幕間 その3 ルシル視点
今日も今日とて、ルシルへ対する告白が失敗に終わり、ニートが肩を落としながらとぼとぼと歩き、帰宅の途にある頃。
一方、仕事を終えた『ルシル』は正反対に足取りはスキップを踏んで軽く、ハミングまで口ずさみながらご機嫌に帰宅の途にあった。
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「愛が迷路なら君と迷うだけさ、か……。くふふっ……。」
春も半ばを過ぎ、仕事を終えてもまだ明るい帰り道。
今日、ニート君が唄ってくれた歌はとても私好みだったせいか、思い出す度にどうしてもにやけが止まらなかった。
「おっ!? ルシルちゃん、今日はご機嫌だね? さてはコミュショー卿のプロポーズをとうとう受ける気になったのかな?」
だが、その頬の緩みと共に気も緩んでしまい、だらしない顔をうっかりと見られてしまう。
身体をビクリと跳ねさせて立ち止まり、呼びかけられた方向を振り向くと、我が家の隣に住んでいる子爵家のご隠居様がニヤニヤと笑っていた。
今夜は夜会の予定があるのだろう。着飾った姿をしており、停めてある馬車のステップに右足を乗せている。
「ち、違いますーっ! そ、そんな事、ありませんーっ!」
「照れない、照れない。いい加減、素直にならないと取り返しが付かなくなるよ?」
「も、もうっ! ち、違うって言っているじゃないですかーっ!」
「ふぉっふぉっふぉっふぉっふぉっ!」
「あっ!? 行ってらっしゃい」
「はい、行ってきます」
慌てて言葉の語尾を半音上げての否定を叫ぶが、ご隠居様は聞く耳を持たずに笑い飛ばすと、馬車へ乗り込んで出発してしまう。
それを笑顔で右手を振って見送り、馬が蹄の音を鳴らしながら遠ざかってゆく馬車の後ろ姿が曲がり角の先に消えたところでポツリと呟く。
「もう、とっくにですよ。取り返しが付かないのは……。」
今さっきまでの気分から一転。心に憂鬱な雲が広がってゆく。
溜息が口から勝手に零れた後、それを一呼吸の間を空けてから自覚して、自虐的な笑みを浮かべながら肩を落として歩く。
そう、ご隠居様に言われるまでもなく、ニート君との仲はとっくに取り返しが付かなくなっている。
もう何度も後悔して、何度も自分を責めたが、やはり思わざるを得ない。ニート君がトーリノ関門から帰ってきた時、その言い分をちゃんと聞いてあげるべきだった。
その後だって、仲直りをするチャンスは何度もあったが、意固地になった結果が今の有り様だ。
今や、南門前広場は毎日がお祭り騒ぎ。野次馬は下町の住民のみならず、遠方の村から訪れる者さえ居り、私がニート君のプロポーズをいつ受けるかで賭けにもなっているらしい。
大体、ニート君もおかしい。何故、歌を唄おうと最初に考えたのか。
私の為に唄ってくれるのは凄く嬉しいが、それ以前に恥ずかしさの方が圧倒的に大きい。
これが二人っきりの場ならまだ解る。
私もニート君の胸へ素直に飛び込んでいけるが、あそこは人々が行き交う場であり、私の職場でもある。
私の威厳はニート君のせいで台無しだ。
その時間が近づいてくると、職場は次第に浮つき始めて、部下達は誰もがニヤニヤと笑い、それを叱る事が出来ないのだから。
いや、部下達だけでは無い。
週に一回、南門の門番長として、王都の各門番長が集う会議へ参加する義務があるのだが、その度に上役や同僚からからかわれ、励まされ、叱られている。
もっとも、それもあと少しの辛抱だ。
あと数日もしたら、ニート君はミルトン王国へ出兵して、数年は帰ってこれなくなる。
数年も期間が空いたら、さすがのニート君も私へ対する興味を失うに違いない。南門前広場の騒ぎも今年の春で終わる。
「ううっ……。」
その自分自身が予想した未来図に涙がじんわりと溢れてきた。
赤みが増してきた空を慌てて見上げて堪える。自宅はもう目の前であり、泣き顔を姉さん達へ見せる訳にいかない。
