第01話 戦場に鳴く
「一旦、中央を下げろ! 左翼、右翼はそのまま!
大将が状況次第で仕掛ける! それを踏まえて、各隊は戦列を整えさせろ!」
絶え間なく鳴り響く剣戟とあちらこちらであがる雄叫び。
大地は赤く染まり、血の小川が作られ、撒き散らされた臓物が生臭さを溢れ漂わす。誰もが正気でいられない場所、それが戦場だ。
唐突ではあるが、ウォー・シミュレーションゲームなる遊びを知っているだろうか。
元々は軍隊で行われていた戦術研究の為の机上演習を祖とする遊びであり、古今東西の戦史や仮想未来の宇宙戦争などの幅広い題材を用いたボードゲームやコンピューターゲームの総称である。
簡単に言うなら、将棋やチェスをもっと複雑化したものだ。
盤上、駒、マス目、動き、そのありとあらゆる要素を数値として扱い、それ等を競い合わせるどんな過程においても運というランダム要素が加えているのが最大の特徴だ。
一例として、三国志を題材とするものを挙げると、三国志の物語に登場する数多の英雄達が全て数字で表現されている。
その最大値を百とするなら、三国志最強の武将である呂布なら武力という能力値が、三国志最高の智将である諸葛亮なら知力という能力値が百といった具合に。
そして、ご贔屓にしている英雄の能力値で一喜一憂する。
前の世界にて、戦史好きだった俺はウォー・シミュレーションゲームで遊ぶのも然ることながら、こうしたゲーム毎に設定されている英雄達の能力値を閲覧するのも大きな楽しみだった。
一例として挙げた三国志を題材とする某会社のシリーズ作に至っては、同好の友と趙雲贔屓が過ぎると何度も熱く語り合ったのは良い思い出だ。
しかし、その数多に設定された数値の中、何を表現しているのかが解らなかったモノが有る。
それは前記の一例としても例えた英雄達に設定された能力値カテゴリーの一つ『統率力』である。
その意味を読んで字の通り、直感的に考えるなら『人を率いて纏められる力量』となる筈だ。
事実、統率の意味を辞書で調べてみると、同様の内容が書かれていた憶えが有る。
では、『人を率いて纏められる力量』とは具体的に何なのか。
まず真っ先に思い付いたのはどれだけの人数に命令を正確に素早く伝えられるかだったが、これは訓練や手段で幾らでも改善が出来る。英雄毎、千差万別に与えられる能力の数値とは言えない。
次に思い付いたのは人を従わせるカリスマ性だが、カリスマはカリスマで『魅力』という別の能力値で表されている為、別の意味を必然的に持つ事となる。
もっとも、解らないなりにもヒントはあった。
この『統率力』という数値がウォー・シミュレーションゲームで重要視されるのは戦場。
そこから考えて、『魅力』とは別の戦場を限定としたカリスマ性を『統率力』と表現しているに違いないと嘗ての俺は半ば納得、半ば不満の答えで決着を付けていた。
だが、それは違った。
この世界に生まれ変わり、本当の戦場を実際に何度も経験した今、ようやく答えを得る事が出来た。
「馬鹿! 今度は下がり過ぎだ!
