幕間 その1 ジール視点
ネプルーズの街から少し離れた丘の上、ニートが眼下に捉えたネプルーズの街を攻略しようと、最初の命令を約二万の兵士達へ発している頃。
そのネプルーズの街を守る将の一人、『ジール・ナ・ヴィア・ウルザルブル』子爵は机の上に広げた地図を目の前に苦悩していた。
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「くっ……。何故だ? 何故、敵はこうも早く進軍が出来る?」
執務机へ寄りかかる様に両腕を突いて立ち、皺を眉間に深く刻みながら地図を穴が空くほどに睨み付ける。
だが、頭を幾ら悩ませても答えは出てこない。口をついて出てくるのはもどかしさと苛立ちのみ。
昨年の秋頃、敵が占領下に置いていた地を全て放棄して、その戦力をレッドヤードの街へ集めて引き篭もった時は誰もが喜んだ。
インランド王国がとうとう音を上げたに違いないと。侵略を一時的に諦めて、停戦か、休戦を申し込んでるに違いないと。
我がウルザルブル子爵家の寄り親であり、このネプルーズの街を守るインランド王国討伐軍総司令官である『ベルサス・ナ・ヴィニア・ブラックバーン』公爵もそう判断して王都へ旅立った。
インランド王国との国境沿いに在ったオーガスタ要塞が陥落以来、インランド王国と徹底抗戦するか、一時でも停戦するかで揉め続けている宮廷を停戦以上の休戦へと導く為に。
この国の民なら誰だって、インランド王国は憎い。私もそうだ。
インランド王国との因縁は何代も前から続いており、我々はインランド王国の打倒を物心がつく頃から聞かされて育った。
ましてや、東部地方を奪われた今となっては尚更だ。
インランド王国が憎くて憎くて堪らない。必ずや東部地方を取り戻して、今度はこちらが逆に侵略し返してやるくらいの滾りが心に持っている。
しかし、この十年の間に国家総動員令を二度も発令した我が国は疲弊しきっていた。
人、金、物資、ありとあらゆる面においてだ。今、ミルトン王国という国自体が悲鳴を挙げている。
この事実を考えると、公爵は先見の目が有った。
建国以来の武門の家でありながら、オーガスタ要塞が陥落して、インランド王国との戦争が激化し始めると、すぐにインランド王国との休戦を結ぶべきだと訴えている。
だが、建国以来の武門であるが故、その声は本気と取られないばかりか、多くの反発を呼んだ。
私自身、目先にしか見ておらず、何故に屈せねばならないのかと激しく詰め寄った憶えがある。今思い返すと恥じ入るしか無い。
また、それ以上に当時の公爵は苦しい立場にあった。
そもそもの発端であるオーガスタ要塞陥落。その最大の敗因がブラックバーン公爵家嫡子たる若『フロム・ナ・ヴィニア・ブラックバーン』にあった為、公爵は宮廷と軍部の両面で発言権を大きく失い、半ば隠居と言えるほどの状態にまで陥っていたのである。
しかし、公爵と並び立つ武名と実績を持つ者は他に居ない。
インランド国王自身の親征によって、東部地方一帯が奪われ、戦上手と評判なインランド王国第二王子が出兵するとの報告が届くと、それまで公爵を叩いていた者達は掌を次々と返し始め、公爵が権威を落とした原因を作ったのはインランド王国なら、権威を再び取り戻した原因もインランド王国という皮肉な結果となった。
そして、公爵はインランド王国討伐軍総司令官の座に就くと、それまでの遅れを取り戻すかの様な迅速さで動き出す。
まずはレッドヤードの街を奪還すると見せかけた遅延戦闘を仕掛け、その一方では二度目となる国家総動員令に伴う焦土作戦の決行。作戦範囲内となる中部地方南東部の村や街の住人達を避難させた。
ちなみに、焦土作戦とは村や街を焼き払い、侵攻してくる敵に食料や燃料はおろか、情報や休養地すら一切を現地調達させない戦略である。
事実上の国土放棄に等しいが、その実は対象となった土地の領主達はブラックバーン公爵家が所有する領地内から代替え地を貰っており、懐を痛めたのは公爵一人のみ。
その我が身を削いでまで国を守ろうとする気高さ。