今更の話になるが、去年の春。私はニート君が王都を訪れるのを待っていた。
姉さんと義兄さんの二人から『一人の男がああまでするのだから、話だけでも聞いてやれ』と春を前に何度も諭されて、ニート君と二人で話し合う決心をようやく持てる様になっていた。
だが、ニート君は王都へ現れなかった。
夏の中頃に届いた手紙によると、ついつい自領で放置していたモンスター達が予想以上に増えてしまい、その討伐の為に王都へ上る費用が無くなってしまったとか。
一時はとうとう愛想を尽かされたかと絶望もしたが、そう言う事情ならと胸をほっと撫で下ろすと共に仕方が無いと納得するしかなかった。
弟のマイルズが男爵位を継ぐまでの場繋ぎの領主でしかない私だが、領主は領主。同じ領主として、ニート君の苦悩が痛いほど解ったからだ。
ゴブリンやコボルトと言ったモンスターは何処にでも存在しており、その遭遇率は人里から離れるほど高まり、森の奥へ入るほど跳ね上がる。
ニート君が所有する領地『コミュショー』や我がエスカ領の様な僻地となったら、村の敷地外へ出た瞬間から注意が必要となり、街道を歩くのも油断は決して出来ない。
しかし、モンスターにも社会は有る。
それを守る為、森の奥深くに縄張りを作り、こちらがそこへ踏み込まない限りは積極的に交戦を仕掛けてくる事は無い。
問題が発生するのは、その社会が大きく栄えてしまい、人間のテリトリーとかち合った場合だ。
こうなってしまうと食糧難から畑を荒らす事態も発生して、領民を守る為、私達領主はモンスターの退治を行う義務が有る。
その時、相手となるのがこちらの戦力と同数のゴブリンやコボルト、オークといった雑魚モンスターなら問題は無い。
我が国の成人男性は兵役義務に必ず就いており、その過程で戦う術を学んでいる為、老人だろうと腰がしっかりとしてさえいたら武器を持って戦う事が出来る。
厄介なのはモンスターの数と質だ。
雑魚モンスターは繁殖力がとても高い上に成長もとても早く、定期的な間引きを行なっていないと、あっという間に増えて、こちらが持つ戦力を上回る。
オーガといった雑魚を越えたモンスターとなったら、もうお手上げになり、独自の解決は途端に難しくなる。
それ故、モンスター退治を生業とする冒険者を雇う必要性が生じるのだが、ここに頭が痛くなる最大の問題が有る。
ずばり、雇用費だ。私達の様な僻地の領地に冒険者ギルドが在る筈も無く、冒険者を呼び寄せる為の費用や交通費、滞在費がプラスされて、最終的な金額はびっくりする数字になってしまうのである。
だが、モンスターの放置は出来ない。
だからと言って、雇用費を値切れば、実力不十分な冒険者が派遣されてくる可能性が有り、それでモンスターの討伐に失敗でもしたら、また次の冒険者を雇わなければならない。
僻地の領主にとって、モンスター騒動は匙加減が難しい天災にも等しい。
ご愁傷様と言う他は無く、私は今年の春を待った。
『えぇ~~……。新郎は皆さんもご存知の通り、あのトーリノの奇跡を成し遂げた若き英雄です。
その彼が南方領の要たるオータク家のご令嬢と結婚。最早、アレキサンドリア大王国など敵では有りません。事実、昨年度は……。』
ところが、ところがである。
今年の春が来て、その到着を今日か、今日かと待っていた私の元へ届いたのは、ニート君とオータク侯爵家令嬢の結婚披露宴の招待状だった。
それを手にした時、この世が終わったかの様に目の前が真っ暗となった。
有り得ない可能性を求めて、新郎の欄に書かれている名前を一文字、一文字、何度も、何度も確認したが、その度に現実を突き付けられて涙が溢れた。
しかも、侯爵家からの招待状。
格下の男爵が招待をされていながら出席しない訳にもいかず、こうなったらニート君を思いっきり引っ叩いてやると意気込んで参加したが駄目だった。
この日ばかりは王族の方々より上座に隣り合って座り、幸せそうに微笑んでいるニート君とオータク侯爵家令嬢を遠くから眺めるで精一杯。
