから一カ月以上も前だよ。あの時はまだ向日葵が太陽に向かって元気に咲いてた〟
そう書くと一瀬は声なく、大きく笑った。
僕は彼女が笑った意味が分からず理由を尋ねる。どうやら僕が書いた向日葵という言葉に反応したらしい。
僕と一瀬が出会ったあの日、僕の顔は向日葵とは程遠くて菊の花を連想させるような顔をしていたと、彼女は声なき言葉で僕にそう伝えた。
〝死人を連想させる顔だったってことかな〟
ただ疑問に思ってそう書いた。そこには怒りの感情などは一切無い。自分でもひどい顔をしていたと思えるから。
僕を菊の花というのなら、一瀬と出会ったときに僕は彼女から月下美人を連想した。
花の姿などではなく花言葉に由来している。
儚い人。
彼女はもしかしたら僕の空想が生み出した女の子なのかもしれない。その疑念は彼女と出会った最初の時からあった。
けれど僕は一瀬のような直接会話できない、匂いを感知することも出来ない、人や物に触れることも出来ない、そんな不自由に囚われた人に心のどこかで出会いたがっていた。
僕はこの世界には相応しくないのではと思うことがたまにあり、その度に違う世界の人と会話が出来たならきっと面白くなりそうだなと思っていたから。
そんな不自由な彼女と喋らない会話をするために、僕はチョークを走らせる。
一瀬と出会った日は命尽きた蝉ばかりが目に留まる、そんな気持ちが沈んだ状態だった。
もともと新人賞に応募しようと考えていた小説ですが、ふとこちらに投稿しようと思い至りました。ひとりでも多くの方に呼んでいただければ嬉しいです。