焦土作戦が発表された直後、誰の心にもあった公爵への戸惑い。それは実態が知られると共に畏敬の念へと変わり、我々は『公爵の為に』を合言葉に自然と一致団結して、士気は否が応でも盛りに盛り上がった。
これに関して、さすがの公爵も予想外だった様だ。
当初、このネプルーズの街を絶対死守防衛線と定めての専守防衛に徹する予定となっていたらしい。
だが、その盛り上がりを無駄にしてはなるまいと、公爵は新たな作戦を打ち出す。
百人の兵力で構成される中隊を百中隊。
合計すると、一万の兵力を焦土となった各地へ潜伏させた後、各隊の独自判断で合流と離脱を繰り返しながら、その少数部隊故の機動力の高さを活かした一撃離脱の奇襲を仕掛け、後方撹乱による敵の疲弊を狙った。
この作戦は見事なくらい功を奏した。
特にインランド王国の者達は我々より寒さに弱く、冬は快勝、快勝の連続である。
但し、この奇襲作戦は敵を焦土となった地へ深く誘い込んだ後を前提としたもの。
幾ら勝利を重ねて、嘗ての村や街から敵を追い返したとしても、その地へ再び誘い込む為、すぐさま放棄しなければならない点に皆の不満が溜まった。
それに加えて、勝利を得れば、士気は上がる。
何度、インランド憎しの激情に駆られて、大規模な逆撃を訴える部下達を宥めた事か。
私とて、気持ちは一緒だが、それを行ったら焦土作戦で辛うじて得ている有利が生かせなくなるばかりか、国が保たない。
私も以前はそうだったが、血気盛んな者達は大事な事を忘れている。
我が国がインランド王国と互角以上に戦えていたのは難攻不落のオーガスタ要塞が在ったからこそだ。
その要塞が敵の手に渡り、我が国の東部地方も奪われた今、国力の天秤はインランド王国へ大きく傾いてしまっている。
これが最初の国家総動員令が発令された直後なら、まだ可能性は有った。公爵が指揮を執り、一気呵成な逆撃を行なっていたら、今とは随分と違う未来も有った。
しかし、こんな事を言っては不敬罪になるが、その大事な時期に国王は判断を誤った。
宮廷の法衣貴族共に唆されて、媚と弁舌の才能しか持たない賄賂で出世してきた無能を討伐軍の総司令官に就けた結果、東部地方を奪われた上に討伐軍は半壊滅した。
それに我が国は既に国家総動員令よる不自由を二度も民衆へ強いているのを忘れてはならない。
もし、三度目が発令されたら、さすがの民衆も黙っていないだろう。国の内側からの争いが起こりかねず、インランド王国と戦争を行なっている場合じゃなくなる。
それ故、軍事的にも、政治的にも、一兵足りとも無駄は出来ない。
大規模な逆撃を行うとしたら、それは総員が決死の覚悟で望むレッドヤード攻めとなり、インランド王国から休戦の声を引き出す為の戦いとなる。
だからこそ、敵が占領下に置いていた地を全て放棄して、その戦力をレッドヤードの街へ集めて引き篭もった時は誰もが喜んだ。
国力の天秤がどれほど傾こうが、インランド王国が戦力と物資を無限に持っている筈は無い。それが遂に尽きたのだと。
なにしろ、敵の侵攻力は苛烈と言う他は無い。
我が国とインランド王国の因縁は国境が接して以来のものだが、常に剣を激しく交えていた訳では無い。
特にオーガスタ要塞が建設されてからは国境で睨み合っていても戦わなかったり、戦ったとしても小競り合いに終始して、お互いに大規模な戦いを仕掛けるのは十年に一度程度だった。
だが、それをオーガスタ要塞の陥落が一変させた。
インランド王国は手を緩めず、常に四万前後の兵力を維持する為、万を超える大兵力を年毎に送り込んできている。
どう考えたって、それがいつまでも続く筈が無い。我々が辛く苦しいのだから、敵も辛く苦しい筈なのだ。
「いや、それを悩むのは幾らでも後で出来る。
今、考えるべきは公爵が帰ってくるまでの間、ここをどう守り切るかだ」
ところが、ところがである。
我々の期待を一身に背負い、公爵が王都へ旅立って暫くが経った頃、敵が進軍を再開したとの報が伝えられた。
これぞ、正に青天の霹靂。
いや、今にして思えば、我々は勝手に敵は疲弊しきったと期待して、それに縋っただけだ。
しかし、苦労して勝ち取った占領地をわざわざ手放して、進軍を改めて行うなど誰が考えるだろうか。