数少ない知り合い達から慰められたところで限界が訪れ、涙を懸命に堪えながら披露宴会場から逃げ出した。自宅まで走って帰り、一晩を泣き明かした。
ところが、ところが、またところがである。
翌日、誰もが私を腫れ物扱いして気まずい空気の中、ニート君がいつも歌を唄っていた場所を寂しさと切なさに眺めていると、もう二度と現れないとばかり思っていたニート君がなんと現れた。
ひょっとして、そっくりさんなのかと目を擦って確認してみるが、どう見ても本人であり、歌を唄う前に必ず行う『俺の愛するルシルさんへ捧げます』という猛烈に恥ずかしい宣言も聞き間違えでは無かった。
目の前の現実が夢なのか、昨日の披露宴が夢だったのか。
職場の気まずい雰囲気は一変して、部下達が祝福の歓声をあげるが、ただただ茫然とするしか無かった。
しかし、これだけははっきりと解った。
結局のところ、惚れた弱みなのか、私はニート君がどうしても嫌いになれない様だ。
ニート君が南門前広場に二日、三日と通い続け、約二週間が経った今、すっかりとほだされて披露宴で感じた怒りと悲しみは薄れていた。
但し、ニート君とオータク侯爵家令嬢が結婚した現実は変わらない。
ニート君とちゃんと話し合う。そう一度は決めた決意をフリダシへ戻してしまい、残された時間の少なさに焦燥を感じながらも積極的な行動を躊躇せていた。
「あれ?」
涙がようやく治まり、自宅の無駄に立派な門を通ると、我が家の無駄に広くて、手入れが大変なだけで雑草が所々に生え放題となっている庭に馬車が停まっている。
それも馬が二頭立てされた立派な馬車だ。思わず立ち止まり、馬車の後部に描かれている紋章を確認するが、見覚えもなければ、記憶にも無いモノで首を傾げる。
今、王都は社交シーズンの真っ盛り。
だが、我がエスカ男爵家はとっくにシーズンオフへ突入している。
その理由は言うまでもない。借金まみれの貧乏男爵家との交流をわざわざ持ちたがる家など親戚以外に居らず、その親戚付き合いも最初の一週間で済んでいる。
そもそも、我がエスカ男爵家の親戚にこれほど立派な馬車を持っている家は無い。
庭木に繋がれている馬を観察してみると、これが見事な駿馬。見知らぬ私が近づいてきたと言うのにとても大人しくて、こちらをチラリと窺っただけで雑草をモシャモシャと食んでいる。
その様子なら大丈夫だろうと一方の馬を撫でてみれば、これが抜群の肌触りで艶も、肉付きもとても良い。
これほどの駿馬を馬車を牽かせる為に用いるのだから、馬車の主が戦場で駆る馬はさぞや素晴らしい馬に違いない。
自領へ帰れば、馬の食料となる牧草など腐るほど有るが、この王都で牧草は購入するもの。
我がエスカ男爵家に馬を維持するだけの費用が有る筈も無く、無駄に立派な厩が屋敷裏に有れども、その馬房に繋がれた馬は一頭も居ない。
馬が必要の際は安馬を購入して、用事が済んだら売るのが我がエスカ男爵家の常だ。
その為、駄馬を乗りこなしている内に馬術は随分と磨かれたが、騎士としてはこんな駿馬にやはり乗ってみたくなる。
「フフ……。お前は何処の家の子なのかな?」
すると撫でられて気持ちが良いのか、馬が目を細めながら尻尾を左右にフリフリと振り始める。
その可愛い姿に微笑みが漏れ、尚も撫で続けていると、不意に二頭の馬が草を食むのを揃って止め、下げていた首を跳ね上げた。
双方の馬が見ている方向へ何事かと顔を向けると、姉さんが玄関とは正反対の裏庭からこちらへ駆けてくる姿が有った。
恐らく、来客の為に私の帰りを何処からか窺っていたのだろう。裏庭から走ってきた理由は勝手口から出てきたから。
ただ、その様子が普通じゃない。
血相を変えて、スカートの裾を持ち上げながらの全力疾走。
男として育てられた私を女へと矯正したのは姉さんである。
その時、私がスカートの煩わしさに裾を持ち上げて走ろうものなら猛烈に怒鳴り、ゲンコツまで落としていた姉さんが矜持を捨ててまで急いでいるのだから、これはよっぽど高位の人物が我が家へ訪れたに違いない。