逆に突破されて……。うん? いや、待て。これは……。」
戦闘が開始したら、その勝敗が着くまで一瞬の油断が文字通りの命取りとなる戦場。
誰もが生き残る為に誰かを殺す最中、目の前の事だけで精一杯となるのは当たり前だが、それだけで十分なのは単なる一兵卒まで。
小なりと言えども、部下を持つ指揮官であるなら常に周囲へ目を配り、戦況に合わせた臨機応変な指示を部下達へ与え続けなければならない。
その能力を持っていなければ、目まぐるしく変わってゆく戦況に取り残されてしまうばかりか、自分と部下達の命を余計な危険に晒してしまう可能性がぐんと跳ね上がる。
つまり、『統率力』とは戦場における視野の広さだ。
視野が広ければ、戦場に零れ落ちたチャンスに対しても、溢れ出てしまったピンチに対してもより素早い対応が可能となり、自分と部下達をより有利へと導ける。
しかし、言うは易し。視野を広く持とうと意識しても、これがなかなか難しい。
城壁の上や小高い丘から戦場を見下ろしている場合はともかく、戦場の直中は何処を見ても数多の者達が壁となって視界を塞いでおり、視野の極端な高低差も無い。
馬上からなら視線が高くなった分だけ視野も広がるが、戦場の隅々まで見渡すのは不可能で所詮はそれなりでしかない。
ましてや、現実の戦場はウォー・シミュレーションゲームの様に敵味方が解りやすい色で区分されていない。
オータク侯爵家家臣団『赤備え』の様に色を統一している部隊も稀に存在するが、敵も、味方も、騎士も、兵士も身に着けている服や装備は千差万別。
それだけに混戦状態となったら最悪である。
敵味方の区別を行う為に部隊が掲げている軍旗をいちいち確認しなければならず、その労力は視野をますます狭くさせる。
ところが、この難しさをおっさんは容易く行なってみせる。
槍を最前線で振るいながらも万の軍勢を手足の如く操り、敵の計略に陥ろうが噛み破ってさえもみせる様は神業にも等しい。
今や、俺は立場を得た。味方達を采配一つで死地へ投げ入れる立場を。
なればこそ、その神業の秘訣が気になった。戦場における犠牲をゼロにする事は決して出来ないが、努力次第でゼロに近づける事は出来るからだ。
『あん? そんなもん、ぱっと見たら何となく解るだろう?』
だが、おっさんへ聞いた俺が大馬鹿だった。
先ほどの最大値を百とした例えを用いるなら、おっさんの知力と政治力は一桁とは言わないにしろ、絶対に三十以下なのは間違いない。最初からまともな答えが返ってくる筈が無かった。
槍術の指導では小さな動作の一つ、一つまで術理をしっかりと教えてくれるにも関わらず、それ以外は何故にこうも脳筋なのか。
取りあえず、おっさんの場合は数多の戦場を駆け抜けてきた経験が大きいに違いないと勝手に納得した。経験に勝るものは無しという奴だ。
「良ぉ~し! 敵が間抜けをやってくれたぞ!
右翼と左翼は直ちに前進! 敵を包囲しながら弓隊は一斉射撃! 有りったけの矢を放て!」
勿論、才能も大いに影響しているのだろう。
今、その最たる証拠が俺のすぐ隣に居る。ジェックスさんだ。
前方の戦場を入り乱れて戦う敵味方の総数は約五千人。
総指揮を執るジェックスさんから出された指示は即座に軍楽隊へ伝えられ、様々な意味を持つ音色が戦場に鳴り響く度、見るからに強固そうな陣を廃村跡地に築いて待ち構えている敵へ仕掛ける不利さを次々と覆しながら敵の先手、先手を打ってゆく。
残念ながら、俺ではこうも上手くいかない。
馬上で隣り合い、同じ視界を共有しているが、俺が捉えている視野はどうやらジェックスさんよりも狭いらしい。
戦場の変化を発見するのを既に何度も先んじられている。ジェックスさんの指示を聞いてから初めて知った戦場の変化も幾つか有る。
元々、ジェックスさんは出会った当初から人を纏めるのが上手かったが、以前はここまでの『統率力』は持っていなかった。
俺が兵役を済ませた後もトーリノ関門に残り、ジュリアスの補佐となり、その後は正式なジュリアスの親衛隊副隊長となった経験が才能をきっと開花させたのだろう。
もしかしたら、その『統率力』はおっさんに匹敵するかも知れない。