それも少なからずの労力と物資を用いて、廃墟となっている占領地を活用しようと再建、または再建途中だった占領地を。
もっとも、この時はただ驚いただけ。
敵の意図に困惑はしたが、現実となってしまった万が一に備えて、奇襲部隊は各地に潜伏させたままだった為、今まで通りの作戦を継続して行うだけの事。焦ってもいなければ、余裕も有った。
今までと違う事と言ったら、敵が進軍ルートを一本に絞ってきた事だ。
このネプルーズの街へ至る三本の街道の内、総力を南ルートへ注いできた。
こちらの度重なる奇襲にきっと業を煮やしたに違いない。
戦力を一点に集中させれば、少数部隊の奇襲など簡単に跳ね返せると考えたのだろうが実に浅はかな考えと言う他は無い。
これまで少数部隊による奇襲だったのは、各地に潜伏した奇襲部隊を率いる指揮官がその兵力で十分と判断したからに過ぎない。
この作戦の最大の特徴は必要に応じて、部隊を合流、分散させる独自裁量が現場に与えられており、合流時の戦闘序列も明確に決めてある点に有る。
それに敵が進軍ルートを南の一本に絞ってきた事により、こちらも潜伏先を一本に絞る事が出来る。
敵が用いなかった残り二本の街道を悠々と使えるおまけ付きでだ。今まで敵に発見されない様に街道の外を主に行き来していた奇襲部隊の機動力は当然の事ながら増す。
その上、兵力を集中させれば、そこで消費する物資も多くなるのは当然の理。
それを奪うか、焼き払うのを成功させたら、今まで小さな勝利を重ねると共にちまちまと削っていた敵の消耗を大きく削れる可能性が有る。
そもそも、大軍で進軍するとなったら、その速度はどうしても鈍る。
焦土作戦によって、敵は現地住民からの情報を得られず、進軍に必須な地図を独力で作らなければならない状況下にある以上、その速度は通常より遅々としたものとなり、公爵が帰ってくるまでの時間的な余裕は十分過ぎるほどに有った。
どう考えても、この明らかな愚策を誰もが一笑した。
それこそ、進軍する敵の陣中に第三王子の王族旗が確認されると、その首を誰が取るかで盛り上がったくらいだ。
だが、そんな風に侮っていられたのは最初だけ。
敵は廃墟となった村や街を支配下に置かず、一夜限りの滞在で素通り。一日たりとも足を止めずに前だけを突き進んできたのである。
それも地図を持っていない筈にも関わらず、まるで自分の家の庭を鼻歌交じりに散歩するが如く。
例え、我々が敵の進軍を阻んで遅らせる為に橋を落とした川が道中に有ったとしても、迂回路を的確に素早く発見して、その進軍速度たるや半ば強行軍とも言える速さでだ。
この最前線から届けられる報告を誰もが信じられず、この初動の遅れが致命的となった。
認識を改めた頃、敵は既にネプルーズの街までの道のりを半ば過ぎており、南ルート上に潜伏していた奇襲部隊は判断を仰ぐ伝令をこのネプルーズの街へ何度も届けながらも、予想外な進軍速度で進む敵を少しでも食い止めようと満足な合流戦力数に達しないままの奇襲攻撃を敢行。単純な兵力差の前に悉くが敗退してしまう。
何故、踏み止まらなかったのか。そう怒鳴りたくもあるが、焦った彼等の気持ちも解らないでもない。
それほど敵の進軍は早い。毎日、敵の現在位置が届けられる度に驚き、各地に潜伏した奇襲部隊へ緊急事態の作戦放棄を伝える対応に追われていたら、敵はもう眼と鼻の先に迫っていた。
昨日、強行偵察を向かわせた者達の中、たった一人だけ帰ってきた者の報告によると、敵の総兵力は約二万。
それに対して、このネプルーズの街を守る兵力は約二万五千。まだ戻ってこない奇襲部隊と合流が出来たら、三万はなんとか超えるだろう。
数の上で勝り、この防御力に秀でたネプルーズの城壁を上手く利用しながら専守防衛に徹すれば、有利さは揺るがない。
兵糧とて、麦袋が倉庫に高々と積み上がっており、三年は余裕で戦える。
しかし、敵の進軍再開を知らせる急使は公爵の元へまだ届いてすらいないだろう今、不安ばかりが大きくなる。
公爵から留守を預かる総司令官代理の役目を任されておきながら、こんな弱気でどうすると自分自身を叱咤させて奮い立たせているが、やっぱり不安は拭い切れない。