何か仕事で失敗でもしただろうかと身構えて、はたと気づく。
もしかしたら、上司に口止めを頼んでおいた南門前広場の騒ぎが王宮へ伝わり、遂に問題視をされる様になったのかも知れない。
そうだとするなら、明らかにまずい。
我がエスカ男爵家の借金返済の為、南門門番長の役目を失う訳にはいかない。どうしたら穏便に解決が出来るかを悩む。
「ルシル、大変よ! 敵の親玉が攻めてきたわ!」
「はぁ? ……敵? 親玉?」
「だから、オータク侯爵家の奥様が貴方と二人で話がしたいって来てるのよ!」
「えっ!? ……ええぇぇぇぇぇ~~~~~~っ!?」
しかし、私の元へ辿り着いた姉さんが息を切らせながら告げた来客の正体は予想を遥かに超えていた。
驚愕のあまり我が耳を疑い、身体が仰け反り跳ねるほどに大声で叫ぶしか出来なかった。
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「お見苦しいところをお見せ致しました」
「いえいえ……。こちらこそ、お約束も無いのに押しかけてしまって申し訳有りません」
馬は意外と臆病な生き物であり、特に大きな音を近くで立ててはならない。
騎士なら誰もが知っている基本中の基本すら忘れて、先ほどは耳元と言える間近な距離で叫んでしまったが為、二頭の馬が興奮して暴れ、近所の皆さんも駆けつける大騒ぎとなってしまった。
だが、オータク侯爵家令嬢は気にした素振りを一切見せなかった。
そればかりか、自分の非礼を最初の第一声で詫び、頭を軽く下げてみせたではないか。
オータク侯爵家は爵位を筆頭にして、我がエスカ男爵家と比べるまでも無く、あらゆる面で圧倒的に勝っており、我を通せる立場だと言うのにだ。
思わず息を飲み、出鼻を挫かれたのを自覚する。
この滅多に使われない応接室へ入る前、姉さんから負けるなと励まされて、一気に押しきれとアドバイスも受けたが、これでは強く出るに出れない。
少なくとも、次の言葉に考えていた『ニート君とは絶対に別れません!』は完全に使えなくなった。
「そ、それで……。そ、その……。ど、どういったご用件で?」
挙げ句の果て、姉さん曰く『敵の親玉』と二人っきりで対峙している緊張感から大失態をやらかしてしまう。
答えが解りきった質問であり、これでイニシアティブはオータク侯爵家令嬢へ渡り、思惑とは逆の展開になる可能性が高い。
その上、声は緊張に震えてしまって情けない限り。
それに比べて、オータク侯爵家令嬢は敵地へ単身で乗り込んできていながら余裕と笑顔をまるで崩していない。格の違いを思い知らされる。
「単刀直入にお聞きします。エスカ様はニート様の事をどう考えていらっしゃるのですか?」
案の定、オータク侯爵家令嬢は速攻を仕掛けてきた。
負けるものかと予め身構えていたが、その向けられた鋭い眼差しに胸がドキンと痛いくらい跳ね、たちまち身体を縮こませる。
「は、はい! わ、私はニート君を愛しています!」
しかし、試練を逸したり、落としたりするのは辛うじて堪えた。
オータク侯爵家令嬢の視線を真っ向から受け返して、己の本心を口にきちんと出せた。
膝の上に置いていた両手を強く握り締めてのガッツポーズ。
一方、オータク侯爵家令嬢は目を丸くさせながら口をポカーンと開ききり、上級貴族のご令嬢が人前で見せてはならない姿を晒しているが、無理もない。
今の私は世間の目から見たら、ニート君の『愛人』だ。
正妻と愛人、そのどちらに正義が有るかと言ったら、正妻に決まっており、その正義を目の前にしての宣戦布告である。厚顔無恥も甚だしい行為に他ならない。
例えるなら、この瞬間は嵐の前の静けさ。
オータク侯爵家令嬢が我を取り戻した途端、襲い掛かってくるだろう猛烈な罵倒に備えて、勇気を奮い立たせる。
「なら、どうしてです! どうして、ニート様と共に出兵をなさらないのですか!