今なんて、正にそうだ。その機を読みきった指示は思わず目をパチパチと瞬きさせながら口を半開きにしてしまうほどの鮮やかさ。
乱れた陣形を整える為に後退させた中央部隊に釣られて、敵部隊の一部が突出したのを素早く見つけると、両翼部隊を前進させての三面包囲。
所謂、『釣り野伏せ』の名で有名な戦術だが、事前に打ち合わせていても難易度の高い戦術を打ち合わせ無しに戦場のリアルタイムで成し遂げてしまったのだから、これを驚かずして何に驚けという話。
さぞや、敵の指揮官は包囲された部隊を見捨てるか、助けるかの辛く厳しい選択に迫られているだろう。
前者を選んだ場合、最小限の犠牲で済むが兵士達の士気は著しく下がる。下手したら、この場は凌げたとしても後に反乱や逃亡が発生する可能性が高い。
後者を選んだ場合、大きな犠牲を承知しながら三方から雨の様に降り注ぐ矢の中へ救助部隊を送らなければならない。それも救助が終わるまで陣の出入口を開放したままでだ。
「……決まった様だね」
暫くして、敵陣の出入口が開き、敵の騎馬隊が戦場へ新たに投入される。
どうやら、敵の指揮官は後者を選んだらしいが、それを決断するには遅すぎた。数瞬前なら僅かなりの活路も有ったが、もう包囲された部隊も、それを救出に向かう騎馬隊も助からない。
その近未来を読みきったのだろう。
ふと聞こえてきた呟き声にジェックスさんとは反対の右隣へ視線を向けると、ジュリアスが戦場を真っ直ぐに無表情で見つめていた。
しかし、視線を少し下げて窺ってみれば、馬の手綱を握る手が微かに震えている。
大方、勝利を得る為に多くの屍を積み上げなければならない現実に嘆いて、感情を押し殺しているに違いない。
相変わらずの偽善とも言える甘さだが、その甘さは嫌いじゃない。
それに大きな権力者の身分でありながら民衆を労り、その一つ、一つの生命を尊重する事が出来るのは王者の資質でもある。
また、王者の資質について語るなら、この戦闘の総指揮をジェックスさんが執っている事実でも言える。
今現在の対ミルトン王国戦線における最上位者は総司令官たるジュリアスだが、ジュリアスがこの戦場で命令を発したのは戦闘を開始する第一声のみ。以降、ジェックスさんが全ての命令を発している。
しかも、それはこの戦場に限ってでは無い。
俺達がミルトン王国へ侵攻して、二年目。今までジュリアスの本隊が参戦した全ての戦場をジェックスさんが総指揮を執っている。
これはジュリアスがジェックスさんの統率力に全幅の信頼を置いているのは勿論の事、自身の統率力がジェックスさんより劣っていると認めているからに他ならない。
これは双方ともなかなか出来ない事だ。
前の世界での歴史上、これが出来た王は名君や仁君と呼ばれ、民衆から慕われた実例はとても多い。
だが、ジュリアスの対抗馬である第一王女は知に、第二王子は武に優れており、二人もまた王者の資質を持つ者達だから困る。
それを考えると実に惜しいと言うしか無い。本来、王位を継承する立場の第一王子が病弱に非ず、王となった後によっぽどの暗君とならない限り、第一王女と第二王子とジュリアスの才能溢れる三人が手を取り合って支えさえすれば、インランド王国の未来はさぞや明るかった筈だ。
正しく、美しい夢とも言える未来。
私利私欲を求める貴族達によって、美しい夢はとうの昔に汚されてしまい、本人達の意思など構わず、第一王女と第二王子とジュリアスの三人が次代の玉座を巡って争うのは決定事項となっている。
問題はそれがいつ起こるか。
これまで水面下で交わされていた争いが最近は表面化し始めており、それはさして遠くない未来に違いない。
最近の悩みは第十三騎士団の出兵前にあった露骨な一悶着で解る通り、まずはジュリアスを蹴落とそうという利害の一致から第一王女派と第二王子派が手を結びかけているという点だ。
恐らく、当初は駄馬だと考えていたジュリアスが左遷先のトーリノ関門で予想を遥かに超える結果を見せた上、版図の拡大が膠着状態に陥ってしまったミルトン王国戦線との対比が加わり、下級貴族や民衆に元々あった人気がより高まり、立派な対抗馬となってしまったが脅威になり始めたのだろう。