なにせ、この中部地方は広大な平野であり、防衛に適した高い山も無ければ、険しい谷も無い。
野戦を行うとなったら単純なぶつかり合いとなる消耗戦は避けられない為、我が国に残された国力を考えたらそれは出来ない。
あまり考えたくは無いが、ネプルーズの街が落ちた場合。
次の戦いとなる舞台は古くから頑強さで讃えられている古城『トリス砦』をおいて他は無いだろう。
だが、それはトリス砦までの道中に存在する村や街を無条件に奪われ、中部地方の七割にも及ぶ土地を奪われる事も意味している。
重ねて言えば、この中部地方に広がる平野は我が国の穀倉地を担っており、その七割もの土地が奪われたら国力は著しく落ち、即座には無いにしろ、月日の経過と共にインランド王国とまともに戦うのさえ難しくなってゆく。
ここ、ネプルーズの地が絶対死守防衛線と名付けられたのは大袈裟でも、煽りでも無いのだ。
「この際、ティミング卿へ連絡を取って……。
んっ!? いつから居た? 声をかけてくれても構わなかったのだぞ?」
悩みはまだまだ尽きなかったが、わざとらしい咳払いが思考を遮る様に耳へ届く。
視線を反射的に地図から上げると、名前は知らないが、顔に見覚えの有る騎士が机の前に立っていた。
考え事に没頭するあまり、周囲が見えなくなってしまうのは私の悪い癖だ。
その防止の為、出入口のドアは常に開けたままとなっているのだが、それはそれで警備上の問題などが有り、副官が面会者の取り次ぎをまずは行う手筈になっている。
先ほどの咳払いは廊下に控えている彼女のもの。
居心地悪そうな苦笑いを浮かべている目の前の彼の様子から察するに随分と待たせてしまったらしく、それを配慮したのだろう。
「い、いえ、子爵様はお忙しそうでしたし……。そ、それほど急ぎの用でもありませんから……。」
「何にせよ、待たせて悪かったな。それで何の用だ?」
「じ、実は……。そ、その……。な、何と申し上げたら良いのか……。」
しかし、彼は妙な歯切れの悪さを見せて、尚も苦笑い。
視線も合わせようとせずにやや伏しながらも此方の顔色を窺っており、その態度に思わず眉が寄りそうになるのを堪える。
確か、彼はこのネプルーズ街に元から住んでいる公爵家の陪臣騎士であり、街を巡回する警邏隊の小隊長だった筈だ。
本来なら、彼が何らかの報告を持っていようが、それを聞く役目は彼の上司に有る。それがどんなに重要なモノでも、それを重要と判断するのも彼の上司の役目である。
彼の報告が私の元へ届くとしたら、それは彼の上司を含んだ何人かを介してになる。
その軍隊の序列構造を一足飛びに無視して、私の元へ直接届けに来たのだから、それはよっぽど重要な報告で間違いない。
私の副官が彼を部屋へ通したのが何よりの証拠だ。
彼女の役目はそう言った面会者の分別も含まれている。いちいち全ての陳情を聞いていたらキリが無い。
なら、こうも彼が口篭っている報告とは何なのか。
真っ先に敵の来襲を考えたが、それはすぐに違うと判断する。
もし、そうなら既に大騒ぎとなっている。どれだけ考え事に没頭しようがそれに気づかない筈が無い。
第一、彼は街を巡回する警邏隊の小隊長。
その目は街の内側へ向けられており、何らかの報告が有るとするなら、それは街の異常に関する類のモノとなる。
「まさか……。若がまた何かを仕出かしたのか?」
そこまで考えて、唐突に全てを理解した。
多忙を極める中、降って湧いた厄介事に天を仰ぎながら溜息を深く漏らす傍ら、彼がこの部屋を訪れるまでの苦労を察して同情する。
そう、彼は軍隊の序列構造を破ってなどいない。
まず彼は自分の上司へ伺いを立てたが、その報告は彼の上司の手に余ってしまい、彼の上司の上司、そのまた上司へとたらい回されて、その果てに私の元へ辿り着いたのだ。
「は、はい、西区の少女をお見初めになり……。」
「馬鹿者、それは急ぎの用だろうが! 今すぐ、案内しろ!」
「はっ! も、申し訳ありません!」
残念ながら、嫌な予感は見事に的中する。
彼へ対する八つ当たりと解っていながらも堪えきれずに怒号を轟かすと、この場を副官へ任せて駆け出した。