ウィローウィスプ卿に聞きました! エスカ様は真っ先に誘ったし、その能力もアテにしていたが、すげなく断られたと!
何故です! どうしてです! ニート様を愛しているのなら心配にならないのですか!
私には見えます! 手に取る様に見えます! 数年後、ニート様が出兵から帰ってきた時、その隣に見知らぬ女性を連れているのを!」
だが、その一気に捲し立てられた罵倒は予想外が過ぎる上に意味不明だった。
てっきり、ニート君と別れろと迫ってくるかと思いきや、オータク侯爵家ご令嬢が怒っている理由は今年度の出兵に関してであり、ニート君を守る力が有りながら、それを私が成さないのを責めてくるのかと思いきや、これまた違う。
オータク侯爵家令嬢が猛っている理由はニート君の新たな女性関係の可能性。
予想を連続で外された上、その様な考えに至った経緯が解らず、今度はこちらが逆に目を丸くさせながら口をポカーンと開けきる。
「エスカ様、貴方もご承知の筈です! アリサさんとニート様の馴れ初めを!」
「アリサちゃんの?」
そんな私の態度が気に入らなかったらしい。
オータク侯爵家令嬢はソファーから腰を勢い良く上げると、人差し指を私の眼前へ突き付けてきた。
大袈裟かも知れないが、私との間にテーブルが無かったら、襟首を掴みかかってきそうなほどの猛りっぷり。
それでも、その訴えている意図が未だ読めなかった。
どうして、唐突にアリサちゃんの名前がここで出てくるのか。親友の名前を聞いて懐かしさを覚えると共に混乱は深まるばかり。
「そうです! 貴族と誼を結ぶ為、村に駐留する軍隊の指揮官へ女性がお礼と称して差し出される悪しき風習の事です!」
「あっ!?」
しかし、この次の一言が全てが通じる鍵となった。
冷水を浴びせられたかの様に混乱は一瞬にして解け、高確率で起こるだろう未来の可能性に至れなかった自分の愚かさに愕然として、目をこれでもかと見開きながらソファーから勢い良く立ち上がる。
ニート君とアリサちゃんの馴れ初め。
それはニート君が名を挙げるきっかけとなったトーリノ関門奪還作戦にて、トーリノ関門からラクトパスの街の間にある四つの村の内の一つ『バップ村』を作戦の一環で真っ先に開放した際、バップ村の村長がいたく感激して、アリサちゃんを部隊の指揮官を務めていたニート君へお礼に差し出した事から始まる。
今、これをオータク侯爵家令嬢は悪しき風習と言ったが、それは違う。
同じ女として、確かに眉を顰めかねない風習ではあるが、これは軍隊を他の手段で歓待が出来ない辺境の寒村が生み出した精一杯の知恵である。
例えば、そこが侵攻先の元敵対国の村だったら、もっと大きな意味を持つ。
抵抗したところで勝てる筈も無く、恭順の意思をより早く示さなければならず、その手段としてはこの方法が最も手っ取り早い。
なにしろ、爵位による影響も有るが、軍隊は明確な縦社会で役職と階級がものを言う。
村に駐留する軍の最高位が差し出した村娘を気に入れれば、規律が守られる可能性が高くなり、不埒な行いをする兵が圧倒的に減る。
それこそ、村へ物資などを優遇してくれる可能性だって有り、ニート君とアリサちゃんの様に妾として見初めて貰えたら、もう最高と言って良い。