昨年の春、ミルトン王国へ出兵する間際の間際まで精一杯の社交を行い、味方を増やす努力を重ねてはみたが、その成果はお世辞にも良いと言えない。
やはりと言うべきか、宮廷は第一王女派が、軍部は第二王子派が牛耳っているせいか、数少ない中立や無所属の者達の返事はどれも曖昧な玉虫色ばかりだった。
しかし、その色はここでの武勲次第で幾らでも色を変えられる。
既に旗色を決めている第一王女派と第二王子派からの寝返りさえも十分に期待が出来る。
なにしろ、国王のミルトン王国戦線へ対する執着度は国家財政を大きく傾けるほど。
貴族達が声高に幾ら叫ぼうが、次期王位に関する最大の決定権を持っているのは国王であり、その国王のジュリアスへ対する期待と関心が高まれば、それが大きなリードとなるからだ。
これは特に優秀な政治家であっても兵力を率いての戦争が出来ない第一王女へ対するアドバンテージとなるに違いない。
それ故、このミルトン王国戦線における最大の敵は超一流の武人であると共に優秀な将軍でもある第二王子と言えなくもない。
即ち、第二王子が数年前の出兵時に印したミルトン王国戦線における一時最大到達点。陥落させられずに撤退を余儀なくされた『ネプルーズの街』を最低でも落とさなければならない。
ジュリアスや他の者達は『ネプルーズの街』を最大の目標としている様だが、俺にとっては通過点に過ぎない。そこを越えてこそ、第二王子へ対するアドバンテージが得られる。
そうである以上、まだ『ネプルーズの街』へ到達もしていない今、敗戦は元より、苦戦すらも有ってはならない。
そんな事を考えながら視線を前方の戦場へ戻して、今にも爆発しそうな燃え盛り滾る戦意を懸命に抑えていると、敵の前線の勢いが遂に崩れた。
「さあ、大将! あとはお前さん次第だ!」
「承知! 任された!」
ジェックスさんが指をパチンと鳴らして、前方の戦場を勢い良く指し示す。
同時に開いていた兜のバイザーを下ろしながら馬の腹を軽く蹴ると、馬もまた俺同様に戦意を燃え盛り滾らせていたらしい。鞭を入れるまでもなく、駆ける速度を常歩から速歩へ、速歩から駈歩へ、駈歩から襲歩へと一気に上げてゆく。
その荒々しい馬蹄の響きを聞きつけて、待ちかねたと言わんばかりの精悍な顔つきを向けてくる猛者達。
これから彼等を率いて行う作戦行動は敵味方が混戦する最前線へ割って入り、その最前線よりも先にある敵陣への突撃である。
言い換えるなら、目の前の戦いを決定付ける最大の見せ場。
彼等の一人、一人が花型な役どころを得る分、その危険度は極めて高い。それを承知していながら、この頼もしさ。
「戦旗を掲げろ! これより敵陣へ突撃する!
俺が止まるまで足を絶対に止めるなよ! とにかく、俺に付いて来い!」
思わず兜の中で苦笑が漏れそうになるのを堪えて、槍を掲げながら叫ぶ。
猛者達も負けじと雄叫びをあげて応え、騎乗する俺を追い越さんとする勢いで走り出す。
「ネーハイムは左を! タムズは背中を頼む!」
「「はっ!」」
「マイルズ、目の前の事だけに集中しろ! 小器用に上手くやろうと思うな!」
「は、はい!」
戦場に鳴り響くラッパのファンファーレを合図にして、進行方向に陣形を構えている味方達が左右へと波が引く様に素早く分かれてゆく。
最前線へ至る一本の道が作られ、その先に味方達の行動に戸惑い、辺りをキョロキョロと忙しなく見渡している敵兵達の様子が見える。
「さあ、始めるぞ! 蹂躙して、蹂躙して、蹂躙せよ!」
その中の最も俺に近い一人が俺の姿を見て、目をこれでもかと見開くが時既に遅し。
槍の石突き近くを右手で力強く握り締めながら最大に振りかぶり、遠心力を加えた渾身の薙ぎ払いを一閃させる。
次の瞬間、首を絶たれた頭部が驚愕を表情に貼り付けたまま空を舞う。
今まで彼がどんな人生を歩んできたのか、それを問う暇も無ければ、推し量る暇も無く、薙ぎ払った勢いを返して、行く手を塞ぐ邪魔な意思を失った身体を叩き払い飛ばす。
「く、黒山羊だ! く、黒山羊が現れたぞ!」
「な、何っ!? あ、あの黒山羊かっ!?」
「も、もう駄目だ! に、逃げろ!」