貴族との誼が村自体に結ばれ、見初められた娘が男の心を掴んでいる限り、恩恵を様々な面で多く受けられる。
ちなみに、この風習は男性のみが該当すると思いきや、実は男女を問わない。
良く考えてみると解る。女性騎士は男性騎士と比べたら、その人数は圧倒的に少なく、部隊を率いるほどに出世する者はもっと少ない。
その為、村から差し出されるのも女の子とは限らない。
女性騎士へ女の子を差し出しても無意味であり、特殊な性癖を持っている男性騎士へ女の子を差し出しても逆効果となる場合も有るからだ。
何故、その様な稀有な事情を知っているのかと言えば、私は女性騎士では珍しい百騎長の地位に就いており、その経験を実際に持っていた。
最近はミルトン王国との戦争に人員が集中して人手不足のせいか、南門の門番長である私にすら西方領の直轄領に出没した盗賊団退治やモンスター退治に何度か駆り出されており、その時の出来事だ。
最初、その村に滞在する宿として借り受けた寝室に年端もない少年が全裸で待っていた意味も、理由も解らなかった。
ドアを閉めた後、ロウソクの明かりをベットへ向けてから、その存在に初めて気づき、少年が怯えた様子で『初めてですが、精一杯にご奉仕させて頂きます』と告げて、ただただ茫然と立ちつくしている私の両足の間から寝着の中に潜り込み、パンツを下ろそうと手をかけたところで悲鳴をあげた。
勿論、その後は大騒ぎである。
失敗の原因は前述の人手不足故に寄せ集めの部隊だった為、副官が初めて顔を合わせた中年の男性で意思疎通があまり取れておらず、彼が過去の経験からこの風習を私が当然受け入れるだろうと手配したものだった。
一応、念の為に語ると、ニート君へ操を立てているのを理由に閨は断り、村と少年の面子を潰さない程度に身の回りの世話を受けた程度のみ。一人寝が長いせいか、欲望がムラっと沸き上がったのも事実だが、その辺りは別の手段で処理した。
第一、我がエスカ男爵家に妾を囲うだけの経済的余裕は無い。
それが解っていながら、そんな不始末を行うのは父だけで十分過ぎる。
だが、ニート君はこの誘惑に勝てない可能性が非常に高いと言わざるを得ない。
今はオータク侯爵家の執政に就き、数人の妾を作っても許される経済的な余裕が有り、こういった人情的な押しに弱い。
恐らく、ララちゃんが兵役に付き従うだろうが、ララちゃん一人だけでは絶対にニート君の相手は手に余る。
特にララちゃんは長寿なエルフである為、生理周期も長いが、生理期間も一旦入ってしまうと長い。その隙を突かれたら、ニート君はまず間違いなく墜ちる。
さっきまでは兵役で数年間の別れ離れとなり、ニート君の私へ対する興味が薄れるか、どうかを心配していたが、この件はそれ以前の問題だ。
ほぼ確実にそうなると解っている以上、是が非でも防がなければならないにも関わらず、今となってはどうする事も出来ないもどかしさに心が焦燥するばかり。
「ふぅ……。どうやら、ご理解を頂けた様ですね。
私もその可能性をウィローウィスプ卿から冗談混じりに告げられた時、ちっとも笑えませんでしたから……。」
「……で、ですよね」
溜息が目の前で深々と聞こえ、反射的に自然と落ちていた視線を上げると、オータク侯爵家令嬢もまた焦燥しきった表情を浮かべており、私達はこの瞬間にようやく心を共にした。