すぐさま次なる目標に狙いを定めると、その敵兵は文字通りの一目散。背中を見せて逃げ出した。
あとは水を堰き止めていた堤防が決壊する如し。今まで戦いの高揚感に覆い隠していた死の恐怖が浮き彫りとなり、敵兵達の間に恐慌が一気に広がってゆく。
最早、敵は組織立っての行動が完全に不可能な状態。
一部の騎士達が必死に戦えと怒鳴っている様だが、右往左往して逃げ惑う兵士達の悲鳴に掻き消されて聞こえない。
ちなみに、敵兵達が恐怖に戦き叫んでいる『黒山羊』とは俺の事を指す。
何故、『黒山羊』と呼ばれているか。それは俺が身に着けている鎧が黒一色に染められており、兜が山羊を模したデザインで立派な巻き角を飾られているからだ。
本音を明かせば、こんな鎧は身に付けるのは真っ平御免であり、身に着けている今もこっ恥ずかしくて堪らない。
只でさえ、黒一色というところが厨二病臭いのに加えて、兜のデザインが最悪と言うしかない。前の世界を知る者なら、それは悪魔『サタン』以外の何者にも見えず、更なる厨二病臭さをぷんぷんと漂わせていた。
それだけでは無い。この鎧を作った鍛冶職人は誰もが知る超一流の職人であり、素晴らし過ぎる匠の技が兜に施されており、それが俺の心を七転八倒させる。
なんと馬を襲歩で駆けさせると、バイザーの覗き窓から入ってくる風が後頭部の空気穴を抜ける際、山羊が鳴く様に『メ゛ェ゛~~』と低い音色で断続的に鳴り響くのだ。
そう、今が正にその状況でさっきから『我、ここに在り』と言わんばかりに五月蝿く鳴いており、今すぐにでも兜を武器にして敵兵へ投げつけたいほど。
だが、この鎧一式は国王から下賜された結婚祝いの品。
それも今の国王が金銭や地位以外を下賜するのは滅多に無いらしく、数多の貴族から寵臣の孫娘の結婚祝いと言えども破格の待遇とまで言わしめると共に羨まれた品でもある。
ならばこそ、この鎧を身に纏い、戦場を駆けるのは誉れ中の誉れ。
厨二臭さを感じているのはあくまで俺一人のみ。こんな鎧を着るのは嫌だとは口が裂けても言えない。
一応、努力はした。滅多に無い下賜品だからこそ、王都屋敷の玄関にでも飾っておこうと説得を試みたが、おっさんを初めとする全員が譲ってくれなかった。
付け加えて言うなら、『黒山羊』と呼ばれる要素は俺が率いている部隊の戦旗にも有る。
鎧一式を下賜された際、コミュショー家へ新たな紋章が下賜されており、このデザインがやはり『黒山羊』ときている。
しかし、こちらは素直に格好良いと思えるデザイン。
出自のレスボス侯爵家を表す剣と婿入りしたオータク侯爵家を表す槍の二つが斜めに交差して、その上に黒山羊の横顔が描かれたもの。
ただ、俺は男爵位を得た際に自分自身で定めた紋章『大一大万大吉』を気に入っていた。
これは『みんなは一人の為に、一人はみんなの為に尽くしたら世の中は幸せになる』という理想が込められており、前の世界における戦国時代の武将『石田三成』が用いていた旗印である。
無論、この世界の住人達に漢字は通じないが、ひょんな事から大きな権力を持ってしまった自分を驕らせない戒めの意味もあった。
しかし、これも国王からの下賜とあっては使うしか無い。
紋章を刻んであった品々は全てが新調され、俺が率いている部隊の戦旗も新しい紋章へと変わっている。
おかげで、敵兵達から『黒山羊』と呼ばれ、この二つ名が今ではすっかりと定着してしまった。
せめて、黒い色の方に着目して『黒騎士』と呼んで欲しかった。勇猛果敢な武人へ付けられる二つ名に憧れはあったが、『黒山羊』などという嬉しくない二つ名は欲しくなかった。
「黒山羊団、ニート様に続け!」
「ヒャッハー! 黒山羊団のお通りだ!」
「逃げる奴は敵だ! 逃げない奴は訓練された敵だ! 黒山羊団がこの世の地獄を見せてやれ!」
「おらおら! メェメェと鳴かせてやるぜ!」
ところが、ところが、信頼する部下達までもがご覧の通り。
ネーハイムさんやタムズさんを初めとするコミュショーの者達は俺に付けられた二つ名『黒山羊』にご満悦らしい。
挙げ句の果て、いつの間にやら俺の知らないところで自分達を『黒山羊団』と呼び始めているのだから困る。
先日、ネーハイムさんが下らない諍いを起こした者達へ黒山羊団の誇りがどうのと怒鳴り諭している現場を物陰から目撃した時は顔を引きつらせるしか無かった。
そもそもの話。どうして、国王は黒山羊をデザインに用いようと考えたのか。
俺はとても問わずにはいれず、鎧一式と紋章を下賜された結婚式の場で返礼すらも忘れて、即座に国王へ問いた。
すると国王は黒山羊ほど俺を表す象徴は他に無いと言い張り、喉の奥が見えるほどの豪快な笑い声をあげた。
どうやら、残念ながら未だ人気が衰えず、王都の酒場各所で唄われている俺の英雄歌。トーリノ関門奪還作戦の過程にて、空城計をラクトパスの街で仕掛けた時に用いた俺の変装が原因らしい。
なるほどと頷くしか無かった。
より敵の困惑を誘う為、あの時の俺は事さらに奇抜な変装をする必要が有ると考え、作戦会議の場となった代官邸に飾られていた黒山羊の剥製頭部をこれならと納得して被った記憶が有る。
だが、『黒山羊』という二つ名は納得がいかない。
大事な事なので重ねて言うと、勇猛果敢な武人へ付けられる二つ名に憧れはあったが、『黒山羊』などという嬉しくない二つ名は欲しくはなかった。ちっとも嬉しくない。
「ああ、もうっ! どいつも、こいつも糞がああああああああああっ!」
戦場に連呼される黒山羊コールに怒りを含んだストレスが鰻登り。
それは行く手を立ち塞がる敵兵を薙ぎ払い飛ばす確かな力となり、俺は戦場の最前線を怒涛の勢いで駆けて行く。
******
歴史上、泰平の世は英雄と呼ばれる者は現われ難い。
残念な事ではあるが、英雄が英雄として輝くのは混迷の時代であり、無色の騎士と名高いニートが活躍した時代もまた混迷の時代だった。
第三の勇者が第三の魔王を倒してから、約二百五十年。
弱肉強食の理の果て、大国へと成長した国々が隆盛を極めて、その伸びきった版図を更に広げようと大国同士の争いが大陸の各地で勃発していた。
メリクリウス・デ・マールス・ケイサー・インランド。
インランド帝国の前身、インランド王国第二十三代国王となるニートが最初に仕えた王である。
彼はニートを語る上で欠かせない存在であり、その際の評価は総じて厳しいものとなるが、決して愚王では無い。
その証拠に当時のインランド王国は北にロンブーツ教国、南にアレキサンドリア大王国というインランド王国より更に巨大な大国に挟まれていながらも侵略を許さず、一時的に国土を奪われても最終的に取り返している。
特に今も現存して残っているトーリノ関門を建造した功績は大きい。
この存在は時代、時代の軍略家達がいかに守るか、いかに攻めるかで必ず頭を悩ませる不変の難攻不落の要塞として受け継がれてゆき、幾多の有名な戦場を作り出している。
ところが、そんな順風満帆だった彼の統治はインランド王国西のミルトン王国が国境に保有していたオーガスタ要塞が陥落したのをきっかけに乱れる。
残念ながら、この要塞は今に姿を残しておらず、どんな形状をしていたかは当時の文献から推測するしかないが、この要塞も難攻不落と呼ばれ、インランド王国はミルトン王国へ侵略が半世紀に渡って叶わなかったとされる。
つまり、半世紀に渡る拮抗が破れ、侵略の橋頭堡を得てしまったが為、メリクリウス王は野心に取り憑かれたのだ。
それも国力を超える侵略を十年以上も渡って続け、インランド王国の国家財政を大きく傾かせてしまうほどに。
どうして、ここまでの野心に取り憑かれたのかは今も解っていない。
地政学的に考えると、インランド王国が巨額の軍事費を費やしてまでミルトン王国を攻めるメリットは少なく、明らかにデメリットが多い。
数多くの歴史学者によって、これまで様々な説が唱えられてきたがどれも単なる憶測に過ぎず、確かな文献は何も残されていない。
只一つだけ確かなのは、このメリクリウス王の並ならぬ野心が有ったからこそ、ニートは英雄として輝き、盟友たるジュリアスは帝位の道を歩んでゆく事となる。
余談だが、我々が強さや幸運の象徴として扱う『十三』という数字。
一説によると、このミルトン王国侵攻時にニートとジュリアスの二人が所属した騎士団『第十三騎士団』のナンバーが起源だとされている。